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タグ: レイアウト

神(紙)エクセル

神(紙)エクセルというものがあるそうです 紙にプリントしたときの見栄えのため 神業のごとくエクセルを使った 主に役所関係の書類のことらしい
セルに文章を書くことになるので データの流用ができず 問題になっているらしいのです とくに全角数字がいけないという
以前にも書きましたが 全角・半角とか等幅フォントが混在するのは 日本語版ウインドウズ独特の仕様です Macでは考えられない

役所の書類は「様式1」だ「様式2」だと 細かく規定があります 厳密にこの様式どおりの書類をワードでは作れません
前例主義の役所では 以前の様式と1ミリでも違うと 上司からクレームがつくのでしょう そこでエクセルを駆使して 寸分違わぬ書類の雛形を作ったのではないかと想像します

じつに労作ではありますが いかにも日本的いかにもお役所仕事いかにも馬鹿げたことです
お役所の仕事は体裁を整えること つじつま合わせがもっとも大切です そのためによけいな仕事を作り出す 生産性とか効率は 仕事の邪魔でしかない

エクセルやワードを使ったことがないので どうもこういった感覚が分かりません でもイラストレーターで自由にレイアウトした文書より ワードのありきたりな定形文書の方が読みやすいと言われることはあります
見慣れているからなんでしょうか 斬新なもの規格外のものは なかなか受け入れられないものです そのくせ全角・半角混在は全く気にならないのですね

書式の根拠は曖昧

考えるに文書の様式は 活版時代の技術的制約からきたのだと思います 印刷屋さん独特の書式があり それがいつの間にかスタンダードになったのでないでしょうか
活版が写植になり コンピューターによる印刷へと変化してきました しかし書式やレイアウト(組版)は活字時代のまま電子出版にまで引き継がれています
確かにかつての職人さんが築いてきた様式は 用の美といいますか日本語文書の完成形です これに準拠していれば間違いはない しかし細部まで旧態に拘る必要もないですね[01]手紙文の時候の挨拶とかも よく分からん習慣です 江戸時代の手紙は巻紙に候文ですか 折り方にも決まりがあったようで なかなか難しい

御・行を二重線で消す

奇妙に思うのは こういった印刷屋さんのテンプレートで あらかじめ宛先が〇〇行となっているところを二重線で消して その脇に様とか御中と書き直して返信するという習慣です 御名前や御芳名の御や芳を消したりするって何の意味があるのでしょう そんなのは謙遜でも奥床しさでも慎みでも礼儀でもない
おそらくマナー評論家みたいなのが言い出したことではないだろうか 二重線や一本線で消して訂正印なんてのも お役所の書式から来ていますから これも一種の権威主義かもしれない 自分の間違いならいいが 相手の書いた文を訂正したり書面を汚すことこそ むしろ無礼でありみっともないと思いますが[02] … Continue reading

年賀状と年賀欠礼

これも 誰が言い出したか始めたのか よくわからない習慣として 年賀欠礼ってありますね 印刷屋さんと郵便局の都合でしょうか 私は全く必要ないと思うし うちの菩提寺の先代住職が亡くなったときも 寺から普通に年賀状が来ました
仏教で喪に服するという教えは聞いたことがない 七七日で忌明けとなりますし 新盆を迎えて葬儀に関する一切は終わります いろんな宗派のサイトを見ても だいたい新盆を迎えれば年賀状を出すと書いてます
親戚など葬儀に参列した人なら承知していることだし 年賀状だけの付き合いの人に 身内のことを知らせる必要もないでしょう[03] … Continue reading だいたい本当に喪に服しているとも思えません 服喪とは公の席や晴れやかな場に出るのを慎むことです 最も穢れを厭う宮中賢所の内侍でも 服喪期間は半年だそうです

註釈

註釈
01 手紙文の時候の挨拶とかも よく分からん習慣です 江戸時代の手紙は巻紙に候文ですか 折り方にも決まりがあったようで なかなか難しい
02 結婚式の招待状なんか汚したくないですね 私は往復はがきを出すとき 自分宛てには名前のみにします 同級会の幹事やったとき 男子は全員そのまま送ってきました 女子は全員が様を書き加えていました 医師の紹介状には脇付の侍史を書く習慣があるみたいです あと目上の人への手紙には 句読点を使わないのが礼儀だったんですが
03 年賀状は 江戸時代の旗本たちが上役宅への年始挨拶に持っていった 賀詞が始まりといいます 挨拶に行っても お目見え以上の家格の者は登城していますから留守です そこで受付の用人に賀詞を渡して 確かに挨拶に行った証拠とするのです
後代でも年始の挨拶は 玄関で賀詞を述べ名刺を置くだけが習慣でした 年始の客が来ても主人が出て応対することはありません 私が小学生くらいの頃はそんな習慣がまだありました
年賀状は年始の代わりですから一家の主がすること よく覚えてないが喪中ハガキのやり取りなんかなかったんじゃないかな 身内の不幸と年始の挨拶はまったく関係ないことですから
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原稿〆切・推敲、編集作業

池波正太郎氏が言ってました たとえ一日でも締め切り前に原稿を手元に置いて見直す そうすると必ず手直しする箇所があると
いったん自分の手を離れた文章は もはや自分の所有ではなく 世の中といいますか読者のものになります

それだけに 印刷原稿は印刷所へ渡す前 慎重に十分に推敲・校正を重ねる必要があります 印刷したあとやり直しはできませんので
その点ホームページはいいですね 公開した後からでも細かい訂正は可能です もちろんコンセプトは後から変えることはできないので 最初に確定しておく必要があります

ホームページは情勢に応じて進化し続けます 作ってしまえばそれまで ということがありません 常にベータ版なのです 永遠に完成しない流動的なメディアです
だからアップした後でも常に見直しを行います これはメンテナンスの一環です

後から訂正が可能とはいえ 適当に作っていい訳じゃない ホームページでも推敲・校正といった編集は欠かせない作業です
近年コンテンツ・イズ・キングなんていいますが 内容の前に誤字・脱字があっては台無しです どんな立派なことを書いてあってもあまり信頼できない

文章の推敲と文字校正をどのようにするか 間違いを起こしやすいのが 紙にプリントして検討することです
A4縦の用紙にホームページを印刷すると内容を一覧できます でも実際にアップしたものをディスプレーで見れば全体の3分の1しか表示されないのです

文字の視認性も紙にプリントしたものとディスプレーではずいぶん違います 紙は読みやすく理解もしやすい(反射光とか透過光とかいろいろ理由があります)
ディスプレーは上下にスクロールしなくてはならないので 長い文章が読みにくく 前後関係がなかなか頭に入りません
テキストエディターで書いたものやプリントした文章を理解できても ホームページにレイアウトすると分かりにくいことがあり 後で部分的に書き直したりもします

紙メディアの場合は 原稿用紙も紙 校正刷りも紙 本も紙 最初から最後まで紙で統一されています ほとんどこのような問題は起きないので あまり考慮されないことです 普通は校了になったらそこで編集は終わりです
誤字・脱字に関しては 紙の方が校正しやすいかもしれません ただこれも慣れの問題のような気がします

ブログは時系列で書いていきますから 内容は常に最新になります ホームページは作りっ放し多いですね けっこう大企業でも内容が古くなっていたり 誤字・脱字があったりします
ホームページに校了はありません いったんアップしても編集作業は続くのです あとフェイスブックページは訂正がきかないので 紙メディアと同じ感覚で事前の推敲・校正が欠かせません
まぁメディアによって 編集作業の心得が違ってくるということでしょうか

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手と目で考える→ワープロ→Mac

悪筆のせいもありますが(編集の仕事でテープ起こしなどやると 書いたメモが自分でも判読できないほど) 私にとってワープロは救世主でした

書くという行為は 頭の中の思考を整理する意味もあります 手を動かすことで考えがまとまり メモを見直すことで筋道が立つのです
紙に筆記具で書くより キーボードを叩く方が手を動かすし 乱雑な手書きメモより ディスプレーで見る方が構成を把握しやすいものです とくに消しゴムで消したりすると 思考が止まってしまいます

ワープロが出回ったころ 手書きでなければ気持ちが伝わらないといった論議が盛んでした いまは全く聞かれません 清書用と考えていたのでしょうか
当時のワープロ専用機にもレイアウト機能はありました エディトリアルデザインにはまったく非力で 使い物にならなかった覚えがあります

発展形として テキストエディターを使うようになりました 取材した内容を片端からメモ書きして 後で文章にまとめるスタイルが性に合っているのです
専用機の次が MacDTP だったのはよかったですね ワードとかエクセルに触らず済みましたから その代わり請求書なんか HyperCard を使って自作する羽目に陥ってしまいました
エディターで書いて QuarkXPress でレイアウトするのに なんの違和感も感じませんでした(でも細かいところでデザインのクォリティ落ちた印象はありました)

一方 新たなアイデアが必要な広告の仕事では もっぱらKJ法を用いていました 思いつくままに書き散らしたメモ書きの組み合わせから コンセプトの姿が立ち上がる感覚がありました KJ法は問題解決の方法ではなく むしろ問題発見のためにあります

KJ法文章化の前段階である カード化とグルーピングには iroha Note が本当に役立っています
アウトライン・プロセッサーもいくつか試してみましたが 使いにくいものでした 私は論理的な思考ができません 線形のツリー形態はダメなのです
デジタルってじつは非連続です 初めも終わりもなく脈絡もない 一定の規則に従っていれば答が出るものではありません 手探り状態はもっとも手工芸に近いのかもしれない

そういえば Google検索技術の根本も 類似性の関連付けですね

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