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タグ: ヨーロッパ

身分制・階級制

インド・イギリス・中国

インドではカースト制があります 身分や職業による階級制度です 異なるヴァルナやジャーティ間の行き来はありません イギリスにも階級・身分制があります 階級間の移動はなく職業も決まっています インドと似ている面がある
イギリスがインドを植民地としたとき この階級制度をうまく利用しています 上流階級に特権を与えて 既存の制度をそのままに支配するのです 今までの制度を変えることは反発を招きます[01] … Continue reading 二重支配が植民地政策の基本なのです

中国を植民地としたときはどうだったでしょう 中国には明確な身分制はありませんが 職業による階級制はあります 朱子学でいう士農工商です この士は武士ではなく士大夫です 科挙の合格者が士大夫となります
科挙は広く人材を登用するとして始まりました 試験はほとんど四書五経の丸暗記です 丸暗記は四書五経をまるごと受け入れることになります いちいち判断していたらとても暗記できません 頭の中は四書五経で占められ 批判精神の入る余地はありません[02] … Continue reading
こうやって忠良な官僚が支配する階級制度ができます 広く人材をといっても 膨大な書物を買い求め丸暗記する時間がある者は限られます 高級官僚の子息が士大夫となるので 現実には身分制ができてしまいます

朝鮮・ロシア・日本

朝鮮半島も科挙を取り入れ両班が支配する階級制・身分制の国です ロシアが朝鮮半島を支配しようとしたとき 両班による支配制度はそのままにしました ロシアもやはりツァーリが支配する農奴の国でしたから 階級制の利点を理解していたのです
日露戦争に勝ち ロシアに代わって朝鮮半島を統合した日本は 昔から階級制・身分制のない国でした[03] … Continue reading そこで朝鮮の身分制を廃止し 皆が平等で日本人と同じとしたのです(四民平等から発展し 後に八紘一宇となる空論が根拠です)
これは愚策です その国の制度を廃止することは歴史と価値観を否定することです あまつさえ創氏改名などといい出しました 朝鮮人にとって自分の出自は最も大切なことです 人間として認めないのと同じことになります 同化政策よりもっとひどい人権蹂躙です

キリスト教が広まった要因の一つが その地の宗教習俗を否定することなく 巧みにキリストに結びつけた宣撫・教化策です 農事祭である火祭りをキリストの聖誕祭としたのは代表例です[04] … Continue reading 今までの習慣を変えないので受け入れやすい(様々に変形してしまうこともあります 隠れキリシタンはマリア崇敬と観音信仰が合体しました[05] … Continue reading  本地垂迹説のようなものです)
植民地の先遣隊として 宣教師は果敢に各地で活動しました ターゲットは支配階級です その地均しの上で植民地として支配して征きます 現地の宗教習慣を否定しなかったように 身分制・階級制を巧みに取り込み その上に君臨するのです
日本が植民地化から免れたのは 身分制がない社会であったこと キリシタンを禁教としたことによります[06] … Continue reading

註釈

註釈
01 インドがイギリスから主権を取り戻し 共和国になってもカースト制はそのままです インドは宗教上の争いはあっても 身分制・階級制に安住しています この制度は宗教由来のことで 法律とは無関係です 憲法をもって廃止しようとした人はいましたが 賛成は得られませんでした
02 洗脳の方法は色々あります 手っ取り早いのは 自由を奪い教義やお題目を強制的に毎日何回も唱えさせることです(修道院なんか近いかもしれない) 自分の信念と違うことを毎日唱えさせられるのは大きな苦痛です
この苦痛から逃れられる唯一の方法があります その教義やお題目を心の底から信ずることです そうすれば苦痛はたちまち喜びに変わります 丸暗記の受験勉強は一種の洗脳とも言えるわけです
03 江戸時代の村は自治権を持つ集落です 年貢は村役人が取りまとめて納めるものでした 太閤検地と刀狩りで農業専従となったものの 元をただせば豪族であったわけです 藩が村(農民)を支配していたわけじゃないから 不服があれば一揆を起こします
04 この頃クリスマスを祝うのに〈メリークリスマス〉でなく〈ハッピーホリデイ〉とか言うそうです 理由としてクリスマスはキリスト教の行事であり……云々 なんて言ってます 春を迎える農事祭(火祭り)は 紀元前から世界中で行われていました(日本では鳥追いやどんど焼きですね) もともとキリスト教とはなんの関係もありません
05 マリア崇敬は異端とみなされています すなわち隠れキリシタンはキリスト教徒とはいえません 島原の乱はポルトガルの煽動と支援で起きた内乱です キリシタンの人々は利用されたわけです 島原の乱後ポルトガルと国交断絶し鎖国政策をとることで ようやく日本に対する間接侵略が終焉しました
06 身分制のない日本で教育は平等 江戸時代の人々にとって西洋事情は常識でした それは知識のみのことだから 彼我の文明を同列に見ることができました
シナや朝鮮インドでは 自らの文明に対する極端な奢り昂ぶりから 病的なまでの自尊心が生まれ国を滅ぼすことになります 清国の西太后しかり 李氏朝鮮の神貞王后しかり
その心理を巧みに利用したのがヨーロッパの植民地政策 インドが未だに身分制から脱却できないのも宜なるかなです かのガンジーはカースト制に疑問を抱くことはなかった
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差別と平等

差別は選民意識から

まったくの私見・管見で異論はあると思いますが 差別はキリスト教から来ていると考えます 一神教は唯一絶対の価値観しかありません 多様性を認めない[01] … Continue reading
人間は神から選ばれた存在で エデンの園に暮らしていました 余計な知恵を付けたため地上に追放されますが 他の動物とはそもそも出自が違います なにしろ神が我が姿(造物主だから姿形を持たないか?)に似せて造ったのが人間です これが選民意識の由来となっています

キリスト教を信ずる者は選ばれた正義の存在です 人間はすべて平等といいますが 正確にいえば人間は神の御前に平等です 平等なのは神を信ずる人間(キリスト教徒)の間だけのことです 同じ人間であっても神の教えに背く者を平等とは言い難い
キリスト教徒と異教徒の間には格差がなければいけないのです 動物や異教徒たちは神を信じない 信じない者は救われません それどころか罪を負います 神を信じたノアは救われますが その他の不信心者は滅ぼされてしまいます

方舟伝説により選民意識はさらに強化されました 選民意識が他者を差別するようになるのは 自然な成り行きです 動物愛護は人間より劣る動物たちに対して慈愛の目を向けることです 生きとし生けるものの種は途絶えてはいけない といっても他の動物は人間と同列ではありません 人間だけが崇高な精神を持ちます
博愛主義とは真理に目覚めない者にも救いの手を差し伸べることです 人種・宗教・民族・歴史の多様な価値を認めるわけじゃない 異教徒たちは神を信じない点において動物と同等の存在です もしかしたら大洪水でも しぶとく生き残った人間がいたかも知れない よく分からんのですがルシファーが手助けした

多神教の日本は氏族や個々の集落で氏神様・鎮守様・産土の神があります それぞれの神の間に力の差はあっても優劣はなかったのです(後年武家が台頭して徳川時代には六十余州の国ができます それぞれの国に石高等の大小はあれど平等・対等でした)[02] … Continue reading
順う神を系統立て天照大神を頂点とする神社神道は大和朝廷から始まり 明治維新の後に国家神道となりました 延喜式で神社を格付けしましたが ひとつの教義でまとめてはいない[03] … Continue reading 八百万の神々が存立するカオスの世界のままです すべての存在が平等ですから 日本には差別も階級もないのです

註釈

註釈
01 アメリカ空軍兵学校の構内で人種差別的な書き込みがあったとして 校長が実に立派な訓示を与えていました 肌の色や民族で差別することがあってはならない 連邦軍は多様な人たちの集まりだ 多様だから強いといった内容です アメリカは多民族の国です 多様な個性の集まりだから強いというのは真実だと思います 個性が尊重される国なのです
黒人が差別されるのは 労働力のため奴隷として売買された不幸な歴史から来ていることですね ほとんどの人たちはキリスト教徒なのですから 差別があってはなりません
当時は中国人も人身売買されました(字が読めないのをいいことに労働契約と偽ってサインさせた) 日本経緯でアメリカに運ばれたのですが 日本政府が解放して本国に戻した人たちも数多くいました しかし清国政府は感謝するどころか 余計なことをしたと日本政府を非難するばかりだったそうです 政府が国民を売り飛ばしていたわけです
02 原初神道は縄文時代あるいは石器時代まで遡ると思われます 教義も何もなく儀礼・儀式だけが伝わります 概念としては畏れではないでしょうか 系統立てた神社神道は八百萬の神ですから 仏教(密教)の曼荼羅がモデルかもしれません 明治政府が唱えた国家神道は政祭一致なので ヨーロッパの王権神授説あたりを参考にしたのか
03 神社に礼拝するとき 二礼二拍手といった決まりを作ったのは明治以降のこと 統一された国家神道のためです 神道を国のシステムに取り入れたわけです(公武一体が実現?) 江戸時代までは精神的拠り所であった天子様(朝廷)を 世俗に引きずり落としたともいえます
外国(とくにキリスト教国)で政教分離なんて言わないのは 宗教(キリスト教)が国家や法律を超越するのは自明の理だからです 共産主義もキリスト教の一派なので 共産党は国家を超越して全てを支配します
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汁かけ飯

一汁三菜[01] … Continue reading 一汁一菜 一汁無菜など いろいろあります お江戸では砂州で貝がたくさん採れた深川にちなみ アサリと根深の味噌汁を飯にぶっかけたのを 深川丼と呼んでいました 一汁無菜の内になります 丼ものにも香の物は添えられます どんなに粗末な食膳でも汁は欠かせないのです[02]内田百閒翁によると 岡山の祭り寿司は 質素倹約のお布礼に対抗してできたとか いかに豪奢でも寿司は一品ですから 一汁一菜となります
戦国時代の頃までは堅飯でした ご飯は汁をかけたり湯漬けにして食べました 夏場は水飯です なので汁かけ飯は行儀の悪い食べ方ではありません[03] … Continue reading

固粥といわれていた炊飯が食べられる 江戸時代になっても食事に汁はつきものでした 香のものに具沢山の汁があれば一汁一菜でも十分ですし 鍋ものは豪華な無菜ともいえます 本膳料理で二の膳が付くときは 汁物や吸い物も2つ付きます[04] … Continue reading
煎茶が一般的になれば茶漬けにし 饂飩や蕎麦も汁麺とする 近年では 和え(混ぜ)麺である担担麺まで 汁麺にしてしまいました 名前の通り肩に担って売り歩いた麺ですから 汁麺はありえない それを汁なし担担麺なんて言ってるのです[05] … Continue reading そういえば スープスパゲティというのが流行ったこともありました
イタリアの古い本の挿絵に スパゲティを食べる図が描かれています 手づかみで天を仰いで食べています パンは手づかみで食べますから麺類を手で食べても不思議ではありません 当時ヨーロッパ庶民の食事は 冷たく堅いパンやチーズちょっと贅沢して干し肉なんかを ナイフでそぎ取って食べるのが普通です 柔らかく煮込んだ温かい食事を食べるための食器はなかったのです[06]ローマ人は戦場においても横になって食事をしました 貴族は料理人を引き連れ 幕舎の中で食べていたのです でも食器はなく手づかみでした

日本には恐らく縄文時代から箸の文化がありました[07] … Continue reading また食事の作法として手で器を持って食べます 汁かけ飯を手づかみというわけにいきません その慣習から自然と汁麺が好まれたと考えられます[08] … Continue reading
日本の汁麺は ついにカップヌードルとなって 完成したといえるでしょう 麺とスープに具が入り 湯を注ぐだけで一食を賄える すべて器に入ってるのが実に画期的な発明です
発売されたときはヌードルスープとして 海外で売ってたと思います(小さなフォークが付いてました) 最近はカップ飯もできて進化したのか 戦国時代の汁かけ飯に原点回帰したのか 日本ならではのものであることは間違いない

註釈

註釈
01 本膳は 手前左に飯 右に汁 奥左に坪(煮物) 右は膾 真ん中に香の物が基本となります これが一汁三菜の由来です 二の膳三の膳が付かないときは 膾の代わりに焼き物が入ったり 煮染(炊き合せ)を平(鳥肉と根菜の煮物)にしたりします
香の物を和え物に置き換えることもあります 一汁一菜と一汁無菜また丼ものにも香の物は付きますが なぜか数に入れません
02 内田百閒翁によると 岡山の祭り寿司は 質素倹約のお布礼に対抗してできたとか いかに豪奢でも寿司は一品ですから 一汁一菜となります
03 飯米の量は一人一日3合でした(1年で1石) 女子供も含めてですから一升飯を食べる者などまずいません 固飯で玄米ですから顎が疲れます 汁は2杯まが習慣だったようです 北条氏政が汁を2回かけたとか 馬鹿の三杯汁はそのあたりから来たことでしょう
04 近ごろ鍋の締めなる聞き慣れない言葉があります すき焼きでも 具材を攫った最後の地に冷や飯を入れ 雑炊にして食べてはいました 煮詰まり鍋底が焦げ始める直前に火を止め 溶き卵を回し入れ蓋をします このタイミングが難しい 店では中居さんがやってくれたものです
しかし宴席の手締めはあっても 締めなどという言い方はしなかった おそらく関西から来た言葉じゃないかと思います うどんすきという鍋料理の支店が以前ありました あの辺の感覚なのでしょうか ついでに七味唐辛子(ナナイロトンガラシ)をシチミとかヒチミとかいうのも関西からでしょう 子供の頃はそんな言い方しなかった気がします 一番は八幡屋その次は薬研堀です 京都のナンタラいう焼いたのはまずい
個人的な好みなのですが 寄せ鍋の類は好きでない 酒と料理(食材)の取り合わせを楽しみたいから ひとつ鍋の中に色々な味があっては 自分が何を食べているか分からず嫌なのです 湯豆腐とか葱鮪のようなシンプルな小鍋立てが いちばん酒に合う 小鍋立ては火鉢でやるもんです 差し向かいならいいが大勢で鍋を突くもんじゃない
05 落語でおなじみ 江戸時代の夜鳴きそばは 肩で担いだものの 辻に据えて売っていました(屋台ですね) つゆに漬ける冷たい蕎麦ではなく 温かい(汁)かけ蕎麦や(練物の具を乗せる)しっぽこ蕎麦でした 七輪と炭団の普及でこのような温かい汁物を出す 屋台店が可能となりました
06 ローマ人は戦場においても横になって食事をしました 貴族は料理人を引き連れ 幕舎の中で食べていたのです でも食器はなく手づかみでした
07 魏志倭人伝に倭人は高杯に盛った飯を手づかみで食べるとあるようです 団子状(お握り)にして盛っていたのでしょう 現在のような炊飯だったということになります 弥生時代の土器には飯を炊く大きなものと 汁物用の小さなものが使われていました
日本の食事は第一に汁があるのです 一汁無菜は具沢山の汁物ですし 丼物は汁かけ飯です 箸がなけりゃ食べられない また香の物も必ずつきます 酒も含めた発酵食品の技術は相当昔に遡れるでしょう
08 戦国時代の行軍食であった干飯は 今日のアルファ化米と同じです 水で戻して食べます 当座の携帯口糧としては 保存性を高めるため焼いた 味噌握りを携行しました お湯をかければ即席の汁かけ飯です 越後のけんさん焼きは そのままでなく茶や湯をかけ潤して食べるものです
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