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タグ: 小説

日本の文字と絵そして出版

中国人の書は見事なものですが 文字としての美しさがあるのみ 伝・藤原行成の「仮名消息」は絵画のような造形美です[01] … Continue reading 仮名の連綿は日本でなければ生まれない書 草書とも違う遊び戯れる自由があります
この日本好みは散らし書きとなり 料紙が作られ 倭絵と相合わさり 絵巻物として一つの芸術ジャンルを作ります 絵巻物は絵と詞書が一体の表現であり 後世の草双紙出版へと連なります 現代の漫画もこの系譜です

かな文字

それにしても仮名とは なんと控えめなのでしょう わが国字を仮のものというのです[02] … Continue reading 平仮名は漢字の形を平易に固有の文字としました フェニキア文字がアルファベットになったように 何百年かの時をかけて自然にできたものです ハングルといった人工的な記号とは違います[03] … Continue reading 必要ならばあるものを借りればいい この大らかさもまた楽しい
片仮名は漢字の片々を使った略字記号ですね 現在でも外来語の表記で使われるように 漢語で書かれた経文を読むためでした 便宜のため取り敢えずのものであり 芸術としては扱いません(簡体字はカタカナを真似したんじゃないか 人民日報などで句読点を使っていますが これは明らかに日本語表記からです)

中国人は漢字にこだわり 周辺国のことは殊更に卑しめた文字を用います 卑弥呼とか邪馬台国などは典型的ですね 日本人は読みが同じなら同音の別字を使ったりします 文字の意味や一点一画に拘泥するは漢意 大和心は言霊なのです
日本はさほど漢字を尊重しないので 斜めに書いたりして平気です それより絵画的表現に重きを置く 中国の書や陶磁器の絵付けは規矩正しく整然としています 日本人は余白の美とか躍動性を喜んだりする 人工ではなく自然が好きなのです[04] … Continue reading

漢字仮名交じりの文章表記は世界に類のない独特のものです 表音文字のない中国では外来語の表記に苦心しています 日本ではカタカナを使ったり 漢字を組み合わせて新語を作ったりしました じつに融通無碍こだわりがない 文字は借り物として自由に用いたからできたことです(芥川龍之介の「神神の微笑」(青空文庫)が面白い)

絵巻物

源氏物語絵巻 寝覚物語絵巻の吹抜屋台は秀逸な手法です 絵巻物は床や低い机に置いて 肩幅くらいに広げつつ見ます 物語の世界を斜め上から眺めるのです 箱庭を覗くようなものでしょうか だから3D表現を採用したのです
信貴山縁起 伴大納言絵詞は 空間に時間を加えたパノラマ表現ですね スクロールしながら見ますから 絵巻物でなくてはできない 紙は四角に漉きます わざわざ貼り合わせて巻物にしている スペクタクルを表現するために考えられたメディアです[05] … Continue reading

平安の貴族は自由に外を出歩くことはありません ことに子女は帷の牛車で移動します 乗り降りのときまでも傘で覆って姿を隠すほどです 外の世界のことは絵巻物で窺い知るしかない
ヨーロッパや中国の宮廷文化は華やかに咲き誇りましたが 豪壮な宮殿は特権階級のためだけでした 吾が王朝文化は普遍的でした 宮廷の建物は他国に比べ簡素な作りです
当時書物は貴重なものでした 絢爛豪華な絵巻物はなおのことです 吾が王朝文化は貴族だけで独占しません 寺院を建立し仏像をつくり絵巻物の世界を皆に開放しました

実体絵巻

法隆寺中門は中央に柱が立ちます 何か入るのを拒否するような威圧感があります でも他の寺社と同様に門扉で閉ざすことはない 参拝者は中門左側から入山し 廻廊を巡って大講堂に至り 薬師三尊を拝する 今度は右廻廊を経て中門の右側から退出します[06] … Continue reading
見ることのできない仏世界をバーチャル体験する テーマパーク演出といえましょうか 混雑を避けるためであり 絵巻物の世界に入る仮想現実です

洋の東西を問わず寺院は一般(信徒)向けです 門前町の賑わいも変わりません 他宗教において聖地巡礼は 信仰に基づく宗教儀式であり厳しい旅でした 苦労の末たどり着いた教会は 信者を慈悲深く迎えます 新約聖書によると教会はキリストの体を表します 荘厳な装飾は神の威厳を示すためです
日本は江戸時代に至っても寺社詣では物見遊山でした 日本仏教は大乗仏教です 在家にあまり戒律を求めません(腥物を食べないのは修行僧だけです) 寺院建立は衆生を救うための公共投資インフラ整備でした また絵巻物と同じ心でもあったのです

簡易絵巻

元禄から始まる江戸時代の文化は庶民(町人)が主体です 日本人の識字率が高かったため 出版文化が盛んになったのも特徴といえましょう
草双紙は文字(ひらがな)と絵が一体となった出版物です 小説とはいえ絵が主体で 文字は絵と同じ扱いになっています 挿絵とも絵本とも異なっていて やはり絵巻物の系譜なのです
冊子の形態になっていますが ページネーションの意識はありません 絵巻物は四角い紙を長く貼り合わせます(巻子本) 絵草紙は四角い紙を折って綴じたものです 形態は違えど共通点があります[07] … Continue reading
他の国でも巻物や綴本の形態はもちろんあります しかし絵巻物の発想は見られません そしてほとんどの書籍は聖典・経典などで 庶民向けの出版文化も日本だけのようです

註釈

註釈
01 藤原行成の仮名真筆は残ってないとされるので(伝)が付けられます 美しい書の象徴のような名前だったのですね そう伝えられてきたというところに意義がある 書いたのが行成であろうが他の人であろうがどちらでもいいのです
歌舞伎で義経が突然登場し「さしたる用もなかりせば」と引っ込むのと同じ感覚です(シャボン玉ホリデーの植木等はこれのカリカチュアライズ?)
02 万葉仮名といいますが 万葉集も古事記・日本書紀も漢字で書かれています とくに万葉集は音訓入り乱れてほとんど判じ物です あきらかに漢字で遊んでいます 対して古事記は音読みで一文字づずつ対応し 読み間違えることはありません 公式文書だからです 日本書紀は対外的な広報誌ゆえ 外国語(漢語)で書かれています
03 上古に古代文字があったというのは捏造でしょう 古史古伝のことを詳しく知らないのですが ホツマツタヱに書かれていることは 江戸時代の習俗であったりします 精査すれば大和言葉でなく漢字を組み合わせた語句もあるんじゃないですか
土器に秀真文字と同じものが彫られているのを見たことはあります 当然ただの紋様ではなく意味があります おそらく呪符・呪文のようなものではないでしょうか 象形文字といっても良いと思います 仮名で文を書く使い方ではない
TVドラマ ベン・ケーシーのオープニングで描かれる ♂♀*†∞が印象的でした 土器が穀物を保存するためとしたら 種蒔き・芽生え・稔り・刈取りなどを表すのかもしれません 豊穣を祈り そして日本の四季は巡ります 永久に繰り返すのです
04 カリグラフィーも絵画的表現です 仮名の連綿や散らし書きの動きある表現に比べ 単語・語句を一塊の 固定された物(オブジェクト)として形作り 配置します
花文字等の装飾文字はありますが テキストの絵画的表現であり 絵と文字を一緒に扱うことはないようです 日本にも「あしで」と言われる装飾文字がありました 和歌を書き表すためですが 万葉仮名以上に読み解くのが難しく 失われ伝わっていません
05 高畑勲著「十二世紀のアニメーション」徳間書店刊はじつに優れた日本文化論です この漫画的なるものは研ぎ澄まされ「軽味」の境地へ向かいます 日本刀の切れ味はフワ・サクです 力任せに振り回すものではない 据物斬りは見せ物です 文藝絵画にとどまらず日本文化の本流がここにあります(江戸時代まで芸術とは剣術のことを言いました)
06 法隆寺のリノベーションに携わった宮大工 西岡常一棟梁のご意見です 自ら木を刻み組み立てる中からの見解です つべこべと理屈を立てる学者では到底この発想に至りません
07 中国の冊子は粘葉装といい 二つ折りにした紙の背側に糊を付けて製本します(無線綴じですね) 江戸時代の和装本は袋状の小口を糸で綴じました 糊付けでないこの方法なら 巻物を冊子や折本にすることもできます その逆も可能です
茶人を名乗る益田鈍翁なる者が 自らの茶室にかけるため 貴重な巻物を手に入れようとした際 競合相手(松永安左エ門?)と切り離して買い取りました そのため散逸したり欠片が生じた巻子本があります 浅薄であり思い上がった不行儀な振る舞いです
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海洋民族の環日本海文明

Youtubeで誰かが 2万年前は日本列島と半島・大陸は地続きだったから 縄文人は徒歩でやってきたと話していました この人は石器時代からカヌーが使われたことを知らないのです 縄文時代に陸路があったとでも思っているのか[01] … Continue reading
人々の移動は主に食糧を求めて 生活圏が広がったり移行することから起きます 遊牧民でも一定の地域から出る事はありません 4世紀フン族の大移動も遠征ではなく版図の拡大です[02] … Continue reading 縄文時代に最果ての地を目指し 陸路長途の旅をしたとは考えられない[03] … Continue reading

日本海が中心だった

当時は最終氷河期の終わりですから 海面が低下し樺太と大陸・北海道が地続き あるいは常時結氷していたかもしれません しかし極寒の氷の上を徒歩で移動するのは 雪原を歩いてみればどれだけ困難か分かります
対馬海峡は塞がっていなかったでしょう 巨大な内海と化した日本海を介して 交易が行われていたと考えるのが自然です 内陸には川を遡って行けます わざわざ道なき陸を大荷物担いで歩く必要はない
文明とは経済活動です 経済活動の基本は交易・物流です 人も荷も流通は水運が担っていました これは鉄道が敷設される近年まで続いていたことです[04] … Continue reading

人々は何かの都合や目的を持って大挙 短期間に大陸から日本に押し寄せたのではない 旧石器時代以前から時間をかけ 海や川伝いに漁場や狩場を探し 適地に定着して農耕も始め 集落を築いたのです 石器時代はすでに あちこちの集落同士で交易がありました
縄文早期に重なる新石器時代には カヌーの原型である丸木舟が登場しています 皮張りカヤックや葦船のような筏は それ以前からあったはずです カヌーは双胴にしたりアウトリガーを取り付ければ 外洋航海も可能な船です 何らかの帆も使っていたことでしょう[05] … Continue reading

北前船は江戸時代になって突然現れたわけじゃありません 日本海側沿岸伝いに樺太から北陸に至る航路は 石器時代・縄文時代からあったのです 朝鮮半島東岸から渤海まで回航していたでしょう 縄文時代すでに木樵や船大工の専従者がいたかもしれません
そうしてみれば縄文時代から環日本海文明があったと 仮定してもおかしくないことです むろん中国の文献には書かれていません 有史以前のことですし 中国にとって辺境の地にさしたる関心はない
伝聞を記載し しかも殊更に卑しめた文字を当てはめる中国の文献より 発掘した資料やご先祖からの言い伝えを拠り所にした 想像力と常識の方が大切です

日本海以外は

オホーツク海を中心とした カムチャッカ半島・千島列島・蝦夷地と関連はありそうです ここの人達は太平洋側沿岸を行き来していたのではないでしょうか[06] … Continue reading オホーツク経済圏と言っていいかもしれない この経済圏の経済を担っていただろう北方系の人は 丸木舟を竜骨代わりにし側面に板を張り付けた イタオマプチ舟を操っていました[07] … Continue reading
九州から朝鮮半島西岸 黄海・東シナ海で交易はどうなんでしょう 台湾・琉球諸島をもって環〇〇文明圏とは言い難い 後代にいわゆる倭寇が活動するくらいなものです

戦国時代アユタヤに侵攻しようとしたスペイン船を撃退したのは 倭寇と呼ばれた人達でした なにか大東亜戦争を彷彿させます 渤海も後年の満州と地域が重なりますし 歴史は繰り返されるということかもしれません
そういえばヨーロッパでも古代 ゲルマン民族はギリシャ・ローマから蛮族扱いでした バイキングは倭寇のようなものだったのでしょう

このように日本人は海洋民族でしたが 中国人(漢民族)にとって海の向こうは異界です シルクロードが象徴するように西域との交易が主でした 自由に海上貿易を行なっていた人たちを倭寇と呼びました
今のように中国が海洋進出するまで もともと制海権は日本が握っていました 台湾はもとより海南島も漢民族の住むところではなく 流刑地で蘇東坡が島流しになったりしています 蒋介石が台湾に逃れたときでさえ 毛沢東は追撃できなかったくらいです

遠い弥生時代に海路でも陸路でも 大陸から籾を持って日本を目指す理由もありません 稲の原産地は南方ですから 北上し日本に来たのは確かといっていい 水田の適地に耕作地が広がったのです[08] … Continue reading だから伝播という言い方がふさわしい 米は交易品だったのではないか 米作りの拡散も海上交易の結果でしょう
流通・交易を通じて情報が伝わるのです 陸稲の熱帯ジャポニカ水稲の温帯ジャポニカ ともに島伝いに伝わったと思われます 八重山から沖縄に至るまでに 熱帯ジャポニカの遺伝子を持つ温帯ジャポニカ在来種が認められます 農業とくに水稲米は田作り・治水です 一所懸命・土着のものなのです[09] … Continue reading  どこかから渡来するもんじゃない

2022年2月20日追記=中近東アブダビの島で8500年前の住居跡が発見されました 以前にも同地域の島で同じような遺跡が発見されています 住んでいたのがどのような民族かわかりません 遊牧民ではないですね 漁業が主だったのでしょう 集落同士の交易があったかどうか カヤックかカヌーか船を使っていたのは確かなことです)

註釈

註釈
01 旧石器以前の人たちは徒歩で日本にやってきたかもしれません それは狩場を求めての移動であって何千年の時間をかけてのことです どこかから大挙して日本を目指したわけじゃない
02 匈奴・フン族・元など騎馬民族による広大な領土拡張は 武力を背景にした収奪支配・植民地です 遊牧民が交易を担っていた あるいは交易をしていた商人を保護する代わりに 通関税を取り立てるという支配形態です
騎馬民族が交易を独占した理由は説明するまでもありません 陸上の交通手段である馬を制していたからです 冒険商人が海上交易を独占し やがて港を基点に植民地を拡大したのと同じことです 港にあたる中継地は各地の都市です 都市を武力で制圧して 海上交易と同じように陸上交通を支配したのです 自ら定着して農耕や生産をしたわけじゃない
長征には補給路の確保が伴います 武器と人馬の糧食ですね とくに飼葉が重要です 嵩張るので持っていくのが困難 時間をかけて兵站を築いていかなければ とうてい遠征なんて不可能です セルバンテスの小説ドン・キホーテでイン(日本でいえば木賃宿)に泊まるシーンがあります 馬のために飼葉を用意していて ついでに人も泊まれる(ベッドの用意はない)施設のことです
03 グレートジャーニーのイメージに囚われているのではないでしょうか 人類がたった一人の女性から始まったなんて アダムとイブのお話から一歩も出ていない アフリカから一方通行で人類の居住地が世界に広まるというのは考えにくい 有史以前に南海の島々が陸続きだったのだろうか たとえばマダガスカル島に最初定住した人たちは アフリカ系ではなくボルネオ島に住む人たちでした 同じように中国大陸から半島を通って一方的に 人々や文明が日本列島に来るなんて不自然です
地球の気候は寒暖を繰り返していましたから その時々の食糧事情で南に向かったり北に向かったのではないか 船が使われるようになって 移動距離は飛躍的に延び移動時間は短くなり ペイロードは増えました そして交易(文明)が始まります 道路が整備されたのは遥か後代 車輪が使われるようになってからです
04 むろん石器時代・縄文早期に国はなく 日本列島や半島・大陸なんて意識しません 日本海を中心にして沿岸に点在する 集落同士の交易だったのです 朝鮮半島から九州に渡った人たちはいたでしょう その人たちは今の朝鮮人とは全く違う民族です 半島東南岸に縄文の人々が定着していた可能性もあります 後代の任那府の始まりです
05 おそらく祭祀の宝飾品に使われた糸魚川の翡翠が 全国に流通していたことが知られています 生活実用品の材料であった諏訪の黒曜石は 5千年以上前には大規模な採掘が行われていました 土器などと同様に専従者がいたのではないか
06 日本海側では昔から塩ブリ・塩鮭・ヘシコが保存食でした 太平洋岸には潮カツオがありました 西伊豆に残ります この食文化が鰹節(お江戸では小型の焼津節が重用されました)やクサヤとして続いているのです 江戸っ子が鰹を珍重するのは(5月のカツオは脂が少なく加工に向きます) 縄文時代からの伝統といえます
和漢三才図会に 堅魚の肉片や小骨を敲き混ぜて塩辛にしたものを 俗にタタキという記述があります 紀州熊野・勢州桑名・遠州荒井・相州小田原の名物とあります 鰹節の産地と重なっているので 副産物でありましょう
07 確証はないものの東北から関東に至る太平洋側沿岸には 北方の系統と思われる地名がたくさんあります 坂上田村麻呂と戦った阿弖流為は 明らかに北方系の名前です 奥州安倍氏に至ればかなり同化してきたと見られます 現在のアイヌの人たちも元を辿ればツングース系であり 古代北方系統の人と同系です
08 中国大陸は南が米作地帯で北が麦作地帯と明瞭に分かれています 気候風土によるものです 中国東北部から朝鮮半島内陸部で農業・漁業は行われず 採集・狩猟・遊牧が主だったでしょう 米作りが朝鮮半島を迂回する必然性はありません
09 中国の文献にばかり頼る(有り難がる)から 大陸・半島から日本列島に進んだ技術・文明が齎された なんて思い込みが生まれるのです 日本人は石器時代から船で自由に行き来していました
「3万年前の航海(国立科学博物館)」では 台湾から与那国島まで丸木舟を使って2日の航海で到達しています 例によって毎日新聞・朝日新聞あたりが 取るに足らない難癖をつけて 2日間で渡ったという事実を無視しようとしています 情報操作の一つですね
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車寅次郎 渥美清 田所康雄

俳句

お遍路が一列に行く虹の中 風天

じつに美しい しかも壮大なこの句の作者は 車寅次郎 草むらの端に四角い顔が見えます 「わたくし 生まれも育ちも東京葛飾柴又です 帝釈天で産湯を使い 姓は車名は寅次郎 人呼んでフーテンの寅と発します ♫〜」
句会では渥美清と言ってたようですが 吟じたのは寅さんです 日本人のほとんどがフーテンの寅の顔を知っています でも渥美清こと田所康雄の素顔は誰も知らない 自宅とは別に仕事部屋を持っていたそうで 家族には渥美清の顔を見せない
「夢であいましょう」「若い季節」の頃は たしかに渥美清という役者がいました しかし「男はつらいよ」以来 晩年は車寅次郎として生きました 公の場に出るときは常にあの恰好だったそうです

カラー版新日本大歳時記の例句にあります 高浜虚子の句と並んでいるのですが 春の季語「遍路」の項に入っています 虹は夏の季語です つまり季重なりということになります 季重なりがダメということはなく もちろんこの句は秀句です[01] … Continue reading
なんて偉そうなことを書きましたが 季重なりという言葉は TV番組プレバトで知りました 梅沢富美男さんと夏井いつき先生が俳句を盛り上げてくれました 俳句をやっていた知人に聞いたところ 句会とくに宗匠のいない互選では 互いに貶し合う 結構いやらしい世界なのだそうです プレバト梅沢・夏井ご両人のやりとりは その辺を戯画化したのでしょうか

俳諧の諧は諧謔の諧です 俳味とはシニカルなユーモアを交えた表情でしょう そういえば芭蕉庵では 漢籍その他の古典とくに西行の知識がないと まるで相手にもされないという雰囲気だったようです 蕉風を否定した正岡子規も 結局は相手に対してケチを付けているわけです
風天の句の背後には 寂しい風景が広がります 師を求めず独学で俳句を学びました 見つめていたのは自分の心 旅から旅の渡世人が内に抱える孤独 生国に戻れば人情味あふれる人たちが温かく迎えてくれます でも自分の居場所はなく また旅に出るしかない「そこが渡世人の辛ぇとこよ」[02] … Continue reading

渡世人

願わくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ  西行法師

西行法師として伝わる数々の逸話は 脚色されたものが多い[03] … Continue reading 芭蕉の知識も文献から得たものです 陸奥への旅もそんなところから思い付いたのではないでしょうか 西行の足跡を訪ねた芭蕉「奥の細道」は 同行した曾良の記録によれば 各地の富裕な弟子の家に招かれ歓待された旅でした 近年でも乞食僧のなりをして 放浪しながら作句した俳人がいます 句友の家に行き酒をせびるという 托鉢の形を追っただけにしか見えません[04] … Continue reading

渥美清は自らのことを多くは語りませんでしたが 若いころ浅草でテキ屋さんの手伝いをしたことがあるようです テキ屋さんは露天商という歴とした稼業人 博徒なんかの遊び人(ヤクザ)とは別です
親分を持たずカバンひとつで各地の祭礼を巡る旅人はいました[05] … Continue reading カバンの中は財布など嵩張らず軽くて値の高い商品です 「手前儀 生国は関東葛飾柴又でござんす 故あって親一家持ちません 姓は車名は寅次郎と発します しがない者にござんす」

冒頭の句は定形に収まっていますが 風天の他の句はじつに自由です 定形に対する自由律だの破調といった 狭い世界とは無縁の自由なのです 俳句のリズムを借りていても むろん素人で俳人ではない[06] … Continue reading
お遍路は疎外された人たちといいます お接待に頼る同行二人 決して孤独ではない 渡世人は自ら社会の枠組みから離れた自由な身です 自由は自律自助 一宿一飯の孤独な旅です 車寅次郎はお遍路を見ているが 列に加わることはありません

註釈

註釈
01 風天の句は無季であったり 季語が3つも入っていたり でもそんな事は気にしない 字余り字足らずも頓着しません 上手い句を作る気なんかないし 技巧には拘らないけれども 言葉に対する独自の感覚を持つ 確かな俳句なのです
02 旧知の永六輔に誘われたのが俳句を始めるきっかけ 風天の俳号は自分で名乗ったんじゃなく 話の特集句会で皆に付けられました 車寅次郎の顔の下に渥美清の顔があり 田所康雄の素顔は見えない 同じ顔なのに場面によって変わってくる
03 西行は決して漂泊の身の上であったわけでなく いわば高等遊民みたいなものです 私は同じく武家を捨て 法然の弟子となった 熊谷次郎直実が好きですね 不器用で一直線 なにか可愛気があるというか 憎めないところが 寅さんに共通するような気がします
04 風天自身は 種田山頭火の句を色紙に書いたり 尾崎放哉の役をやりたいと言っていたそうです 早坂暁脚本の山頭火を描いたNHKドラマの主人公にも決まっていました どのような理由か出演を辞退し フランキー堺が演じました
05 旅人(渡世人)にはテキ屋さん博徒の他 渡り職人もいました 菓子職人とか「♪包丁一本サラシに巻いてェ」の料理人なんかです その昔の傀儡師や「伊豆の踊子」に描かれる旅回りの芸人一座もそうです
巡礼にご報謝 巡礼は花山法皇の三十三箇所巡りからと聞きます お遍路と同じく遊行僧の形を真似ただけ もともと宗教的意味は薄く 一種の物見遊山・観光です 渡世人とは全く違います
06 話の特集句会の頃は 皆とビールを飲んで楽しんでいたそうです アエラ句会では披講の後の歓談(二次会)には加わらなかった 病気が進行していたためですが 山頭火のドラマを断り(渥美清に戻ることを諦めた) 渡世人・車寅次郎として生きると決めた時にほぼ重なります
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