瑞穂の国

世界のあちこちに数千年前の遺跡が残ります 日本は木の文明なので石造り等の建築物はありません しかし土器などは縄文時代から作られていて 精緻なものが発掘されます1)縄文土器といえば 火焔土器に代表される 大型土器をイメージするのが普通です 同時に実用的な小型土器も数多く発掘されます しかも それらは今日私たちが日常使っているものと 大きさも形もほとんど同一です 急須のような小物も使われていました 当時から茶を喫していたはずないので 何かを煎じるためでしょうか
日本独自の文化・文明はじつに1万年以上前から続くのです
ただ弥生時代を境に大きな変わり目があり 縄文文化は底流を流れるものとなりました 理由はおそらく米作(水稲米)の普及です 収量が多く安定した生産が可能なコメにより 食を初めとした生活に変化がもたらされたと思われます

日本が他文明と違うのは 縄文時代からの文化が今でも脈々と受け継がれていることです かつてあった文明の遺跡が残るわけじゃなくて 縄文の人たちは我等のご先祖様なのです
縄文時代の編布と同様の野良着は 昭和初期の農村でも使われていました 縄文早期すでに漆塗りや藍染めもあったのです

底流に沈んだとはいえ 縄文文化は途絶えていません 信州の諏訪大社はもともと狩猟の神を祀ったものらしく 鹿の首を生贄に供えていたそうです イヨマンテの祭りのような祭礼が行われていたのでしょう
多様な食生活の縄文文化は 豊かであった言えます 海・山・里から四季折々の恵みをいただく さらに下草を刈ったりと手入れを行い 芋・栗などの栽培もする マタギの伝統も伝わります 自然と共存する生活でした

コメは栄養豊富で1株あたりの収量が多く 乾燥するだけで貯蔵が可能と 大変優れた穀物です そのため日本の歴史に パラダイムシフトをもたらしました 集約作業が必要な水稲米が主食となり 農耕を中心とした社会構造に変わる
水利を確保し水田を作るのは 集団でやらざるを得ない大事業です コメの生産は田植えも稲刈りも短い期間の集約作業です そこには統べる者が現れます
稲作の神である太陽神信仰から 原初の神道が始まります そして日御子から天皇が祭祀を行うようになります 今でも天皇陛下が即位されるときは 祖先神に稲穂を供えるのが最も重要な儀式です2)古事記に見られる国生みの神話は ドロドロの所をかき混ぜて水と固地にします どうも水田づくりの土木工事のように思えます 素戔嗚尊の項で描かれる水田は平地に作られているようです この頃(大和朝廷)には灌漑工事も進んでいた ということになります
水稲米生産にもっとも大切なのが水と太陽です 太陽を制御することは不可能なので 祈るしかありません 水の制御はある程度可能です コメ栽培の発展は灌漑等 土木技術の発展に支えられました

水に恵まれ水捌けがあり 日当たりも良い土地に 水田が作られるようになります 水田は集団で農耕しますから やがて村が形成されていきます(村の最初の姿は 同族同士の集まり「結」「」だったでしょう)
天候の不順により水利権を巡って 村同士の争いが起きることがあります これを調停するのは太陽神の子孫である 朝廷ということになります 大宝律令で水田を国有としたのは 争いを収めるためでしょう3)のちの戦国時代は要するに 水田や水利をめぐる争いが発端です 守護大名等が調停していましたが 権威がないので豪族は言うことを聞かないのです 秀吉は関白に家康は征夷大将軍となって 戦国の争いが治まりました しかし信長はコメを基盤とせず 自らが権威となるつもりだったようです

コメは貴重で有用な作物でしたから 糧食だけでなく税や資産とされました 皆がより多くのコメを得ようとします そのためには水田を増やす必要があります 区分田は私有なので盛んに開墾が行われました
とはいえ水利に恵まれた土地は限られます 水利から始まり水田の奪い合いが生じます 村というか豪族荘園同士が武装し コメ(水田)を巡って争ったのです やがて武装農民である武家が中心勢力となっていきます

米作農民が勢力を拡大し 一定の版図を持つ豪族が各地を実効支配するようになり それが嵩じて戦国時代を迎えます4)戦国時代後期から 石垣を積み堀を巡らせた城が作られるようになります この石垣も水堀の水管理も すべて棚田を作る技術の転用です 棚田が適地に造りつくされると 川の中洲や平地やがて沼地へと拡大します この場合は灌漑作業が必須です 水田造りは装置産業であり土木作業なのです これらの技術がすべて城づくりに生かされています 戦国時代が終わり徳川の世になっても やはりコメだけが唯一の資産とされました 武家はどこまでいっても武装農民だったのです
コメにばかり頼る食生活では 日照りの水不足や寒冷気候で不作になると飢饉が訪れます 徳川の世が終わったのも 行政の予算(人件費)がコメを基準としていたのが原因です 鳥羽・伏見の戦いで不足した戦費のために 新田開発を進めようとしたくらいですから

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1. 縄文土器といえば 火焔土器に代表される 大型土器をイメージするのが普通です 同時に実用的な小型土器も数多く発掘されます しかも それらは今日私たちが日常使っているものと 大きさも形もほとんど同一です 急須のような小物も使われていました 当時から茶を喫していたはずないので 何かを煎じるためでしょうか
2. 古事記に見られる国生みの神話は ドロドロの所をかき混ぜて水と固地にします どうも水田づくりの土木工事のように思えます 素戔嗚尊の項で描かれる水田は平地に作られているようです この頃(大和朝廷)には灌漑工事も進んでいた ということになります
水稲米生産にもっとも大切なのが水と太陽です 太陽を制御することは不可能なので 祈るしかありません 水の制御はある程度可能です コメ栽培の発展は灌漑等 土木技術の発展に支えられました
3. のちの戦国時代は要するに 水田や水利をめぐる争いが発端です 守護大名等が調停していましたが 権威がないので豪族は言うことを聞かないのです 秀吉は関白に家康は征夷大将軍となって 戦国の争いが治まりました しかし信長はコメを基盤とせず 自らが権威となるつもりだったようです
4. 戦国時代後期から 石垣を積み堀を巡らせた城が作られるようになります この石垣も水堀の水管理も すべて棚田を作る技術の転用です 棚田が適地に造りつくされると 川の中洲や平地やがて沼地へと拡大します この場合は灌漑作業が必須です 水田造りは装置産業であり土木作業なのです これらの技術がすべて城づくりに生かされています