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カテゴリー: マーケティング戦略論

100円ショップ

100円ショップ(百均)はマーケティングの4Pのうち プライスに特化したものでしょうか 決して安売りではないし お買い得というのでもない 安かろう悪かろうと言ってはいけないのですが 100円の価値しかないものを売っています

プライス

100均商品は価格に見合った品質なのです 中には割高なものもあります 多彩な品揃えで客を呼び トータルで利益を出しているのです 双方一両損みたいな感じですか
以前はバッタ品を売る店がありました ディスカウントストアです これは訳ありというか曰く付きの品物で 中には贓物(盗品)が混じっていたりなんて噂も[01]バッタ屋がなくなったいま 取り込み詐欺なんかの贓品故買は メルカリでも使っているのだろうか あるいはドン・キホーテに名を変えた 丹念に探すと掘り出し物が見つかることがありました 100円ショップに意外な品物はありますが 掘り出し物はそもそも仕入れていない

プロダクト

江戸時代に十九文見世というのがあったそうです これも小間物や雑貨を多種類揃え 均一価格で売る形態です 仕入れがポイントになります プライスよりもむしろプロダクトですね 現在の百均でも商品開発が いちばん大事なんじゃないでしょうか
商品構成が似ている小間物屋・荒物屋は当然ありましたが それとは違い均一価格で売れる物だけを扱っていたのです 店を構えるものは少なく 多くは露店や振売りでした 江戸土産の駄物として人気があったようです

プレイス

小間物には豪華希少な高級品もあります 江戸時代は武家や商家の婦人が昼日中外出することはあまりなく 高価な品物を扱う大店は 得意先へ訪問して販売することが多かったようです 外商ですね 呉服屋もそうです 反物見本を持って訪問販売します[02] … Continue reading
江戸の頃は庶民は古着が普通です なので古着屋が多かった お江戸では神田柳原土手などが有名でした 商いといっても 筵の上に商品を並べたり竹竿に引っ掛けた露店です 当然のことながら盗品も混じっていました 当時金目の物といえば衣類や布団だったのです[03]柳原の土手から夕刻 古着屋が去ると替わりに現れるのが夜鷹です これも夜に出没します … Continue reading

プロモーション

日本のコンビニエンスストアは独自に発展しました オニギリなどが売れ筋商品なのは 四文銭一枚で買える惣菜・菓子・軽食を売っていた 江戸時代の四文屋に近い形態です とにかく目新しい商品を並べて購買意欲を掻き立てます
主に加工食品ですが新商品の開発を迫られるメーカーは 多種類の在庫を抱えることになります コンビニで売れ残るのは他のチャネルでも売れません 賞味期限がありますから ディスカウントストアへ投げ売りして捌かねばならない

こうやってみると しみったれた商法ばかりという感じがします 日本の経済と流通は萎縮しています 誤魔化すことばかり考えている 物作りではなく流通業者が主体で 見せ掛けの売れ筋商品ばかりです[04] … Continue reading

註釈

註釈
01 バッタ屋がなくなったいま 取り込み詐欺なんかの贓品故買は メルカリでも使っているのだろうか あるいはドン・キホーテに名を変えた
02 越後屋の店売りは画期的でした 後発だったため 他の店がマーケットを押さえていて 入り込めなかったのです 大名屋敷・旗本屋敷は出入りの商人が決まっていました
03 柳原の土手から夕刻 古着屋が去ると替わりに現れるのが夜鷹です これも夜に出没します  盗賊の中には盗んだ着物をそのまま古着屋で売る者もいたでしょう
04 業務スーパーなるフランチャイザー兼自社製造の いかにも怪しい愚劣な商品があります 低品質や安売りどころか 安く売るための食品を自ら作る そんな商法まで現れたのです
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無嗜みで焼物の価値が理解できない

中国や朝鮮の陶磁器はたしかに優品です しかし吾が国のものに比べ 技巧に走り生命を感じさせません 時の権力者の命に従って 欠点のないものを作ることに腐心している 造り手のゆとりがない精緻な細工物です 朝鮮の両班たちは陶工の作った最上のものは納めず 次善作を中国の皇帝に献上したといいます 同じものを作れと言われた時のためです 歴史からくる強かな生き方です[01] … Continue reading

なにかの雑誌で骨董とは茶道具のことと書いてありました たしか武者小路千家の方だったと思います 茶は剣・禅とともに武家の嗜みでありました[02] … Continue reading 江戸時代まで名物といわれる茶器は 諸大名が所有するものでした
明治維新で版籍奉還があり大名の台所事情が怪しくなります そこで手元にあった茶道具などを売りに出します 秘蔵品が俄かづくりの華族や政商・成金の手に渡りました
さらに昭和大戦敗戦の後 GHQによって華族が廃止され財閥が解体されたことにより 骨董品が一般に出回り市場が形成されたのだそうです 書画骨董といいますように美術品と骨董は異なります 古物愛好の骨董は趣味であって文化芸術とはいえない

古い工芸品を骨董と言ったのは明治になってからのようです しかし武家の嗜みから離れた骨董は 茶の湯からも遠ざかり 単に希少な器物 年代物の古道具(アンティーク)と同列に扱われます
TV番組で中島誠之助氏が海揚がりの器に数十万円の値をつけていました その上でもしこれに箱書きがあったら数百万円になるだろうというのです 難破船から引き揚げた輸出品ですから 同じものが幾つかあります
値の差は箱書き(箱代?)なのです 器物そのものの価値じゃない 名高い名物は袋の上に袋を重ね 箱をさらに大きな箱に入れています それぞれに由来があるそうで 付加価値が積み重なっていくのです

利休の数寄執心は 殊更で素直さがないものです 心得のない者の目には捻くれているとしか見えません ことに楽焼などは作為が嫌味です さらに下って柳宗悦の民藝など 高みから教え諭すかのような態度は不快です[03] … Continue reading 青山二郎の系統に至っては半可通の集まりでないですか[04] … Continue reading 北大路魯山人の趣向は品下った衒いしか感じられない[05] … Continue reading 陶器の世界は無粋な私など さっぱり分からないことだらけです

註釈

註釈
01 中国では油滴天目が尊ばれ 日本においては窯変天目が喜ばれます 窯変は文字通り人の手になるものではありません たぶん油滴の出来損ないなのです 日本人が価値を見出した失敗作を 高値で売りつけた?
小林東五翁が窯変の一種カイラギ生成の理を発見しました 李朝高麗陶磁を作る際高台の削りと仕上げを急いだことにより偶然できたようです 陶工たちは同じ規格のものを大量に作ることを要求されていました その中の優品を中国に納めていたのです 井戸の辺りに放置されていた不良品?に 千利休が美を見出し価値が生まれました
02 茶室の始まりは慈照寺(銀閣寺)東求堂内にある〈同仁斎〉といわれます 足利義政が村田珠光に習って作ったものです 鎌倉以来の武家は武具以外の文化を持つことができなかった 侘だの寂だのという言葉は見栄なのかも知れません 太閤秀吉が開いた北野大茶湯の顛末は興味深い 秀吉は武家ではなかったのです
禅はインド出身の達磨大師が中国で広めました 老荘思想と仏教が一緒になったもので 個人の内面を重視します 実力主義の武家に好まれました
徳川の世になると公的秩序である儒教(朱子学)が取り入れられます 桃山文化は統率を嫌う大阪庶民の間に残されることになります
03 柳宗悦の民藝運動は 李朝工芸品の雑器を持ち上げたところから始まります 利休の真似をしたのかどうかは分かりません やがてバーナード・リーチと知り合い 日本国内の雑器をイギリス人も認めたと褒めることで 好事家が高値で求めるようになります 骨董とは違う市場が形成されたのです
04 私は貧乏人ゆえ茶には縁がなく 骨董のことは知りません だから良さが全くわからない しかし小林秀雄の文を読めば もっともらしく書いていても修辞に満ちた いい加減な内容です 他の者も推して知るべしであろうと思っています
禅問答もさっぱりわかりません 高校生の時に人に勧められ 鈴木大拙を読みましたが さして感銘を受けなかった ま「BUSHIDO The Soul of Japan」よりはマシですが 柳宗悦なんかと同類の様です 禅林の枯山水もいいと思いませんね 足立美術館の庭のほうがずっと素直です
05 「美味しんぼ」の海原雄山は北大路魯山人がモデルですね 魯山人はやはりセルフプロデュース力に優れています 雁屋哲氏の漫画の方も食に関して大変な影響力がありました しかし自らの見識で書いているのではなく あちこちの書籍などから拾ってきた 無責任な受け売りばかりです とくに日本酒への悪質なデマ拡散は目に余るものがあります
借り物の内容を検証もしないで 海原雄山に語らせる 魯山人は豊かで繊細な感受性の持ち主であって 傲慢さはその裏返しなのだと 愛弟子辻義一氏は言っておられたそうです 優れた味覚を持っていたにもかかわらず アサヒビールを愛飲していたとか 当時は大吟醸がなかったので仕方ないか
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旅行

伊勢講・富士講などはパッケージツアーで 旅行代理店の積立のような組織立ったものでした 宿泊施設も決まっていて 団体用の料理や土産なども用意されます
伊勢の片焼きと言われる 煮た切身魚の片面を熱したコテで焼いた料理 汁気のない伊勢うどん そして赤福などですか いずれも簡易なものです お伊勢さんにあやかり名物として売り出しました[01] … Continue reading

東海道中膝栗毛の上巻はお伊勢参りですが これは弥次さんが旅行費用を工面しています 講ではありません 自分で算段できなければ 私的な頼母子講もありました 皆でお金を持ち寄り籤引きで当たった人から順に旅行へ行きます
旅行費用には宿泊代・飲食代から土産 帰国してからの慰労会の経費まで含まれます 慰労会は賑やかな宴席で旅の報告会(土産話)です ハッパキ(脛巾)脱ぎとか砂ッ払いと称します 皆で出し合ったお金なので 講仲間への旅の土産と報告は必須です

江戸時代に至れば街道が整備され旅行も盛んでした その昔の遊行僧や武者修業のように 行き倒れ覚悟の命懸け旅じゃありません お蔭参り(抜け参り)のような無銭旅行まであったほどです といっても護摩の灰や枕探しはいたし 基本徒歩ですから楽なものではなかったでしょう
弥次喜多で駕篭から振り落とされるシーンがあったように思います 道中駕篭に座席らしいものはなく揺れるため 吊り革のような紐に掴まって乗ります それほど快適ではない 酒手を弾まないと余計揺らしたりしたかもしれない[02]駕篭や後代の人力車には乗り方があり 慣れた乗り手だと駕篭かきや人力車夫は楽だったようです 時代劇に出る早駕篭に乗る使者は 道中ずっと中腰なので 着いた時にはそれこそ息も絶えだえになります

馬も乗用に使われていました 乗馬術とまでいかなくても やはり乗り方はあり 武家は大刀を逆(刃を下向き)にしたといいます 鐺が馬の尻に当たらぬようにです 乗馬はあっても日本には乗用の馬車がありません 山勝ちで河川の多い地形から坂道になり 道路事情がよくなかったのが理由ですね 箱根八里は馬で越せますが 馬車では無理です[03] … Continue reading
その代わり水運が発達しました いちばん早くて快適 「喰いねぇ 喰いねぇ 寿司を喰いねぇ」森の石松は大阪八軒家浜で寿司を買って 三十石船に乗り込んでいます 押し寿司ですね 当時のことですから 日持ちがするよう酢と塩を効かせたものでしょう 「江戸っ子だってねえ」「神田の生まれよ」神田とくれば笹巻けぬきすしが この頃の味に近いかと思います 石松は遠州の生まれなので江戸の寿司は知らなかったか[04] … Continue reading

註釈

註釈
01 大福は中に餡を入れた餅です(江戸時代は甘くない餡の塩大福) 餅の上に餡を擦りつけ指痕が残る即席のあんころ餅を 赤福と名付けたのはネーミングの妙です
02 駕篭や後代の人力車には乗り方があり 慣れた乗り手だと駕篭かきや人力車夫は楽だったようです
03 大陸のヨーロッパではローマ時代から馬車が使われ 道路も整備されていました 多くの馬車が通ることで石畳の道には轍ができます 自然に車軸の幅も統一されるようになり 後世の鉄道馬車へと結びついたのではないでしょうか
04 清水次郎長は東海一の大親分です 若いころ賭場に出入りしたものの博徒ではありません 清水港の港湾荷役を取り仕切っていました 火野葦平作「花と龍」の玉井金五郎も 九州若松港の沖仲仕を束ねた人です ヤクザ者じゃありません
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