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タグ: 貴族

建築に見る日本文化の成り立ち

竪穴式住居は北方系建築であり 高床式は南方系の建築と 私の中学校時代の教科書に書いてあったように記憶します[01]寒い地方は地面を掘り込み 火を焚いて地熱で屋内を暖める 暑い地方は地面から床を離し風通しを良くする ごく自然な工夫です 日本ではこの2つの建築が縄文時代から混在していたというのです
高床式の建物は住居ではなく 穀物倉庫であっただろうと やはり教科書に書いてありました[02] … Continue reading そして高床式建築は神社へと 竪穴式住居は茅葺屋根の家屋となっていきます 建物の形状を見ると 神社は高床切妻屋根 茅葺きは寄棟屋根に土間があります
私が小学校入学前後 祖父母が住む茅葺屋根の家の土間に囲炉裏があり 天井は竹や垂木を荒縄で組んだ小屋裏表しでした 考えてみれば土間は縄文の竪穴式住居そのものの暮らしです
囲炉裏の周りに筵が敷かれ 座る場所は厳密に決まっています これは神道以前の縄文の信仰から来ているんじゃないでしょうか 米が土器?に入れて高床倉庫に貯蔵から 土蔵へ米俵を積む形になるころ 米にまつわる神的な役割のみを高床の倉に譲り それまでの自然崇拝の神籬に 神社が建てられるようになったんだと思います[03] … Continue reading

高床式建築は神社のほか寝殿造りへと繋がります[04] … Continue reading 寝殿造りは切妻と寄棟を一緒にした入母屋屋根です 大きい建物のため切妻の周りに寄棟を配しました 竪穴式と高床式の融合した屋根でもあります
大陸から来た建築は仏教寺院です 飛鳥時代のことです 大陸の様式だったと思いますが当時の建物は残っていません その後の寺院建築は日本の風土に合わせて 相当ローカライズされています[05] … Continue reading とくに塔建築は日本独自で他の地域には見当たりません 三内丸山遺跡にある 掘建て六柱高層建築の伝統ですね 木組みの技術なども宮大工に継承されているのでしょう なにしろ日本人は森林の民ですから
一方で竪穴式の系譜を引く建築は 平地に建てられるようになり さらに土間に床板が張られ 高床式に近づきます 寺院建築と同じように瓦で屋根を葺けば 礎石に柱を立て床の高い 建具で部屋を間仕切る 私たちがイメージする日本家屋の姿になります

日本の建築は竪穴式+高床式から寝殿造り そして寺社建築の影響を受けた書院造り 草庵を模した茶室から来た数寄屋造りと 洗練されていきました 竹で編んだ網代を芯にした土壁は 竪穴式の工法であろうし 茶室には炉が切られます[06]土間の囲炉裏には薪を焚べ 板の間の囲炉裏は炭を用います 茶室の炉は畳敷きに切られ 夏は使いません 東山慈照寺(銀閣寺)や桂離宮は日本建築の完成形といえるでしょう 都と離れた山間の合掌造りは 竪穴式住居の技術を発展させた建築です 日本の建築もまた さまざまな集落(部族)の生活と信仰(国津神)が和合・統合された 日本文化の一つです

註釈

註釈
01 寒い地方は地面を掘り込み 火を焚いて地熱で屋内を暖める 暑い地方は地面から床を離し風通しを良くする ごく自然な工夫です
02 北方系の建物にも高床式はあり 竪穴式は冬の住居 高床式は倉庫・加工場と夏住居だったという説もあります
あるいは南方系の高床式が日本列島を通じ オホーツク圏(カムチャッカ)まで達していたのかもしれません
03 縄文の信仰は自然そのものへの畏敬でした 米が重要で主要な作物になると 山や川など自然物への信仰から人格神へ置き換わるようになります 水稲米は自然に頼るだけでなく 水田造り治水と人工の加わった装置産業です 稲作も労働集約型の集団作業です 集団の指導・統率者が現れ 人知の及ばぬ天候などは 祭祀を司る者が祈願します
04 寝殿造りは天皇の御所の様式を貴族・公家が真似たものです 御所の左右対称の配置は大陸の様式に倣っています しかし日本人の美意識に合わず 非対称の寝殿造りが主流になりました
05 大陸の建物は自然と人間社会を隔てるため 日本の建物は自然と交流するためのように思われます 中国の寺院のことはよく知りませんが 日本の寺院は開放的です
06 土間の囲炉裏には薪を焚べ 板の間の囲炉裏は炭を用います 茶室の炉は畳敷きに切られ 夏は使いません
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壮士 自由民権運動 大正デモクラシー

川上音二郎や添田啞蟬坊などは 繁華街[01] … Continue readingで壮士芝居を演じたり演歌を歌っていました 芝居の収入は投げ銭であり 演歌は歌本を売ることで収入を得ました
壮士芝居はやがて新派劇となり 新時代の人情を演じ人気を博します 演歌も世情風俗を歌うと人気が出て 歌本がよく売れました しかし演歌の演は演説の演であり 社会風刺や政府批判の歌も盛んに作られます 大正時代に入ると演歌・壮士芝居は大正デモクラシーの運動といっしょになります
壮士芝居の創始者は自由党[02] … Continue readingの党員で 川上音二郎は玄洋社に属していました もともと政治運動から始まったのです 壮士芝居も演歌も物語仕立ですから プロパガンダやアジテーションではなく ナラティブだったといえます

ところで繁華街は露天商(的屋と香具師)の庭場です 縁日・祭礼で物を売る商売は昔からありました とくに廃藩置県で禄を失った同心などの中には 抜刀術や剣舞を見世物にする者が現れます 彼らも新政府に不満を持っていましたから 演歌師とともに自由民権運動にシンパシーがありました
かくて露天商と演歌師は同業・同志として手を結び 互いに行き来するようになります 壮士気分で腕に覚えのある荒っぽい者も多数いました[03] … Continue reading 自由民権も大正デモクラシーも 一揆の精神を持つ世直し運動です しかしながら薩長明治政府の藩閥・強権政治により弾圧されてしまいました
圧政の中心となっていた山県有朋は後に国民皆兵・徴兵制を推し進めた人物です[04] … Continue reading おそらく奇兵隊がモデルだったのでしょう 四民平等・廃刀令の掛け声は 国民全員に兵役の義務を押し付けることでした[05] … Continue reading

註釈

註釈
01 明治の繁華街は江戸時代のまま 神社仏閣への通りでした 物見遊山といえば寺社詣ですから 門前市を成すの言葉どおり 繁華街が形成されたのです 芝居見物は一日がかりで高額の費えが必要でした それに比べ大道芸は手軽で誰でも楽しめます
02 明治時代は火付け・強盗・自由党という言葉があったほどで 自称壮士の溜り場であったのです 中には無頼の徒も混じっていて 強請りを働く者もいたようです ま明治維新前の志士と称する連中も同じです
03 昭和大戦敗戦後 的屋さんは博徒とともに暴力団扱いされます これは第三国人が闇市を作り 昔からの庭場にも進出したためです 博打はいつの世も非合法ですが 露天商は大道芸人と同じく 正当な商売です
04 本人も奇兵隊出身ですから ソレ行けヤレ行けのやたら威勢のいいものです もちろんシビリアンコントロールなんて知りません 統帥権を明治天皇に預けてしまいましたから 自ら責任を取る必要もないのです
05 日本には武士という職業軍人がいました ヨーロッパでは貴族が職業軍人です 領地を与えられたり家禄を賜る代わり 兵役の義務を負います 国民皆兵・徴兵制は 町人商人まで戦に駆り立てるためです スイスのような自主的な民兵とも違います
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イジメと肩書き

日本には古来より階級や身分制度がありません 大いなる和の国 中央集権や専制国家となることはなく 各地に点在する集落が同列に共在する 和をもって貴しと為す国柄です 
時代が下るに連れ 古代からの集落はムラとなり クニが形成されていきます 江戸時代まで国(藩)は続きました[01] … Continue reading
明治の廃藩置県と市町村制により かつての共同体ムラは単なる行政区画となります そして義務教育の制度と相まって 地域内の結びつきが薄れていくことに 現在の会社や学校が所属集団となるのは そのためでしょうか[02] … Continue reading

学校内で起きたイジメに対する対応がよくないといって 教育委員会を非難するのは どう考えても見当外れ おかしなことです 教育委員会は村役・鳶役・肝入どんじゃない
なにかの集団に属するときは ポジショニングが必要になります 学校でも同じことです いわば若者組ですが 年長者が年若の者に規律・規範を伝える 自治の精神は失われています 未成年の子供が自分で解決できない問題を抱えていれば 年寄組である親(PTA?)が責任を持って取り成さねばいけない 教員の仕事ではないでしょう
まして教育委員会は当事者じゃありません 現場の担当でもない人が TVカメラの前に並び 突っ立ったまま頭を下げて見せる図 監督責任を糾弾するつもりだろうが なんの解決にもならない 儀式・パフォーマンスに過ぎません

そういえば昔 日本は肩書社会だと言われてました 最近あまり聞かない 日本で肩書や学歴が大事とされるのは 明治以來の擬似的な枠組みが固定されたということか
江戸時代に朱子学が取り入れられ 征夷大将軍を頂点とする武家の階級制が作られました 軍隊の階級のようなもので ヨーロッパの貴族制に近い 武家も貴族も軍事組織です この制度が大政奉還で崩壊しました
崩壊というより拡大かもしれません 明治政府は国民皆兵を唱え それまで庶民には関係なかった儒学の教えを 国民すべてに強要したのです さらに科挙制に習ったか 役人優位の枠組みを形作りました 教育勅語が儒学そのものなのは象徴的でしょう 長幼の序・家父長制が基本になっています
三井財閥は三井本家の当主を お上と呼んでいたそうです 武家にならったのです 実務は番頭がやります 武家の家老ですね こうして明治から官民ともに 学歴・肩書社会ができました[03]三井系の会社は早稲田 三菱系は慶応と聞いたことがあります 官僚はもちろん東大です 今は役人以外に学閥はないでしょう 四民平等はいいのですが なんのことはない 国民すべてが武家になってしまったのです

註釈

註釈
01 縄文時代の漆器が発掘されていますから 漆芸品は少なくとも5〜6000年の歴史があります 専門家でなければできない工芸です 各地に職能集団がいたと思われます 職能別の棲み分けは石器や土器そして織物から始まり 狩猟・漁労さらに建築等の各種職能集団が生まれました 彼らはクニを形成する農耕集団とは異なり 一所懸命ではありません クニを横断して各地で仕事をしていたのです そして産品の流通を担ったのは商人ですね
02 寺子屋は年齢や親の職業に関係なく自由な教育の場でした 男女一緒に読み書きそろばんを基本とした 大人になって恥ずかしくない教養を身につけるのです 男女七歳にして席を同じゅうせず 姿勢を正して論語の素読なんかやるのは藩校です 明治の義務教育は国民すべて藩校に入ることを強制しました それに対して寺子屋は私立学校と姿を変えます
03 三井系の会社は早稲田 三菱系は慶応と聞いたことがあります 官僚はもちろん東大です 今は役人以外に学閥はないでしょう
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