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タグ: ストーリー

TVCMとweb

TVCMもずいぶん様変わりした感があります サントリー 資生堂といった有名どころの出稿がほとんどなくなりました
代わりに目立つのが タイアップやインフォマーシャル(本来の意味ではない)などペイドパブです タイムにしろスポットにしろ映像表現に注力したCMは姿を消しました
印象に残っているのは小西六のCMです フィルムメーカーだけに素晴らしい映像美でした コニカはもうなくなりました ヤシカ・ペンタックス・ミノルタも消滅しました

広告主が入れ替わる状況の始まりは サラ金のCMあたりからでしょうか その次が外資系の生命保険でした 一時パチンコのCMが多く出稿されました これはそんなに続かなかったようです 公営ギャンブルはCMをやっていますが
今はとにかく健康食品と通販化粧品です TV黎明期のなりふり構わぬ絶叫CMが復活してしまいました 外資系医薬品の脅迫型ネガティブ・アプローチも嫌ですね(肺炎予防だなんて どう考えても詐欺紛いでしょう) 明らかに退化しているとしか思えない
嫌われるのは それだけ印象に残っていることだから広告としては成功 なんて言い草はやはり言い訳です

もう一つ気になるのが 通信機器(スマートフォン)CMの違和感です 日本人の感覚と違います 韓国製が多いからです センスのズレを感じます そのためか最近はメーカー名を伏せています
ソーシャルゲーム関係とかスマートフォンアプリのCMも ほとんど韓国資本か中国系でしょう 詐欺的な課金や情報漏洩の被害が続出しています メガネのCMもそうですね 日本勢は駆逐されそうです
あと過払い金返還のCM サラ金が銀行系例になって辞めていった幹部たちが それまでの名簿を使い同じネタでもう一度稼いでいるわけです 高利貸し(銀行含む)は利息の取り立てで生計を立てていますから プラスであろうとマイナスであろうと利息で商売するのは自然な流れか 

また妙なストーリー仕立てにしたCMも目につきます これも単なる悪ふざけに留まっているようにしか見えません
かつてのサントリー「南アルプス天然水」は良かったですね 高校生が卒業して都会に就職し やがて故郷に帰り 憧れていた先輩と結婚 二人の間にできた娘が やはり同じ高校に通っているところで終わりました 途中では離婚もあり 決して平坦な人生ではなかった まぁドラマとしてみれば いたって平板な流れですけれど 1年に1作で11年続いたそうです

地方局の地元企業CMだと企業広告でも 社長をはじめ従業員全員が出演なんてのが よくありました ホームページで社長やスタッフの顔写真を出すのが多いのは あの感覚なんでしょうか
中小の会社や地方の会社は いまだにホームページを安価なTVCMの代わりと認識しているのかもしれません Flashの頃はまだ映像表現の意識があったと思います jQueryのエフェクトは いまのTV番組画面とか通販化粧品や健康食品CMそのまま 動くチラシです

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セルフ・ブランディング

個人の場合

蛭子能収さんはギャグ漫画を描く人でしょうか むしろ人柄自体がギャグのように見えます(失礼) 漫画を描くより自ら体現していると言った方がいい
実際蛭子さんの描くキャラは 蛭子さんそのものですし 客観的に他のキャラを描くことはできないんじゃないかと思います いわば私小説的ギャグ漫画のようなものです
他人を描くことはできないから 他人を揶揄することもない また自分を戯画化しているのでもない おそらく敵はいないでしょう
ライフワークは路線バスの旅のようです あるがままに生きているのだろうが それにしてもキャラが立ち過ぎてます

存在そのものがブランドの人は マツコデラックスさんでしょうか この方のキャラも際だっていますが ビジュアルが9割方を占めていそうです
見た目のインパクトに比べ 内実はあんがい常識的と思われます 毒舌を吐くようでいて計算した発言ですし
特異な性癖を持って生まれたことで苦労されたのでしょう なにを持ってノーマルというか 基準なんてありませんから 誰しも自分のポジションを作っていかなければならない

セルフ・プロデュースとか言いますが セルフ・ブランディングの方がふさわしい気がします レッテルや肩書きではもちろんありません その際ビジュアルは非常に重要な要素です だからキャラ造りともいえます まぁ蛭子さんは意識して作ってはいないでしょうが
人格がある場合キャラ造りはけっこうやりやすい 企業等の団体なんかは顔づくりが難しい 簡単なのは創業者のキャラをそのまま投影することです 法人とは法律上の人格 この人格に自然人をシンクロさせる 1対1対応ですね[01] … Continue reading

企業・団体の場合

企業のイメージづくり すなわちブランディングもキャラ造りに他なりません(ゆるキャラではありません念のため) ブランディングはビジュアルが大切です 代表的なのがロゴ・マーク それをデザイン(設計)というなら確かにそうですね
さらに顕著なのはパッケージデザインでしょうか プロダクトデザインもそうなのですが パッケージは商品のキャラ造りそのものです とくに不定形の商品ではパッケージが顔づくりになります

パッケージだけ孤立していてはマーケティングにならない パッケージは商品の特質のみならず背景・ストーリーまで語る必要があります
企業のブランディングも同じことで 会社イメージのパッケージ化ともいえます なにしろ商品以上に形が定まらないのが企業イメージです
ロゴ・マークは形作り(ビジュアル・デザイン)の第一歩なのですから まず自らを見つめ直すことから始めます コンペで募集するなんて人任せがいかに愚劣なことか

ミツカンのマークはとてもユニークで秀逸です 創業家の家紋「丸に算木」を商標登録しようとしたところ すでに登録されていたので丸と三の大きさ位置を変えて作りました 家紋によく使う「丸」を易学で使う筮筒(筮竹を入れる筒)に見立てたそうです
要素の大きさ・色・比率・配置を変えることが すなわちデザイン(設計)の作業であって これも優れたデザインです
三と環のマークつまりミツカンはブランドネームとなり ついには社名にまでなりました ビジュアルを核にしたブランディングですね 素晴らしい

オリンピックの場合

コンペ関連でいいますと 東京オリンピックのエンブレムにケチがついたのは オリンピック開催の必然性がないためだと考えます 東京オリンピック亀倉雄策さんのポスターが優れていたのは 敗戦からようやく立ち直り経済復興を目指そうという 国民全体の共感を得られる時代背景あってのことです だから日の丸だったのです 日の丸の復活という側面があったかもしれない[02] … Continue reading
5月3日追記=朝日新聞がこのポスターのことを 赤い円形に金色の五輪と書いていました 日の丸は使っていけない言葉? 書き換えの内規があるのでしょうか 編集ソフトで「ひのまる」と入力すれば 独自の幼児用語辞典が「赤い円形」へ変換するのかも)

石原慎太郎が盛んにオリンピックと騒いでいた時は それでもまだ金のかからない五輪を提唱していました
このたびは 森喜朗を頂点として利権と金儲けの思惑だけでやろうとしている いまだ被災地の方が仮設住宅に住んでいるのに オリンピックで浮かれてる場合じゃないだろう 経済波及効果とかいうんなら 福島で開催してみたらどうか
森喜朗の外見は確かにゆるキャラに近いかも知れないが性根が腐っています 精神がないから形に表れないのです
5月11日追記=此奴等の正体がバレました オリンピック招致に2億円ぐらい賄賂を使っても 懐にはその何十倍もの儲けが入ります これが日本の「お・も・て・な・し」の心でした)
10月20日追記=なんか妙な雲行きになってきました まさかの福島開催・仮設住宅を選手村に! 奇手奇策に出てきたが森の腹芸か 一種のブラフなんだろうな IOCとは利権で一致する 経済波及効果なんてありませんからね 長野オリンピック後の惨状を見れば明白です)
10月22日追記=唐突にIOC会長を連れてきたと思ったら 名誉博士号の授与だという この辺までは茶番で済ませていいが 天皇陛下・皇后陛下に拝謁とはいくら何でもやり過ぎじゃないか 先に高齢なので公務は控えたいと仰せになられた陛下を こんなゴタゴタに引っ張りだすのは不敬の極みである)

2022年9月3日追記=ようやく東京地検特捜部が動き始めました 森喜朗の息の根を止めることができるか 注目したいと思います 国賊共を蔓延らせてはいけません)

エンブレムのこと

ロゴやエンブレム等のデザインに著作権はありません アートではないのだから とくに重要なのは一般性です 誰が見ても分かる丸・三角・四角で単純化します 商業美術は個人の才能や技術で生まれるものじゃない
意匠登録されたものとかぶってはいけませんが オリジナリティとか創造性なんかいらない 佐野研二郎氏を非難するのは見当違いだと思いますが

エンブレムはもともと盾に描いた紋章のことで 旗印・袖印・兜の前立に近いものです 近代の国民軍による戦争は制服を着ていますが ヨーロッパ中世や日本の戦国時代は思い思いのフルアーマーで身を鎧います 敵味方の区別がつきにくいため目立つ印(徽章)をつけたのです

また恩賞・報労が目的で戦いますから 誰が手柄を立てたか敵の誰の首を取ったかの目印にもなるわけです オリンピックにそのようなものを持ち込む理由がよくわからない
以前には五輪エンブレムとかキャラクターなんてなかったですね 使用料を取るのが目的でしょう 全く金儲けの道具です

註釈

註釈
01 地形とマップの関係に似ています 現実そのものを認識することはできません 地図と見比べて理解するのです 物語を現実と同期させる これがイメージ戦略の基本といえます
02 日の丸復活といっても 1964年オリンピックのポスターはおそらく幟旗をイメージしているでしょう 日章旗じゃありません 日の丸の幟旗は朝廷から下賜されるものです
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結婚式・婚姻届・家族の姓、諸外国と日本

このごろ 同棲・内縁関係を「事実婚」と言い換えている勢力があります 日本には事実婚という制度も用語もありません 婚姻届けを提出しないのは内縁関係です
また事実婚と内縁関係は同義語でもありません 夫婦別姓を認めろと言っている連中と同根かと思われます 何を意図したプロパガンダかは分かりませんが

後段で書いているように 日本の制度で出生届は名だけです 姓はその時の戸籍の呼称ですから 籍が変われば姓も変わります 諸外国は出生届にフルネーム(姓・名)を記載し 生涯変わることがありません(戸籍制度はないので 姓と名はともに個人の属性です)
けれども結婚した時には通称名として夫の姓を名乗り 子の姓も父方のサーネームにすることが多いようです 家族の一体性を大事にするのは万国共通です

結婚式を挙げる意味 事実婚の由来

キリスト教国の結婚式は教会で執り行います よく映画などで「汝はこの女を妻として……誓うか?」と神父なり牧師が問い「はい誓います」と新郎が答えます この誓約が結婚式の本義となります
それでは何に対して誓うのでしょうか 二人で誓いあうのでもなく 参列者に誓うわけでもありません 神に約束するのです 牧師・神父は立会人として 神への誓いを司ります

キリスト教の結婚式は 婚姻を神と約束するものだからです この約束は個人と神の契約なので双方が誓う必要があり 新婦にも同じ内容を問います[01] … Continue reading 花嫁が誓う前にかっさらえば結婚は成立しません(昔そんな映画がありました 多くの日本人は単に 結婚式を台無しにした狼藉者 ぐらいにしか見てなかったようですが[02] … Continue reading

死が二人を分かつ時までとは この世にある限りという意味です 神を証人にして永遠の愛を誓うわけではない 死んだ後は神の兵士として天国に召集されるので 婚姻が永遠に続くということはありません 婚姻の契約は死とともに解約されます[03] … Continue reading
カソリックでは離婚が認められません 神との約束を破ることになるからです 神に誓ったことを守らなければ死後は地獄に落とされ 悪魔の手先とならなければなりません 生きている間も棄教した者としてコミュニティから爪弾きされます

さて世の中には そこまで神と約束できないという人がいます 離婚することが悪魔に魂を売り渡すとなると 迂闊には結婚できないとか 死ぬまで一緒にいる自信がないという場合もあるでしょう
そのような時は結婚式を挙げず 市役所等に婚姻届だけを提出します 神との約束を避け法制度上の結婚をするわけです(戸籍制度がなくても婚姻届の制度はあります) 神との約束は法に優先します この場合は市長などが立会人を務めます 日本の婚姻届の証人に当たります

これが事実婚の制度です つまりキリスト教国(とくにカソリック圏)特有のものなのです[04] … Continue reading もちろんキリスト教国でも婚姻届を出さないで同居する人たちはいるでしょう それは事実婚とはまったく異なります 法に基づかない同棲・内縁関係です

キリスト教国で社会的また法的に 内縁関係というものが容認・保護されているかどうかは知りません 結婚式はきわめて宗教的なものですし 生まれた時に洗礼を受けることから始まり 生活の全てに宗教は関わっています 日常生活に宗教の規範が及びますから 日本ほど内縁関係に寛容ではないと思います だから事実婚という制度が必要になったのです[05] … Continue reading

結婚と家族の姓、諸外国と日本

夫婦・親子の姓については それぞれの国の家族に対する慣習・歴史から規定されていることです 祖父の名や姓を氏に冠したり 夫婦の苗字をつなげたり 代々の祖先名をミドルネームに取り入れたりと諸外国には様々な習慣があります
戸籍制度のない国のほうが多いので このような姓は家族関係を明確にするという意味合いがあります Mc〜・〜son・Fitz〜・〜vicは 全て〜(父方)の息子という意味です
王族なので姓はありませんが シャーロット・エリザベス・ダイアナは ちょっと物悲しいですね イギリス国教は離婚可能です 王様が自身離婚するためにカソリックと袂を分かつことにしたのです

簡易結婚式で有名なラスベガスでは ドライブスルー結婚まであるそうです(これなんかも事実婚といっていいでしょう) ある州で発行された婚姻証明証が全米で通用します 商標登録(® ™)と同じような制度です 各州ごとの自治制ゆえのことです
アメリカには戸籍制度・住民基本台帳(日本の住民票に相当するのは SSNや納税証明書など)はないので 結婚しても離婚しても姓はそのままです 出生届の姓名が公式名で生涯変わりません[06] … Continue reading

子が生まれれば出生届を出します 両親の姓名とラストネーム・ファーストネーム・ミドルネーム(必須ではない)が記載され これが本名(フルネーム)となります
ラストネームはサーネームとも呼ばれ本来は家系を表します[07] … Continue reading 日本で言えば氏・姓に相当します アメリカでも父方のサーネームにするのが一般です 母方の苗字(名字)を付けることはまずありません ミドルネームを母方の姓にする例はあるようです

ただ結婚で通称名を変えることは多々あります 大半が夫の姓を名乗ります ヒラリー・クリントンは本名じゃありません あえてクリントンを名乗るのは選挙戦略上のことです 結婚したら夫の姓を名乗る よき家庭婦人をアピールすることになります
あるいは通称名として双方の姓を併記するのもあります 婿養子という概念はないので 通称名に妻の姓を名乗ることはほとんどありません とくに通称名を名乗らなければ姓はそのままということです

社会生活上は強制されずとも夫の姓を名乗る 子供の出生は父の姓で届ける アメリカは多民族・多宗教の国ですから これが世界の常識を表すのではないでしょうか

日本では結婚して分家に出るとき氏の文字を変えたり 住んでいる地名が通称になりそのまま氏として名乗ったりと 融通をきかせた扱いが目立ちます そのため日本の氏姓は世界でも珍しいほど多様となりました 中国・韓国と違って生家の家名にそれほど拘りがなかった証左です

家系とか出自をことさらに言い立てるのは かの国の習慣のようですから 孔子の子孫を名乗る者が世界中で数百万人いるそうです(有料の登録制らしい)
夫婦別姓を言い触らす連中は 大陸・半島に倣ってのことかもしれません アメリカの中国系・韓国系は 世界の常識からかけ離れて夫婦別姓です

婚姻、日本の伝統

日本の結婚式は花嫁の披露宴(お披露目)です 白無垢衣装で実家を出て婚家に入り 誕生を象徴する赤い衣装に着替えます(お色直し) 生家から婚家に生まれ変わることになります 実家の両親は披露宴に連ならないので 花嫁道中は仲人が先導するわけです[08] … Continue reading 婿入りの際は聞いたことがなくよく分かりません たぶん同じだと思いますが お色直しはあるのだろうか
婿入りも嫁取りも考え方としては養子に近いものです 帰属する組織(家)が変更になったことを公に周知するもので 宗教的な意味合いはありません ですから離婚(離縁)も比較的自由です 三行半とか駆け込み寺[09] … Continue readingですね

日本では古くから戸籍制度が整っていて 息子が家督を継ぐ資格を得るのは 成人して幼名から名を改めて後(武家は17歳で嫡子として届け出る)になります この改名ないし襲名の儀式を官途成(かんどなり)と呼び 家督相続の婿入りと同等に扱われます 事情により廃嫡もあります
落語なんかに出てくる勘当は人別帳から除籍することです 相続権を失うだけでなく無宿人になってしまいます いったん除籍すると復籍は非常に困難です 町役人もその辺は心得ていて よほどのことがなければ通常は人別帳から外すことはなかったようです

武家が家を大切にしたのは 俸禄が家に対して下されるという事情のためです 武家社会は本来軍事組織(一家が小隊か中隊に相当します)です 男子が家を継ぐのも軍事組織ゆえのことです
家禄は戦に備える意味で兵糧米として支給されます(米が貨幣の代わりに流通したわけではありません) 太平の世になってもこの慣習は続きました 今が平和といっても戦が起きないという保証はないのです

商家もこの習いを継承しました 主な理由はのれん(ブランド)を守るためです 武家の家名も一種のブランドです どちらも子がなかったり娘しかいないときは婿を迎え入れました 相続の際に長男であるとか血統はさほど重視されません

とくに商家や剣術道場などは実力主義ですから 長男がいても養子を迎え入れることはよくあります あとは分家とか暖簾分けとかで辻褄を合わせたりですね
武家でも嫡子は正室の長男と決まっていないので お家騒動が起きることになります

婚姻には嫁取り婚と婿入り婚があったわけで 男女どちらにしろ新しく家族に加わるということです 家付き娘という例もあります(淀の方が実子に拘ったのが豊臣滅亡の原因?)
商家は屋号の元で武家は家名の元で一家を成します 明治以前は嫁や婿が別姓だったなんてデタラメです 姓は家を表し個人には名しかないのですから[10] … Continue reading

女性が虐げられていたとか男尊女卑の社会などというのは 日本の伝統をないがしろにし事実を歪曲するための 言いがかりに過ぎないのです
日本では巴御前から始まり 肝っ玉母さんに至るまで 女傑の話はいくらでもあります 娘だけでなく嫁が家を継いだり 家付き娘が婿を離縁するなんて時代劇でおなじみです[11] … Continue reading

夫婦別姓論のまやかし

アメリカでは出生届の姓名(フルネーム)が一生涯変わりません しかし戸籍制度がある日本では 婚姻届によって姓を変更できます 中国人が日本名を戸籍名として名乗ることもできるのです
男女どちらも出生届は名前だけで姓は仮のものということです 別な言い方をすれば日本には戸籍名があっても《フルネーム(本名)》がないのです これを家制度といえばそうかもしれません[12] … Continue reading

諸外国では暗黙の社会階級制・身分制がいまだに維持されていて それぞれが独自のコミュティを形成しています 難民・移民・流民も同様です 〇〇タウンを形成して相互共同生活を営みます 階級は固定されていますから 戸籍に相当するシステムが必要なかったのでしょう 家制度ではなく族長制度なのかもしれません
別のコミュニティ同士の行き来(婚姻も)はなく時には対立抗争します ロメオとジュリエットやマイ・フェア・レディそれとウエストサイドストーリーの世界かな 私は見たことないのですが 韓流ドラマとかいうのも身分違いの恋愛話が多いそうですね[13] … Continue reading

日本国憲法の英語原文を機械翻訳させると「結婚は男女両方の相互同意だけに基づきます、そして、それは基礎として夫と妻の平等の権利との相互協力を通して維持されます。」です アメリカの結婚観をベースにしているように見えます
GHQ(国連軍総司令部)草案では日本の家族制度を否定する文言があったようです 浅はかな誤解と偏見によるものなので削除され このような形に落ち着きました[14] … Continue reading(常任理事国と敵国条項がいまだ残る国連は 別に公平中立な組織ではなく 世界の良識を反映しているわけでもありません)
諸外国にも家制度はあり 現在に続いています ヨーロッパの貴族社会も家産を守ることが代々当主の務めです ただし当主の妻に財産の所有権はなく 社交のための経費は持参金で賄うのが通例です(女王陛下はどうなんだと言われるとよく分かりません)
つまり玉の輿はない シンデレラでも必要な衣装などは魔法で調達しています 婿入りもありました この時は当主として入るので財産を引き継ぎます 貴族は日本の武家と同じく軍事組織でしたから 王様の命で兵員を供給する義務がありました 財産を分割したら軍事費をまかなえません

世界的に夫婦別姓が多くなっている といった言い草は全くのデマゴギーです もともと戸籍制度がないため 結婚しても姓が変わることはない というだけのことです 結婚したら自由に姓を選べるなんて国はどこにもありません 本名(フルネーム)は一生変わらないのです
それにもかかわらず 通称名で夫の姓を名乗ったり夫婦の姓を併称する国が大半です(出生届を改名まではしません ニックネームが社会的に通用するのです) これをどう考えますか 家族の一体性を大事にするということでしょう それが世界の常識であり日本の伝統も同じことです

朝鮮半島で結婚しても女性の姓が変わらないというのは 両班の世界は嫁に相続権がないことからです(このへんは西洋貴族社会と似ています) 儒教に基づく中国の身分制に由来する 厳格な家父長制が今でも続いているのでしょうか
移民・流民がコミュニティを形成して暮らすのは 世界的に見れば普通のことです 日本において頑なに帰化しない第三国人がいるのも常識的な姿といえます 民族性や宗教・歴史を無視し日本人と同じに扱うというのは 固有の文化を認めない一種の同化政策志向かと思います また日本人が彼らの慣習の真似をして 夫婦別姓を主張するのも おかしなことです

註釈

註釈
01 神との契約は個人です 子を洗礼してもらうことはありますが 家族単位で入信ということではありません これが個人主義の原点です 家制度と大きく違うところで 日本国憲法の「婚姻は両性の合意のみに基づき云々」も キリスト教の教えに沿ったものなのです さらに言うなら基本的人権も 神が人間に与え給うたもので 法によって規定されるわけではありません(権利の章典がはじめといいますが この章典自体がキリスト教規範によるものです) したがって動物や異教徒には適用されないのです
02 映画「卒業」の有名なシーンです 最初見たとき気付かなかったのですが 映画では花嫁も誓ったあとに 二人して教会から走り去ります 日本なら駆落ちに相当する事態です
アメリカで神に誓った直後 反故にするなど とうてい認められない行為です 西部劇で教会に乗り込んで その結婚に異議ありと 叫ぶシーンがあった気がします これは花嫁が誓う前なので 神に背くことにならない
既成の権威に反抗するものの結局 所属するコミュニティから離れての未来はない アメリカ・ニューシネマらしい展開ですね
03 日本の結婚観で結婚と生死は結びついてなかったのではないか 「あの世で添い遂げよう」とかいう科白は心中物(道行)の中でしょう 周囲に認められずに駆け落ちする場合ですから 死後も一緒にということではなかった 日本は生きている間でも簡単に離婚できたのです
04 カソリック国スペインの皇太子妃は離婚歴があります しかし教会で結婚式を挙げない 婚姻届だけの事実婚だったので 皇太子と結婚することができました
05 結婚の形態は3つあるのではないでしょうか ひとつは同棲です 動物の番と同じく本能に基づくカップルと言えます 同棲が長く続くと日本の法律では内縁関係とされます キリスト教圏の事実婚に近い形になるわけです
日本では婚姻届を出し新たな戸籍ができた形が正式な婚姻とされます キリスト教圏は神に誓約するのが正式な婚姻です 戸籍制度は日本だけですが いずれの国も婚姻届の制度はあります 婚姻は社会的な手続きであって 同棲とは峻別されます
06 出生届の原本はワシントンDCに置かれます アメリカ国籍を表すものですから 連邦政府の所管になるわけです 婚姻届は各州が管理するので 結婚と親子は制度上直接の関係がない 日本の制度に当てはめると 婚姻届を出した州が本籍地になります 考えてみれば子のない夫婦(家族)はいくらでもあるわけで 結婚(婚姻制度)と親子関係は別のものです
07 親が離婚・再婚しても 改姓しない限り出生時のサーネームは変わらない 婚姻と家系は一緒ではないのです また親子関係も結婚とは別もので 日本と違い親権といった観念はありません 日本でいう親権は旧民法の父権からそのまま引き継いだもので 子供の養育義務とは違うものです きわめて儒教的な概念といえます
08 大叔母から聞いた話です 大叔母の嫁ぎ先と当家は500年ほどの付き合いがあります 共に上田衆ですが嫁ぎ先のK家は城持ちの豪族だったようです 御館の乱のあと春日山城から落ち延びて以来 たがいに嫁や婿のやり取りをしていたのは 血筋を絶やさないためだったと思われます
09 教会で結婚式を挙げるキリスト教に対し 離縁は寺に駆け込むのが日本の風習 戒律に囚われるより方便として使う 宗教観の違いというか 自由な感じがします
10 農村で足入れ婚なる風習があったそうです 妻問婚の変形であるとか嫁を労働力として扱ったとか あるいは婚家で養育をせず 子供が大きくなるまで実家が面倒を見るためと言われます 母系社会の雑婚が形を変えたものでしょう
民謡の「おてもやん」歌詞では 嫁入りと祝言の盃を別のこととしています すなわち祝言は 新たに家族となった嫁の披露(宴)です 幕末に作られたお座敷歌で 当時の婚姻観を表しています おてもやんは自由奔放ですね まったく囚われることなく婚姻を解消し 周囲もそれを容認 世話役たちが後始末しています
11 イエズス会のフロイスが書いているように 戦国時代から妻が夫を離縁することはよくありました ヨーロッパ社会とは大違いです このころはまだ家父長制が確立されていなかったのです(明治時代に作られた家父長制と家制度は異なります 明治以前は長男とか嫁とかで差別はなかったのです)
平塚らいてう氏の生き方は実に見事です 女丈夫といっていいか 「青踏」冒頭の原始女性は太陽であった で示されるように西洋の物真似ではなく 母系社会日本の伝統に基づくのです 家父長制のような小さなことに拘っちゃいない 明治の時代に受け入れられなかったのは 儒教精神の批判であったからです
12 渡世人の世界で〇〇一家とか親分・子分というのも 身内を擬似的な家族とみなすからです 伝統的なマフィアの〇〇ファミリーは 本当の血縁のようですね 社会生活は家族を単位として営まれます アウトローの世界でも家制度が基本となります 家制度は法律以前の世界的な慣習なのです
13 在日韓国人の娘さんが日本人青年と恋愛したのですが 結婚を親に反対され自殺してしまいました ずいぶん古い話で伯母の住む近所の出来事でした 日本の戸籍制度との軋轢でしょうか 朝鮮戦争から逃れて日本に住み着いた半島の方々が決して帰化しないのは 生家名・家柄を大事にし民族の血統を重んじる伝統かと思います
14 社会を構成するのは個人ではなく家族です 新しい家族として社会に参加するのが結婚ですから 婚姻届けという社会的な手続きが必要なのです 同棲を事実婚などと言い換えている連中は 家族を否定するのが目的ですか
日本国憲法を作ったアメリカでもそれは変わりません 西部開拓の歴史は家族協力の歴史でもあります この場合の家族は必ずしも血縁を意味しません 里親というか周囲が協力して子を育てます 赤毛のアン(カナダですが)とかフルハウスの世界です 個人の権利と自由を尊重することと 家族を大切にすることは矛盾しません
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