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タグ: 武士道

結婚と姓・性

別姓

夫婦別姓を認めろと唱える勢力があります 姓を個人の属性だと思い込んでいるから そんな見当はずれなことを言い出すのです 戸籍謄本を見れば個人には名しか書いてありません 姓は家名(戸籍名)なので当然一つだけです
結婚すると新たな戸籍ができます 一つの戸籍に二つの姓があったら 戸籍制度そのものが成り立ちません[01] … Continue reading フグ田家が磯野家と同居するのとは 根本的に異なります[02] … Continue reading

旧姓とは実家(正確には生家)の家名のことです しかし 実家の家名に拘泥する自分たちの信条を 法律で正当化しろ というのは違うと思います 旧姓を名乗ることのどこが女性の自立ですか[03] … Continue reading この者たちは家制度に固執しているだけです
そんなところに個人のアイデンティティはない むしろ親離れしていないと言えます 日本社会は戸籍名以外を認めない風潮があります[04] … Continue reading 旧民法がなくなっても いまだ家制度にとらわれているのです 

同性

他国のように戸籍制度を廃止して 出生証明書にラストネーム(サーネーム)を記載するようにしないと不可能ですね 同姓同士の結婚なら そんな問題は起きないのですが
同姓といえば 同性同士の結婚を認めろと 唱える連中まで現れました 日本にソドムとゴモラの世界を再現しようとでもいうのでしょうか

いろんな宗教がありますし 信教の自由もあります 日本は多宗教の国です そんな邪宗は許さないという必要はない 性についても大らかな歴史があります
東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんが 男色関係だったのをご存じですか たしか静岡出身の設定でしたが 江戸へ逃げてきたのは 妻を殺したからであって 男色を咎められたわけではありません[05] … Continue reading

制度上でも社会的にも 取り立てて男色が非難されていない 天から火が降ってきて焼き尽くすこともないのです
それでも こんな不健全な生活をしていてはだめだ 改めようと決心して お伊勢参り[06] … Continue readingをする筋立てです といっても関係を解消する様子はない

憲法が絶対の権威

何でもかんでも法律で細かく規定しようとするのは 古代ギリシャの立法家ソロンによる改革が思い起こされます 当時の世相がどうだったか分かりません オリュンポスの神々の威光が失われていたか 自分勝手がまかり通る今の日本と似て 乱れた世だったのでしょうか
夫婦別姓にしろ 夫婦同性にしろ こういうことを唱える連中は 必ず現在の法律を憲法違反だと主張します モラルやコモンセンスの規範を 憲法に求めているのです[07] … Continue reading

たしかに一神教でない日本には 法律以前の規範を定める権威がありません 江戸時代は朱子学を規範にしようとしました 陽明学もありましたし 石門心学が流行しました 明治に入ってからは 武士道[08] … Continue readingなんてのを持ち出しています
他国から持ってきた教えや他国に決めてもらった憲法を崇拝する 様々な価値観があっていいのですが 憲法を絶対視するのはちょっと違う気がします 法律が正義とは言えない悪法はいくらでもあります 現行憲法はアメリカの価値観ですし 民法より遥か後にできました そぐわないのは当たり前のことです

註釈

註釈
01 戸籍制度があるのは世界で日本だけです 他の国は結婚しても離婚しても そもそも姓が変わることはありません 別姓が認められているという言い方は 誤解を招きます 誤解させるために言ってる? プロパガンダの手口ですか
他国では姓は出生証明書に書いてあり 結婚とは無関係です しかし社会生活上では通称名として夫の姓を名乗るのが普通のことです 夫と妻のラストネームを併記するのも通称名です もし戸籍で併記を認めたら寿限無になってしまいます
02 代々 娘が母方の姓を継いでいる家を知っています 熊野大社の社家の家系です 日御子・巫女(神子)・斎王などでわかるように 古来神に仕えるのは女性でした そのへんの伝統から言い伝えられたことでしょう これはかなり特殊な例だと思います
03 中国や韓国が女性の権利を認めているから 夫婦別姓というのは まったくのデマゴギーです 結婚で姓が変わらないのは他国同様ですが 通称名でも夫の家名を名乗ることができないのです また同姓同士は結婚できないという慣習があります 夫婦別姓ではなく夫婦同姓が認められない社会なのです 一部新聞はなぜ このようなフェイクニュースを流すのでしょう
04 一般的に現在の戸籍名を本名とし 生家の戸籍名を旧姓といいます 旧姓に対するのは 新姓ないし現姓でいいんじゃないですか これを本名というのは権威主義だと思います(戸籍名は離婚・再婚すれば変わるのだから本名ではありません)
生家のことを実家という言い方も改めるべきでしょう 新たに一家を立てるのであって婚家ではないのですから これも明治時代の家制度の残滓です
05 人別帳(住民票)に記載されていない人は長屋を借りることもできず 通行手形も発行されません しかし弥次さんの伝手で住まいを見つけ弥次喜多道中もできました お上が絶対ではなく融通をきかせる 明治以降より自由な社会だったのです
06 お伊勢参りは御師と呼ばれる人たちのキャンペーンで流行しました もともと寺社への参詣は物見遊山で 観光客の落とす金が寺社と周辺の経済を潤します 富士講やお伊勢参りは宿泊とセットになったパック旅行のようなもの 信仰に基づいたものでなく 明治期にできた神社神道とも別ものです
07 この問題の本質は 戸籍に記載された文字と 1点1画の違いもだめだとする役人根性です 旧姓を通称名として使えれば済むことで 民法改正云々の話ではない
話題になった「令」の文字にしても 明朝体と教科書体の文字デザインの違いに過ぎない 欧文でいえばローマン体(明朝体のもと)とスクリプト体(筆記体)の違いみたいなものです
小学校のとき「子」の縦棒を直線で書いたら 先生から弧を描くように書くものだと言われました 筆書きで明朝体をなぞった人は 活字が正しいと思っていたのでしょう 小学生レベルです
戸籍のフォントはIPA明朝です これと合わせるにはウロコも書かなければならない でもボールペンで書いたらゴシック体になってしまうし 困ったものです
08 武士道という言葉は 江戸時代に言われていた士道じゃなく キリスト教徒である新渡戸稲造が 日本には武士道という道徳規範があるとして書いた 英語の本がもととなって広まりました 聖書のように体系化された武士道なんてありません
葉隠は鍋島藩の歴史が主な本です 武士道云々はその中の一部に過ぎません 藩士として勤める心得は書いてありますが 士道の解説本とはいえない また山岡鉄舟が武士道という言葉を使っているようですが ともに一般的なものではなかった
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士農工商と武士道

士と農の関係

士農工商を江戸時代の身分制度と唱える者がいます 士農工商は朱子学にみられる言葉で 中国の価値観で仕事の貴賤を表します 職業に貴賤があるのです おそらく薩長明治政府が徳川の施政を否定するため 四民平等のスローガンに合わせる形で持ち出したことです 江戸時代に士農工商という言葉は使われたが 様々な生業という意味です
江戸時代に限らず 日本に身分制度・階級制度はなくむろん農奴もいません 官位はありましたが文字通り役人の地位に対する区分けで身分制ではない また明治維新後の華族・士族・平民とか爵位も ヨーロッパに合わせたに過ぎない

朱熹のいう士は 武士のことではなく士大夫です 士大夫とは科挙で合格した官人をいいます[01] … Continue reading 日本は科挙制を取り入れていませんから 士大夫も存在しません 武士は身分・階級ではないので 御家人株の売り買い(公式には認められていない)もありました
支配階級である武士が 農民から搾取していたなど 全くのこじつけなのです[02] … Continue reading そもそも侍って武装した農民ですから 戦国時代は要するに田圃の取り合いでした 武士の俸給が米であったのは このことを物語っています
 
豊臣秀吉が天下を統一し 敵対した側から武器と土地を取り上げました 太閤検地と刀狩りです その結果 帰農し農業専従になった者と もっぱら軍務に就く者が分かれました
しかしそれは階級とか身分ではないので 本百姓は苗字帯刀など相応の処遇を受けています 守護代が守護を凌駕する下克上は荘園の自立でした 中国・ロシアのような農奴制(支配・被支配の関係)ではなかった

班田収授法の頃より 米生産の担い手は小作農中心でありました 米が産業の基盤だったり俸給代わりに使われた理由は保存性にあります 戦国・江戸時代以前の租税には種々ありましたが 主なものは保存と流通が可能な産品でした 中で主要なのは繊維製品です軽くて単価が高い 米以外の食料品では塩蔵や乾物などですね[03]日本全体の経済流通の基盤としては すでに天武天皇の時代に富本銭が鋳造されています 米は糧食の基幹でしたが租税の中心ではありません

近世の経済というか物価の基準として 米を取り上げるのは適切でないでしょう 武士の俸給が米であっただけで 行政の予算に相当するが経済の中心とはいえない[04] … Continue reading
米は豊作・凶作で価格が変動しますし 米相場を操作することも行われました(大阪堂島と江戸札差の間の米価は手形決済でした 情報が価値を生む経済です) かなり投機的な商品だったと思います それが旗本・御家人の困窮にもつながりました
貨幣の代わりに米が流通したわけでなく米切手で換金します[05] … Continue reading あくまでも人件費を中心とした行政予算が米だったのです(現在でも行政予算の大半は人件費です)

士道に背くまじき事(新選組局中法度)

徳川の世になっても 多摩や武州の土豪(百姓)は武芸に励んでいました(坂口安吾の「馬庭念流のこと」が面白い 青空文庫に収載されています) 新選組の近藤勇は天然理心流[06] … Continue readingですね 彼らは武蔵七党などといって 徳川が江戸に移ったときから配下となっています
中で西党は西国からの軍勢を撃退する いわば国境警備隊の役割を担っていました 新選組解散後に甲陽鎮撫隊を編成したのも 伝えられていた家康の遺訓に沿ったことでしょう

徳川時代に鎖国をしていたといっても 主に植民地化の先兵であるキリシタンバテレン対策ですから 文物の交流はなかなか盛んでした 窓口となっていたのが長崎出島です その影響もあって西国大名は 早くから商業を振興し米中心から脱却していました
この先駆けは何といっても織田信長です 重商主義を取り入れ海外にも目を向けていました 米作中心の武装農民である他の戦国大名と違います[07] … Continue reading

明治維新で徳川から政権が移ったのは 最後まで旧態依然の制度を墨守していたからです 御家人に勝海舟など優れた人物はいましたが 老中は兵糧米の心配をしたり 新選組・彰義隊は 火縄銃や白刃で薩長に立ち向かうという具合です 旗本でない新選組の拠り所は士道でありました[08] … Continue reading

江戸時代は 朱子学に基づいた「忠義」が武士の心得とされていました 士大夫が武士にすり替わり 武士道ということが言われたのかもしれません もっとも実際に官僚化していましたから 士大夫=武士といっても差し支えなかった

士道・武士道

武士の中にも郷士や下士 また旗本・御家人などの違いがありました(この違いは最初からの家臣と 戦に負けて帰服した者の区分けです) これを階級と言えなくもないのですが 御家人や郷士の方が収入が多く裕福だった例はいくらでもあります[09] … Continue reading

なお武士道という言葉は キリスト教徒であった新渡戸稲造がアメリカで書いた「BUSHIDO The Soul of Japan」が逆輸入されたものです 西洋のキリスト教に基づく道徳教育に相当するものとして 「武士道」が日本の徳育に取り入れられていると主張する いわば文明開化の産物です[10] … Continue reading
この本は新選組・彰義隊・白虎隊が殉じた士道と大きく異なります 西洋列強に伍する文明があるといって いちいち西洋の事例になぞらえて言い訳している(フリードリヒ2世と上杉鷹山を並び称したり) 日本の伝統とはかけ離れた内容です

明治維新後も日本が植民地にならなかったのに 士道の精神が大きかったのは事実だと思います 士道はキリスト教とは違う価値観と高潔・高邁を表す言葉といっていいでしょう 武家が無くなった今でも日本には 名をこそ惜しけれ士道が生きています

註釈

註釈
01 中国においても他国と同様 農・工・商は必要に応じて自然と生まれた職業です しかし士大夫は官僚制度が生み出した人工のものです もともと必要とされたものじゃない 官僚が現れて職業に貴賎があるとされたのです 順番としては上から 卿・大夫・士となります
02 明治になって確かに武士はいなくなりましたが 維新の元勲と称する者たちが権益を独占し 官僚が優先される役人天国となりました 自らが支配階級になるのでなく 主権を天皇陛下に預けてしまいましたから 臣下である自分たちは責任を取る必要がありません この構図は今に引き継がれています
03 日本全体の経済流通の基盤としては すでに天武天皇の時代に富本銭が鋳造されています 米は糧食の基幹でしたが租税の中心ではありません
04 江戸時代はすでに貨幣経済だったのに 米を年貢として行政の予算としたため 不作の年は予算不足になるだけでなく 餓死者が出るほどの飢饉になりました 大変不安定な経済基盤であったのです 武士(土豪)は荘園の独立が起源で 後の時代も各藩は米を中心とした自立経済圏です
05 各藩の行政予算も米中心でした 年貢として納められた米は兵糧米として備蓄する分を除いて換金します 換金するには大阪や江戸へ運ばなくてはなりません その回送費用も莫大なものになります 藩の財政基盤を強化するためには米だけに頼らず 藩内の産業を育成し自立経済を目指す必要がありました
06 天然理心流は全くの実戦剣法で ポンポン撃ち合って勝ったことにする負けたことにするという 江戸時代後期に流行った北辰一刀流とは別物です 北辰一刀流免許の坂本龍馬が6連発を持っていたのは 小器用な道場剣法は実戦の役に立たなかったからです
現在の剣道は全くのスポーツで士道の精神とは関係ありません 北辰一刀流が元になっています 江戸時代にすでに形式化していましたから ちょうどよかったのですね
07 上杉謙信公が関東に出陣するのは 常に冬の始まり農閑期です 関東を平定し春前には越後に戻ります 一種の出稼ぎといっていい(もっとも当時は米作が中心ではなく 主に麻の織物が産品でした 小千谷縮が女手で作られ 冬に糸を績み雪に晒すのはその名残です)
織田信長の軍勢は野伏や他国からの帰服者で編成された 鉄砲が主装備の足軽中心の常備軍です 報酬は扶持米ではなく金銭です その原資は堺などから得る課徴金でした
08 新選組はもともと仕官していない集団です 主君のためにでなく会津公の命で戦いました 会津公は孝明天皇の要請により京都守護職を承っていましたから 孝明天皇の意のもと刀を抜いたのです これこそが士道であります
09 「武士は食わねど高楊枝」の出典はわかりませんが 決まり事にしばられ体裁を整えなければならない 貧乏旗本の悲哀を表しているように思えます
時代劇や落語で 腰のものを金に替えてしまい竹光を帯びて 上司に挨拶に赴くなんて場面があります 御目見以上の上級旗本はそんなことないでしょうが
士農工商が身分制度であったら 食うに食えない武士など存在しませんから やせ我慢も見栄を張ることもありません
10 新渡戸稲造自身がキリスト教徒ですから 仏教や神道といった邪宗を持ち出すわけにいきません そこで思いついたのが武士道です(中世ヨーロッパの騎士道に倣ったのでしょう) これなら宗教と関係のない道徳規範です
いってみれば武士道なんて架空のもの 当たり障りがなく好都合な言い訳です 実際の道徳規範は武家が儒教であり 庶民は道祖神と習合した地蔵信仰でしょうか 仏教も儒教も宗教でなく学問として取り入れられ 後に道徳となりました
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日本の伝統・本流

日本の伝統

春日大社の式年造替が行われました このとき奉納されていた太刀が新たに打ち直されました 刀鍛冶は月山流当主です 月山流は大神神社座する桜井市に工房を構える 鎌倉以来の伝統ある流派です

古いものをむやみに尊ぶのではない 千年も前に作られたと同じ刀剣をいま再現できること これこそが連綿と続く日本の伝統の姿あり方です

三種の神器は壇ノ浦に沈みました いま宮中にある神器はその後に作られたものでしょう 伊勢神宮にも八咫鏡が納められています 熱田神宮には天叢雲劔が祀られており 弥栄瓊勾玉は宮中のみです

いずれが実物であるとか 形代であるとかの議論は無意味です 式年遷宮と同じことで 形あるものを祭るのではない 継承することが貴いのです
形あるものはいつか必ず滅びます いつまでも新たに甦ることが永久にあるということです

日の本は日出処の国です 常に生まれ変わり常に若々しく 清新なる国柄を表しています
日本の歴史伝統は常に新しく 久しく引き継がれます それが式年遷宮や式年造替 また御柱祭の意義なのです

天叢雲劔が表す勇武 八咫鏡が表す正明 弥栄瓊勾玉が表す親和 日本の伝統は清き明き直ぐなる心を伝えることに他なりません

昭和24年も伊勢神宮式年遷宮に当たる年でしたが 占領下のため国費が出せず断念せざるを得ませんでした
このことが知られると 横山大観・川合玉堂などが展覧会を開いて寄付を募る活動が始まり 4年遅れの28年に見事遷宮が執り行われました 麗しき日本の伝統が発揮されたのです

日本の本流

安土桃山時代とはいえ 桃山時代はすなわち豊臣秀吉その人です 個人と時代が等寸で重なる希有な時代といえます 豊臣秀吉は庶民の出であるといい 当人もそれを否定していません すなわち下克上です

下克上は大陸の覇道と同じではない 日本の底流に いつの時代でも流れている 民族の心の奔流が迸ったものです 世直しといっていいのかもしれない

徳川時代の一揆もそうです 明治維新もそうであるし 自由民権運動も まさしく世直しです そして今 インターネットの世界にも世直しの声が吹き荒れています

安土桃山時代といいます 信長は己の権勢を示すため安土城こそ作ったものの ついに文明を作ることはなく せいぜいが南蛮趣味くらいでした
太閤秀吉が切支丹伴天連を廃したから 桃山時代は明るく華やかで絢爛な 国振りの時代でありました

日本の建築様式は 高床式に始まり 寝殿作りとなり 書院作りに至り 数寄屋作りで完成しました その後に日本建築の進展はありません
この数寄屋作りは桃山時代・利休の手になるものです 大殿と呼ばれる各宗派の大本山建築もこの時代に創始されたといいます
桃山時代の建築を見ると 太閤秀吉の無邪気なおおどかさに比べ 利休はいかにも小賢しい

侘び茶といいながら懐石料理は 大貿易港の堺に唐・天竺・南蛮より渡来した 珍味佳肴の贅沢な食膳でした 田舎者の信長・秀吉を驚かすのはわけなかったことでしょう
信長はたやすく南蛮かぶれになりましたが 秀吉は利休の底の浅さが 国風に害をなすと見抜いていました

侘び・寂び・禅・武士道が日本の文化だなぞ言い始めたのは たかだか明治以降にすぎません 武士道は新渡戸稲造が英語で書いたガイドブック 禅も鈴木大拙の英語の紹介本に由来します
茶道と華道が女子の嗜みとされ いわゆる花嫁修業がいわれたのは昭和大戦敗戦後です 西洋のマナースクールを真似て 裏千家と池坊の当主夫人が提携して広めました[01] … Continue reading

これらもたしかに日本文化の一面ではあるが 本流とはいえないものです 元禄文化・桃山文化・王朝文化 さらに東北のねぷたを初めとした 各地に伝わる縄文文化を顧みないのは 片手落ちというより日本文化の本流に目を瞑ることになります

註釈

註釈
01 明治時代まで婦女子の嗜みとされていたのは 花・書・歌に加え茶がありました この茶は煎茶道のことでした いわゆる茶の湯は武家の嗜みであり 女子のものではなかったのです
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