夜の底が白くなった

川端康成の「雪国」冒頭は誰でも知っています 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
なぜ県境ではなく国境と書いたのか 国境の読み方はどうなのだろう 雪国とそうでない地域の境を描いただけではなさそうです

その後に続く「夜の底が白くなった」 これは雪国育ちでないと分からないかもしれない 川端康成の取材の確かさと描写力です 主人公の島村は夜汽車に乗っているのです
冬の夜汽車の車窓は真っ暗です ことに鄙びた温泉地ならなおのこと でも線路際には客車の明かりが届いて そこが白く浮き上がるのです
トンネルも暗闇ですから 抜けても窓外の景色に変わりはない ただ窓際の席にいる者の目にだけ夜の底が見えます

すべてが島村の視点なんですね 「島村の前のガラス窓を落した」「雪の冷気が流れこんだ」「雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた」 旅情も雪景色も全然描いていない トンネルを抜けたら一面の銀世界が広がってるわけじゃない

ただこの後には夕景という言葉が出てきます すると冬の夜の情景を描写したのではなかったのか 時間が錯綜しています
トンネルを抜けた向こうの雪国は 島村の目から見た時間も場所も定かでない 異国ということなのでしょうか

小説中に湯沢町はおろか 群馬県も新潟県も出てきません 清水トンネルは県境にあるが 島村の見る雪国は国境のトンネルの向こうです1)2018年1月15日追記=センター入試試験で「ムーミン谷」が どの国にあるかとの問題が出たそうです ムーミン谷はムーミン谷であって作品中にしか存在しないのです 同じように川端康成が 新潟県越後湯沢温泉の高半旅館で小説を書いたからといって そこが舞台とはいえません 県境とは書かなかった理由がわかります
上野国と越後国の境ではなく 雪国への境目 国境の読み方は考えてなかったのじゃないか どちらでもよいのです 望見の小説ですから 声に出して朗読するものではない
駒子も葉子も実在と想念の境目が曖昧です 葉子の目が夜汽車の窓に映る 島村は駒子の顔が鏡の向こうに浮かぶと見る

角巻き姿の駒子だったか葉子だったかが 雪をこざいてやってくる場面があったと思います これもたしか夜のシーンです 仕舞い込んでしまって手元に本がないのでうろ覚えなのですが
そして後段に表れる凍てつく夜の天の川は 冒頭の夜の底と見事な対をなしています 雪国の夜は異世界です 凍みた雪原に月の光が射すと 無数の氷の粒が煌めき人境とは思えない 川端構成もこれは見ていないでしょう

同じ文字に幾つもの読み方があるのは おそらく日本語だけの特質です 漢字の読み方に正誤はないのです2)「こっきょう」は音読み「くにざかい」は訓読み(小学校で習いました)どちらで読んでもかまわないのです ただし意味は違ってきます ほかに音に出して初めてイメージが形成されるのは 重箱読み・湯桶読みですね(〈ゆとう〉と読めば 蕎麦屋で出てくる柄の付いた四角の容器 〈ゆおけ〉なら風呂場で使う手桶のことです)
書き言葉・話し言葉も教科書にあった言葉かもしれない 同じ文字なのに読み方で意味が変わる 日本語は不思議です
 和歌はもともと口誦の文芸で 5音や7音のリズムが重視されました
漢字かな交じりの文章で書き表すようになってからは 掛詞や縁語などの言葉遊びともいえる表現が見られます 技法として押韻はまずありません(長歌・旋頭歌・今様はよく分かりませんが)

漢字がもたらす字形のイメージ 意味からの連想といったものが 日本文学に多彩な表現力を与えました 一方で視覚に頼る表現になってしまいます 紙の本に特別な意味を見出すのも 仮名遣いの問題も日本語特有なのかなと思います
サイデンステッカーさんの英訳決定稿では 最初は入っていた border が省かれています 雪国の国と国境の国は対応していますが このあたりを英語では表現しきれないのです(ヨーロッパの人達が読んだら 国境警備隊の検問を想像してしまうかもしれません)

References   [ + ]

1. 2018年1月15日追記=センター入試試験で「ムーミン谷」が どの国にあるかとの問題が出たそうです ムーミン谷はムーミン谷であって作品中にしか存在しないのです 同じように川端康成が 新潟県越後湯沢温泉の高半旅館で小説を書いたからといって そこが舞台とはいえません 県境とは書かなかった理由がわかります
2. 「こっきょう」は音読み「くにざかい」は訓読み(小学校で習いました)どちらで読んでもかまわないのです ただし意味は違ってきます ほかに音に出して初めてイメージが形成されるのは 重箱読み・湯桶読みですね(〈ゆとう〉と読めば 蕎麦屋で出てくる柄の付いた四角の容器 〈ゆおけ〉なら風呂場で使う手桶のことです)
書き言葉・話し言葉も教科書にあった言葉かもしれない 同じ文字なのに読み方で意味が変わる 日本語は不思議です