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タグ: KJ法

文章の構成

文章を書くときコンテンツを構成するとき マインドマップなんかで整理しない 最初から項目同士を関連付けない方がいい 時系列もツリー構成も あまり役に立たない気がします
木の枝じゃなく一見無価値な落ち葉を拾い集めて 共通性のあるグループを作ってみる このとき意味付けをしない整理しない直感でやる 取捨選択や図解をしてはいけないということです
同じように 起承転結とか序破急あるいは5W1Hみたいな法則に捉われないこと 最後にまとめるときは意識した方がいいですが 最初の段階でこれをやると発想の飛躍ができない

テキストエディターと原稿用紙やタイプのいちばん大きな違いは 文章の書き方です

テキストエディターはワープロソフトと違います 使い方としてはアウトラインプロセッサー(アイデアプロセッサー)下書き用 ワードなどワープロはタイプが発展した清書機です
テキストエディターの場合プロットは特に決めず たくさんのセンテンスを書き溜めて それらを関連付けパラグラフを作成する そして微調整しながら まとまった文章を構成していきます

手書きでもKJ法のようにカード型のメモを書いて並べることはできます でも広いスペースが必要だったり 最終的には改めて書き直すことになり きわめて非効率です
手書きの場合は むしろ頭の中で(あるいは別紙に)文章の構成を決めておき それから書き始めた方がやりやすい

論文形式とか手紙文あとビジネス文書なら 旧来の定型文でいいと思います ワードとかのテンプレートなんかですね 無難にまとまっていますからまず間違いありません
散文は頭から書くことも書き出しに悩む必要もない 思いつくままにメモ感覚で短文を書いて 後でまとめればいいのです これにはテキストエディターです

シナリオや小説のように ストーリーがあるものは そうもいかないでしょうが 大抵はバラバラに書いて大丈夫です 並べ変えも削除も追加も自由にやっていい
書き溜めた全体を眺めていると テーマが明瞭に浮かび上がってくることがあります また一つのテーマのつもりだったのが 二つに分けたほうがいいとなったり 別々に書いていたものを合体することもあります

要するに理詰めで考えないということになりますか 理屈が先に立つとそれに縛られてしまいがちです(唯物史観みたいに都合のいいファクトだけを集めてくる) 論理的でないとか確固たるテーマを持たない奴だといわれたら そのとおりなので反論できませんが
とにかくこんな書き方だと 紙ベースでは整理や管理がやり難い などと言いながら400の倍数で文字数を数える癖は抜けません 1610字だとなんとなく収まりがつかない気がして4枚に収めたくなります

いま気がつきました 使っているポメラDM10は文字の大きさを中にすると 1行20文字ですね 一度に読んで理解しやすい文字数は25文字くらいなので 1行20文字は合理性があります 最近の新聞記事が薄くなったのは やたらフォントを大きくしたのも影響しているかもしれない 新聞は以前1段15文字1ページ15段組でした
ポメラDM10はとても気に入ってます 折りたたみのロック部はとうに壊れマット塗装はベタベタしていても まだ使い続けてます 一度キーボードがおかしくなったが直せました
DM100は単3電池のところがいいと思うが やはりかなり大柄だし 何よりLEDバックライトが目に悪そうで躊躇してしまいます

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手と目で考える→ワープロ→Mac

悪筆のせいもありますが(編集の仕事でテープ起こしなどやると 書いたメモが自分でも判読できないほど) 私にとってワープロは救世主でした

書くという行為は 頭の中の思考を整理する意味もあります 手を動かすことで考えがまとまり メモを見直すことで筋道が立つのです
紙に筆記具で書くより キーボードを叩く方が手を動かすし 乱雑な手書きメモより ディスプレーで見る方が構成を把握しやすいものです とくに消しゴムで消したりすると 思考が止まってしまいます

ワープロが出回ったころ 手書きでなければ気持ちが伝わらないといった論議が盛んでした いまは全く聞かれません 清書用と考えていたのでしょうか
当時のワープロ専用機にもレイアウト機能はありました エディトリアルデザインにはまったく非力で 使い物にならなかった覚えがあります

発展形として テキストエディターを使うようになりました 取材した内容を片端からメモ書きして 後で文章にまとめるスタイルが性に合っているのです
専用機の次が MacDTP だったのはよかったですね ワードとかエクセルに触らず済みましたから その代わり請求書なんか HyperCard を使って自作する羽目に陥ってしまいました
エディターで書いて QuarkXPress でレイアウトするのに なんの違和感も感じませんでした(でも細かいところでデザインのクォリティ落ちた印象はありました)

一方 新たなアイデアが必要な広告の仕事では もっぱらKJ法を用いていました 思いつくままに書き散らしたメモ書きの組み合わせから コンセプトの姿が立ち上がる感覚がありました KJ法は問題解決の方法ではなく むしろ問題発見のためにあります

KJ法文章化の前段階である カード化とグルーピングには iroha Note が本当に役立っています
アウトライン・プロセッサーもいくつか試してみましたが 使いにくいものでした 私は論理的な思考ができません 線形のツリー形態はダメなのです
デジタルってじつは非連続です 初めも終わりもなく脈絡もない 一定の規則に従っていれば答が出るものではありません 手探り状態はもっとも手工芸に近いのかもしれない

そういえば Google検索技術の根本も 類似性の関連付けですね

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KJ法とiroha Noteとインターネットの親和性

私は現在ほぼ一人で作業します 仕事のための発想法はKJ法を参考にしています
KJ法が他のアイデア発想法と異なるのは 連想をあまり重視しないことと 最初にテーマを決めつけないことのように思われます

こだわりを捨てることで カオスのなかから本当のテーマをあぶり出すとか 思いもかけなかった問題点・解決策を見いだすという感じですか KJ法を用いて ほんの小さなヒントが最終的に全体のコンセプトになるのを経験します

川喜田二郎先生は

  • 親近性を感ずる能力
  • 空間的な関連性を築く能力
  • 時系列的な順序立ての能力

は異なる能力ではないか との仮説を立てておられました

KJ法の本質は 手と目による着想と私は理解しています ロジカルでなく直感です 手でカードを並べ、目で空間配置を見る 手技・工芸に近い?
この時 最初から方向性や優先順位を定めないのが肝要です 関連付け・重み付けの作業を 脳内でやってはいけないのです Don’t think,feel.(考えるな 感じろ)ですね

もし人間の能力に3つの種類があるのだとすれば ひとつひとつの能力を順番に用いて作業するのがKJ法です 一人の作業ですが 人格を3人に分けて共同作業するようなものです

マインドマップも使ってみましたが 頭の中の考えを図式化し 整理するだけのような気がします この点に違和感を感じました 少なくとも私にとっては 新しい発想を導くものとはいえません
私が論理的な思考ができないから 非線形に親近感を覚えるのかも知れません

アイデアは 虚心坦懐から生まれます 理屈はすべて後付けです 人間の脳の記憶容量は広大でも 作業領域は意外に狭いのです
丸暗記とか単なる知識から創造性は生まれません 頭の中だけで考えてもたかが知れています(私だけかもしれませんが)
引き出しをたくさん作るとは違います しまい込まない 整理しないでとっ散らかっていたほうが良い

私の扱う案件は 先方でも問題点をよく把握できていないか 方向性があいまいなことが多いのです 与えられた課題の答を出すのではなく 何が問題なのかを発見する必要があります
すなわち ソリューションではなくコンセプトメイキングの作業 これにはKJ法がうってつけです

実務上では ”アトリエいろは”様の〈iroha Note〉を用いています KJ法をパソコン上で行うため 様々なアイデアプロセッサーを使ってみましたが この irohaNote が一番なじみやすく使いやすいのです
使い勝手がソフトウェア的でなく アナログ感覚なのがKJ法にふさわしい気がします

ところでKJ法の川喜田先生は ご著書で「発想法は電算機に置き換えられるものではなく、たぶん電算機を賢明に使う方法に通じるだろう」と述べておられます
昭和42年の言葉ですよ メインフレームの時代に すでにKJ法とパソコンの親和性を見抜いていた?

また同じ著書で KJ法をマネジメントに応用された城功氏が KJ法を普及させるにあたり「まず5、6人の内弟子をとれ、その他の連中には教えるな。その弟子が、またそれぞれ5、6人に限って内弟子をとる…。これがいちばん効率的な方法だ」とおっしゃっていたと紹介されています
この多角形とコアの構造 WWWを予言しているように思えるのです さらに FacebookとTwitterによる世論形成にも似通っている感じがします

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