士農工商

士農工商という言葉を 江戸時代の身分制度と唱える者がいます 士農工商は朱子学にみられる言葉で 中国の価値観で人間の(仕事の)貴賤を表しています
江戸時代に限らず 日本に身分制度・階級制度はありません 官位はありましたが文字通り役人の地位に対する区分けで身分制ではない また明治維新後の華族・士族・平民とか爵位も ヨーロッパに合わせたに過ぎない

朱熹のいう士は 武士のことではなく士大夫です 士大夫とは科挙で合格した官人をいいます 日本は科挙制を取り入れていませんから 士大夫も存在しません
支配階級である武士が 農民から搾取していたなど 全くのこじつけなのです そもそも侍って武装した農民ですから 戦国時代は要するに田圃の取り合いでした 武士の俸給が米であったのは このことを物語っています

豊臣秀吉が天下を統一し 敵対した側から武器と土地を取り上げました 太閤検地と刀狩りです その結果 帰農し農業専従になった者と もっぱら軍務に就く者が分かれました
しかしそれは階級とか身分ではないので 本百姓は苗字帯刀など相応の処遇を受けています 下克上は荘園の自立ではありましたが 中国・ロシアのような農奴制(支配・被支配の関係)ではなかった

士道に背くまじき事(新選組局中法度)

徳川の世になっても 多摩や武州の土豪(百姓)は武芸に励んでいました 新選組の近藤勇はその子孫ですね 彼らは武蔵七党などといって 徳川が江戸に移ったときから配下となっています
中で西党は西国からの軍勢を撃退する いわば国境警備隊の役割を担っていました 新選組解散後に甲陽鎮撫隊を編成したのも 伝えられていた家康の遺訓に沿ったことでしょう

徳川時代に鎖国をしていたといっても 主に植民地化の先兵であるキリシタンバテレン対策ですから 文物の交流はなかなか盛んでした 窓口となっていたのが長崎出島です その影響もあって西国大名は 早くから商業を振興し米中心から脱却していました

近世の経済というか物価の基準として 米を取り上げるのは適切でないでしょう 武士の俸給が米であっただけで 行政の予算に相当するが経済の中心とはいえない
米は豊作・凶作で価格が変動しますし 米相場を操作することも行われました かなり投機的な商品だったと思います それが旗本・御家人の困窮にもつながりました

明治維新で徳川から政権が移ったのは 最後まで旧態依然の制度を墨守していたからです 御家人に勝海舟など優れた人物はいましたが 老中は兵糧米の心配をしたり 新選組・彰義隊は 火縄銃や白刃で薩長に立ち向かうという具合です 旗本でない新選組の拠り所は士道でありました

江戸時代は 朱子学に基づいた「忠義」が武士の心得とされていました 士大夫が武士にすり替わり 士道ということが言われたのかもしれません もっとも実際に官僚化していましたから 士大夫=武士といっても差し支えなかった

士道・武士道

なお武士道という言葉は キリスト教徒であった新渡戸稲造がアメリカで書いた「BUSHIDO The Soul of Japan」が逆輸入されたものです 西洋のキリスト教に基づく宗教教育に対するものとして 「武士道」が日本の徳育に取り入れられていると主張する いわば文明開化の産物です
この本は葉隠の解説でもないし 新選組・彰義隊・白虎隊が殉じた士道とも大きく異なります 西洋列強に伍する文明があるといって いちいち西洋の事例になぞらえて言い訳している(フリードリヒ2世と上杉鷹山を並び称したり) 日本の伝統とはかけ離れた内容です