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タグ: ヨーロッパ

海洋民族の環日本海文明

Youtubeで誰かが 2万年前は日本列島と半島・大陸は地続きだったから 縄文人は徒歩でやってきたと話していました この人は石器時代からカヌーが使われたことを知らないのです 縄文時代に陸路があったとでも思っているのか[01] … Continue reading
人々の移動は主に食糧を求めて 生活圏が広がったり移行することから起きます 遊牧民でも一定の地域から出る事はありません 4世紀フン族の大移動も遠征ではなく版図の拡大です[02] … Continue reading 縄文時代に最果ての地を目指し 陸路長途の旅をしたとは考えられない[03] … Continue reading

日本海が中心だった

当時は最終氷河期の終わりですから 海面が低下し樺太と大陸・北海道が地続き あるいは常時結氷していたかもしれません しかし極寒の氷の上を徒歩で移動するのは 雪原を歩いてみればどれだけ困難か分かります
対馬海峡は塞がっていなかったでしょう 巨大な内海と化した日本海を介して 交易が行われていたと考えるのが自然です 内陸には川を遡って行けます わざわざ道なき陸を大荷物担いで歩く必要はない
文明とは経済活動です 経済活動の基本は交易・物流です 人も荷も流通は水運が担っていました これは鉄道が敷設される近年まで続いていたことです[04] … Continue reading

人々は何かの都合や目的を持って大挙 短期間に大陸から日本に押し寄せたのではない 旧石器時代以前から時間をかけ 海や川伝いに漁場や狩場を探し 適地に定着して農耕も始め 集落を築いたのです 石器時代はすでに あちこちの集落同士で交易がありました
縄文早期に重なる新石器時代には カヌーの原型である丸木舟が登場しています 皮張りカヤックや葦船のような筏は それ以前からあったはずです カヌーは双胴にしたりアウトリガーを取り付ければ 外洋航海も可能な船です 何らかの帆も使っていたことでしょう[05] … Continue reading

北前船は江戸時代になって突然現れたわけじゃありません 日本海側沿岸伝いに樺太から北陸に至る航路は 石器時代・縄文時代からあったのです 朝鮮半島東岸から渤海まで回航していたでしょう 縄文時代すでに木樵や船大工の専従者がいたかもしれません
そうしてみれば縄文時代から環日本海文明があったと 仮定してもおかしくないことです むろん中国の文献には書かれていません 有史以前のことですし 中国にとって辺境の地にさしたる関心はない
伝聞を記載し しかも殊更に卑しめた文字を当てはめる中国の文献より 発掘した資料やご先祖からの言い伝えを拠り所にした 想像力と常識の方が大切です

日本海以外は

オホーツク海を中心とした カムチャッカ半島・千島列島・蝦夷地と関連はありそうです ここの人達は太平洋側沿岸を行き来していたのではないでしょうか[06] … Continue reading オホーツク経済圏と言っていいかもしれない この経済圏の経済を担っていただろう北方系の人は 丸木舟を竜骨代わりにし側面に板を張り付けた イタオマプチ舟を操っていました[07] … Continue reading
九州から朝鮮半島西岸 黄海・東シナ海で交易はどうなんでしょう 台湾・琉球諸島をもって環〇〇文明圏とは言い難い 後代にいわゆる倭寇が活動するくらいなものです

戦国時代アユタヤに侵攻しようとしたスペイン船を撃退したのは 倭寇と呼ばれた人達でした なにか大東亜戦争を彷彿させます 渤海も後年の満州と地域が重なりますし 歴史は繰り返されるということかもしれません
そういえばヨーロッパでも古代 ゲルマン民族はギリシャ・ローマから蛮族扱いでした バイキングは倭寇のようなものだったのでしょう

このように日本人は海洋民族でしたが 中国人(漢民族)にとって海の向こうは異界です シルクロードが象徴するように西域との交易が主でした 自由に海上貿易を行なっていた人たちを倭寇と呼びました
今のように中国が海洋進出するまで もともと制海権は日本が握っていました 台湾はもとより海南島も漢民族の住むところではなく 流刑地で蘇東坡が島流しになったりしています 蒋介石が台湾に逃れたときでさえ 毛沢東は追撃できなかったくらいです

遠い弥生時代に海路でも陸路でも 大陸から籾を持って日本を目指す理由もありません 稲の原産地は南方ですから 北上し日本に来たのは確かといっていい 水田の適地に耕作地が広がったのです[08] … Continue reading だから伝播という言い方がふさわしい 米は交易品だったのではないか 米作りの拡散も海上交易の結果でしょう
流通・交易を通じて情報が伝わるのです 陸稲の熱帯ジャポニカ水稲の温帯ジャポニカ ともに島伝いに伝わったと思われます 八重山から沖縄に至るまでに 熱帯ジャポニカの遺伝子を持つ温帯ジャポニカ在来種が認められます 農業とくに水稲米は田作り・治水です 一所懸命・土着のものなのです[09] … Continue reading  どこかから渡来するもんじゃない

2022年2月20日追記=中近東アブダビの島で8500年前の住居跡が発見されました 以前にも同地域の島で同じような遺跡が発見されています 住んでいたのがどのような民族かわかりません 遊牧民ではないですね 漁業が主だったのでしょう 集落同士の交易があったかどうか カヤックかカヌーか船を使っていたのは確かなことです)

註釈

註釈
01 旧石器以前の人たちは徒歩で日本にやってきたかもしれません それは狩場を求めての移動であって何千年の時間をかけてのことです どこかから大挙して日本を目指したわけじゃない
02 匈奴・フン族・元など騎馬民族による広大な領土拡張は 武力を背景にした収奪支配・植民地です 遊牧民が交易を担っていた あるいは交易をしていた商人を保護する代わりに 通関税を取り立てるという支配形態です
騎馬民族が交易を独占した理由は説明するまでもありません 陸上の交通手段である馬を制していたからです 冒険商人が海上交易を独占し やがて港を基点に植民地を拡大したのと同じことです 港にあたる中継地は各地の都市です 都市を武力で制圧して 海上交易と同じように陸上交通を支配したのです 自ら定着して農耕や生産をしたわけじゃない
長征には補給路の確保が伴います 武器と人馬の糧食ですね とくに飼葉が重要です 嵩張るので持っていくのが困難 時間をかけて兵站を築いていかなければ とうてい遠征なんて不可能です セルバンテスの小説ドン・キホーテでイン(日本でいえば木賃宿)に泊まるシーンがあります 馬のために飼葉を用意していて ついでに人も泊まれる(ベッドの用意はない)施設のことです
03 グレートジャーニーのイメージに囚われているのではないでしょうか 人類がたった一人の女性から始まったなんて アダムとイブのお話から一歩も出ていない アフリカから一方通行で人類の居住地が世界に広まるというのは考えにくい 有史以前に南海の島々が陸続きだったのだろうか たとえばマダガスカル島に最初定住した人たちは アフリカ系ではなくボルネオ島に住む人たちでした 同じように中国大陸から半島を通って一方的に 人々や文明が日本列島に来るなんて不自然です
地球の気候は寒暖を繰り返していましたから その時々の食糧事情で南に向かったり北に向かったのではないか 船が使われるようになって 移動距離は飛躍的に延び移動時間は短くなり ペイロードは増えました そして交易(文明)が始まります 道路が整備されたのは遥か後代 車輪が使われるようになってからです
04 むろん石器時代・縄文早期に国はなく 日本列島や半島・大陸なんて意識しません 日本海を中心にして沿岸に点在する 集落同士の交易だったのです 朝鮮半島から九州に渡った人たちはいたでしょう その人たちは今の朝鮮人とは全く違う民族です 半島東南岸に縄文の人々が定着していた可能性もあります 後代の任那府の始まりです
05 おそらく祭祀の宝飾品に使われた糸魚川の翡翠が 全国に流通していたことが知られています 生活実用品の材料であった諏訪の黒曜石は 5千年以上前には大規模な採掘が行われていました 土器などと同様に専従者がいたのではないか
06 日本海側では昔から塩ブリ・塩鮭・ヘシコが保存食でした 太平洋岸には潮カツオがありました 西伊豆に残ります この食文化が鰹節(お江戸では小型の焼津節が重用されました)やクサヤとして続いているのです 江戸っ子が鰹を珍重するのは(5月のカツオは脂が少なく加工に向きます) 縄文時代からの伝統といえます
和漢三才図会に 堅魚の肉片や小骨を敲き混ぜて塩辛にしたものを 俗にタタキという記述があります 紀州熊野・勢州桑名・遠州荒井・相州小田原の名物とあります 鰹節の産地と重なっているので 副産物でありましょう
07 確証はないものの東北から関東に至る太平洋側沿岸には 北方の系統と思われる地名がたくさんあります 坂上田村麻呂と戦った阿弖流為は 明らかに北方系の名前です 奥州安倍氏に至ればかなり同化してきたと見られます 現在のアイヌの人たちも元を辿ればツングース系であり 古代北方系統の人と同系です
08 中国大陸は南が米作地帯で北が麦作地帯と明瞭に分かれています 気候風土によるものです 中国東北部から朝鮮半島内陸部で農業・漁業は行われず 採集・狩猟・遊牧が主だったでしょう 米作りが朝鮮半島を迂回する必然性はありません
09 中国の文献にばかり頼る(有り難がる)から 大陸・半島から日本列島に進んだ技術・文明が齎された なんて思い込みが生まれるのです 日本人は石器時代から船で自由に行き来していました
「3万年前の航海(国立科学博物館)」では 台湾から与那国島まで丸木舟を使って2日の航海で到達しています 例によって毎日新聞・朝日新聞あたりが 取るに足らない難癖をつけて 2日間で渡ったという事実を無視しようとしています 情報操作の一つですね
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からごころ やまとごころ

中国人は何事も秩序立て 整然と体系化する傾向があるように思います しかも数字合わせをします 陰陽五行論や儒学の三綱五常なんかそうでしょう この考え方は日本にも影響しています 三大〇〇とかはそれなんじゃないか[01] … Continue reading
整理するのはいいんですが 観念的な理論が先行するようになり 教条主義に陥ってしまいます これが本居宣長の言う「漢意(からごころ)」でないですか 誰か偉い人が決めたことを絶対視し 一つの価値観に拘泥 他の考え方を排除するのです[02] … Continue reading

官の漢意

とくに徳川綱吉の代に武家の心得として朱子学が採用されました 家父長制・長幼の序・男女差別が典型的な儒学の理屈です いずれも旗本・家中を支配・管理するのに都合がいい この倫理観に対して疑問を挟んではいけません 天性つまり天から与えられた性質であって 生まれつきのものだからです
徳川時代では原則的に 武家の倫理規範としての朱子学です 町人にまで強要していません 江戸でハリボテの人形を胸に抱いて 老人を背負うような格好をし「親孝行でござい」の呼び声で 街を流す商売がありました ふざけた話ですが収入になったそうです[03] … Continue reading

儒学の教えによる孝子顕彰の制は広く行われていました 綱吉の代には盛んに褒美を下すようになりました そんな官製の忠孝礼賛に対して反感を抱く庶民がいたのです 健全な感覚だと思います
親孝行自体は悪いことではない でも誰も否定できない正義を振りかざす 取って付けた態とらしさに違和感を覚える 親孝行屋に銭を恵むのは江戸庶民の洒落心ですね そこに目を付けたのも 公然と批判できない屈折した心理です

徳川の施政を非難して 薩長を中心とした勢力が暴力革命で政権を握りました 明治維新です 徳川時代を否定し新時代を演出するため 明治政府は王政復古を掲げました しかしそれは標語や形だけ 大和心ではありません
教育勅語を見れば 内容は儒学そのものです たとえば根幹をなす「忠」も「考」も和語(訓読み)がありません[04] … Continue reading 実際に書いたのは誰か知りませんが 御名御璽のある勅語ですから 明治天皇も内容を了承しているわけです 徳川の朱子学は かくまで武家(維新の元勲とやらはほとんど下士ですが)を洗脳していたのです

江戸時代は征夷大将軍が武家の頂点として統治していました いわば軍政です 武家は軍隊なので上意下達の組織 もっとも重視される心掛けは忠義・報恩です 儒学の規範が実に制度にふさわしい ただし武家以外の人たちには関係のない話でした 農家と武家[05] … Continue reading以外は御家大事なんて感覚はなく 己の才覚で自立していました
徳川が朱子学を取り入れたのは 旧来の制度を否定するためで 舶来崇拝の文明開化だったといえます それまでの日本は家父長制ではなく母系社会です さらに明治時代になると 天皇陛下を父として国民は赤子であると 家父長制を拡大解釈するようになります
明治の教育制度に四書五経は含まれませんが「忠ならんと欲すれば孝ならず 孝ならんと欲すれば忠ならず」なんてエピソードは書いてあります 四民平等の掛け声とは裏腹に 徳川時代より極端な儒教国家になってしまったのです[06] … Continue reading

儒学に基づく政治は専制君主です 為政者に都合のいい理屈の儒学も そのことは自覚していて 支配する者に高い徳を求めます しかし現実はそんなにうまくいかない 中国の皇帝は ほとんどが暴君だったり 人心掌握術に巧みな人物です
明治維新のきっかけになったのは 本居宣長の国学の影響が大きかったと思います でもかなりラディカルな思想ですから そのまま明治政府の施政に持ってくることはできません やはり朱子学は統治するのに都合がいいのです
しかしながら明治政府はこれを 為政者や官僚でなく国民に強要しました 武家だけであった軍事の担い手を国民全員に拡大したのです(長州の奇兵隊が原型かもしれません) 日本の徴兵制・国民皆兵は儒学によって裏付けられていました 漢意極まれり[07] … Continue reading

民の大和心

大化の改新時には神道が国民精神の根幹にあり 仏教と隋・唐に倣った政治制度が補完する形でした 神道・仏教・儒学はそれぞれに並立していました 明治維新の時は西洋の政治経済制度を取り入れ 王政復古の建前からでしょうか仏教を否定しました しかし王政復古は名ばかり儒学の理屈が色濃く残ったのです 全てを受け入れるのが大和心 他方を拒否するのは漢意です
明治政府は西洋の制度(文化・文明)がキリスト教を規範としていることを見抜けませんでした 薩長の下士にそんな教養はなかったのかもしれません 儒学の弊害に気付くことなく仏教まで廃すれば 精神の拠り所を失ってしまいます[08] … Continue reading
私見ですが キリスト教と儒学は共通点があり 神道と仏教は親和性があるように思います 日本ではいずれも融和しがちです 庶民は上辺で廃仏毀釈に従ったが ここでも健全な判断力をもって 仏教の教えを捨てなかったのが幸いでした 敬神崇仏で何の矛盾もない 庶民にこそ大和心があった[09] … Continue reading

原初の神道は国の成り立ちを神話を通じて説く いわば日本人の習俗・慣習のようなものです 教義も何もないが「魏志倭人伝」に描かれる日御子の姿が伝えています[10] … Continue reading 「惟神の道」という言葉は宗教以前の根源的な道の意です
八百万の神々が対等の大和心は 漢意の対極にあり一神教の教義とも相容れない 朱子学の皇帝に天皇陛下をなぞらえたり 西洋の王制政治を取り入れて 世俗の権力と同等に扱ってはいけません 神道(皇統)は政治制度でも宗教でもないのです 日本の成り立ちは悠久の神話の国です

日御子が国をまとめたのは 武力でも政治でもなく権威によります[11] … Continue reading 天照大神の子孫であるから天皇陛下です 日本の国体は天皇陛下の権威を中心とせねばなりません キリスト教国の拠って立つ権威も聖書や教会が齎します
薩長明治政府は天皇陛下を政治利用し 今でも続いています その上にマッカーサーGHQが 日本の歴史そのものを否定しました 現行憲法前文で唱う人類普遍の真理とは神の教えのことです

明治憲法のように統治権を総覧するとか 現行憲法がいう国の象徴ではない 総覧では主権の在り処が規定されず 象徴ということは国が主体で天皇陛下は表象に過ぎない
権威は政治制度や法律で決めることでありません キリスト教国の権威は神から与えられ 神道では2000年を超える皇統こそが権威です 天皇陛下は皇統に基づく権威なのです

註釈

註釈
01 儒学(儒教)の影響は今の時代にも残っています 旗本で禄を喰んでいるわけでもないのに家を継ぐとか 養子で入った婚家じゃないのに親元を実家と言ったり 結婚しても家名が変わるのは嫌だから旧姓のままでいたいとか すべて家父長制からくる家制度の陋習に囚われているのです
挙げ句の果てに将軍家とか天皇家なんて新聞でも書いています 征夷大将軍は一代限り世襲制じゃない ましてや天皇陛下と家制度は全く関係ないこと 江戸時代にそんな言い方はもちろんなかった 明治の頃でも朝廷・皇室とはいっても 天皇家なんて言わなかったんじゃないか 家族・家庭という意味で天皇ご一家までは許容範囲でしょうか
02 上代の大和ことばに抽象的な概念を表す言葉があったかどうか分かりません 漢字を組み合わせることにより便利に新語が作られたことは事実です その反面失われた大和言葉がたくさんあっただろうと思います
仁・義・礼・智・信は中国人の持つ抽象概念です 天・地もそうです もともと大和言葉にはなく 日本人の規範にはそぐわない概念 すなわち漢意なのです また仏教にもそんな概念はなく言葉もありません
03 世に孔孟と言いますが 孔子の教えは本来 謙虚なものだったのではないか 「学而時習之 不亦説乎」 学ぶは師に真似ぶ心 習うは己の修養です 師弟・親子・長幼の序は 学び習う年月の差なのです
孔子の玄孫弟子である孟子は 君臣だけでなく親子や職業さえも 階級秩序として規定しました こうして礼が秩序を維持するための 単なる形式・権威主義となっていきます 勉強し官職に就き出世して 栄耀栄華を極めるのが人生の目的です 秩序には礼が一番大事 徳が必要なのは支配者だけ
中国の葬儀は派手で豪勢です これは孟子の唱えた「君子不以天下倹其親」から来ているようです 自分は親孝行なんだと世間に宣揚するため 大金を使って葬礼を執り行う 拝金主義の中国人の感覚です
04 江戸時代の寺子屋は 子供の個性を伸ばす自由な教育の場でした むろん男女の差別などありません 読み書きそろばんが基本 大人になり仕事をする上で困らないだけの 教養を身につけます 論語読みの論語知らずという言葉があるように 儒者は書物の知識のみで役に立たない者と見られました
しかし明治の教育制度は 官製の画一的な価値観の鋳型に当てはめるもの 修身などは大学(四書)八条目の一つです 批判精神を摘み取り従順な羊の群れを作り出す そして忠良な官僚(牧羊犬)となって出世するのが良しとされます 西洋制度を取り入れているものの それは江戸後期に儒者が蘭学者に転向したことと同じです
05 弥生時代に水稲米の栽培が広がり 土地と水利をめぐる争いが起きるようになります すなわち武装した農民が武士の始まりです 戦国時代も結局は田圃の取り合いです(合戦だけでなく苅働き・焼働きも戦でした) 争いが終結し豊臣秀吉の太閤検地と刀狩で 武家と農家の役割が固定されました 日本の歴史で農奴などありません
06 西洋社会の貴族は王のもと軍事を担う役割です 日本の武家と同じく戦費は自己負担です 領地経営と戦に備えるためには 長男が全てを統率する必要があります すなわちヨーロッパも家父長制なのです 脱亜入欧とは裏腹に儒学と共通点がある気がします
07 八紘一宇に至っては 世界は一家人類みな兄弟という空疎な論です 一宇(一つの屋根で覆う)とは一つの価値観しか認めないということ 世界国家論とか父なる神といった考えに影響されたように思えます
昭和大戦中に八紘一宇を唱えたのは近衛内閣であり 軍部が推進したなどは捏造報道(情報)です
08 幾多の皇子・皇女が門跡として寺院に入られています 神道だの仏教だのと分け隔ることなく 何のわだかまりも持たないのが 上つ方から下々まで大様な日本の心です 狭量なのは地位と役得に汲々とする官のみ
09 お引けえなすってと仁義を切る 義理と人情の板挟み 庶民は漢語のもとの意味を軽く飛び越え 日本流にアレンジしました じつに融通無碍とらわれることがない これこそやまとごころでありましょう
10 記紀に描かれることは人間臭く 神話とは言い難いものもあります 卑弥呼(日御子)が登場しないのは不思議です 「魏志倭人伝」等が伝聞を記録したとはいえ 事実を隠す理由もありません 不確かながら史実を伝えていると見ていいかも知れない
11 北方・南方・大陸から渡ってきた人たちは それぞれの神を奉じていたでしょう やがて日本列島に定着集落を形成し 交易を通じて混血していきました 固有の神は国神・八百万神であり 日御子の導きに順い 氏神・鎮守の神となっていきます 武力に服属するのではない調和するのです 和をもって貴しとなすが吾国の習いです
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ロゴタイプとシンボルマーク

マーク

以前にミツカンのマーク(商標)のことを書きました 三本線の下に環(丸)という実にユニークなデザインです もともとは家紋である丸に算木を商標にするつもりが すでに登録済みであの形になったそうです
三井のマーク(商標)である丸に井桁三は 暖簾に染め抜いた店印で 家紋ではありません[01] … Continue reading 今はもうないミツワ石鹸のマーク(商標)は 三つの輪を重ねたものです 創業者の三輪善兵衛の姓から定められました これも家紋ではありません
住友のマーク(商標)井桁は単純に住友家の家紋です 三菱のマーク(商標)は複雑で 岩崎家の家紋三階菱と主君山内家の家紋中輪に土佐柏を合わせています 下士の岩崎が主家を乗っ取った形です

輪を4つ重ねたマーク(商標)はアウディですね これが5つになると五輪 オリンピックのマークです この辺になるとマーク=商標とはいえません オリンピックに関しては アマチュアリズムを押し出していても まったく金儲けの手段ですけれど[02] … Continue reading
マークを正確に言うとシンボルマークです 代表的なのがキリスト教の十字架ではないでしょうか 十字架にキリストの像があるのはカトリック シンプルな十字のみはプロテスタントです そのほか各宗派で様々なバリエーションがあります

ロゴ

このごろマークと混同されているのがロゴです 社名・商品名の組活字のことをlogotypeといいます 印刷の業界用語です(コピーやイラストも同様です[03] … Continue reading) とくに広告においては 社名と商標が同時に使われることが多いため ロゴ・マークと呼ばれます 組活字は書体が決まってないことがありました
統一するためマークとロゴを一体にデザインしたり マークを用いず社名・商品名そのものを図案化することが行われました ロゴがマークと同じような扱いをされるようになります これはロゴマークと言っていいかもしれません[04] … Continue reading
ロゴは必ず文字でなくてはなりません かつて日立は社名を図案化したマークがありました ほとんど判じもので 文字から大きく離れています また「ワシのマークの大正製薬」のフレーズは今でも使われます 文字として読めないのはロゴでない マークです

CIが流行ったころです ブリヂストンや味の素が私の記憶にあります[05] … Continue reading それ以前に不二家がロゴ+マークを採用しました 外国のデザイナーによるものだったと思います 不二家にはペコちゃんがいましたが おそらくマークはなかったのですね スターバックスは 最初はあったロゴが消え イメージキャラクターの人魚がシンボルマーク化しています
官営の日本航空が営業不振に陥ったとき ランドーアソシエイツにCIを依頼しました 伝統的な鶴丸マークを廃止したのですが 見事に失速しました JALのロゴ制作に相当の料金をふんだくられたでしょう 雑誌ハナコも外国人にタイトル・ロゴを作ってもらいました 当時で億単位の料金でした 表紙イラスト込みらしいが それにしても高い

ロゴ・マークを新しくすれば 売り上げに貢献するみたいな風潮があったのです 実際はCIをやるという話題性で盛り上がっただけ そんな小手先のことはなんの実効性もない 一種のイベントです キャンペーンが終了すれば熱は下がります CIは5〜7年の寿命なのだとか 言い訳してましたけどね[06] … Continue reading

註釈

註釈
01 にわか雨の時には 越後屋の客でなくても店の傘を気前よく貸し出しました 唐傘は高価なもので ほとんどの人は返そうとしません そんなことは承知の上です 傘には店の印が大きく描いてあります 使ってもらえば宣伝になるのです
江戸の庶民は古着屋で着物を買うのが普通 雨具といえば蓑笠です 反物を誂えて作るなど かなり裕福な家でも年に一度か二度の大イベントでした
越後屋で着物を誂えるときは1日がかりです 店は茶菓のみでなく昼食も用意してもてなします 呉服・太物店の印入り傘は むしろ誇らしいことで皆喜んで使いました 高級ブランドの紙袋がステータスだったのと同じです
02 オリンピックを始めたクーベルタンはフランスの貴族(男爵)です 暇を持て余すヨーロッパ貴族に近代オリンピックの話を持ちかけました もっともらしい事を言う奴ほど 胡散臭いものです 崇高なオリンピック精神は山師の顔を隠す仮面です 道楽といえちゃんと帳尻を合わせます アマチュアリズムは権益独占の隠れ蓑
五輪マークを作ったのはクーベルタン自身らしい シンボルマークの重要性・効果を認識していたばかりでなく 使用料を取るというのは実に斬新な発想でした キャラクター・ビジネスの先駆けといえます ワインを見ればわかるように フランス人はしたたかな商売上手です
03 コピーは文字(=活字)のことです イラストは文字以外(=表・図形・カット・写真)の凸版をいいます 印刷の業界用語でしたが 広告制作でも使われるようになり(昔は印刷メディアが主でしたから) コピーは広告文案 イラストは口絵・挿絵を意味するようになりました
04 組活字は社名・商品名などを予め組んで糸で縛ったものでした 次第に一体化して鋳造するようになり 独自の書体にしたレタリングを使い始めました
「無印良品」はロゴがそのままマークになっています 一見ただのゴシックですが 新たにレタリングし全体を一つとしてデザインしています ユニクロはこれのパクリでしょうかね
「IBM」は「NeXT」と同様ポール・ランドが制作しました 明瞭な文字であって しかもシンボルとして機能しています ロゴでありマークなのです
05 CIはコーポレートアイデンティティ つまり企業の統一性のことで どちらかというと内部施策です 国家なら国旗が帰属意識の象徴となります 企業の場合も暖簾という言葉が表す 社名やマーク(商標)がシンボルでしょうね
06 アップルも共同創業者ウォズニアックのいた 初期のAppleⅡにはロゴ・マークがついていました それがいつの間にか あのリンゴマークだけになっていきました スティーブ・ジョブズの信条は「シンプルに限りなくシンプルに」です
製品デザインそのもの(リンゴも含めて)がアップルなのです シンプルを極めると社名・製品名のロゴすら邪魔になります もはやロゴだのマークではなく アップルスタイルというべきでしょう アップルはコンピュータを売らない スタイルが商品なのです
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