コンテンツへスキップ →

タグ: 正月

鯨を食べることは日本の食文化か

古来より日本人は鯨を食料としていました 食べ物のことで 他の国にとやかく言われる筋合いはありません ただし鯨を食するのが文化だといっても クジラベーコンや大和煮缶詰 竜田揚げではあまり説得力がありません
代用食や学校給食のイメージしかないので 食文化というのなら せめてクジラ汁を例にとらなければならないでしょう

江戸では12月13日の煤払い後に クジラ汁をすする習慣がありました

 江戸中で 五六匹喰う 十三日
 大名も 切り売りを買う 塩鯨

江戸時代の歳末は煤を払うだけでなく 年2回あった支払いの日です その日暮らしの者は掛け取りに追われ あるいは金策に走って一日が過ぎます
追われる者も追う掛け取り人も 除夜の鐘を聞く頃にやっと一息ついて 夜鳴き蕎麦[01] … Continue readingを啜りながら正月を迎える(大晦日に払わなければそれで済むということはなく 正月七日が過ぎれば残債の回収をしたようです) 
除夜の鐘が鳴るまで逃げ隠れする人はさておいて 商店では年末の支払いに来る人たちにクジラ汁をふるまっていました 半年分の金子だけでなく何がしかの品物を携えてきますからそのお返しです 昭和に入るまでこの風習は残ります

 鯨汁 喰うてしまえば 暇乞い

「日本永代蔵」に皮鯨の吸物のことが書かれています これは正月七日の設定で クジラ汁か雑煮をふるまってもらえるかもと推量する内容です(汁といった場合は飯 吸物は酒のときで 同じものです) 必ずしも年末だけのものではなかったのです
この話の舞台は京都ですから クジラ汁を食べるのは全国的なものであったのです おのずと鯨肉の消費量は多かったと思われます
クジラ汁そのものは もともと夏季の料理でした もしかしたら お盆の掛け取りの時にふるまっていて 歳末にも持ち込まれたのでしょうか
また江戸時代初期の料理書でクジラ汁の項は 妻として「ごぼう」「大根」のほか「茎立ち」「タケノコ」「茗荷」となっています とくに季節は限られていないようです

井原西鶴は市井の様々な生活を活写しています これが広く読まれ好まれたのは 皆が「なるほど、こんなことはありそうだ」と納得する内容だったからでしょう 想像力だけでなく 取材が行き届いているのです
となれば江戸時代庶民の生活を そのまま表していることになります 西鶴作品に取り上げてあれば 鯨料理は立派に日本伝統の食文化といえます
ほかにも蕪骨といわれる軟骨を吸い物にした料理があったようですが ほとんど廃れてしまいました クジラ汁も今はあまり行われなくなった食の風物詩です

註釈

註釈
01 なにか色々理屈をつけてますが 大晦日に蕎麦切りを食べる風習は この掛け取りに象徴される忙しさから来たと思います 夜鳴き蕎麦は蕎麦粉8割小麦粉2割のいわゆる二八蕎麦で あらかじめ茹でた玉をかけ汁で温める 簡易で安価なかけ蕎麦です ザルだのモリだのは高級品でツナギのない生粉打ち(生蕎麦)です
以前「乾麺の十割蕎麦」なる奇妙なものをいただいたことがあります 茹でて食べてみると最悪の食感でした 味もひどいものです かなりの値段だったのでしょうが 昔は十割蕎麦なんて言葉はなかったように思います 生蕎麦と書いてある店はツナギを使わなかったものです
江戸・信州に限らず各地に色々うまい蕎麦があります なかで越後のへぎ蕎麦は ツナギに布海苔を用いる独特のものです 茹でて水に放したあと水切りしないで 一口大にまとめた蕎麦をヘギと呼ばれる箱の簀子に並べます これは蒸籠やザルと違い 蕎麦から滴る水を受けるための工夫です
盛り付け・見た目も食感・味ともに 生粉打ちや二八蕎麦とはかなり異なり 別の食べ物といっていいかもしれません 布海苔ツナギの蕎麦は伸びやすく温かい汁そばには向きません へぎ蕎麦を酒と共にいただくのを蕎麦肴といいます 食中酒などと言われる前から こういった飲み方はありました
コメントは受け付けていません

お盆・彼岸の墓参り 葬儀の本義

墓参りより菩提寺を大事に

【要約】

  1. 大切なのは菩提寺であって 墓ではない
  2. お盆・彼岸の墓参りは近年の習慣
  3. 家族墓(○○家代々)はさらに新しい
  4. 檀家制(相互扶助)を維持できなくなったのは 神仏分離令・廃仏毀釈による
  5. そのため菩提寺がないがしろにされ 葬祭業者が幅を利かせ葬儀・法要が形骸化した
  6. 日露戦争による戦死者の墓の高さ・立派さを競う風潮があった 昭和大戦後に遺骨収集団が官民挙げて組織され進められた
  7. 上記が遠因で先祖の菩提を弔う追善回向を疎かにし 埋葬と墓石・骨壺を拝むことを供養とする今日の風が広まる

どなたかの随筆に このごろ関東(東京)でお盆に墓参りに行く風があると聞く 自分の住む関西(京都)でそのようなことはしないし 生まれ育ったころの記憶にもないとありました うろ覚えで著作者のお名前は分かりません たぶん昭和初期に書かれたものでしょう
お盆に精霊棚を作ったり(施餓鬼棚ともいい戸外に向けて飾るものでした)灯籠流し等の行事は昔からありましたが 墓参りはきわめて最近の習慣ということになります[01] … Continue reading

何々家の墓とか先祖代々の墓とかが建てられるようになったのも近年のことです そうすると いわゆる墓守だとか長男でなければ墓に入れないなんて言い出したのは さほど古いことではなさそうです
仏門に入ることを出家といいます 家を出るから仏弟子となったご先祖に家名はないのです[02]明恵上人の板書「南無母御前母御前」が表すように 葬儀・法要は子が亡き親に向けて行うものだと 私は思います 〇〇家としてではありません 入るのは仏門であって墓ではありません 昔は一般に それほど墓に拘泥わることはなかったのです では先祖供養を大事にしなかったかといえば そんなことはありません

拝むのはご本尊

菩提寺[03] … Continue readingの住職によれば 先祖供養とは年回忌をきちんと行うことだそうです 年回忌は冠婚葬祭の祭にあたります 祭は祭祀のことで仏教なら回忌供養になります 葬式を上げるだけでは供養にならないのです[04] … Continue reading  年忌法要のあと墓に卒塔婆を立てますが 墓参りを欠かさないようにとは言われませんでした 墓参りをするなとも言われませんが
付け加えますと 追善供養(年回忌)は文字通り1年単位で月日は関係ありません 巷間いわれる祥月命日の前だとか後だとかはまったくの俗言です 日にちが重要なのは七七日(四十九日)だけです 七日ごとにお経を上げ七回目の四十九日に法要を行います[05] … Continue reading 1月1日に亡くなった方の法要を前年にやっては年忌供養になりません 昔の数え年と同じで日付より年数のほうが重要なことですから[06] … Continue reading

父の葬儀のとき葬儀会社の方に 葬儀は菩提寺の住職が執り行うもので 我々はそのお手伝いをするに過ぎない すべて住職の言われるままにしてくださいと諭されました それまで私も葬式は葬儀屋さんがやるものと 漠然と思い込んでいたのです
菩提寺の住職にいろいろと細かく教えていただきました その他 仏壇の上鴨居のところに遺影写真を掲げてはいけないとも言われました 仏壇にはご本尊を奉安してあるのだから ご本尊より上方にそのようなものを置くべきではないとのことです

内田百閒翁によると昭和のはじめころ 遺影写真を位牌に焼き付けるのが流行ったそうです さすがにそのようなことは廃れました また自分の葬儀の時に遺影写真を掲げるのはやめてくれとも書いていました 昭和に入った頃には すでに葬儀屋が仕切るようになっていたようですね[07] … Continue reading 私も別に信心深いわけでなく 先祖代々付き合いのある菩提寺を大切に 檀信徒としての勤めをきちんと果たしたいだけです

当家は400年以上前より浄土宗で 浄土宗は絶対他力ゆえの教えかもしれません 他宗でどうかは知りませんが 菩提寺の指示に従うこと 葬儀より前に枕経を上げてもらうことが大事なのは 共通しているのではないでしょうか 今昔物語集の仏教説話を見ると 枕経は本来臨終の時に上げ 阿弥陀三尊のご来迎を願うものでした
ですから 自宅で葬儀を行うときも葬祭会館で行うときでも ご本尊に出張っていただきます そしてお経を上げるのも 焼香するのも 手を合わせるのも すべてご本尊に向かってすることです なにとぞ成仏させてくださいと ご本尊に願うのが葬儀の本義です

丁寧なつもりで焼香と合掌の後先に ご本尊に尻を向け列席者喪主に頭を下げるなど あってはならぬことなのです これは葬儀社の方に言われました 元は仕出し料理屋さんであった 江戸時代より続く老舗です
仏教に限りません キリスト教の葬儀も遺影や遺体に祈りを捧げるわけではなく あくまでも神に帰依する(天国に召される)ことの再確認です

2019年9月12日追記=佳子内親王が 東京都慰霊堂で行われた法要に参列された際 手袋のまま焼香されるのを非難するコメントが見られるそうです
皇族の方々は世界の王族と同様のマナーをを守っておられます 公式の場で女性皇族が 室内でも帽子と手袋を召しているのは 正統な儀礼に叶ったことです 手袋を外すのは食事の時だけ 仏事であっても 焼香の際に手袋を外すなんて作法はありません)

追善供養は墓参りでない

お盆(盂蘭盆会)の大切な行事は施餓鬼です 寺によって多少日にちは異なりますが だいたい八朔に壇信徒が寺に参り 寺方は精進料理を振るまいます 当地ではこのことを盆内といいます その他にも盆礼・盆供・盆持・盆参など様々な呼称があります
もともと八朔の行事は収穫祭の予祝でありましたから 施餓鬼と結びついたのでしょう 本来は作物を寺に喜捨(御布施)したものです 寺領がある場合は初穂を供えたのかもしれません

また墓参りで食物を供えるのも この施餓鬼をまねた風習です[08] … Continue reading 住職はあえて墓に食物を供えることを止めませんでしたが 供えた後は持ち帰るか その場で食べなければいけないと教えていただきました 抛って置くなど食べ物を粗末にしては本末転倒ですからね
花を供えるのも一緒です 供えて手を合わせたら 花を引き上げるのが常識です 腐れた花を放置するなど言語道断 罰当たりです

寺に参るのも仏壇に参るのも 全てご本尊に参るのが根本義です 故人やご先祖へではありません[09] … Continue reading そうしてみれば ご本尊の御座さない墓へ参ることはなかった というのが頷けます 禅宗の場合ご本尊はなく 釈迦牟尼世尊と菩提寺の僧が檀信徒の代わりに修行するという形です また拝むのは名号であったり曼荼羅であったりと 各宗派でいろいろな教えがあります

ご先祖・故人がどこへ行くのかといえば ご本尊が阿弥陀如来なら西方浄土です 薬師如来がご本尊なら東方浄瑠璃世界 キリスト教徒はハルマゲドンに備えた神の兵士として天国へ招集されます いずれにしても墓の下にはいません[10] … Continue reading
古代神道は教義がないので何ともいえませんが 祖先神・産土の神として その土地に一体化するのではないでしょうか 古来より古墳を祭祀の対象とする考えはありませんでしたから[11] … Continue reading

葬儀や回忌法要 お盆・彼岸といった年中行事で迷ったら 菩提寺の住職に聞くのが一番です また本山のホームページで確認するのもよいでしょう 葬儀屋のフェイク情報や出どころの怪しい風説に惑わされてはいけません
キリスト教徒なら牧師や神父の説教に従い 仏教徒なら菩提寺の住職の教えに従うのが 基本であり最も大切なことです 宗派により寺により住職により教えは様々です 当家菩提寺でも当代住職と先代住職とは言われることが違います

供養塔、納骨堂

昔は個人墓でしたから墓標が次々と増えます その時どうしたかといえば 古い墓から仕舞って供養塔(供養墓・拝み墓)に収めます 墓仕舞いは三三回忌が目安なので 墓を建て守るのは子供一代限りということです(三三回忌を弔い上げと称するのは この墓仕舞いが変形したものです) 土質や湿度で多少の違いはあるものの その頃は遺骨は土に還っていて墓標を始末するだけです
昔の墓はささやかで小さなものでした 墓標というとおり本来は埋葬の目印です 僧籍にあった者など特別な場合を除いて 墓石を建てること自体少なかったと想像します 無闇と立派な墓は 日露戦争戦死者の軍人墓を建てたとき 高さ大きさを競ったのが始まりと聞きます[12] … Continue reading

寺でも供養塔を建てて合葬することがあります この場合の建立費用は永代供養料を当てます 永代供養は三三回忌が終わった後や回向する子孫がいない無縁仏の供養です
寺の本来は檀信徒がお布施で維持するものです 永代供養も皆が支え合い寺の住職がお勤めすることを意味します[13] … Continue reading 供養塔は墓仕舞いした檀家のためであって 個人墓・家族墓に代わる合同墓というわけじゃない
何々家の墓と銘したものが建てられるようになったのは 供養塔の変形かと思います 埋葬する際に遺骨を骨壷に納めるのはいつごろ始まったかわかりません

遺骨と骨壷

戦前の弔いと埋葬はどんなか知らないし 聞いたこともないのですが とくに戦死者の多かった昭和大戦末期 南方から白木の箱に入った遺骨が届きそれを埋葬しました 中は戦死公報しかなかったり 遺骨が入っていても誰のものか判然としなかったりです
あるいはこの辺から遺骨に拘るようになったのかもしれません ずいぶん長い間続いた遺骨収集団もそうです[14] … Continue reading

近年都会地で目立つようになった納骨堂とやらは 骨壷ロッカーであり供養塔とは異なる宗教ビジネスに過ぎないと見ます 何しろカードをかざすと骨壷がリフトで運ばれてくるという 意味不明のシステムです
墓石を終の住処などと馬鹿げたことを言い出したと思っていたら ついにここまで来てしまいました このような商売が成り立つのは 遺骨を拝むことが供養という風潮があるからです[15] … Continue reading

墓参りが一般的になり骨壷が一般的になって 先祖供養が遺骨に手を合わ墓に食べ物を供えることとなりました 宗旨・宗派を問わない納骨堂が繁盛したり(〇〇宗△△寺を名乗りながら宗旨宗派を問わないとする納骨堂は 業者が宗教法人〈貧乏寺〉を買い取って経営するのが多いようです) 派遣坊主を葬祭業者が手配するのも自然な流れでありましょう もはや菩提寺に参ることご本尊を拝することは忘れ去られたのです[16] … Continue reading

このごろ多い〇〇典礼などというチェーン店の葬式では 通夜と告別式(菩提寺の住職がいないので葬儀とはいえず 告別式なる言い方を始めたのでしょう)[17] … Continue readingと初七日・四十九日はもとより 一周忌までついでにやるのだそうです
そして仏壇屋と墓石屋・霊園と結託し すべてセット販売しています 葬儀屋が手配した派遣坊主が形だけお経を唱えてそれで終わり 菩提寺がどこかもわからぬまま三回忌以降の年忌法要もしない 仏壇を新調してもお盆に棚経はあげず 霊園の墓石に団子でも供えるだけです

追記 

註釈

註釈
01 伊藤左千夫の「野菊の墓」は明治39年の作品です 他家へ嫁いで産後の肥立ちが悪く亡くなった民の墓の周りに 政夫が野菊をたくさん植えるという結末です 嫁ぎ先へ弔問に行くわけにいかないので その代わり墓参りをしたのではないでしょうか しかも手向ける香華は野菊です 墓に参るというのは一般的なことではないから 小説になったのではないか
02 明恵上人の板書「南無母御前母御前」が表すように 葬儀・法要は子が亡き親に向けて行うものだと 私は思います 〇〇家としてではありません
03 菩提寺はキリスト教でいえば教会にあたり 宗教・信仰だけでなく地域共同体の様々な行事の拠り所です(明治以前は神仏混淆ですから神事も一緒でした) 教会が学校を兼ねていたように 寺子屋という形で教育にも携わりました 学問の場でもあったのです
04 形だけ名前だけ壇信徒でも 会ったこともなければ 人となりが分からないのに 戒名の授けようがないと住職が言ってました 戒名は授かるもので料金などありません 生前に戒名を授かる場合は得度となり 2週間ほど寺に泊まり込んで修行します
05 人を見て法を説くというように 仏教の教えは柔軟で決まりを押し付けることはあまりしません 法事は祥月命日にやるとか香典返しがどうとかは 葬儀屋が商売のために始めたり 訳知り顔のマナー評論家あたりが言い始めたことかと思います 菩提寺の住職がそのように言うとは思えない 当家の菩提寺の住職からも 命日に法要などと聞いたことがありません
06 月命日というのも変な風習です 昔は誕生日を祝うことはありませんでした 年末一回まとめて月日に関係なく歳を取ります 同じように命日という考え方はなかったんじゃないか 命日が年に11回もあるのは変だし それ以外の日は仏壇に香華・茶湯を手向けないのだろうか
お寺さんが毎月来たり 檀信徒が寺に参る月参りはありました(根拠は不明ですが) おそらくこの月参りが変質したのでしょう 当家の場合でいえば 元和年間からの戒名が残されています 月命日と言ったら毎日のことになりますし 祥月命日も週一回ぐらいの割合でやってきます
日光東照宮の例大祭は宵成祭といい 徳川家康の命日に執り行われます その辺から命日に墓参りや仏壇にお供えをする ということが広まったのかもしれない
07 葬儀の際(忌明けまで)神棚に半紙を張るというのも たぶん葬儀屋が始めたことじゃないでしょうか 宮中で仕える内侍の肉親が亡くなった時 知らせを聞いた瞬間に身が穢れます 服喪のため退出する際は 床に新聞紙大の白紙を敷き並べ その上を渡ると聞きます 穢れるのは我が身で穢は他の人にも移りますから 半歳のあいだ公の場に出ず家に籠もります
08 むしろ施餓鬼自体が神に初穂を供える古代神道から来たものです 阿難尊者(アーナンダ)とか木蓮云々は仏教に結びつけて後代にいい出したと思われます 農事祭であった冬の火祭りをキリスト誕生日と唱えるのも同様です
祖先を迎えるという盂蘭盆会は 木蓮尊者の母が餓鬼の世界に落ちていた話から来ています これも施餓鬼ですから一体化したのでしょう もとは雨季に行われる安居が解かれた日(解安居)の行事で 形は違えど水祭りです
09 子供の頃ご先祖はどこにいるのかと聞いたことがあります お盆で親戚が集まったときだったかと思います 仏壇の位牌なのか寺位牌なのか墓なのかよく分からなかったのです けれども誰も答えてくれなかった
菩提寺に縁がない人は 寺位牌のことを知らないでしょう 仏壇があっても祖父母の位牌だけなら 遠いご先祖の位牌は繰り出し位牌に書いて 個人の位牌はお焚き上げすることも知らない それならばお墓にお参りするしかないのも仕方ないことです
10 ご先祖が墓にいるとしたら浮かばれない地縛霊 悪くするとゾンビかキョンシーや牡丹燈籠の世界です そういえば お盆には地獄の釜の蓋が開くと言いますね みな地獄に落とされているのですか 殺生石なんかから来たのだろうか
あるいはキリスト教の原罪の観念に影響されてのことだろうか お盆が終われば地獄へ戻るというのは 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」最後の第3章で お釈迦様が何事もなかったように蓮池から立ち去るシーンに似ている
11 古代神道は教義がないとはいえ 葬祭に関する儀式は行っていました その伝統は仏教に影響を与え取り入れられ 日本型仏教(神仏混淆)となりました 神道式の葬儀というものが行われます よく知らないのですが教派神道ではないでしょうか これも神仏混淆の一種とみなしていいものです
12 私どもの墓所には400年以上前からの先祖の墓が数十基ありました みな高さ30センチから50センチ程度の大きさです 中にはどう見ても自然石のものがあります ひときわ巨大なのが日露戦争で戦死した人の墓でした 墓の上端はピラミッド状になっていて 高さもあるからまるでオベリスクみたいです ここにも明治政府による国家神道の影響が見られます
13 江戸などの大都市では 人別帳に載らない人がたくさん暮らしていました 身元引受人がいなければ長屋も借りられず 通行手形も発行されません(大家さんが保証人になることがよくありました 「大家といえば親も同然 店子といえば子も同然」はこのことを言います) これらの人が亡くなると俗にいう投げ込み寺で弔いました 人間だけでなく動物や物にまで供養塚があったりします これが日本人の精神なのです
14 宗教ビジネスで言うところの永代使用は 三三回忌までの墓の維持費を前納することです 永代供養と紛らわしいですね(たぶん誤解させるためにそのような言い方をしているのだと思います)
ですから永代使用料と称するものを支払っても 三三回忌がすぎると無縁仏となります 霊園で供養してくれるわけじゃないから使用料ですが 永代でも何でもない
このときに合同墓に移したり 改めて使用料を支払うことになります その際は骨壷一つあたりいくらで計算するために 骨壷のまま埋葬(というか棚に並べる)ようになったのかもしれない 土に還ってしまったら数えられないですから
15 追善供養とは 法要を営んだり 仏前に香華を手向けるなど 善行を積むことが 功徳になるという意味です また仏・菩薩・先祖に供養すること自体が善行でもあります
追善回向(廻向)とも言います 善行による功徳はご先祖だけでなく 一切衆生から廻り回って自分にまで向けられるのです 因果と縁起ですね 直接の御利益じゃない
16 お盆の行事は精霊棚を作り菩提寺の住職に棚教を上げていただく 昔の田舎はのんびりしたもので家を開け放っていました 住職は家人がいようがいまいが家に上がって棚経を唱えます
17 告別式は葬儀と違います 近親者で密葬した後 その他の関係者を呼んで行うお別れ会です この時は遺影を掲げて故人を偲びます いつごろからか知りませんが 葬儀屋が始めたことでしょう
コメントは受け付けていません