スティル写真のベストショットはどこにあるか それはカメラマンの指にある
どんなにハイスピードのモータードライブを使っても ベストショットは常にコマとコマの間にある
スティル写真は 時間を切り取るのだ シャッターチャンスをつかむのは カメラマンの指だけだ
映画は たくさんのコマを連続的に映し出して 動きを作り出している
一つひとつのコマは静止画だ ならば 動きというものはどこにあるのだろうか やはりコマとコマの間にあるのだ
普通は残像による目の錯覚で 動いているように見えると説明される ではこの場合の錯覚とはどんなものだろう
静止したコマとコマの間の画像を 見る人の脳が補っているのではないだろうか 人の目はありのままの現実ではなく 自分が見たいものを見たいように見ているのだ(映画のコマをいくら探しても 静止画のベストショットは見つからない)
アニメーションに置き換えてみよう
キーアニメーター(原画マン)が作った原画の間を アシスタントアニメーター(動画マン)が埋めてアニメーションができる
細かくコマ割りをすれば 滑らかな動きができるだろうか そうではない キーとキーの間を無限に埋めていっても 自然な動きはできない
動きは永遠にコマとコマの間にあるのだ
人がアニメーションを見たとき 初めて動きが生まれる アリスが鏡を覗き込んだ時にだけ 鏡の国は生まれるのだ
アニメーションの最後の演出者は 実は見る人なのだ(ボストン・ダイナミクスのロボットの動きに人間臭さを感じ 日本製ヒューマノイドの表情に違和感を覚える理由がここにある)
小説も同じことがいえる 作家が小説を書き 書籍として販売されれば小説は完成するのか
そうではない 読む人がいなければ小説にはならないのだ 読者とは本を購う人のことをいうのではない 読む人のことだ
1000人の読者がいれば 1000通りの小説が生まれる 小説は作家と読者の共同作業だ 作家は投げかけるだけだ
そのことを解らない作家が勘違いしている 描写とは説明のことではないのだ 池波正太郎の弟子を僭称するI・Yが 2ページを費やしてくどくど説明している状況は 池波先生ならただの1行で活写してみせるだろう 池波正太郎氏は映画に造詣が深い