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ニッポン スゴイデスネェ

ブルーノ・タウトは桂離宮を誉めるため 日光を貶して見せた 東照宮の彩色を嫌う日本人はいるから媚びたのであろう とくに侘び寂びなどといっている者たちに 実際のところタウト以前から 桂離宮(の庭)を称賛する茶人は多かったようだ[01] … Continue reading
しかしながら 桂離宮を皇室芸術と呼び東照宮を将軍芸術と称し 京の帝に対して江戸の将軍を覇王と見るのは 中国と日本を一緒くたにする 西洋人の浅薄な思い込みである

桂離宮と東照宮ともに江戸時代初期に造られた建築である 桂離宮は王朝風に近世の意匠を取り入れている 数寄屋風もあり庭には茶室が配される 数寄屋は茶室を示す通り 利休の影響が顕著に表れた建築様式だ[02] … Continue reading
東照宮はなんと言うべきだろう 唐様から脱した権現造の過剰な装飾にまったく嫌味がない 権力と財力に飽かせて華美を誇った 大陸の覇王とは別次元なのだ 私には縄文から伝わる情熱のほとばしりに見える[03] … Continue reading

ニッポン・スゴイデスネェ 外国人に褒めてもらって喜ぶ者は いまだに数多くいる 典型的なのは世界遺産登録とやらである 沖ノ島(沖津宮)は日本民族だけの 神話・伝承・太古の記憶である 他国や異教徒の者共を入れてはならない 観光地化するなど冒涜の振る舞い 神域は世俗が入れないから尊いのである
ほぼ同時期のマヤをはじめとする南米文明を継承する人たちは いまや600万人に減少した(ほとんどの人たちは父方にヨーロッパ人のDNAを持ち マヤの血筋は母方のミトコンドリアに留めるばかり) ひとつの文化文明を維持するのに必要な 最低限の人口である[04] … Continue reading スペイン人による蛮行と その後の内乱のため 今でも南米は国情が安定していない
そもそもユネスコあたりが 世界各地固有の歴史伝統を一律に評価する権限は持たないはず なにを思い上がっているのか

メソポタミア・エジプト・インダス・黄河の4大文明?[05] … Continue reading 人の住むところ世界どこにも文明の歴史はある だが滅び朽ち果てた廃墟を自慢しても始まらない まぁ確かに廃墟・遺跡だから遺産なんだろうが
日本に廃墟はない 縄文からの伝統が今に息づいている 途絶えることなく一万年続く 沖ノ島に神が宿るのではない 島が神なのである 人格神は後付けにすぎない 木の社などは朽ちたら建て替える 形あるものは永遠でなく 生まれ変わることで伝えられる それが日本文化・文明の姿である

エジプト考古学者の吉村作治が中心となった運動により 『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群の名称で ユネスコに登録されたそうだ 余計な事をしてくれた エジプトの遺跡などたかだか4000年の歴史しかない 日本の神社は縄文時代より1万年以上の歴史を持つ
しかし木の文化ゆえ 石のように遺跡として残るものではない 様式・作法・慣わしとして伝承されるのが 吾が国の習いである 掟と言っていいかも知れない ねぷた・なまはげ・塞の神なども縄文から伝わる
エジプトやギリシャの失われた文明遺跡と同一視し 縄文の昔から今に生きる伝統を遺産とは何事か

註釈

註釈
01 桃山文化は海外(西洋)文明に触発されたものだが そのまま取り入れてはいない 利休好みは侘び寂びと言っても 数寄屋風に禅宗(大陸)味は強い 豊太閤が好んだは土俗の趣が深い気がする 東照宮もまた然り古来の情念である
02 侘び寂びなどと言いながら 数奇とは唐物数奇であって 舶来の珍しい物を飾り立てた 数寄屋風の建物は一見質素なようでいて 珍奇・希少な材を使った贅沢なものとなっていく 村田珠光の茶を正しく受け継いだのは 丿貫であったかもしれない
03 日光東照宮は門も加えると55棟もの社殿が 日光全山に配置されている 景観を損なうことなく人工と調和させるのは 古来から日本人の美意識である 建物は自然と対峙するのではない 神社のみならず仏教寺院も山号を持ち 山寺として風景に一体化する だから懐かしいのである
04 アステカの精緻な石組の技術を伝える石工が 近年までいたとの話を聞いたことがある このままでは早晩南米の文明は失われる 今ギリシャに純粋な古代ギリシャ人の末裔はほとんど居なくなった エジプトも然り古代の文化文明を伝える者はなく どちらも半ば崩れた遺構が虚しく残るのみ
05 4大文明と称する所はいずれも大河の周辺である 河川は内陸と海を結ぶ重要な交通路で これらの文明圏はそれぞれ独立していたのでなく 互いに交易していたわけである 大河のない南米の文明圏は孤立していたように見える
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無嗜みで焼物の価値が理解できない

中国や朝鮮の陶磁器はたしかに優品です しかし吾が国のものに比べ 技巧に走り生命を感じさせません 時の権力者の命に従って 欠点のないものを作ることに腐心している 造り手のゆとりがない精緻な細工物です 朝鮮の両班たちは陶工の作った最上のものは納めず 次善作を中国の皇帝に献上したといいます 同じものを作れと言われた時のためです 歴史からくる強かな生き方です[01] … Continue reading

なにかの雑誌で骨董とは茶道具のことと書いてありました たしか武者小路千家の方だったと思います 茶は剣・禅とともに武家の嗜みでありました[02] … Continue reading 江戸時代まで名物といわれる茶器は 諸大名が所有するものでした
明治維新で版籍奉還があり大名の台所事情が怪しくなります そこで手元にあった茶道具などを売りに出します 秘蔵品が俄かづくりの華族や政商・成金の手に渡りました
さらに昭和大戦敗戦の後 GHQによって華族が廃止され財閥が解体されたことにより 骨董品が一般に出回り市場が形成されたのだそうです 書画骨董といいますように美術品と骨董は異なります 古物愛好の骨董は趣味であって文化芸術とはいえない

古い工芸品を骨董と言ったのは明治になってからのようです しかし武家の嗜みから離れた骨董は 茶の湯からも遠ざかり 単に希少な器物 年代物の古道具(アンティーク)と同列に扱われます
TV番組で中島誠之助氏が海揚がりの器に数十万円の値をつけていました その上でもしこれに箱書きがあったら数百万円になるだろうというのです 難破船から引き揚げた輸出品ですから 同じものが幾つかあります
値の差は箱書き(箱代?)なのです 器物そのものの価値じゃない 名高い名物は袋の上に袋を重ね 箱をさらに大きな箱に入れています それぞれに由来があるそうで 付加価値が積み重なっていくのです

利休の数寄執心は 殊更で素直さがないものです 心得のない者の目には捻くれているとしか見えません ことに楽焼などは作為が嫌味です さらに下って柳宗悦の民藝など 高みから教え諭すかのような態度は不快です[03] … Continue reading 青山二郎の系統に至っては半可通の集まりでないですか[04] … Continue reading 北大路魯山人の趣向は品下った衒いしか感じられない[05] … Continue reading 陶器の世界は無粋な私など さっぱり分からないことだらけです

註釈

註釈
01 中国では油滴天目が尊ばれ 日本においては窯変天目が喜ばれます 窯変は文字通り人の手になるものではありません たぶん油滴の出来損ないなのです 日本人が価値を見出した失敗作を 高値で売りつけた?
小林東五翁が窯変の一種カイラギ生成の理を発見しました 李朝高麗陶磁を作る際高台の削りと仕上げを急いだことにより偶然できたようです 陶工たちは同じ規格のものを大量に作ることを要求されていました その中の優品を中国に納めていたのです 井戸の辺りに放置されていた不良品?に 千利休が美を見出し価値が生まれました
02 茶室の始まりは慈照寺(銀閣寺)東求堂内にある〈同仁斎〉といわれます 足利義政が村田珠光に習って作ったものです 鎌倉以来の武家は武具以外の文化を持つことができなかった 侘だの寂だのという言葉は見栄なのかも知れません 太閤秀吉が開いた北野大茶湯の顛末は興味深い 秀吉は武家ではなかったのです
禅はインド出身の達磨大師が中国で広めました 老荘思想と仏教が一緒になったもので 個人の内面を重視します 実力主義の武家に好まれました
徳川の世になると公的秩序である儒教(朱子学)が取り入れられます 桃山文化は統率を嫌う大阪庶民の間に残されることになります
03 柳宗悦の民藝運動は 李朝工芸品の雑器を持ち上げたところから始まります 利休の真似をしたのかどうかは分かりません やがてバーナード・リーチと知り合い 日本国内の雑器をイギリス人も認めたと褒めることで 好事家が高値で求めるようになります 骨董とは違う市場が形成されたのです
04 私は貧乏人ゆえ茶には縁がなく 骨董のことは知りません だから良さが全くわからない しかし小林秀雄の文を読めば もっともらしく書いていても修辞に満ちた いい加減な内容です 他の者も推して知るべしであろうと思っています
禅問答もさっぱりわかりません 高校生の時に人に勧められ 鈴木大拙を読みましたが さして感銘を受けなかった ま「BUSHIDO The Soul of Japan」よりはマシですが 柳宗悦なんかと同類の様です 禅林の枯山水もいいと思いませんね 足立美術館の庭のほうがずっと素直です
05 「美味しんぼ」の海原雄山は北大路魯山人がモデルですね 魯山人はやはりセルフプロデュース力に優れています 雁屋哲氏の漫画の方も食に関して大変な影響力がありました しかし自らの見識で書いているのではなく あちこちの書籍などから拾ってきた 無責任な受け売りばかりです とくに日本酒への悪質なデマ拡散は目に余るものがあります
借り物の内容を検証もしないで 海原雄山に語らせる 魯山人は豊かで繊細な感受性の持ち主であって 傲慢さはその裏返しなのだと 愛弟子辻義一氏は言っておられたそうです 優れた味覚を持っていたにもかかわらず アサヒビールを愛飲していたとか 当時は大吟醸がなかったので仕方ないか
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古代びとの信仰

自然神信仰

吾が国において 畏敬・崇拝の対象になったのは 美しい風土ときに厳しい自然そのものではなかったか 自然とは無常です 移ろい行くものです 繰り返すから永遠
お釈迦さまの説いた仏教は 穢土(此の世)を逃れ 浄土(理想郷)を目指すものでした しかし吾が国人は 美しい国土に浄土を観ました 現世を美しく思う浄土現前
花鳥風月 虫の声まで愛でるのが 日本人の心です 今ここにある たわい無いものが 尊く美しい[01] … Continue reading 現実逃避したり 我欲にとらわれないのが 和の習いなのです

仏教がいう穢土とはカースト制のことです 生まれながらに階級が定められるので 死をもってしか自由・平等は得られません[02] … Continue reading 一神教が生まれたのは過酷な砂漠です 限られた緑と水を部族間で争奪する世界 互いに闘い現実を克服するのが生きることです[03] … Continue reading
仏教は現実逃避であり一神教は戦う宗教と言えます 縄文時代の暮らしぶりは分かりません 日本の気候風土は比較的おだやかです そこに住む人たちは あるがままに穏やかな生活を送ってい 互いが争うことは少なかったでしょう

惟神の道とは 四季の巡りに委ねることかと思います あらゆる作物も漁撈も狩猟も すべて自然の恵みです 自然によって生かされていたのです 自然からの恵みに感謝し自然の災いを慰撫する 祈りと祭りが吾が国の人々の信仰でした
これが変化したのは水田でしょう 水稲米は陸稲に比べ収穫量が多いものの 治水のため大規模な土木工事が必要になります 米作りそのものも集団作業です 統べる者が現れ 水利を囲って諍いが起き ついに武装するに至ります[04] … Continue reading

人格神信仰

八岐大蛇を退治た素戔嗚尊は 川の流れを制し奇稲田姫を得ます 米作りの神です にもかかわらず高天原で田圃を壊したりしています 米作りの神は風雨を司る天候の神でもあります 雨風は稲作に欠かせないが過ぎれば暴風雨なのです 地上に追放されて 大宜都比売命から食物を分け与えられますが これを斬り殺してしまいます 食べることは穢きこと 生きることは命をいただくことです
縄文時代の動植物を象った生贄が次第に土偶の姿となり 大宜都比売命・保食神の人格神と繋がります 土偶は動植物から人格への過渡的形態です すなわち記紀で描かれるのは 自然神から動植物神そして人格神に変わったことの象徴と見ます 芽生えは生であり収穫は死です 大気都比売神は斬られ土偶は欠かれます 命は奪われて伝えられ繰り返されるのです

和国大乱を鎮める日女御子は縄文への回帰であったのか 私には「なよ竹のかぐや姫」と重なって見えるのですが 御門をも袖にする月の世界の人 月の光は武装した者を無力化します 最後に天の羽衣が登場します 衣・食・住といいます 衣が人の帰趨を決定するのです(旧約聖書・創世記では食が最初でしたか)[05] … Continue reading
羽衣伝説は海辺や川縁が舞台です また地上に留まった天女は豊受大神とされることが多い 竹取物語はいろいろな伝承が入り混じっていて とくに後段は阿弥陀三尊の御来迎に影響されているかもしれません とすると かぐや姫は穢土から浄土へと向かったことになります 月の世界は不老不死で四苦はない その代わり喜怒哀楽も情愛もない世界です 清浄であるが豊かとはいえません[06] … Continue reading

縄文と弥生の信仰

満月を愛でるのは実りの秋です 竹籠に盛って供えるのは芋と栗と豆です 三方に団子は江戸時代に入ってからのこと 竹取物語には月を見るは忌むことという件があります 稲作の神である太陽神と 他の作物や漁業の神である月の神との葛藤が伺えます[07] … Continue reading
あらゆる祭礼の本祭は宵祭の神楽です そして神の遷座があります 天の羽衣に着替え月に帰るかぐや姫の乗る御輿(車と書いてありますが 宇宙船でしょうね)は宙に浮かびます 祭礼の神輿は決して地面に置くことはありません

正月15日は小正月です すなわち新年最初の満月の日 古人は冬が明けて春を迎える火祭りを執り行いました どんど焼き・塞の神は縄文からの習いでありましょう 小正月・女正月といいますが(大正月という言葉はない?)新年の祝いは十五日正月でした[08] … Continue reading  縄文と弥生は八百万の神として 時には争いながらも 一万年以上の時を共に栄えてきたのです

おそらく縄文の昔からであろう 吾が国古来の信仰は現在でも民間行事の形で受け継がれています 雑煮・塞神・小正月・月見などなど 記紀が編纂され天津神と国神が系統づけられても 外来の仏教が取り入れられても 儒学が採用されても キリシタンの布教があっても 揺らぐことなく大和心として国人の裡に生き続けます

註釈

註釈
01 10世紀初めに遣唐使を廃したことにより 中国の影響を脱した 和の優美な王朝・宮廷文化が形成されました 源氏物語・枕草子・和泉式部歌集を頂点とする 雅な国風です 日本文化の担い手は女性でありました
鎖国政策によりキリシタン文化を排し 江戸時代に上質で多彩な庶民文化が花開きました このサブカルチャーは営々と受け継がれ 今日の漫画・アニメーション文化となっています
02 インドで仏教が普及しなかったのは根強いカースト制のためです(女性はカーストの枠外なので不可触賤民と同等とされます) 仏教は命あるものすべてが平等と説きます 釈迦と同時代の孔子が説いた儒教は 長幼の序・男尊女卑など 人は生まれながらに優劣があるとします この差別主義を敷衍すれば 中国人の選民思想・中華思想に繋がります
あらゆる衆生を救うとする仏教は インドのみならず中国でも受け入れ難かった 日本は階級・身分のない社会です だから仏教が受け入れられ繁栄したのです 日本が取り入れた大乗仏教は差別なく衆生を救うのを旨とします 女人禁制は儒教の影響を受けて後代(おそらく江戸時代)に言い始めたことです 尼寺・比丘尼は珍しくもなく 女性住職の寺もあちこちにあります 中国の男女差別は徹底していて 宋代の記録を見ると女性は ほとんど物扱いです
03 一神教では 人間は他の動物より優れた特別の存在 そして神を信ずる者同士だけが平等です これも選民意識です 洗礼が最も大事な儀式とされるのは 水が貴重だったから 旧約聖書で神が洪水で人類を滅ぼしたのは どう解釈したらいいのでしょう 神の嫌味?
04 狩猟・漁撈の世界でも指導者の元で共同作業です また入会権という形で漁場・狩場は決まっていました しかしそれは利用権であって占有権ではありません 山野・海川の恵みを利用するのと違い 水田の構築は人為的なものです したがって作った者・集団に所有権があります 農地に適した土地は限られます とくに水田は水利が重要です どうしても土地争い水争いが生じてしまうのです
05 天照大神が天の岩戸に隠れたきっかけは 素戔嗚尊に機織りを邪魔されたからです 天の羽衣を織っていたのでしょうか 食の要である田圃を壊したりの乱暴狼藉は許したが(自然災害です) これには堪忍袋の緒がブチ切れました
オリュンポスの神々は半裸体で描かれることが多い気がします ヒンズー教の神々もそうです 仏像でも粗末な衣装ですね 糞掃衣というそうです お布施は文字を見ればわかるように 布を施したのが始まりです 〝仏像の服装の意味〟たいへん参考になります
一神教に食べ物・飲み物の戒律があるのはなぜなんでしょう 食糧事情が安定しない風土であることは確かです 仏教の教えにも戒律はありますが 食べ物に関しては特に煩いことを言わない 生臭ものを食べないのは修行の妨げになるからで強要はしません 禅宗は不許葷酒入山門とか言ってながら 般若湯と称して酒も飲みます 日蓮聖人は大の酒好きだったと伝わります
06 地上の穢きものを食べたかぐや姫は 月の世界へ帰るために薬を飲みます この薬は地上でのことを全て忘れてしまう まさに六根清浄ですね 仏教が関係している 人間が飲むと不老不死になるというから 中国の神仙思想の影響もありそうです 御門がこれを富士山で焼き捨てるのは 吾が国の伝統に習った正しい判断です 不老不死は生きることではない 不変は決して永遠を表さないのです 外来の仏教(中国経由のため老荘思想などの影響があります)もそのままではなく 日本流に換骨奪胎しアレンジしてしまいます
07 日女子は生涯独身でした かぐや姫も求婚を断り続けます 日女子と接するのは一人の男だけだったといいます 竹取翁に比定できるかな かぐや姫は月の世界の人でしたが 日女子は天照大神に仕えたと思われます
鬼道(奇道)がよく分からない 争いを治めたのだから 武装を無力化する月光を操るのかもしれない 今でも大嘗祭は夜に行われますし 日没や夜明けに月と太陽が同時に見えることがあります 必ずしも対立しているわけではないでしょう
08 1月1日 3月3日 5月5日 7月7日 9月9日といった数字合わせの いわゆる節句は 大陸から伝わったと思われます(なぜか江戸時代には1月7日を人日と称し五節句としました) いま年中行事とされているものには 宮中から民間に広がった唐様が紛れ込んでいます 新年に日の出を拝むのは近年のことです 昔より伝わる民俗行事の方が大切です 月を愛でる十五日正月が古来(おそらく縄文)よりの正月祝いです
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