コンテンツへスキップ →

カテゴリー: 情報戦・心理戦一般

賞味期限は保存期間?

食品の賞味期限という はなはだ分かりにくい表示があります 表記するのが義務みたいですが 日付の根拠は適当です その他に消費期限もあって どう区別すればいいのか
製造年月日が書いてなく(書く必要はない?) 手書きで消費期限を書いたパンを売ってました いつ作ったのか不明な このほうがよっぽど怪しい
日配品である牛乳の場合 高温殺菌だと賞味期限 低温殺菌では消費期限とか わけの分からん区別があるようです

賞味期限は根拠がなく 安全のため短めに表記したりします 保存食品であるはずの缶詰にも賞味期限が表示され 期限間近の缶詰を返品するという馬鹿げたことが行われています 魚の缶詰などは 製造後1年は経たないと 風味が落ち着かないと言われたものです(これも根拠不明ですが[01] … Continue reading

同じ時期に買ったジャム 日本のものは異様に賞味期限が短い ジャムは保存食品のはずなのに 鮮度を重視している?

英語の表記を見ると「best-before (date)」となっています 意味するところは同じでしょうが ニュアンスというか受け取り方に 大きな差があると思います
英語表記をそのまま解釈すると 「何年何月何日までは最良の状態」であると受け取られます ベストの期間が過ぎてもベターの品質であり 風味は落ちるが食べられないわけじゃない 日本語なら「風味維持」とでもするほうが 正確なんじゃないでしょうか

賞味も消費も意味不明だし 期限という言葉がいけない 期日が過ぎたら食べるに適さないと受け取られます 風味期間・鮮度期間でいいのではないか そして目安であり保存期間ではありません と付記すべきです TV番組で鮮度や作りたてを煽り立てる風潮が このような事態を招いたのです[02] … Continue reading
挙げ句のはて塩蔵品や乾物・干物など 熟成しなければ本来の味が出ないものまで 作りたてが売れるといった羽目に陥り 大量の食品廃棄が行われています

製造年月日を表示して 買って帰ったあとは自らの管理 食べる加工する廃棄するは自分の責任です 賞味期限(風味維持)消費期限(鮮度保持)は ただの目安ということで なんの問題もないと思いますが[03] … Continue reading
何でも人に決めてもらう 自分で判断しない そして何かあったら人のせいにする これらは権威主義です だいたい賞味するって よく味わって美味しく食べることを意味します その期限を他人に決めてもらうのは変です あたかも保存期間のようになっています

2022年8月18日追記=ヨーロッパの一部の国では賞味期限の表示を取りやめ始めています 理由は定かではありませんが 食品廃棄の問題でしょうか 日本ほどひどくはないだろうし EU経済圏で交易は自由なはずですから 食料自給率云々もないと思うし)

註釈

註釈
01 内田百閒翁が何かに 缶詰は古いほど美味い 缶の外側に錆が浮き 中の物に薄っすらとブリキ臭が移れば ことに佳味である みたいなことを書いてました これはちょっと極端ですが
02 賞味期限が曲解されるようになったのは たぶん不二家の件以来だと思います 賞味期限が過ぎた牛乳を使ったことが あたかも犯罪行為であるかのごとく 報道されました
賞味期限が表示される前は 製造年月日でした 不二家に限らず各メーカーは製造日から何日以内に消費すると 内規を持っていたはずです それでなんの問題も起きていなかったのです
よく分からないのですが 牛乳・食パンなどの日配品が消費期限表示になったのはこの後だったかと思います 賞味期限・消費期限に関するSNSに 消費期限を過ぎたパンは捨てる といった書き込みが見られます 食料自給率の数値に こういった個人の行動は反映されてないでしょう どれだけ無駄な行為が行われているか 恐ろしくなります
03 この頃のラベルを見ると 常温保存とか書いてあります 以前は室温保存と書いてあったんじゃないでしょうか 赤ワインは室温なんて言ってましたし 日本酒は燗か冷(ひや)でした 常温の酒といったら あまり旨そうじゃない
常温も室温も日本薬局方以外に明確な規定はありません 一般に室温といえば外気にさらされない室内をイメージします がそういう区分けではないそうです
ワインはケーブや石造りのシャトーで保存します 土蔵と同じく温度差の少ない常温です しかもヨーロッパの気候下です 日本の室温とは違うことになります
室温保存ならば あまり日が当たらず温度変化のない 北側の部屋と解釈できます しかし常温保存では意味不明 なんの基準にもなりません
コメントは受け付けていません

日の丸

旗日

以前は祝祭日を旗日(はたび)と呼んでいました その日は各戸で日章旗を掲げたものです 家々の玄関や門柱には 掲揚のため金具が取り付けてありました
暦にも祝祭日は交差した日章旗が描かれていました 戦前の話ではありません 昭和30年代40年代のことです 朝日新聞連載のサザエさんでも 旗日を描いた作品がいくつかあったように 当たり前の光景でした

明治以降の新暦に祝祭日が定められ その際 旧暦にあった農事祭や節句が廃止され あるいは名称変更されています 祭政一致の国家神道の方針からです 日章旗が掲げられ旗日と呼ばれるのは いつ頃からでしょう(後述します)
日章旗が描かれた暦は 月曜始まりであったと記憶します たしか土曜日は青字でした いつの間にか カレンダーが日曜始まりになるとともに(それにしては今でも土・日を週末という) 暦から日章旗も消えさえりました[01] … Continue reading

2022年5月14日追記=NHKの番組“チコちゃんに叱られる“で カレンダーの土曜日が青になったのは オイルショックによる週休2日制がきっかけ また印刷インクの4色から青を採用したとの フェイク情報が流されていました すべてデタラメです
1960年代から土曜日が青のカレンダーはありました 印刷に使う4色はイエロー・マゼンタ・シアン+ブラック(墨)です これを掛け合わせて多色印刷します 慣用的に赤といってる色は 印刷上ではM100%+Y100%です HEXでは#ff0000にあたります 青は様々ですがC90%+M60%辺りになりましょうか
日めくり暦のように玉だけのカレンダーは 多色刷りでなく黒・赤・青で印刷するでしょうが 上記の割合でインクそのものを練り合わせた特色を使います 4色印刷のシアンを土曜日に使ったりマゼンタを日曜に使ったりしません)

日章旗

日章旗が法律で国旗と定められたのは 実に平成になってからです それまでは商船法の船印である日の丸が 慣習的に国旗として扱われていたのです
安政年間に他国の船と区別するため 日の丸を採用したのが始まりです 明治に入ってから追認する形で 法令で定められました それでも商船旗であって 国旗ではなかったのです

日章旗が国旗として扱われるようになったのは いつからかはっきりしません 船舶旗ですから 一般庶民には馴染みが薄かったのではないか
たぶん日清・日露戦争の勝利で国家意識が高まり 日の丸提灯や日の丸の小旗を持って行列したあたりかと思います とりわけ大東亜戦争が始まる前後、戦意高揚のため日の丸が強調されるようになリました

旭日旗

旭日旗は連隊旗・軍艦旗(日の丸の位置が違います)です 意匠自体は昔からあって 今でも漁船で大漁旗のデザインには欠かせません 元々船印ですから軍旗は国籍旗ともいいます
16条の旭日旗は軍旗ですから 一般に使われるものではなく スポーツの応援に軍艦旗を持ち出すのも 違和感があります 代わりに大漁旗というのも変ですし
旭日旗には色々なバリエーションがあります 16条・8条・4条は軍旗として使われています スポーツの応援なら 6条の旭日旗なんかどうでしょう 幟とか纏もいいですね

万国旗

スポーツといえば 運動会に万国旗はつきものです これもいつから始まったのか 諸外国にないものです ただ単に賑やかしで飾り立てただけでしょう 満艦飾あたりを真似したのかな
諸国の国旗はそれぞれ独立の象徴といった 国の成り立ちに関わる謂われがあります 日本の国旗は国家樹立を表すわけでなく由来が曖昧です あまり関心を持たれないのも無理ありません 日本が対外的に国家意識を持ったのは おそらく聖徳太子の頃です

日の丸

日の丸と一口にいっても 色の取り合わせは様々でした 戦国時代の上杉謙信公が率いる越後の軍勢は 有名な毘の字の旗印とともに 龍の字と日の丸も用いました この幟旗は長尾晴景の代に朝廷から賜った錦旗で 紺色地に朱色の日の丸です[02] … Continue reading
デザインとしての日の丸の初出は 平家物語の那須与一の件でしょうか (おそらく朱赤の地に金色の日の丸を描いた)扇子を射る話ですね

白地に赤い日の丸は 色も意匠も簡潔で印象的 世界中の国旗を見ても 独自で最も美しいものです これに異論がある日本人はいないでしょう かといって日本では 国旗に忠誠を誓うとかいう性質のものじゃない 日出ずる国の象徴です
〈ああ美しや日本の旗は〉と敬愛することで いいんじゃないかと思います 日本は日の本の国ですし 白と赤は 日本人の心「清明(きよきあかき)」を表します 美しいものを愛でるのは 日本の良き伝統です

註釈

註釈
01 明治の時代になって それまでの祭日が国の祝祭日とされました 昭和大戦敗戦後 再び改変して祝日となり 今じゃただの休日扱いです 連休にするため日にちを動かすのですから 本来の意味は全く無視されています 旗日と言わなくなったのも宜なるかな 別に日教組のキャンペーンが功を奏したわけじゃない
02 戊辰戦争のとき官軍(薩長)が掲げた錦の御旗は 岩倉具視が勝手にでっち上げました 朝廷から授かったものではありません 孝明天皇の頃より天皇陛下を政治利用していたのです 天皇の詔勅により戦うのは征夷大将軍であり 薩長に徳川を相手にする大義名分はありません そのため有栖川親王を担ぎ上げ東征提督なるデタラメな権威をつくりました
コメントは受け付けていません

犬・猫の昭和時代

昭和の犬の生活

子供のころ 近所にジョンという名の雑種の赤犬がいました ジョンはちゃんと首輪も鑑札もつけた飼い犬です でも昭和の田舎町ですから 紐には繋がれず放し飼いです とてもおとなしい犬で 吠え声を聞いたことがありません(満月の夜に遠吠えするのは何回もありました)
自由に自分のテリトリーを歩き回り 学校帰りの近くの子供たちと一緒に 走り回って遊ぶ毎日です ときどき飼い主の家に行って鎖を借り 散歩に連れていくことがありました でも自分のテリトリーの境界に来るとピタリと立ち止まり そこから先へは一歩でも踏み込みません 明確な一線があるのです

同じテリトリー内に洋犬とノラ犬がいました 3匹の長はジョンでした(年の順なのかな) 洋犬の名は覚えてません(学校の先生の飼い犬です) 黄犬のノラは皆からエスと呼ばれてました 悪ガキがエスをいじめると 近所のおばさんから叱られましたが 必ずジョンが間に割って入り そんなことをしなさんなと 目で訴えるのです
リーダーの役割なのでしょうが健気でした 可哀そうだったのは洋犬です これはいつも紐で繋がれており ジョンやエスと一緒に遊ぶことができません 餌には恵まれても群れに入れず いつもしょんぼりと寂しそうでした ジョンとエスが一緒にいるときお八つをやると ジョンはエスに譲っていたような記憶もあります 犬に窘められるアホなガキは放って置きましょう

私がそこに引っ越したときジョンは かなりの老犬だったみたいで 何年も経たないうちに亡くなりました その時はすでにジョンの娘が成犬になっていました 見分けがつかないほどよく似た娘です よちよち歩きの娘を連れて 近所中にお披露目の挨拶に回っていた姿を覚えています
年老いたジョンは飼い主の畑の中ほどに 自分の体が入るくらいの浅い穴を掘り始め その中に踞るようになったのです 飼い主のお兄ちゃんが抱いて家に連れ帰るのですが 必ず脱走して穴に戻ります 終いにはお兄ちゃんも諦めて 好きなようにさせていました そしてジョンは食べ物も水も受け付けなくなりました
お兄ちゃんから 邪魔をしないよう遠くから見守るだけにしろと言われ そのようにしていました ある朝いつものように遠くから見ても まったく身動きしないので 側に行ったら冷たくなっていました すぐにお兄ちゃんへ報告に行きました お兄ちゃんは泣く泣く家に連れ帰り どこかで荼毘に付したようです 最後はジョンが自分で掘った穴をさらに掘り下げ そこに遺骨を埋葬しました

昭和の猫の生活

猫を飼っている家も何軒かありました みな座敷猫で外に出ることはありません なので どれだけの家で何匹いたのか分かりません
ノラ猫が1匹いました ある時どこかからやって来て住み着いたのです 皆がタマと呼んでいましたが 誰が言い始めたのか エスと同じで由来は不明です
タマは雌猫ですぐに孕みました 近くの家が壁面に造り付けていた物置を産屋にし 以来そこをネグラにするようになりました(どの家にも冬用の薪炭のため小屋がありました) 親子とも三毛だったか白黒のブチです 古いことでよく覚えてない

近所の人たちは 夕食のおかずが魚のとき 食べ残しの骨を玄関の先に置いておきます(当時ノドグロは普通のお惣菜で煮付けで戴きました) タマは辺りの家を一回りすれば 1食になります 仔がいるので ネズミなど小動物も狩っていました
餌が足りないと 家の玄関でミャーミャーと托鉢します その時は煮干しの二三匹も喜捨します タマはお行儀がよく 隙を見て家の中に入り込むことは決してしません

誰もが貧乏な時代でした まだ配給米の頃です お隣に米を借りにいったこともありました 悪ガキどもの食欲は旺盛だったのです 戦時中に飢えていたという報道はフェイクニュースです 非常時なので規制・統制はありましたが 食料が行き渡らないなんてことはなかった 食糧難で四苦八苦したのは敗戦後のことです[01] … Continue reading
人が乏しい中から分け与えても 食糧不足はタマの仔たちの命を つぎつぎに奪い 成猫になったのは1匹もいません そしてある時から タマの姿を見かけなくなりました
どこか近くの街へふらりと現れ 同じような生活を送っているのかな あの礼儀正しさというか 付かず離れずの人間社会との関わり方は 流浪の生活で身につけたのでしょう

分を弁える

人も犬も猫も互いの生活を認め合い それぞれが相手の邪魔をすることも立ち入ることもない 自分たちの領域を守りながら共存していた そんな昭和の生活だった気がします
かつてのアホな悪ガキのノスタルジーと 自分の中でいつの間にか美化される 記憶の所為ばかりとも言い切れません エスは市役所の野良犬狩り[02] … Continue readingに連れて行かれたかも知れない 狂犬病の話がありましたから
夜家の中で「ジョン」と呼ぶと 玄関にまでやってきました 玄関は引き戸で鍵は掛けていませんから 前脚で開けて入るのです 先代亡き後の娘もジョンの名を継いでいたのですが まだ小さい頃は戸を開けられなくて玄関先で佇んでいました
それにしても飼っている家と我家は 直線距離で50メートルくらい離れています 聞こえるんですね 野良猫は「タマ」と呼んでも返事もしません 自分のことをタマだとは思っていないのです

註釈

註釈
01 配給制度は戦時中からありました しかし食糧不足ということはなかった 食糧難は敗戦後です 行政の機能が麻痺し それに乗じた第三国人が闇市・闇ルートを作りました 農家としても配給米よりヤミ米として出す方が高く売れますから 正規の米が不足する事態になったのです
さらに在留朝鮮人は半島から中国式の朝鮮麹(粉麯・粗麯)を密輸入し いわゆるカストリ焼酎を密造して売り捌きました 粗製品で有害物質も入っていたものです 三増酒は合成酒を混ぜた酒ですが 密造酒対策として酒の増産のため作られました ヤミ米が横行し米不足のため酒にまで米が配給されず くず米で酒造りをしていました まともな酒を作れず量も足りない そこで合成酒の技術を応用して生産量を上げたのです 量もそうですが味も調整しているので 当時の純米酒より飲みやすいものでした
闇市による影響は昭和から平成まで続きました 大宮氷川神社の参道は2キロ近くあります 一の鳥居から二の鳥居まで闇市のバラックが立ち並び 強制撤去できたのは平成に入ってからです 闇市跡は地権者が不明であったり入り組みすぎて 土地を収用できず再開発の妨げとなったのです
皆が飢えていた敗戦後 鳩山一郎の音羽御殿に行くと 大広間に常に食事が用意されていました(第3国人とつるんでヤミ米・闇物資を手に入れました 鳩山由紀夫の人脈はこの頃からのものです) 昼時などは朝日をはじめとした大勢の新聞記者が群がっていたそうです 自由に無料で食べられました ある政治家の私設秘書から聞いた実話です
02 野犬(ヤケン)狩りという言葉は正確でありません 狩猟で野犬(ノイヌ)と野良犬(ノライヌ)は明確に区分されます 野犬は人里と離れて群れをなし 山犬のように野性の生活を送ります これは狩猟(駆除)の対象になります 人家の近くで同じテリトリーにいても 飼い主のないのが野良犬です 首輪をつけているかいないかの違いだけです ヤケンという用語があったかどうかは不明です
東松山市のセキュリティ会社 田村装備開発社長の御尊父である 田村憲道氏のお話を拝聴したところ 最近里山から動物が降りて来ての被害が多いのは 犬の放し飼いがなくなったからではないかと 指摘されてました 東松山は丘陵地帯ですから 昔は山の動物も身近だったでしょう(私も山で兎を追いかけたことがあります) それでも人畜に対する被害は少なかったのです 犬猿の仲という言葉は 人間に忠実な番犬と賢い野生の猿の関係を言い表しています 傾聴に値するご意見です
コメントは受け付けていません