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タグ: 倭寇

騎馬民族征服王朝?

騎馬民族征服説なる 珍説(トンデモ学説)があります 強大な軍事力と進んだ文明を持つ人たちが 船団を組んで朝鮮半島から襲来し 縄文人だか弥生人を征服したというのです 荒唐無稽極まりない
彼らが持ってきた最新兵器が馬だった? それまで馬を見たことがなかった人々は 馬蹄にかけられて平伏したのです? 水稲の技術も持ってきて先住の者は農奴となった?[01] … Continue reading

時代が降って元寇がありました 騎馬民族の蒙古軍が日本を襲ったのです 合戦の絵図を見ますと 鎌倉から馳せつけた騎馬武者に対し 蒙古軍はなぜか徒歩なのです チンギスハンは騎馬軍団を率いて 世界国家を樹立したんではなかったか
たしかに前線の兵士は蒙古人ではなく 朝鮮や江南から徴兵されました それに海路大量の馬を運ぶのは大変だったでしょう てつはうと集団戦術に変更した理由はわかる気がします[02] … Continue reading

でも2000年以上も前に内陸部に住む人たちが 敢えて海を渡り馬と鉄製品を持ち込んだはずです 元の時代に至って造船と操船の技術が衰えたのか それとも半島に残った者たちは 馬に乗ることを忘れ鋭利な刀剣を作ることもしなかったのか 不思議ですね[03] … Continue reading
スペイン人がインカを侵略しました このときも馬を見たことがないインカ人は なす術もなく降伏したといいます でも戦術的な敗因は飛び道具(鉄砲)でしょう

本当のところは分かりません 少数のスペイン人が侵略したのは確かなようですが 騎馬民族征服説も このあたりにヒントを得たと思われます
ハワイのカメハメハ大王は 漂泊の末に流れ着いたスペイン船の鉄砲を使って 統一王朝を築いたと伝えられます

騎馬民族は遊牧民です 土地に執着しないから 侵略の必要はないのです 版図を広げるといっても 稲を持ってきて土着し農業を営むわけでない そもそも国境や領土という概念を持っていなかったと考えていい
スペイン人は別に騎馬民族ではありません 大航海時代は交易を求めたのですね 彼らは冒険商人といわれ海賊の一種です

日本も環日本海で交易をしていました この系譜を引き継いだ 後代の北前船なんかも船頭=船主の冒険商人です 呂宋助左衛門・大黒屋光太夫もそうです 東南アジアから樺太そして渤海にかけて活躍しました 大陸にとってはうるさい存在でした だから倭寇などと海賊扱いしたのです[04] … Continue reading

騎馬民族征服説は 優れた文物がことごとく朝鮮半島経由で渡来したと唱える人たちに 都合のいい仮説でした 稲作も製鉄も馬も仏教も全てです なのに半島では残らず 日本で開花した? 否定されたといっても まだ影響力は続いています

註釈

註釈
01 騎馬民族は農耕に適さない土地に住むため 放牧の生活を送っているのです とくに朝鮮半島北部などは寒冷で水利にも恵まれず 稲は生育しません 高句麗は騎馬民族で平壌冷麺の如く粉食文化です 百済・新羅には日本から稲作が伝わっていた形跡があります
02 てつはうは焙烙玉のようなものです 蒙古軍の帯びた刀剣類は鍛鉄でなかった 大量生産ができる鋳物でした タタラ製鉄は日本独自の技術で大陸・半島には痕跡さえありません 日本刀は日本だけにしかないのです(ダマスカス鋼は似ているかもしれない)
03 元寇を撃退した我が騎馬武者の技は 流鏑馬という形で現在にまで伝わります 半島・大陸は騎乗で使う弓ではなく 歩兵用の弩(石弓)が主力武器でした 集団戦術としての運用ですから個人技とはいえない 継承もされていないでしょう
04 日本は海洋国ですから 周辺の国や三国間で盛んに交易していました 八幡大菩薩の旗を掲げており 八幡船と言われました 中国はそれらの船に課税したいのですが 言うことは聞きません そこで倭寇と海賊呼ばわりし 日本に取り締まるよう要求していました
豊臣秀吉は表向き海賊停止令を出すものの 中国の身勝手な言い分に対抗する形で 公認したのが朱印船の始まりです これら一連の動きは その後の朝鮮出兵に関連している と見ていいんじゃないですか
豊臣秀吉の外交センスは 聖徳太子にも比肩できると思います しかし軍事侵攻は無理があります ポルトガル・スペインは 武装した船で交易していたライバルです むしろ朱印船(八幡船)をもって 制海権を狙うべきでした
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渤海と稲作

7世紀から10世紀にかけて 日本海の対岸に渤海という国がありました 唐と新羅の滅亡に合わせるかのように 歴史から消えていった国です[01] … Continue reading

地域からいって構成民族はツングース系(満州人)と思われます 後の満州国と重なる部分も多かったようですが 詳しい成り立ちは不明です
旧・新唐書などに記載はあります これは後代に書かれたもので かなりいい加減です 位置も範囲もはっきりしません

日本との関係は深く 公式の使節派遣(日本への来貢の形)だけでも年間十数回あったようです そのほかにも貿易・ 交流していたでしょうから 大変に緊密な間柄だったのです おそらく周辺国から圧迫を受けており 日本の経済力・軍事力を当てにしていたと考えて間違いありません[02] … Continue reading

朝鮮人は古代朝鮮政権のひとつだといい ソ連は連邦を形成する少数民族だったと唱え 中国は当時の一地方政権にすぎないと主張します
すべて根拠のない手前勝手な言い分です 古来より日本と深い関係のある渤海と満州国の正当性を貶める為にする議論にすぎません
例えばハルビンなどの地名は 中国語(漢族)とは縁のないものです 樺太から満州(渤海)の言語の名残でしょう

中国の文献にありながら信用できないものとして 思い浮かぶのは魏志倭人伝です 妙にありがたがっていますが 11世紀の公文書でも周辺国に関して適当に書いているのです 3世紀に成立したといわれる魏志倭人伝に書かれたことを 一字一句真実として受け取るとはどういうつもりなんでしょう 中国の公式文書(と称するもの)が正統で 日本の言い伝え・伝承など考慮に値しないという態度が学問ですか
何しろ白髪三千丈の国なので数字はまったく当てになりません 通読したわけじゃないので何ともいえませんが 三国志自体かなり偏向した記述らしいですし 中国からみて辺境の国のことは殊更に卑しめて書いています 卑弥呼だの邪馬台国といった文字には歪曲する意図があからさまです

稲作に関して興味深いことがあります 米と魚(一部獣肉)を漬け込んだ ナレ寿司は東南アジアから台湾 日本列島そして渤海沿岸地域に広がっているのです 東岸を除いて朝鮮半島にはありません
日本海側沿岸に今も伝わる カブラ寿司・ハタハタ寿司・ニシン漬けなど 米麹に漬け込む飯寿司もナレ寿司のうちに含まれるでしょう(熟鮓は魚を食べるもの 飯寿司は魚と共に米を食べます) また魚醤が使われるのも共通しています
これを見ても 稲作が海路で伝わった(陸づたいに朝鮮半島からではない)こと 古代に日本海を仲立ちとして日本と渤海地域との交流が盛んであったことが窺えます 対馬暖流とリマン寒流を利用すればこの地域を廻航できます

日本列島西岸を中心にして 朝鮮半島東岸を結び渤海沿岸と樺太を含む 海路を介した環日本海文化圏があったのかもしれません 内陸からの川が海に流れ込む沿岸地域で漁労と稲作を営む 中国の史書で倭人として書かれる人たちです[03] … Continue reading
7世紀の渤海成立以前から関係が築かれていたのではないでしょうか 能登半島あたりで造船が盛んだったとの記録も見られるようです 渤海との交流に使われた比較的大型の船です
渤海で米作りが行われていたかはわかりません あったとしても寒いところですから弥生の水稲ではなく縄文の陸稲ではないですか あるいは交易品として米が流通していた可能性も高いのです

註釈

註釈
01 この頃は朝鮮半島と渤海(満州)で華麗な文化文明が栄えていました しかし伝統として残ることなく そのとき限りで途絶えました 我国の皇統のように 文化の中心たる存在がなかったためです
02 空海が学問僧として唐に渡った時 かねてから知り合いだった渤海の僧と出会い 懐かしかったと書いています その僧は日本に来たことがあるわけです 優秀だったので同じく唐に留学したのでしょう
03 倭寇・和冦と呼ばれたのは 環日本海から東・南シナ海で交易に従事した 冒険商人の伝統をひく人たちです 渤海や東南アジアでは通常の交易をしていました しかし中国・朝鮮半島では敵対していて海賊呼ばわりです 中国は皇帝が交易の利益を独占していて 私貿易を許さなかったからです
倭人の倭は大和言葉の〈わ〉に文字を当てはめただけです わの意味合いとしては我・和・輪あたりでしょう 倭の字は従順な貌や恭しい態度といった意味があります とすると倭寇=海賊という呼称は似つかわしくないですね 大和以前は倭と書いて(やまと)と読んでいました
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