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カテゴリー: 日本の伝統・本流

気候と文化

旧石器時代は寒冷な気候でした 日本列島には数多くの火山があります そして火山地には温泉が湧き出します 北方や大陸から来た人たちが 温泉で温まったかどうかはわかりません 温泉地は地熱が高いので 周辺に集落を作ったのは確かです 動植物の食料も豊富だったでしょう また火山活動は良質な石を産み出します 旧石器時代にあちこちから 日本列島に人が集まった理由の一つです 狩猟漁撈の石器時代は定住生活をしなかったと思いがちです 現実には漁場にしろ狩場にしろ あるていど固定されています そんなにあちこち彷徨きまわるものではありません
縄文時代早期になると気温は上がり 人々は居住地を広げていったと思われます するとあちこちの集落同士の交流が進みます 生態系の変化とともに食を中心とした文化の均質化も進んだことでしょう 縄文海進により 日本列島から草原が失われ 代わりに入江が増えます 食料は大型獣から魚介類が中心となっていくのです もちろん樹の実・豆類・芋類・山菜も食べています 縄文早期は日本文化早期ともいえます[01]縄文時代の日本は温暖で自然の恵みが豊か 暮らしやすいところでした そんな風土で争いを好まず互いに協力する 「和」の文化が育まれました
後期に至れば南方から水稲米の栽培が始まります 縄文晩期から弥生時代の初めは再び冷涼な気候となります ご先祖は気候に合わせて水稲米の品種改良をしました 弥生時代中期以降には 北海道を除く日本列島全域で水稲米が栽培されるようになります 米が主食の日本文化が形成されていくのです
弥生時代に日本は文字を持ちません 文字は何のために作られたか 法律を周知するためです 日本は国津神を戴く集落の集合体です 日本全体を知ろしめるのが天津神です 権力者が支配するんじゃない 文字は必要なかったのです 弥生時代から始まると思われる和歌は 朗詠するものです 物語・神話も語り伝えるものです 文字に書き記すのではありません[02] … Continue reading
弥生時代から古墳時代は寒暖の繰り返しです 平安時代は安定した気候が続きます 古墳時代は群雄割拠 3世紀に連合政権ができるのも 気候の影響が大きいかもしれません[03] … Continue reading 中国に倣って律令制度が整えられると 水田は朝廷が管理することになり 各地に灌漑用の溜池が作られます また一方で税制も始まります この時代から日本の米作りは 小作農や小集落が担うものでした
文化大革命で荒廃しきった中国に 北海道の農業技術官が渡り 進んだ日本の稲作技術を伝えました 中国の稲作は 当時でも直播き粗放栽培だったそうです 粗放とはいっても機械力はないので 広大な沼地で全て人力(おそらく農奴)で行うのです 長江文明そのままの姿ですね

註釈

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01 縄文時代の日本は温暖で自然の恵みが豊か 暮らしやすいところでした そんな風土で争いを好まず互いに協力する 「和」の文化が育まれました
02 生活圏が広がった縄文時代に人々の行き来が盛んになり 互いに交流した結果 混血が進み日本語ができました 日本文化の始まりです 万葉集が編纂されたのは奈良時代です 和歌の歴史は日本語が完成した弥生時代に遡るでしょう
03 日本の稲作は労働集約型の集団作業です 各地に豪族が生まれる所以です 耕地や水利を巡って争いが起きるようになります これを治める権威が 天津神の子孫である天子様です(天津神は天候や季節のことです)
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建築に見る日本文化の成り立ち

竪穴式住居は北方系建築であり 高床式は南方系の建築と 私の中学校時代の教科書に書いてあったように記憶します[01]寒い地方は地面を掘り込み 火を焚いて地熱で屋内を暖める 暑い地方は地面から床を離し風通しを良くする ごく自然な工夫です 日本ではこの2つの建築が縄文時代から混在していたというのです
高床式の建物は住居ではなく 穀物倉庫であっただろうと やはり教科書に書いてありました[02] … Continue reading そして高床式建築は神社へと 竪穴式住居は茅葺屋根の家屋となっていきます 建物の形状を見ると 神社は高床切妻屋根 茅葺きは寄棟屋根に土間があります
私が小学校入学前後 祖父母が住む茅葺屋根の家の土間に囲炉裏があり 天井は竹や垂木を荒縄で組んだ小屋裏表しでした 考えてみれば土間は縄文の竪穴式住居そのものの暮らしです
囲炉裏の周りに筵が敷かれ 座る場所は厳密に決まっています これは神道以前の縄文の信仰から来ているんじゃないでしょうか 米が土器?に入れて高床倉庫に貯蔵から 土蔵へ米俵を積む形になるころ 米にまつわる神的な役割のみを高床の倉に譲り それまでの自然崇拝の神籬に 神社が建てられるようになったんだと思います[03] … Continue reading

高床式建築は神社のほか寝殿造りへと繋がります[04] … Continue reading 寝殿造りは切妻と寄棟を一緒にした入母屋屋根です 大きい建物のため切妻の周りに寄棟を配しました 竪穴式と高床式の融合した屋根でもあります
大陸から来た建築は仏教寺院です 飛鳥時代のことです 大陸の様式だったと思いますが当時の建物は残っていません その後の寺院建築は日本の風土に合わせて 相当ローカライズされています[05] … Continue reading とくに塔建築は日本独自で他の地域には見当たりません 三内丸山遺跡にある 掘建て六柱高層建築の伝統ですね 木組みの技術なども宮大工に継承されているのでしょう なにしろ日本人は森林の民ですから
一方で竪穴式の系譜を引く建築は 平地に建てられるようになり さらに土間に床板が張られ 高床式に近づきます 寺院建築と同じように瓦で屋根を葺けば 礎石に柱を立て床の高い 建具で部屋を間仕切る 私たちがイメージする日本家屋の姿になります

日本の建築は竪穴式+高床式から寝殿造り そして寺社建築の影響を受けた書院造り 草庵を模した茶室から来た数寄屋造りと 洗練されていきました 竹で編んだ網代を芯にした土壁は 竪穴式の工法であろうし 茶室には炉が切られます[06]土間の囲炉裏には薪を焚べ 板の間の囲炉裏は炭を用います 茶室の炉は畳敷きに切られ 夏は使いません 東山慈照寺(銀閣寺)や桂離宮は日本建築の完成形といえるでしょう 都と離れた山間の合掌造りは 竪穴式住居の技術を発展させた建築です 日本の建築もまた さまざまな集落(部族)の生活と信仰(国津神)が和合・統合された 日本文化の一つです

註釈

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01 寒い地方は地面を掘り込み 火を焚いて地熱で屋内を暖める 暑い地方は地面から床を離し風通しを良くする ごく自然な工夫です
02 北方系の建物にも高床式はあり 竪穴式は冬の住居 高床式は倉庫・加工場と夏住居だったという説もあります
あるいは南方系の高床式が日本列島を通じ オホーツク圏(カムチャッカ)まで達していたのかもしれません
03 縄文の信仰は自然そのものへの畏敬でした 米が重要で主要な作物になると 山や川など自然物への信仰から人格神へ置き換わるようになります 水稲米は自然に頼るだけでなく 水田造り治水と人工の加わった装置産業です 稲作も労働集約型の集団作業です 集団の指導・統率者が現れ 人知の及ばぬ天候などは 祭祀を司る者が祈願します
04 寝殿造りは天皇の御所の様式を貴族・公家が真似たものです 御所の左右対称の配置は大陸の様式に倣っています しかし日本人の美意識に合わず 非対称の寝殿造りが主流になりました
05 大陸の建物は自然と人間社会を隔てるため 日本の建物は自然と交流するためのように思われます 中国の寺院のことはよく知りませんが 日本の寺院は開放的です
06 土間の囲炉裏には薪を焚べ 板の間の囲炉裏は炭を用います 茶室の炉は畳敷きに切られ 夏は使いません
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壮士 自由民権運動 大正デモクラシー

川上音二郎や添田啞蟬坊などは 繁華街[01] … Continue readingで壮士芝居を演じたり演歌を歌っていました 芝居の収入は投げ銭であり 演歌は歌本を売ることで収入を得ました
壮士芝居はやがて新派劇となり 新時代の人情を演じ人気を博します 演歌も世情風俗を歌うと人気が出て 歌本がよく売れました しかし演歌の演は演説の演であり 社会風刺や政府批判の歌も盛んに作られます 大正時代に入ると演歌・壮士芝居は大正デモクラシーの運動といっしょになります
壮士芝居の創始者は自由党[02] … Continue readingの党員で 川上音二郎は玄洋社に属していました もともと政治運動から始まったのです 壮士芝居も演歌も物語仕立ですから プロパガンダやアジテーションではなく ナラティブだったといえます

ところで繁華街は露天商(的屋と香具師)の庭場です 縁日・祭礼で物を売る商売は昔からありました とくに廃藩置県で禄を失った同心などの中には 抜刀術や剣舞を見世物にする者が現れます 彼らも新政府に不満を持っていましたから 演歌師とともに自由民権運動にシンパシーがありました
かくて露天商と演歌師は同業・同志として手を結び 互いに行き来するようになります 壮士気分で腕に覚えのある荒っぽい者も多数いました[03] … Continue reading 自由民権も大正デモクラシーも 一揆の精神を持つ世直し運動です しかしながら薩長明治政府の藩閥・強権政治により弾圧されてしまいました
圧政の中心となっていた山県有朋は後に国民皆兵・徴兵制を推し進めた人物です[04] … Continue reading おそらく奇兵隊がモデルだったのでしょう 四民平等・廃刀令の掛け声は 国民全員に兵役の義務を押し付けることでした[05] … Continue reading

註釈

註釈
01 明治の繁華街は江戸時代のまま 神社仏閣への通りでした 物見遊山といえば寺社詣ですから 門前市を成すの言葉どおり 繁華街が形成されたのです 芝居見物は一日がかりで高額の費えが必要でした それに比べ大道芸は手軽で誰でも楽しめます
02 明治時代は火付け・強盗・自由党という言葉があったほどで 自称壮士の溜り場であったのです 中には無頼の徒も混じっていて 強請りを働く者もいたようです ま明治維新前の志士と称する連中も同じです
03 昭和大戦敗戦後 的屋さんは博徒とともに暴力団扱いされます これは第三国人が闇市を作り 昔からの庭場にも進出したためです 博打はいつの世も非合法ですが 露天商は大道芸人と同じく 正当な商売です
04 本人も奇兵隊出身ですから ソレ行けヤレ行けのやたら威勢のいいものです もちろんシビリアンコントロールなんて知りません 統帥権を明治天皇に預けてしまいましたから 自ら責任を取る必要もないのです
05 日本には武士という職業軍人がいました ヨーロッパでは貴族が職業軍人です 領地を与えられたり家禄を賜る代わり 兵役の義務を負います 国民皆兵・徴兵制は 町人商人まで戦に駆り立てるためです スイスのような自主的な民兵とも違います
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