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タグ: ヨーロッパ

外交と情報

もと外務省職員のM・Sさんが何かの雑誌に ソ連駐在員時代 重要情報を独自に入手したと得々として書いてました トルキスタンかウズベキスタンかどこかの情報屋から買ったというのです それってガセネタに決まってるだろうと思いますけど
情報は人脈から入ります 金で買えるものではない(人脈づくりに金はかかりますが) モサドやバチカンの情報組織が 小規模ながら情報収集力に優れているのは 人脈によります

モサドには世界中のユダヤ人から情報が入ります ユダヤ人は政治・経済の要枢にいる人も多く 重要な情報に接することができます
バチカンもそうです カソリック国の司教・司祭は枢要な人物と常時接しています 重要な情報を打ち明けられることがあるでしょう

ヨーロッパ諸国だけでなく 中国は華僑インドは印僑というように それぞれ世界中にネットワークを張り巡らしています 日本はそのような人脈が全くありません
それどころか 外務省の役人が外交を独占していますから御身大事 あえて火中の栗を拾うようなリスクは犯しません 大使になったら各国要人とパーティーを開いて 大物気分を味わうといったところでしょう

日本は長い間鎖国していて 植民地にならなかった反面 世界の事情に疎く 権謀術数渦巻く外交舞台の経験がなかった
外交戦でロシア・中国や韓国にまで翻弄されているのは やむを得ないことと言えます 役人や政治家ばかりを責めることもできません
ドイツのゲーレン機関もあまり良い評価がされていません 敗戦国というハンデばかりでなく もともと生真面目でそういったことが苦手な国民性なのかもしれません

それに引き換えナポレオン3世なんかすごいですね フランス国内はもとより国際舞台で各国首脳を手玉に取った希代のペテン師です
そこまで行かなくても 第2次大戦前後の東南アジア指導者はしたたかです カンボジアのシアヌークの世渡りなんかは見事なもの これもフランス流なのだろうか
この二人に共通しているのは 皇帝や王族という立場を最大限利用していることです やはり外交・国際関係は人脈がものをいいます

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士農工商と武士道

士と農の関係

士農工商を江戸時代の身分制度と唱える者がいます 士農工商は朱子学にみられる言葉で 中国の価値観で仕事の貴賤を表します 職業に貴賤があるのです おそらく薩長明治政府が徳川の施政を否定するため 四民平等のスローガンに合わせる形で持ち出したことです 江戸時代に士農工商という言葉は使われたが 様々な生業という意味です
江戸時代に限らず 日本に身分制度・階級制度はなくむろん農奴もいません 官位はありましたが文字通り役人の地位に対する区分けで身分制ではない また明治維新後の華族・士族・平民とか爵位も ヨーロッパに合わせたに過ぎない

朱熹のいう士は 武士のことではなく士大夫です 士大夫とは科挙で合格した官人をいいます[01] … Continue reading 日本は科挙制を取り入れていませんから 士大夫も存在しません 武士は身分・階級ではないので 御家人株の売り買い(公式には認められていない)もありました
支配階級である武士が 農民から搾取していたなど 全くのこじつけなのです[02] … Continue reading そもそも侍って武装した農民ですから 戦国時代は要するに田圃の取り合いでした 武士の俸給が米であったのは このことを物語っています
 
豊臣秀吉が天下を統一し 敵対した側から武器と土地を取り上げました 太閤検地と刀狩りです その結果 帰農し農業専従になった者と もっぱら軍務に就く者が分かれました
しかしそれは階級とか身分ではないので 本百姓は苗字帯刀など相応の処遇を受けています 守護代が守護を凌駕する下克上は荘園の自立でした 中国・ロシアのような農奴制(支配・被支配の関係)ではなかった

班田収授法の頃より 米生産の担い手は小作農中心でありました 米が産業の基盤だったり俸給代わりに使われた理由は保存性にあります 戦国・江戸時代以前の租税には種々ありましたが 主なものは保存と流通が可能な産品でした 中で主要なのは繊維製品です軽くて単価が高い 米以外の食料品では塩蔵や乾物などですね[03]日本全体の経済流通の基盤としては すでに天武天皇の時代に富本銭が鋳造されています 米は糧食の基幹でしたが租税の中心ではありません

近世の経済というか物価の基準として 米を取り上げるのは適切でないでしょう 武士の俸給が米であっただけで 行政の予算に相当するが経済の中心とはいえない[04] … Continue reading
米は豊作・凶作で価格が変動しますし 米相場を操作することも行われました(大阪堂島と江戸札差の間の米価は手形決済でした 情報が価値を生む経済です) かなり投機的な商品だったと思います それが旗本・御家人の困窮にもつながりました
貨幣の代わりに米が流通したわけでなく米切手で換金します[05] … Continue reading あくまでも人件費を中心とした行政予算が米だったのです(現在でも行政予算の大半は人件費です)

士道に背くまじき事(新選組局中法度)

徳川の世になっても 多摩や武州の土豪(百姓)は武芸に励んでいました(坂口安吾の「馬庭念流のこと」が面白い 青空文庫に収載されています) 新選組の近藤勇は天然理心流[06] … Continue readingですね 彼らは武蔵七党などといって 徳川が江戸に移ったときから配下となっています
中で西党は西国からの軍勢を撃退する いわば国境警備隊の役割を担っていました 新選組解散後に甲陽鎮撫隊を編成したのも 伝えられていた家康の遺訓に沿ったことでしょう

徳川時代に鎖国をしていたといっても 主に植民地化の先兵であるキリシタンバテレン対策ですから 文物の交流はなかなか盛んでした 窓口となっていたのが長崎出島です その影響もあって西国大名は 早くから商業を振興し米中心から脱却していました
この先駆けは何といっても織田信長です 重商主義を取り入れ海外にも目を向けていました 米作中心の武装農民である他の戦国大名と違います[07] … Continue reading

明治維新で徳川から政権が移ったのは 最後まで旧態依然の制度を墨守していたからです 御家人に勝海舟など優れた人物はいましたが 老中は兵糧米の心配をしたり 新選組・彰義隊は 火縄銃や白刃で薩長に立ち向かうという具合です 旗本でない新選組の拠り所は士道でありました[08] … Continue reading

江戸時代は 朱子学に基づいた「忠義」が武士の心得とされていました 士大夫が武士にすり替わり 武士道ということが言われたのかもしれません もっとも実際に官僚化していましたから 士大夫=武士といっても差し支えなかった

士道・武士道

武士の中にも郷士や下士 また旗本・御家人などの違いがありました(この違いは最初からの家臣と 戦に負けて帰服した者の区分けです) これを階級と言えなくもないのですが 御家人や郷士の方が収入が多く裕福だった例はいくらでもあります[09] … Continue reading

なお武士道という言葉は キリスト教徒であった新渡戸稲造がアメリカで書いた「BUSHIDO The Soul of Japan」が逆輸入されたものです 西洋のキリスト教に基づく道徳教育に相当するものとして 「武士道」が日本の徳育に取り入れられていると主張する いわば文明開化の産物です[10] … Continue reading
この本は新選組・彰義隊・白虎隊が殉じた士道と大きく異なります 西洋列強に伍する文明があるといって いちいち西洋の事例になぞらえて言い訳している(フリードリヒ2世と上杉鷹山を並び称したり) 日本の伝統とはかけ離れた内容です

明治維新後も日本が植民地にならなかったのに 士道の精神が大きかったのは事実だと思います 士道はキリスト教とは違う価値観と高潔・高邁を表す言葉といっていいでしょう 武家が無くなった今でも日本には 名をこそ惜しけれ士道が生きています

註釈

註釈
01 中国においても他国と同様 農・工・商は必要に応じて自然と生まれた職業です しかし士大夫は官僚制度が生み出した人工のものです もともと必要とされたものじゃない 官僚が現れて職業に貴賎があるとされたのです 順番としては上から 卿・大夫・士となります
02 明治になって確かに武士はいなくなりましたが 維新の元勲と称する者たちが権益を独占し 官僚が優先される役人天国となりました 自らが支配階級になるのでなく 主権を天皇陛下に預けてしまいましたから 臣下である自分たちは責任を取る必要がありません この構図は今に引き継がれています
03 日本全体の経済流通の基盤としては すでに天武天皇の時代に富本銭が鋳造されています 米は糧食の基幹でしたが租税の中心ではありません
04 江戸時代はすでに貨幣経済だったのに 米を年貢として行政の予算としたため 不作の年は予算不足になるだけでなく 餓死者が出るほどの飢饉になりました 大変不安定な経済基盤であったのです 武士(土豪)は荘園の独立が起源で 後の時代も各藩は米を中心とした自立経済圏です
05 各藩の行政予算も米中心でした 年貢として納められた米は兵糧米として備蓄する分を除いて換金します 換金するには大阪や江戸へ運ばなくてはなりません その回送費用も莫大なものになります 藩の財政基盤を強化するためには米だけに頼らず 藩内の産業を育成し自立経済を目指す必要がありました
06 天然理心流は全くの実戦剣法で ポンポン撃ち合って勝ったことにする負けたことにするという 江戸時代後期に流行った北辰一刀流とは別物です 北辰一刀流免許の坂本龍馬が6連発を持っていたのは 小器用な道場剣法は実戦の役に立たなかったからです
現在の剣道は全くのスポーツで士道の精神とは関係ありません 北辰一刀流が元になっています 江戸時代にすでに形式化していましたから ちょうどよかったのですね
07 上杉謙信公が関東に出陣するのは 常に冬の始まり農閑期です 関東を平定し春前には越後に戻ります 一種の出稼ぎといっていい(もっとも当時は米作が中心ではなく 主に麻の織物が産品でした 小千谷縮が女手で作られ 冬に糸を績み雪に晒すのはその名残です)
織田信長の軍勢は野伏や他国からの帰服者で編成された 鉄砲が主装備の足軽中心の常備軍です 報酬は扶持米ではなく金銭です その原資は堺などから得る課徴金でした
08 新選組はもともと仕官していない集団です 主君のためにでなく会津公の命で戦いました 会津公は孝明天皇の要請により京都守護職を承っていましたから 孝明天皇の意のもと刀を抜いたのです これこそが士道であります
09 「武士は食わねど高楊枝」の出典はわかりませんが 決まり事にしばられ体裁を整えなければならない 貧乏旗本の悲哀を表しているように思えます
時代劇や落語で 腰のものを金に替えてしまい竹光を帯びて 上司に挨拶に赴くなんて場面があります 御目見以上の上級旗本はそんなことないでしょうが
士農工商が身分制度であったら 食うに食えない武士など存在しませんから やせ我慢も見栄を張ることもありません
10 新渡戸稲造自身がキリスト教徒ですから 仏教や神道といった邪宗を持ち出すわけにいきません そこで思いついたのが武士道です(中世ヨーロッパの騎士道に倣ったのでしょう) これなら宗教と関係のない道徳規範です
いってみれば武士道なんて架空のもの 当たり障りがなく好都合な言い訳です 実際の道徳規範は武家が儒教であり 庶民は道祖神と習合した地蔵信仰でしょうか 仏教も儒教も宗教でなく学問として取り入れられ 後に道徳となりました
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ハリマオ

大東亜戦争前の東南アジア諸国およびインドは ヨーロッパの植民地でした 経済は華僑が牛耳り(日本の江戸時代も長崎出島の交易は華僑が介在し 両方から利益をせしめていました) 行政はイギリス・オランダ支配下のインド人が担っていました 宗主国は直接手を下さない 二重支配・間接支配の構造です

インド独立を目指す志士たちが日本を頼って亡命すると イギリスやオランダと結託して利益を得ていた華僑は 東南アジア在住の日本人を頻繁に襲撃するようになりました
これに対して立ち上がったのが「マレーの虎・ハリマオ」です 植民地支配からの独立運動を進める 現地の志士たちと共に 英・蘭・華僑を翻弄しました

ハリマオこと谷豊は 2歳の時に理髪業を営む父母と共にマレーに移住 成人した頃にはムスリムとなっていました
徴兵検査を受けるため日本に帰国していた時 マレーの谷家が華僑に襲われ 小学生だった妹が惨殺されました
そのため谷一家は日本に帰りましたが 豊は入れ替わるように単身マレーに戻り 華僑の横暴を誅罰する活動を始めたのです

インド独立と日本

大東亜戦争開戦後 谷豊はインド独立運動を援助していたF機関に協力して 英印軍が中心の連合軍を攪乱する任務に就き ハリマオとして名を馳せました
東南アジアで日本軍が英軍に大勝したと喧伝されていましたが イギリス側部隊の半数以上は 植民地であるインドから狩り集めた兵で構成された 英印軍でした

当然イギリスに対する忠誠心は薄く 日本軍に投降する将兵が後を絶たないという情勢でした 艦長以下ほぼ全員がインド人のイギリス巡洋艦が 本国に対して反乱を起こしたりもしました
投降したこれらの兵たちがチャンドラ・ボースのもとに参集し 日本から供与された武器を執ってインド国民軍を編成 イギリスの植民地支配から独立する道筋を作るに至りました

日本は亡命していたチャンドラ・ボース ビハーリー・ボース両雄をイギリス官憲から擁護 資金と武器を提供して インド独立に力を尽くしたのです
極東軍事裁判でインドのパール判事が ただ一人敢然と日本の正当を主張したのは このような経緯があったからです インドは信義を貫きました


日本が戦に負けると歴史は改竄されました 文字通りの墨塗り教科書です インド独立はカンジーの断食に手を焼いてイギリスが引き上げたことになり ハリマオはただの盗賊団の首領とされたのです そのほかにも東南アジア諸国の独立に尽力した日本人が 数多くいましたが顧みられることはありません
映画「戦場にかける橋」で描かれたのはもちろんフィクション[01] … Continue readingですが イギリス人捕虜が下士官と将校なのは事実に即しているかもしれません (実際は将官クラスのインド人も多数いました 捕虜ではなく〈インド国民軍〉に参加しています)

今に続く植民地支配の影

チャンドラ・ボースはインド独立の立役者でありながら カンジーやネルーといった一派から排斥され非業の死を遂げています ビハーリー・ボースはインドに戻ることなく 日本でインド料理人として生涯を終えました
インドはイギリスから独立したものの カースト制が改められることはありませんでした[02] … Continue reading 植民地二重支配は被支配地の身分制に依拠したものです 身分制度から脱するのは容易ではありません

隣国ビルマでは 南機関から資金と武器を援助されながら イギリスに寝返ったアウンサン将軍[03] … Continue readingと 越後・石打に匿われていたバーモウ首相[04] … Continue readingの角逐がありました 今日の停滞を招く遠因です 独立を果たしたといえ イギリスの影響下から免れることはできていません
[05] … Continue reading

負ければ賊軍といいます 京の安寧秩序を守った守護職会津藩は逆賊とされ 会津侯お預かりの新選組も 明治以降は無頼の徒扱いでお尋ね者でした[06] … Continue reading
子母澤寛氏の著作等により 新選組の名誉が回復されたのは 明治維新から約60年後のことです 大東亜戦争から70年が過ぎます アジアの混迷は深まるばかりです

それにしても東南アジアはまだ良い方といえます アフリカなどでどれだけ非道なことが行われたのでしょう 日本人の我々では せいぜいアルチュール・ランボーの書簡で窺い知るくらいしかありません
パナマ文書にも華僑らしき名前が散見されます 植民地から収奪された膨大な隠し資産の実態が明らかになるでしょうか 期待できない気がします それこそ歴史認識が改められることに繋がりますから

註釈

註釈
01 これは宣伝映画ですね 登場する日本の軍人は まるで実写版ポンチ絵のように カリカチュアライズされています 意図した演出です 映像の影響力を軽く見てはいけません このようなイメージが意識下に刷り込まれ 南京大虐殺や慰安婦問題また徴用工といった 事実無根の亡霊が実体化して独り歩きし始めます
02 ガンジー・ネルーにカースト制を疑問視する意識など微塵もありません いってみれば当然のことで ヴァルナやカーストは宗教(バラモン教)の教義に基づく制度です カースト制はヒンズー教にも受け継がれました これを否定することは棄教にも等しいのです インドがイギリスから独立した後パキスタンが分離したのも宗教上の争いによります
03 アウンサン将軍はMI6のエージェントだったのでしょう 日本の南機関に近づき武器弾薬と軍資金を手に入れると すぐにイギリスに寝返っています 娘のスーチーはイギリスで育ち イギリス人と結婚しました 本人もおそらくイギリス国籍です
04 ビハーリー・ボースが頭山満に匿われ 新宿中村屋に身を寄せたのは広く知られています チャンドラ・ボースは参謀本部が保護し バーモウを新潟県石打に匿ったのは陸軍中野学校でした
05 アウンサン・スーチーを担ぎ出し 悲劇のヒロインに仕立てたのも イギリス・アメリカによる宣伝工作です アウンサン・スーチーは軟禁されたといっても 広大な敷地の邸宅に住み 湖を介してアメリカ大使館と隣接しています イギリス・アメリカの援助で何不自由ない生活を送っていました(後に大統領を超えた地位について君臨するところは 植民地二重支配を思わせます 植民地政策の亡霊のような姿です)
06 漫画や小説で 鞍馬天狗が子供たちの人気だった頃 新選組は完全に悪役でした 新選組が不逞浪士(勤皇の志士?)を追捕しようとすると 鞍馬天狗が現れ6連発を放ちます 新選組が身をかがめた隙に浪士が逃げる 天狗は「近藤君また会おう」の捨て台詞を残して 白馬に打ち跨り去っていく 着流しで馬に乗っていたのか?
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