稲と芋の文化

稲作技術が日本に伝わったという言い方はよくありません 木の実・草の実で飢えを凌いでいた未開の原日本人(縄文人?)に 大陸から(朝鮮半島経由で)進んだ文明がもたらされたと誤認させる意図があります 唯物史観[01] … Continue readingでしょうか 最初に理屈があり それに合わせてイベントを組み立てるという

人々は最初 食べ物に不自由しない南方で暮らしていたと思われます どのような理由か次第に北方へ移住して行きます そのときはタロイモ(里芋)の種芋を携えて行ったのでしょう いまでも里芋のことを「太郎芋」と呼ぶ地域があるそうです
その後に籾を携えて移住してきた人たちがあります 芋を主食とした人たちと争いがあったかもしれません しかし陸稲にしろ水稲にしろ稲作は朝鮮半島経由ではありません 籾を持って陸伝いに道なき道を北の地域へ行き それから南下したとは考えにくい
稲は南方の植物です 素直に考えて日本へは南から船で渡ってくるでしょう そして沿岸に定着するはずです

古事記・日本書紀に「枯野・軽野」と呼ばれる船の記述があります これはおそらくアウトリガーの外洋カヌーです 沖縄サバニ船の先祖かとも思われますが不明です 東北地方にもサッパ(笹舟・小舟=サプネ?)という船がありますから 日本列島沿いに海路の交通があったはずです
湖南省あたりから種籾を担いで 満州・朝鮮半島経由の陸路で日本に来るなんて 絶対にない いずれにせよ稲を育てたこともなくカヌーを漕いだこともない学者には想像できないことです こんなことを唱える連中は田植えが後ろ向きに進むことも知らないでしょう

北方の島伝いに船で交易していた オホーツク文化があります 縄文前期の頃です 定住していましたが農耕はやっていなかったようです 千島列島から樺太を巡る オホーツク海南部で活躍した海洋民族でしょう
中心となるのは網走でした カムチャッカ半島北部(内陸)はトナカイ等の狩猟や遊牧ですね 交流はあったはずですから 船はエスキモーが使うような シーカヤックかもしれません オホーツク文化はアイヌ文化へと引き継がれました

沖縄のサバニ船とアイヌのイタオマチプの構造はよく似ています ともに船底を一本の木をくりぬいた丸木舟状のキールで形作り 側面に板を張り付けるハギ船と呼ばれるものです 津軽海峡のムダマハギ参照
沖縄から宗谷岬までカヌーで渡航する実験をした人がいます 一人が櫂で漕ぐだけで平均1日50キロ以上は進んだそうです 日本海流(黒潮)は秒速2メートルの速さです
古代の人たちは操船技術に優れていたでしょう キールがあればマストを立て帆も張れますから 天候に恵まれ海流に乗れば1日200キロも不可能ではなく そうすれば南方から日本に到着するのに1週間か十日ぐらいかと想像します 島伝いならそれほど困難な航路でもなさそうです[02] … Continue reading

芋を運んだ古代の外洋船は丸木舟構造ではなく 竹で骨格を作り獣皮や樹皮で外殻を覆った シーカヤックではなかったか また東南アジアには内海用ですが竹籠で作った船もあるようです(コールタールで防水していた) これらは軟式構造のため丸木底舟に比べて船脚は早くありません
おそらくカヤックで来たのは石器時代から縄文前期のことです 暖流に乗ってやって来ました 縄文時代には漆が使われていますから 後期には竹釘と漆で丸木に板を接着したハギ舟で 稲籾を運んだかも知れません イタオマチプは板を紐で継いだ縫い合わせ船ですから 中間の縄文中期あたりでしょうか

最初芋を携えてきた人たちは竹も利用していました 竹細工を生業とする竹取翁はこの系統の子孫です 竹取翁物語は藤原氏になぞらえていますが 稲作民の大和朝廷に月の世界の人(芋文化?)が対抗する内容です 竹取翁物語に「月の顔見るは忌むこと」とあります 下界の汚れた食べ物云々は米のことですね多分 とすると月見とは?

註釈

註釈
01 唯物史観って皇国史観の裏返しと見ていいでしょう 日本の文化・歴史の中心に天皇がありました この事実(ファクト)を片一方は王者になぞらえ もう片方は覇者になぞらえたという感じ どちらも自分に都合のいいように 借り物の理屈を持ってきただけです(牽強付会というやつだが なぜか変換できない)
02 いかに海洋民族が遠目がきいたといっても 大海原で島影はほとんど視認できません 自らの位置を知り航路を確かめる術は 月と星の観測です 月読命は航海の神であったのです かぐや姫物語や羽衣伝説はこのことを伝えます