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打ち水

古都の夏

京都に所用があり 折角のことですから 菩提寺の本山に詣でたことがあります 宿からバスで左京区にあるその寺に向かいました
6月ではありましたが 京の町は大変暑い バスを待つ間 日差しを避けて小路に入りました するとその小路には 涼しい風が吹き通るのです
一歩入っただけでまるで別世界のようです 奥に料理屋さんの玄関が見えたので 私道だったのかもしれません
寺に着き 本尊を拝したり念珠を求めたりしていました 有名な寺でないので観光客は一人もいません やがて鉦太鼓の音が響きわたり始めました どうやらお勤めの時刻だったようです
読経も聞こえてきたので 本堂の外廊に座ることにしました 正座していると暫くして 中に請じ入れていただきました 外は強い日差しでしたが 仄暗い室内には爽やかな風が抜けます

京の古い屋並み 昔からある神社仏閣は 暑い夏を過ごす工夫が凝らされていると聞きます 風の通り道を計算して建築されているのです 体感してみて初めて 先人の偉大さに気づきました
所用先の近くにある本能寺にも足を運んでみました 観光化され人がごった返し 狭い境内にはコンクリート造りの建物が建ち並び 風どころか人いきれで蒸せ返るようです

コンクリートに打ち水?

ひところ TVで打ち水が盛んに取り上げられたことがあります 子供たちや浴衣の女性が 柄杓で熱く焼けたアスファルトに水を撒く図が放映されました
打ち水も昔からの涼を求める工夫です 物理的な事情はよく分かりませんが 撒いた水が蒸発する際に気化熱を奪い 周囲との気温差で風が巻き起こるようです 小さなダウンバーストでしょうか

木陰が涼しいのも同じ理屈です 木の葉が日差しを遮ると共に 温度差から並木には風が吹き抜けます 打ち水をするのは 砂利を敷き詰めた庭が最適です 保水力と浸透性があり 緩やかに水が蒸散することで風が生ずるのです 周囲に木々があればなお良い
日の高い時に焼けただれたアスファルトに水を撒いては 湿気で蒸しむしするだけです 多少の気化熱の効果はあるでしょうが ビル風を巻き起こすまでは至らない(そういえば 散水車を見かけなくなりました 通ったあとに僅かながら風が吹き抜けたものです)

打ち水は昼日中ではなく日が傾きかける西日頃です[01] … Continue reading それに水の撒き方が違います 扇状に満遍なく撒かねばなりません 撒いた水が流れたり水溜りができるようではいけません
さる人が「露地に水打つ事 大凡に心得べからず……」と書いています[02] … Continue reading この打ち水は 客を迎える茶室への苔むした道が しっとりと濡れているように という心馳せですから 見た目の涼です
しかしながら 水を撒く事ひとつでも心得が必要という点では教えられます 私は利休や茶道は好きでないのですが

註釈

註釈
01 行水を使う時刻と一緒ですね 昼の汗を流し着替えて縁なぞに腰を掛け 打ち水のかすかな風に夕涼み といったところですか これには扇でなく団扇が似合う
02 南方録(来歴が怪しく偽書とされています) 利休を権威付け 茶と禅を結びつけ 日本文化の代表の如く演出するには 秘密めいた由来が与っています
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日本の伝統・本流

日本の伝統

春日大社の式年造替が行われました このとき奉納されていた太刀が新たに打ち直されました 刀鍛冶は月山流当主です 月山流は大神神社座する桜井市に工房を構える 鎌倉以来の伝統ある流派です

古いものをむやみに尊ぶのではない 千年も前に作られたと同じ刀剣をいま再現できること これこそが連綿と続く日本の伝統の姿あり方です

三種の神器は壇ノ浦に沈みました いま宮中にある神器はその後に作られたものでしょう 伊勢神宮にも八咫鏡が納められています 熱田神宮には天叢雲劔が祀られており 弥栄瓊勾玉は宮中のみです

いずれが実物であるとか 形代であるとかの議論は無意味です 式年遷宮と同じことで 形あるものを祭るのではない 継承することが貴いのです
形あるものはいつか必ず滅びます いつまでも新たに甦ることが永久にあるということです

日の本は日出処の国です 常に生まれ変わり常に若々しく 清新なる国柄を表しています
日本の歴史伝統は常に新しく 久しく引き継がれます それが式年遷宮や式年造替 また御柱祭の意義なのです

天叢雲劔が表す勇武 八咫鏡が表す正明 弥栄瓊勾玉が表す親和 日本の伝統は清き明き直ぐなる心を伝えることに他なりません

昭和24年も伊勢神宮式年遷宮に当たる年でしたが 占領下のため国費が出せず断念せざるを得ませんでした
このことが知られると 横山大観・川合玉堂などが展覧会を開いて寄付を募る活動が始まり 4年遅れの28年に見事遷宮が執り行われました 麗しき日本の伝統が発揮されたのです

日本の本流

安土桃山時代とはいえ 桃山時代はすなわち豊臣秀吉その人です 個人と時代が等寸で重なる希有な時代といえます 豊臣秀吉は庶民の出であるといい 当人もそれを否定していません すなわち下克上です

下克上は大陸の覇道と同じではない 日本の底流に いつの時代でも流れている 民族の心の奔流が迸ったものです 世直しといっていいのかもしれない

徳川時代の一揆もそうです 明治維新もそうであるし 自由民権運動も まさしく世直しです そして今 インターネットの世界にも世直しの声が吹き荒れています

安土桃山時代といいます 信長は己の権勢を示すため安土城こそ作ったものの ついに文明を作ることはなく せいぜいが南蛮趣味くらいでした
太閤秀吉が切支丹伴天連を廃したから 桃山時代は明るく華やかで絢爛な 国振りの時代でありました

日本の建築様式は 高床式に始まり 寝殿作りとなり 書院作りに至り 数寄屋作りで完成しました その後に日本建築の進展はありません
この数寄屋作りは桃山時代・利休の手になるものです 大殿と呼ばれる各宗派の大本山建築もこの時代に創始されたといいます
桃山時代の建築を見ると 太閤秀吉の無邪気なおおどかさに比べ 利休はいかにも小賢しい

侘び茶といいながら懐石料理は 大貿易港の堺に唐・天竺・南蛮より渡来した 珍味佳肴の贅沢な食膳でした 田舎者の信長・秀吉を驚かすのはわけなかったことでしょう
信長はたやすく南蛮かぶれになりましたが 秀吉は利休の底の浅さが 国風に害をなすと見抜いていました

侘び・寂び・禅・武士道が日本の文化だなぞ言い始めたのは たかだか明治以降にすぎません 武士道は新渡戸稲造が英語で書いたガイドブック 禅も鈴木大拙の英語の紹介本に由来します
茶道と華道が女子の嗜みとされ いわゆる花嫁修業がいわれたのは昭和大戦敗戦後です 西洋のマナースクールを真似て 裏千家と池坊の当主夫人が提携して広めました[01] … Continue reading

これらもたしかに日本文化の一面ではあるが 本流とはいえないものです 元禄文化・桃山文化・王朝文化 さらに東北のねぷたを初めとした 各地に伝わる縄文文化を顧みないのは 片手落ちというより日本文化の本流に目を瞑ることになります

註釈

註釈
01 明治時代まで婦女子の嗜みとされていたのは 花・書・歌に加え茶がありました この茶は煎茶道のことでした いわゆる茶の湯は武家の嗜みであり 女子のものではなかったのです
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お盆・彼岸の墓参り 葬儀の本義

墓参りより菩提寺を大事に

【要約】

  1. 大切なのは菩提寺であって 墓ではない
  2. お盆・彼岸の墓参りは近年の習慣
  3. 家族墓(○○家代々)はさらに新しい
  4. 檀家制(相互扶助)を維持できなくなったのは 神仏分離令・廃仏毀釈による
  5. そのため菩提寺がないがしろにされ 葬祭業者が幅を利かせ葬儀・法要が形骸化した
  6. 日露戦争による戦死者の墓の高さ・立派さを競う風潮があった 昭和大戦後に遺骨収集団が官民挙げて組織され進められた
  7. 上記が遠因で先祖の菩提を弔う追善回向を疎かにし 埋葬と墓石・骨壺を拝むことを供養とする今日の風が広まる

どなたかの随筆に このごろ関東(東京)でお盆に墓参りに行く風があると聞く 自分の住む関西(京都)でそのようなことはしないし 生まれ育ったころの記憶にもないとありました うろ覚えで著作者のお名前は分かりません たぶん昭和初期に書かれたものでしょう
お盆に精霊棚を作ったり(施餓鬼棚ともいい戸外に向けて飾るものでした)灯籠流し等の行事は昔からありましたが 墓参りはきわめて最近の習慣ということになります[01] … Continue reading

何々家の墓とか先祖代々の墓とかが建てられるようになったのも近年のことです そうすると いわゆる墓守だとか長男でなければ墓に入れないなんて言い出したのは さほど古いことではなさそうです
仏門に入ることを出家といいます 家を出るから仏弟子となったご先祖に家名はないのです[02]明恵上人の板書「南無母御前母御前」が表すように 葬儀・法要は子が亡き親に向けて行うものだと 私は思います 〇〇家としてではありません 入るのは仏門であって墓ではありません 昔は一般に それほど墓に拘泥わることはなかったのです では先祖供養を大事にしなかったかといえば そんなことはありません

拝むのはご本尊

菩提寺[03] … Continue readingの住職によれば 先祖供養とは年回忌をきちんと行うことだそうです 年回忌は冠婚葬祭の祭にあたります 祭は祭祀のことで仏教なら回忌供養になります 葬式を上げるだけでは供養にならないのです[04] … Continue reading  年忌法要のあと墓に卒塔婆を立てますが 墓参りを欠かさないようにとは言われませんでした 墓参りをするなとも言われませんが
付け加えますと 追善供養(年回忌)は文字通り1年単位で月日は関係ありません 巷間いわれる祥月命日の前だとか後だとかはまったくの俗言です 日にちが重要なのは七七日(四十九日)だけです 七日ごとにお経を上げ七回目の四十九日に法要を行います[05] … Continue reading 1月1日に亡くなった方の法要を前年にやっては年忌供養になりません 昔の数え年と同じで日付より年数のほうが重要なことですから[06] … Continue reading

父の葬儀のとき葬儀会社の方に 葬儀は菩提寺の住職が執り行うもので 我々はそのお手伝いをするに過ぎない すべて住職の言われるままにしてくださいと諭されました それまで私も葬式は葬儀屋さんがやるものと 漠然と思い込んでいたのです
菩提寺の住職にいろいろと細かく教えていただきました その他 仏壇の上鴨居のところに遺影写真を掲げてはいけないとも言われました 仏壇にはご本尊を奉安してあるのだから ご本尊より上方にそのようなものを置くべきではないとのことです

内田百閒翁によると昭和のはじめころ 遺影写真を位牌に焼き付けるのが流行ったそうです さすがにそのようなことは廃れました また自分の葬儀の時に遺影写真を掲げるのはやめてくれとも書いていました 昭和に入った頃には すでに葬儀屋が仕切るようになっていたようですね[07] … Continue reading 私も別に信心深いわけでなく 先祖代々付き合いのある菩提寺を大切に 檀信徒としての勤めをきちんと果たしたいだけです

当家は400年以上前より浄土宗で 浄土宗は絶対他力ゆえの教えかもしれません 他宗でどうかは知りませんが 菩提寺の指示に従うこと 葬儀より前に枕経を上げてもらうことが大事なのは 共通しているのではないでしょうか 今昔物語集の仏教説話を見ると 枕経は本来臨終の時に上げ 阿弥陀三尊のご来迎を願うものでした
ですから 自宅で葬儀を行うときも葬祭会館で行うときでも ご本尊に出張っていただきます そしてお経を上げるのも 焼香するのも 手を合わせるのも すべてご本尊に向かってすることです なにとぞ成仏させてくださいと ご本尊に願うのが葬儀の本義です

丁寧なつもりで焼香と合掌の後先に ご本尊に尻を向け列席者喪主に頭を下げるなど あってはならぬことなのです これは葬儀社の方に言われました 元は仕出し料理屋さんであった 江戸時代より続く老舗です
仏教に限りません キリスト教の葬儀も遺影や遺体に祈りを捧げるわけではなく あくまでも神に帰依する(天国に召される)ことの再確認です

2019年9月12日追記=佳子内親王が 東京都慰霊堂で行われた法要に参列された際 手袋のまま焼香されるのを非難するコメントが見られるそうです
皇族の方々は世界の王族と同様のマナーをを守っておられます 公式の場で女性皇族が 室内でも帽子と手袋を召しているのは 正統な儀礼に叶ったことです 手袋を外すのは食事の時だけ 仏事であっても 焼香の際に手袋を外すなんて作法はありません)

追善供養は墓参りでない

お盆(盂蘭盆会)の大切な行事は施餓鬼です 寺によって多少日にちは異なりますが だいたい八朔に壇信徒が寺に参り 寺方は精進料理を振るまいます 当地ではこのことを盆内といいます その他にも盆礼・盆供・盆持・盆参など様々な呼称があります
もともと八朔の行事は収穫祭の予祝でありましたから 施餓鬼と結びついたのでしょう 本来は作物を寺に喜捨(御布施)したものです 寺領がある場合は初穂を供えたのかもしれません

また墓参りで食物を供えるのも この施餓鬼をまねた風習です[08] … Continue reading 住職はあえて墓に食物を供えることを止めませんでしたが 供えた後は持ち帰るか その場で食べなければいけないと教えていただきました 抛って置くなど食べ物を粗末にしては本末転倒ですからね
花を供えるのも一緒です 供えて手を合わせたら 花を引き上げるのが常識です 腐れた花を放置するなど言語道断 罰当たりです

寺に参るのも仏壇に参るのも 全てご本尊に参るのが根本義です 故人やご先祖へではありません[09] … Continue reading そうしてみれば ご本尊の御座さない墓へ参ることはなかった というのが頷けます 禅宗の場合ご本尊はなく 釈迦牟尼世尊と菩提寺の僧が檀信徒の代わりに修行するという形です また拝むのは名号であったり曼荼羅であったりと 各宗派でいろいろな教えがあります

ご先祖・故人がどこへ行くのかといえば ご本尊が阿弥陀如来なら西方浄土です 薬師如来がご本尊なら東方浄瑠璃世界 キリスト教徒はハルマゲドンに備えた神の兵士として天国へ招集されます いずれにしても墓の下にはいません[10] … Continue reading
古代神道は教義がないので何ともいえませんが 祖先神・産土の神として その土地に一体化するのではないでしょうか 古来より古墳を祭祀の対象とする考えはありませんでしたから[11] … Continue reading

葬儀や回忌法要 お盆・彼岸といった年中行事で迷ったら 菩提寺の住職に聞くのが一番です また本山のホームページで確認するのもよいでしょう 葬儀屋のフェイク情報や出どころの怪しい風説に惑わされてはいけません
キリスト教徒なら牧師や神父の説教に従い 仏教徒なら菩提寺の住職の教えに従うのが 基本であり最も大切なことです 宗派により寺により住職により教えは様々です 当家菩提寺でも当代住職と先代住職とは言われることが違います

供養塔、納骨堂

昔は個人墓でしたから墓標が次々と増えます その時どうしたかといえば 古い墓から仕舞って供養塔(供養墓・拝み墓)に収めます 墓仕舞いは三三回忌が目安なので 墓を建て守るのは子供一代限りということです(三三回忌を弔い上げと称するのは この墓仕舞いが変形したものです) 土質や湿度で多少の違いはあるものの その頃は遺骨は土に還っていて墓標を始末するだけです
昔の墓はささやかで小さなものでした 墓標というとおり本来は埋葬の目印です 僧籍にあった者など特別な場合を除いて 墓石を建てること自体少なかったと想像します 無闇と立派な墓は 日露戦争戦死者の軍人墓を建てたとき 高さ大きさを競ったのが始まりと聞きます[12] … Continue reading

寺でも供養塔を建てて合葬することがあります この場合の建立費用は永代供養料を当てます 永代供養は三三回忌が終わった後や回向する子孫がいない無縁仏の供養です
寺の本来は檀信徒がお布施で維持するものです 永代供養も皆が支え合い寺の住職がお勤めすることを意味します[13] … Continue reading 供養塔は墓仕舞いした檀家のためであって 個人墓・家族墓に代わる合同墓というわけじゃない
何々家の墓と銘したものが建てられるようになったのは 供養塔の変形かと思います 埋葬する際に遺骨を骨壷に納めるのはいつごろ始まったかわかりません

遺骨と骨壷

戦前の弔いと埋葬はどんなか知らないし 聞いたこともないのですが とくに戦死者の多かった昭和大戦末期 南方から白木の箱に入った遺骨が届きそれを埋葬しました 中は戦死公報しかなかったり 遺骨が入っていても誰のものか判然としなかったりです
あるいはこの辺から遺骨に拘るようになったのかもしれません ずいぶん長い間続いた遺骨収集団もそうです[14] … Continue reading

近年都会地で目立つようになった納骨堂とやらは 骨壷ロッカーであり供養塔とは異なる宗教ビジネスに過ぎないと見ます 何しろカードをかざすと骨壷がリフトで運ばれてくるという 意味不明のシステムです
墓石を終の住処などと馬鹿げたことを言い出したと思っていたら ついにここまで来てしまいました このような商売が成り立つのは 遺骨を拝むことが供養という風潮があるからです[15] … Continue reading

墓参りが一般的になり骨壷が一般的になって 先祖供養が遺骨に手を合わ墓に食べ物を供えることとなりました 宗旨・宗派を問わない納骨堂が繁盛したり(〇〇宗△△寺を名乗りながら宗旨宗派を問わないとする納骨堂は 業者が宗教法人〈貧乏寺〉を買い取って経営するのが多いようです) 派遣坊主を葬祭業者が手配するのも自然な流れでありましょう もはや菩提寺に参ることご本尊を拝することは忘れ去られたのです[16] … Continue reading

このごろ多い〇〇典礼などというチェーン店の葬式では 通夜と告別式(菩提寺の住職がいないので葬儀とはいえず 告別式なる言い方を始めたのでしょう)[17] … Continue readingと初七日・四十九日はもとより 一周忌までついでにやるのだそうです
そして仏壇屋と墓石屋・霊園と結託し すべてセット販売しています 葬儀屋が手配した派遣坊主が形だけお経を唱えてそれで終わり 菩提寺がどこかもわからぬまま三回忌以降の年忌法要もしない 仏壇を新調してもお盆に棚経はあげず 霊園の墓石に団子でも供えるだけです

追記 

註釈

註釈
01 伊藤左千夫の「野菊の墓」は明治39年の作品です 他家へ嫁いで産後の肥立ちが悪く亡くなった民の墓の周りに 政夫が野菊をたくさん植えるという結末です 嫁ぎ先へ弔問に行くわけにいかないので その代わり墓参りをしたのではないでしょうか しかも手向ける香華は野菊です 墓に参るというのは一般的なことではないから 小説になったのではないか
02 明恵上人の板書「南無母御前母御前」が表すように 葬儀・法要は子が亡き親に向けて行うものだと 私は思います 〇〇家としてではありません
03 菩提寺はキリスト教でいえば教会にあたり 宗教・信仰だけでなく地域共同体の様々な行事の拠り所です(明治以前は神仏混淆ですから神事も一緒でした) 教会が学校を兼ねていたように 寺子屋という形で教育にも携わりました 学問の場でもあったのです
04 形だけ名前だけ壇信徒でも 会ったこともなければ 人となりが分からないのに 戒名の授けようがないと住職が言ってました 戒名は授かるもので料金などありません 生前に戒名を授かる場合は得度となり 2週間ほど寺に泊まり込んで修行します
05 人を見て法を説くというように 仏教の教えは柔軟で決まりを押し付けることはあまりしません 法事は祥月命日にやるとか香典返しがどうとかは 葬儀屋が商売のために始めたり 訳知り顔のマナー評論家あたりが言い始めたことかと思います 菩提寺の住職がそのように言うとは思えない 当家の菩提寺の住職からも 命日に法要などと聞いたことがありません
06 月命日というのも変な風習です 昔は誕生日を祝うことはありませんでした 年末一回まとめて月日に関係なく歳を取ります 同じように命日という考え方はなかったんじゃないか 命日が年に11回もあるのは変だし それ以外の日は仏壇に香華・茶湯を手向けないのだろうか
お寺さんが毎月来たり 檀信徒が寺に参る月参りはありました(根拠は不明ですが) おそらくこの月参りが変質したのでしょう 当家の場合でいえば 元和年間からの戒名が残されています 月命日と言ったら毎日のことになりますし 祥月命日も週一回ぐらいの割合でやってきます
日光東照宮の例大祭は宵成祭といい 徳川家康の命日に執り行われます その辺から命日に墓参りや仏壇にお供えをする ということが広まったのかもしれない
07 葬儀の際(忌明けまで)神棚に半紙を張るというのも たぶん葬儀屋が始めたことじゃないでしょうか 宮中で仕える内侍の肉親が亡くなった時 知らせを聞いた瞬間に身が穢れます 服喪のため退出する際は 床に新聞紙大の白紙を敷き並べ その上を渡ると聞きます 穢れるのは我が身で穢は他の人にも移りますから 半歳のあいだ公の場に出ず家に籠もります
08 むしろ施餓鬼自体が神に初穂を供える古代神道から来たものです 阿難尊者(アーナンダ)とか木蓮云々は仏教に結びつけて後代にいい出したと思われます 農事祭であった冬の火祭りをキリスト誕生日と唱えるのも同様です
祖先を迎えるという盂蘭盆会は 木蓮尊者の母が餓鬼の世界に落ちていた話から来ています これも施餓鬼ですから一体化したのでしょう もとは雨季に行われる安居が解かれた日(解安居)の行事で 形は違えど水祭りです
09 子供の頃ご先祖はどこにいるのかと聞いたことがあります お盆で親戚が集まったときだったかと思います 仏壇の位牌なのか寺位牌なのか墓なのかよく分からなかったのです けれども誰も答えてくれなかった
菩提寺に縁がない人は 寺位牌のことを知らないでしょう 仏壇があっても祖父母の位牌だけなら 遠いご先祖の位牌は繰り出し位牌に書いて 個人の位牌はお焚き上げすることも知らない それならばお墓にお参りするしかないのも仕方ないことです
10 ご先祖が墓にいるとしたら浮かばれない地縛霊 悪くするとゾンビかキョンシーや牡丹燈籠の世界です そういえば お盆には地獄の釜の蓋が開くと言いますね みな地獄に落とされているのですか 殺生石なんかから来たのだろうか
あるいはキリスト教の原罪の観念に影響されてのことだろうか お盆が終われば地獄へ戻るというのは 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」最後の第3章で お釈迦様が何事もなかったように蓮池から立ち去るシーンに似ている
11 古代神道は教義がないとはいえ 葬祭に関する儀式は行っていました その伝統は仏教に影響を与え取り入れられ 日本型仏教(神仏混淆)となりました 神道式の葬儀というものが行われます よく知らないのですが教派神道ではないでしょうか これも神仏混淆の一種とみなしていいものです
12 私どもの墓所には400年以上前からの先祖の墓が数十基ありました みな高さ30センチから50センチ程度の大きさです 中にはどう見ても自然石のものがあります ひときわ巨大なのが日露戦争で戦死した人の墓でした 墓の上端はピラミッド状になっていて 高さもあるからまるでオベリスクみたいです ここにも明治政府による国家神道の影響が見られます
13 江戸などの大都市では 人別帳に載らない人がたくさん暮らしていました 身元引受人がいなければ長屋も借りられず 通行手形も発行されません(大家さんが保証人になることがよくありました 「大家といえば親も同然 店子といえば子も同然」はこのことを言います) これらの人が亡くなると俗にいう投げ込み寺で弔いました 人間だけでなく動物や物にまで供養塚があったりします これが日本人の精神なのです
14 宗教ビジネスで言うところの永代使用は 三三回忌までの墓の維持費を前納することです 永代供養と紛らわしいですね(たぶん誤解させるためにそのような言い方をしているのだと思います)
ですから永代使用料と称するものを支払っても 三三回忌がすぎると無縁仏となります 霊園で供養してくれるわけじゃないから使用料ですが 永代でも何でもない
このときに合同墓に移したり 改めて使用料を支払うことになります その際は骨壷一つあたりいくらで計算するために 骨壷のまま埋葬(というか棚に並べる)ようになったのかもしれない 土に還ってしまったら数えられないですから
15 追善供養とは 法要を営んだり 仏前に香華を手向けるなど 善行を積むことが 功徳になるという意味です また仏・菩薩・先祖に供養すること自体が善行でもあります
追善回向(廻向)とも言います 善行による功徳はご先祖だけでなく 一切衆生から廻り回って自分にまで向けられるのです 因果と縁起ですね 直接の御利益じゃない
16 お盆の行事は精霊棚を作り菩提寺の住職に棚教を上げていただく 昔の田舎はのんびりしたもので家を開け放っていました 住職は家人がいようがいまいが家に上がって棚経を唱えます
17 告別式は葬儀と違います 近親者で密葬した後 その他の関係者を呼んで行うお別れ会です この時は遺影を掲げて故人を偲びます いつごろからか知りませんが 葬儀屋が始めたことでしょう
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