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タグ: 倭人

汁かけ飯

一汁三菜[01] … Continue reading 一汁一菜 一汁無菜など いろいろあります お江戸では砂州で貝がたくさん採れた深川にちなみ アサリと根深の味噌汁を飯にぶっかけたのを 深川丼と呼んでいました 一汁無菜の内になります 丼ものにも香の物は添えられます どんなに粗末な食膳でも汁は欠かせないのです[02]内田百閒翁によると 岡山の祭り寿司は 質素倹約のお布礼に対抗してできたとか いかに豪奢でも寿司は一品ですから 一汁一菜となります
戦国時代の頃までは堅飯でした ご飯は汁をかけたり湯漬けにして食べました 夏場は水飯です なので汁かけ飯は行儀の悪い食べ方ではありません[03] … Continue reading

固粥といわれていた炊飯が食べられる 江戸時代になっても食事に汁はつきものでした 香のものに具沢山の汁があれば一汁一菜でも十分ですし 鍋ものは豪華な無菜ともいえます 本膳料理で二の膳が付くときは 汁物や吸い物も2つ付きます[04] … Continue reading
煎茶が一般的になれば茶漬けにし 饂飩や蕎麦も汁麺とする 近年では 和え(混ぜ)麺である担担麺まで 汁麺にしてしまいました 名前の通り肩に担って売り歩いた麺ですから 汁麺はありえない それを汁なし担担麺なんて言ってるのです[05] … Continue reading そういえば スープスパゲティというのが流行ったこともありました
イタリアの古い本の挿絵に スパゲティを食べる図が描かれています 手づかみで天を仰いで食べています パンは手づかみで食べますから麺類を手で食べても不思議ではありません 当時ヨーロッパ庶民の食事は 冷たく堅いパンやチーズちょっと贅沢して干し肉なんかを ナイフでそぎ取って食べるのが普通です 柔らかく煮込んだ温かい食事を食べるための食器はなかったのです[06]ローマ人は戦場においても横になって食事をしました 貴族は料理人を引き連れ 幕舎の中で食べていたのです でも食器はなく手づかみでした

日本には恐らく縄文時代から箸の文化がありました[07] … Continue reading また食事の作法として手で器を持って食べます 汁かけ飯を手づかみというわけにいきません その慣習から自然と汁麺が好まれたと考えられます[08] … Continue reading
日本の汁麺は ついにカップヌードルとなって 完成したといえるでしょう 麺とスープに具が入り 湯を注ぐだけで一食を賄える すべて器に入ってるのが実に画期的な発明です
発売されたときはヌードルスープとして 海外で売ってたと思います(小さなフォークが付いてました) 最近はカップ飯もできて進化したのか 戦国時代の汁かけ飯に原点回帰したのか 日本ならではのものであることは間違いない

註釈

註釈
01 本膳は 手前左に飯 右に汁 奥左に坪(煮物) 右は膾 真ん中に香の物が基本となります これが一汁三菜の由来です 二の膳三の膳が付かないときは 膾の代わりに焼き物が入ったり 煮染(炊き合せ)を平(鳥肉と根菜の煮物)にしたりします
香の物を和え物に置き換えることもあります 一汁一菜と一汁無菜また丼ものにも香の物は付きますが なぜか数に入れません
02 内田百閒翁によると 岡山の祭り寿司は 質素倹約のお布礼に対抗してできたとか いかに豪奢でも寿司は一品ですから 一汁一菜となります
03 飯米の量は一人一日3合でした(1年で1石) 女子供も含めてですから一升飯を食べる者などまずいません 固飯で玄米ですから顎が疲れます 汁は2杯まが習慣だったようです 北条氏政が汁を2回かけたとか 馬鹿の三杯汁はそのあたりから来たことでしょう
04 近ごろ鍋の締めなる聞き慣れない言葉があります すき焼きでも 具材を攫った最後の地に冷や飯を入れ 雑炊にして食べてはいました 煮詰まり鍋底が焦げ始める直前に火を止め 溶き卵を回し入れ蓋をします このタイミングが難しい 店では中居さんがやってくれたものです
しかし宴席の手締めはあっても 締めなどという言い方はしなかった おそらく関西から来た言葉じゃないかと思います うどんすきという鍋料理の支店が以前ありました あの辺の感覚なのでしょうか ついでに七味唐辛子(ナナイロトンガラシ)をシチミとかヒチミとかいうのも関西からでしょう 子供の頃はそんな言い方しなかった気がします 一番は八幡屋その次は薬研堀です 京都のナンタラいう焼いたのはまずい
個人的な好みなのですが 寄せ鍋の類は好きでない 酒と料理(食材)の取り合わせを楽しみたいから ひとつ鍋の中に色々な味があっては 自分が何を食べているか分からず嫌なのです 湯豆腐とか葱鮪のようなシンプルな小鍋立てが いちばん酒に合う 小鍋立ては火鉢でやるもんです 差し向かいならいいが大勢で鍋を突くもんじゃない
05 落語でおなじみ 江戸時代の夜鳴きそばは 肩で担いだものの 辻に据えて売っていました(屋台ですね) つゆに漬ける冷たい蕎麦ではなく 温かい(汁)かけ蕎麦や(練物の具を乗せる)しっぽこ蕎麦でした 七輪と炭団の普及でこのような温かい汁物を出す 屋台店が可能となりました
06 ローマ人は戦場においても横になって食事をしました 貴族は料理人を引き連れ 幕舎の中で食べていたのです でも食器はなく手づかみでした
07 魏志倭人伝に倭人は高杯に盛った飯を手づかみで食べるとあるようです 団子状(お握り)にして盛っていたのでしょう 現在のような炊飯だったということになります 弥生時代の土器には飯を炊く大きなものと 汁物用の小さなものが使われていました
日本の食事は第一に汁があるのです 一汁無菜は具沢山の汁物ですし 丼物は汁かけ飯です 箸がなけりゃ食べられない また香の物も必ずつきます 酒も含めた発酵食品の技術は相当昔に遡れるでしょう
08 戦国時代の行軍食であった干飯は 今日のアルファ化米と同じです 水で戻して食べます 当座の携帯口糧としては 保存性を高めるため焼いた 味噌握りを携行しました お湯をかければ即席の汁かけ飯です 越後のけんさん焼きは そのままでなく茶や湯をかけ潤して食べるものです
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難民・移民・流民

日韓関係を含む東アジア情勢については 韓国の新聞の方がよほど正確・冷静に分析しています 立場が異なるといえ 自国利益のために言説を展開する 健全なジャーナリズムはおすすめです
日本の新聞はデマゴギー・アジテーションに終始していて 「戦争反対」というシュプレヒコールに反対するものは 戦争に賛成なのかという まるでバカボンのパパのような詭弁を弄するばかりです[01] … Continue reading
4月29日追記=朝日新聞社の元主筆が北京で客死したそうです 北京で開かれる中・韓・日シンポジウムに出席する予定だったとか この者は朝日新聞でのプロパガンダ活動の功績を認められ 定年後に韓国の大学・新聞から招かれて京城に在住 第2の人生を謳歌していました)

内乱による難民

世界で難民問題が起きています 日本はすでに朝鮮半島からの流民(実体は難民でも移民でもない 密入国・不法滞在です)であふれ 数々の問題が顕在化しています この由々しき事態は半世紀をゆうに超えていて 難民が引き起こす問題の先例です 日本がこれ以上難民を受け入れる余地などありません

昔から内乱を繰り返し いまもって統一国家でない朝鮮半島が ひとときの安寧秩序を得られたのは日本統治時代だけでした ロシアの朝鮮半島侵略は清國の衰退に乗じて始まり 日露戦争の原因となりました
ポーツマス条約で新たな秩序が打ち立てられます しかし日本がが満州・朝鮮から引き上げたとともに ソ連(ロシア)による侵略が再開され 半島は再び分断 以前の紛争地帯に戻ってしまいました 今に続く朝鮮戦争です

多くの者が戦禍を逃れるため 朝鮮半島から大挙して日本に押し寄せました 偽装難民ではなく外地からの引揚船に紛れ込んだ密航・密入国です 以前から日本にいた者は強制徴用されたと称し ともに敗戦後の混乱に乗じてそのまま居座りました
日本へ帰化しようにも 李承晩と金日成が争っていた内乱状態ですから そもそも母国自体がありません 指導者である李承晩大統領さえ無責任にも日本に亡命するつもりだったのです そのため曖昧な状態のまま不当滞在となり今日に至っています

4世紀ころから 日本は半島からの亡命を受け入れ 土地まで与えてきました その人たちは礼節をわきまえていたので 手ぶらではやってきません 仏教の経典やら数々の宝物を携えてきました(もっとも日本の宝物を盗み出そうとした新羅の僧もいました 僧を称していても隠れ蓑だった 本性は変わってないのかもしれません)
また日本では明確な社会階級制がなかったので 技術あるものは正当に評価され 自由の身分を得ることができました そのため皆が望んで日本に帰化したのです 半島の風に染まっていたとはいえ 多くの人たちは倭人の末裔であったのでしょう[02] … Continue reading

それら帰化人たちを 大陸文明を伝えにきた渡来人として敬え などと言い始めたのは 違法入国者が工作した結果です 難民・移民どころか 不法入国してそれを正当化するため 歴史を歪曲するという厚かましさ
当時は戸籍も国籍制度もなかったので 帰化じゃなくて渡来だ というのが論拠のトンデモ学説です 事実を隠蔽するため用語の解釈に問題をすり替えています(本当の問題はそんな悪口雑言を受けいれた日本の教科書にあります)

いわゆる第5列

北朝鮮は 自分たちに有利な活動をすると思われる大学教授等(進歩的文化人?)を 数十人単位で何度も自国に招待していました(なんとか訪朝団といったと思うが) 2回金日成に会った人から直接聞いた話です
どういうつもりか 昭和40年代に日本の小学校で「千里馬」が上映されていました これは日本人によって作られた朝鮮宣伝映画です! 第3国人の走狗である日教組の企みだったと思います
教育の場への宣伝工作は効果が上がります 勉強のできる子は教科書の内容を鵜呑みにします そうすれば成績がよくなるからです 優等生は欺瞞に満ちた偏向教育で洗脳されたまま成長し やがて教師や学者になり あるいは出版・報道等へ入り込んでいきました

ようやく明らかになったのは拉致問題に限りません 数十年にわたって隠蔽されてきた不当・不正に対して声を上げる人たちが現れ始めました それに対し危機感を抱いた第3国人と支援組織は「ヘイトスピーチ」「人種差別」といった 論点すり替えの虚言・妄言をまき散らしています
4月23日追記=一部自民党議員と公明党により 「特定の民族などへのヘイトスピーチ(憎悪表現)を抑止する法案」が提出されました
当法案の問題点は2点あると思います
1.特定の民族を幇助するためであること
2.言論弾圧を正当化しようとしていること
特定の民族とされる者たちや外国の内通者がなぜ ヘイトスピーチ(悪口・憎悪表現)といって騒いでいるのでしょうか? 彼らの身に疚しい事があるからではないですか
警察庁の犯罪統計で明らかな 中国人と朝鮮人の犯罪率の高さ 難民でもなく帰化もしないまま 戦後70年も居座っている流民が正当性を主張する現状 不当移民への批判を人種差別として論点をすり替えているのです
今まで看過されてきた あるいは糊塗されてきた事実が 衆人の目に触れるようになってきました インターネットのおかげで 本当の言論の自由がもたらされたのです
インターネットの世界も一部の国で統制が図られています 中国・ロシア・韓国はインターネットでも早くから言論統制を行っています
インターネットは1国に留まりません 中国によるサイバー攻撃に加え 日本のインターネット環境は LINEに代表される韓国資本に席巻されています 韓国情報部がLINEの通信を傍受しているという報道もあります
そのためインターネット上の言論に対しても 自分達の悪事を指摘したブログや動画投稿の削除・遮断・閉鎖が行われています 当法案は こういった不当な行為を正当化・合法化しようとする意図を持ちます
民主主義の国日本で言論統制を図ろうとするのは 許されることではありません まして特定の民族におもねって 自国民の言論・表現を束縛するに至っては正気の沙汰と思えません
国内外の外国勢力による日本への誹謗中傷と犯罪行為は野放しにし それに対する一切の反対意見を封殺するというものです
当法案は言論弾圧どころではありません 外国勢力に阿諛迎合し 独立国であることを自ら放棄する暴挙といえます 法案の発議者は まさに売国奴と呼ぶにふさわしい)
役人と時の政治家は責任逃れと保身のみが身上で このような状態を放置し見て見ぬふりを決め込む 既存メディアは外国勢力による言論弾圧に同調するという奇態な国となり果てました

報道が萎縮したのは金嬉老事件の時以来だったと記憶します 人種差別がこのような事件を引き起こしたとする論調がまかり通ったのです その時から新聞は 第3国人の本名を明かさなくなりました
市民グループ・市民団体という言い方も同様で 本性を隠すための言い換えです 朝鮮人の名前を日本語読みにするなとねじ込まれ 唯々諾々と従ったのはいつからでしたか

情けない話ではありますが 内乱をくぐり抜けてきた者が権謀術数に長けているのは必然なのかもしれません 同じ半島であるイタリアが分裂していてマキャベリを生んだように
半島人という括りもできそうです ロシアが再び侵攻したクリミアも半島です 大陸の端ということで地形的に中途半端な存在なのでしょうか

外交攻勢・宣伝工作

朝鮮来聘使が書き残したものを見れば 建前・体裁・面子が一番大事な民族性のようです 夜郎自大といいますか実に尊大な態度です 中国と日本の中継点・通過点であって 独立国としての歴史も文化もないわけですから[03] … Continue reading このように無意味な擬似的外交使節団を送ったりします[04] … Continue reading
精神構造は今も変わらず 漁業以外に戦略価値がなさそうな竹島に居座っているのも 意地を張っているだけのように見えます

「歴史認識」云々といった外交詐術を 日本国内やアメリカ・国連に持ち込ませてはいけません 朝鮮来聘使なども極めて偏狭な見方をしています 現在とまったく変わらない言い方です やはりこれも民族性ですから咎め立てしても無駄でしょう 日本への言いがかりは外交の場で対処すべきこと 外務省の責任です

捏造(でつぞう)した歴史を自国内で吹聴したり 北と南でいがみ合うのは自由です 勝手にやっていればよい しかしこれは日本国内における流民問題に関わっています 日本にとっては とんだトバッチリということです

謀略工作は実動班だけではできません 現地での協力者(エージェント)・収容班(活動拠点・移動手段・資材・資金担当)が欠かせないのです
朝銀にはログペリオディックアンテナが立ってましたし アジトから通信機と乱数表が押収されたのは枚挙に暇がありません 金大中事件というのもありました やりたい放題ですが 法が整備されていないため取り締まることはできません

拉致問題を社会党は事実無根の捏ち上げと強弁してきました 不当移入の第3国人が我が物顔に振る舞い あまつさえ教育・報道・史学の場で扇動していること それに呼応する市民グループと称する内通者・不穏分子を 放置・野放しにしていては日本は危うくなります

テロル対策、犯罪対策

靖国神社に放火した 中国籍とされるテロル犯が韓国に逃亡したとき 韓国政府は犯人引き渡しを拒否しました テロル支援国家と断言していい対応です
靖国神社爆破は単なる嫌がらせや騒擾目的ではない 日本人の殺傷を狙った明瞭なテロル行為です 構図としては パリで起きた連続襲撃事件・カリフォルニア福祉施設の銃撃事件とさほど変わりません

さて日本政府とマスコミはどうするつもりでしょう テロル犯なのに爆発音がした住居侵入罪などと言い換えていたのが 今は全く沈黙してしまいました
失敗したため人的被害が出なかったといって 微罪で放置したら 日本はテロル行為に対して自衛しないというサインを世界に示すことになります 他の国ではテロル犯に対して予防拘束まで認めています

日本から数々の仏像・仏画を盗み出しているのは組織的犯行です なにしろ韓国政府がこの犯罪を容認し お墨付きを与えています
2017年1月31日追記=日本から盗み取った仏像の所有権が 韓国の寺にあるという判決が出たそうです 新羅以来変わらぬ賊徒の国ということになります)
先般のサンケイ新聞ソウル支局長事件を見るまでもなく 韓国は中国・ロシアと並ぶインターネット検閲国家でもあります

それだけでなく日本のインターネット環境は韓国資本に席巻されていて 言論統制が図られているようです ヘイトスピーチといったデマにより 自分たちに都合の悪いブログ・動画を削除 遮断・閉鎖 ウィキペディア書き換えといった行為が横行しています
(なんと大阪市は日本人の言論を弾圧するため 第3国人が匿名で密告することを奨励する条例まで作りました
2019年3月10日追記=そればかりか大阪では所得税の納税をLINE PAYでやるとか言ってるようです 銀行口座とマイナンバーが韓国に渡る?)

オンラインゲーム・ソーシャルゲーム運営会社の詐欺的商法により 若年層の被害者が続出しています 日本では賭博行為が非合法とされ かつての博徒が姿を消しました その代わり出てきたのがパチンコに始まる 遊戯(ゲーム)に名を借りたギャンブルです
賭博的なオンラインゲームは韓国のNAVER(LINEの親会社)などが主でした これらで上がる利益も 姿を変えて日本への謀略工作に利用されています

註釈

註釈
01 賛成の反対は反対だし 反対に賛成もやはり反対です レレレでありニャロメなのです もっともらしいがレトリックに過ぎない 感情に訴え是々非々の判断を否定する アジテーションの手法です
02 帰化人は倭人の子孫であろうと思われます 6000年前に九州から縄文の人たちが 朝鮮半島南部に移住しました 大規模な噴火があったためです 定住したのは後の任那地域です 当時は無人でした 日本で水稲米の生産が盛んになれば半島南部に持ち込みました 朝鮮半島南部に古墳の形跡がありますから その後も多数の倭人が渡り 現地でクニを形成し 日本と連絡を保っていたでしょう
さらに5世紀 倭人が多数朝鮮半島に植民したと宋書倭国伝にあります 粗製鉄等の産品を移出もしていました 倭の国王が南朝鮮を支配する称号を求めたのは すでに朝鮮半島南部を実効支配してい その追認と見るのが妥当です
高句麗などの勢力が南下してきて 半島の情勢が不穏になり 故地へ帰還したのが帰化人です 倭人の子孫が大挙して帰国したために 任那日本府は閉鎖されました
何代にも渡って生活していたのですが 言葉や習俗がどの程度現地化していたか分かりません 帰化人の中には中国からの亡命者も含まれていたので バイリンガルだったでしょうか
03 独自文化がないわけでなく 料理・服飾・住居など生活に関するものは他に見られない歴史・伝統があります 韓国料理の特徴である唐辛子は南方原生で日本経由で渡りました そのため北のキムチは本来白い漬物だったそうです 米作も日本から伝わりましたから 北の方はもともと粉食文化です 代表的なのは平壌冷麺ですね
04 朝鮮来聘使(朝鮮通信使)は統制の取れた楽隊付きで 数百人で行列を作ったそうです 北朝鮮オリンピック選手団とまったく同じことをやっていたのです これもパフォーマンス好きの伝統でしょうか 軍事パレードも盛んですし
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渤海と稲作

7世紀から10世紀にかけて 日本海の対岸に渤海という国がありました 唐と新羅の滅亡に合わせるかのように 歴史から消えていった国です[01] … Continue reading

地域からいって構成民族はツングース系(満州人)と思われます 後の満州国と重なる部分も多かったようですが 詳しい成り立ちは不明です
旧・新唐書などに記載はあります これは後代に書かれたもので かなりいい加減です 位置も範囲もはっきりしません

日本との関係は深く 公式の使節派遣(日本への来貢の形)だけでも年間十数回あったようです そのほかにも貿易・ 交流していたでしょうから 大変に緊密な間柄だったのです おそらく周辺国から圧迫を受けており 日本の経済力・軍事力を当てにしていたと考えて間違いありません[02] … Continue reading

朝鮮人は古代朝鮮政権のひとつだといい ソ連は連邦を形成する少数民族だったと唱え 中国は当時の一地方政権にすぎないと主張します
すべて根拠のない手前勝手な言い分です 古来より日本と深い関係のある渤海と満州国の正当性を貶める為にする議論にすぎません
例えばハルビンなどの地名は 中国語(漢族)とは縁のないものです 樺太から満州(渤海)の言語の名残でしょう

中国の文献にありながら信用できないものとして 思い浮かぶのは魏志倭人伝です 妙にありがたがっていますが 11世紀の公文書でも周辺国に関して適当に書いているのです 3世紀に成立したといわれる魏志倭人伝に書かれたことを 一字一句真実として受け取るとはどういうつもりなんでしょう 中国の公式文書(と称するもの)が正統で 日本の言い伝え・伝承など考慮に値しないという態度が学問ですか
何しろ白髪三千丈の国なので数字はまったく当てになりません 通読したわけじゃないので何ともいえませんが 三国志自体かなり偏向した記述らしいですし 中国からみて辺境の国のことは殊更に卑しめて書いています 卑弥呼だの邪馬台国といった文字には歪曲する意図があからさまです

稲作に関して興味深いことがあります 米と魚(一部獣肉)を漬け込んだ ナレ寿司は東南アジアから台湾 日本列島そして渤海沿岸地域に広がっているのです 東岸を除いて朝鮮半島にはありません
日本海側沿岸に今も伝わる カブラ寿司・ハタハタ寿司・ニシン漬けなど 米麹に漬け込む飯寿司もナレ寿司のうちに含まれるでしょう(熟鮓は魚を食べるもの 飯寿司は魚と共に米を食べます) また魚醤が使われるのも共通しています
これを見ても 稲作が海路で伝わった(陸づたいに朝鮮半島からではない)こと 古代に日本海を仲立ちとして日本と渤海地域との交流が盛んであったことが窺えます 対馬暖流とリマン寒流を利用すればこの地域を廻航できます

日本列島西岸を中心にして 朝鮮半島東岸を結び渤海沿岸と樺太を含む 海路を介した環日本海文化圏があったのかもしれません 内陸からの川が海に流れ込む沿岸地域で漁労と稲作を営む 中国の史書で倭人として書かれる人たちです[03] … Continue reading
7世紀の渤海成立以前から関係が築かれていたのではないでしょうか 能登半島あたりで造船が盛んだったとの記録も見られるようです 渤海との交流に使われた比較的大型の船です
渤海で米作りが行われていたかはわかりません あったとしても寒いところですから弥生の水稲ではなく縄文の陸稲ではないですか あるいは交易品として米が流通していた可能性も高いのです

註釈

註釈
01 この頃は朝鮮半島と渤海(満州)で華麗な文化文明が栄えていました しかし伝統として残ることなく そのとき限りで途絶えました 我国の皇統のように 文化の中心たる存在がなかったためです
02 空海が学問僧として唐に渡った時 かねてから知り合いだった渤海の僧と出会い 懐かしかったと書いています その僧は日本に来たことがあるわけです 優秀だったので同じく唐に留学したのでしょう
03 倭寇・和冦と呼ばれたのは 環日本海から東・南シナ海で交易に従事した 冒険商人の伝統をひく人たちです 渤海や東南アジアでは通常の交易をしていました しかし中国・朝鮮半島では敵対していて海賊呼ばわりです 中国は皇帝が交易の利益を独占していて 私貿易を許さなかったからです
倭人の倭は大和言葉の〈わ〉に文字を当てはめただけです わの意味合いとしては我・和・輪あたりでしょう 倭の字は従順な貌や恭しい態度といった意味があります とすると倭寇=海賊という呼称は似つかわしくないですね 大和以前は倭と書いて(やまと)と読んでいました
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