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タグ: 倭人

酒を嗜む文化

甘酸辛苦鹹を五味といいます 渋を加えて六味 見れば人生そのものです 嶋悌司先生はご著書に 酒は甘酸辛苦渋 これは蔵人たちの汗と涙と笑いの味だと書かれています 杜氏が束ねるとは 蔵人たちの力を合すること 酒の味は五味合一であり 人の和の味なのです
仏教では 乳・酪・生酥・熟酥・醍醐の教えがあります なぜに乳製品なのか 難行苦行で餓死寸前のお釈迦様が 菩提樹に寄りかかっていたところ 村の娘スジャーターが通りかかりました 見るに見かねて牛乳粥を振る舞ったら 美味い美味いと喜んで食べました 人心地を取り戻し落ち着いたところに歌をうたってあげると 俄然元気を取り戻し悟りを開いたことからです

六年の修行より一杯の牛乳粥! お釈迦様は菜食主義じゃありませんし 飲酒も禁じてはいなかった 原初仏教の姿に近いとされる 東南アジアの上座部仏教は厳しい戒律があります 酒は飲みませんが 肉食は禁じていないのです
僧の肉食妻帯を禁ずるのは 大乗仏教が中国で神仙思想と入り混じったのでしょう チベット仏教も中国経由でなく 肉食を禁じた教えはない 凡俗の信徒には関係ないことです 酒も飲めば魚や鳥は当たり前に食べていました お釈迦さまは結婚し子供も授かっています それなのに修行のため妻子を捨てて出奔したのです
いわゆる精進料理は 禅宗の一派である黄檗宗の普茶料理から広まったんじゃないか 普茶料理の特色は疑き料理です 野菜などの食材で肉や魚料理に見立てる 技巧を凝らした手の込んだ料理です 精進料理は質素倹約ではないのです
日本では普通 仏前に乳製品を供える習慣はありません かといって鰹節出しも駄目だなんて ビーガンみたいな事を言うのもおかしい 穀物野菜にも命があります 一切衆生悉有仏性 このことは和の心に通じます

魏志倭人伝に 人ノ性酒ヲ嗜ムとあります 男女長幼の別け隔てがないとも書かれています 日本は階級も身分制もなく 酒を飲み虫の声を愛で 花鳥風月を詠う民族でした また葬儀の際は肉食を避けるも 酒を飲んだとあります 自分だけでなく他の生命も大切には和の心です
とある霊園に徳利の形をした墓があります けっこう大きい墓で線香立ては盃形です。ここの家の仏事には酒が欠かせないんだろうな なんて想像してしまいます
古代インドのバラモン教では 飲酒は悪とされます ヒンドゥ教も受け継いでいて ガンジーは禁酒を唱えていました カースト制もバラモン教に由来しています アンチテーゼとして仏教が起きました そのためでもないでしょうが 仏教は酒に寛容です
人生も酒も甘酸辛苦渋 しかし醍醐味は誰も分かりません 熟酥までは製法も文献にあり ヨーグルトやバターであろうと想像できます 醍醐の製法が書かれていないのは 悟りと同義ということか

日本は四季があり 穏やかな気候風土です インドの気候は乾季・雨季・暑季の三季です 初期の教団仏教の修行は 季節に合わせていました 雨季の間は托鉢できないので 室内での座学すなわち雨安居となります 雨季が開けると解安吾 夏安居とも書き 日本のお盆にあたります
お盆はもともと 六月晦日の夏越祓から始まり 七月七日の七夕祭と続き 精霊棚を祀り灯籠を流し 八朔の穂掛祭で終わる 一連の行事です 結実を祝い豊作を願う水祭りですね これらの習俗と仏教が一緒になり 今に伝わります
春秋がないインドで彼岸の行事はありません 中国・朝鮮半島にもなく 日本独自の習俗です 春の彼岸は 田植えのあとの早苗振が始まりでしょう 秋の彼岸は収穫祭の予祝でしょうか 各地で行われる収穫祭には 当然お神酒が捧げられます 性酒を嗜む日本ならではのことです
冬季の行事は世界的に火祭りです 日本のどんど焼き クリスマスツリーにもキャンドルを灯します おそらく焼畑農業の名残と思われます
鳥追い・虫送り祭は一月十四日の夜 左義長・塞の神は十五日朝 新年最初の十五夜・満月の行事です 丹後国風土記に 弱竹の輝夜姫の原話と思しき羽衣伝説があります 老夫婦の養女となった天女が 酒を醸す物語です

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中国の酒 日本の酒

三國志魏志東夷傳に 倭人國其の人は性酒を嗜むとあるそうです 鬼道には酒が欠かせなかったことでしょう
記紀に中国から酒造法が伝わったかの如き記述がありますが 中国と日本の酒は見た目も味わいも別種です 延喜式にも大陸風の名前をつけた酒の種類が記載されます しかし原料はもちろん醸造工程を見ても 影響を受けたり参考にした形跡はありません
文書に記録するときは漢字・漢語を使いますから 中国の類似の酒の名称を借用したと思われます 民間(和語)では違う呼び名だったでしょう むろん内容も異なります
 
中国酒と日本酒はともに並行複醗酵ですが それぞれ独自に発展してきた酒です 決定的な違いは日本は粳米 中国は糯粟が原料であること 日本酒は麹にコウジカビを使うことです 中国の麹はクモノスカビです[01] … Continue reading 中国酒が日本に輸入されていた記録もない 記紀も延喜式も書いたのは酒造りの知識がない者なので 無理ないことではあります
中国酒は大陸らしく大雑把な作り方 日本酒は世界に類を見ない 繊細な技術を要する洗練された酒です 専門の技術者によって造られ[02] … Continue reading 各地の地名を冠した銘酒が流通しました 流通保存のため腐敗防止の火入れは 室町時代に確立された技術です

中国の醸造酒は精穀度が低く黄色を呈します 黄酒と言われる所以です 大甕で熟成されて褐色になり 老酒と呼ばれます 国土が広いこともあり基本的に家醸酒でした 陶淵明の詩を見ても自分で酒を醸したと書いています[03] … Continue reading 小瓶で流通するのは近年のことです 現在カラメルで色付け味付けされた老酒風は大量に流通しています 北宋時代に描かれた清明上河図には 酒楼に新酒ののぼり旗が掲げられます 中国でも老酒は特別で新酒が普通に飲まれていたのです
日本の清酒は木桶で醸造し熟成しません 伏見の諸白と言われる造りはほぼ透明です これは江戸の人口が急激に増え 三年酒など古酒の供給が間に合わず 新酒で出荷したためと考えられます 江戸時代中期には四斗樽の専用船 樽廻船で通年流通するまでになりました 海に近い灘の酒屋が始めたことです[04] … Continue reading

年貢米と同様に酒も課税されていました 日本の酒税は世界一高率です 中国では大昔に課税対象になったことはありますが すぐに廃止されました 家釀酒の伝統からか今でも自由に酒を作れるようです 未成年者の飲酒も禁止されていません 日本でドブロクが違法とされるのは 酒税法違反になるからです 要するに税金がらみです

「夫レ鹽ハ食肴ノ將 酒ハ百藥ノ長 嘉會ノ好」

古くは塩が最上の肴でした 塩といっても大陸なので岩塩です 産地によって味が変わったそうです 皇帝はまるで水晶のように透明な岩塩を嘗めていました 甘味があったといいます
日本でも冷や酒を入れた枡の角に 塩を盛って飲んだりします 日本で岩塩は取れませんから 海水を煮詰めた塩ですね たしかテキーラも似たような飲み方をします
めでたい集まりに酒は欠かせないものですが 百薬の長がよく分からない 調子(韻律)を整えるためか やはり言い訳か たぶん両方でしょう

肉は生肉で干肉は脯と言います 酒池肉林の肉は肉料理のことでしょうか 干果物も好まれていました 合わせて酒肴核です 干肉も干果物も贅沢なもので 庶民は炒豆なんかで酒を飲んだようです
我邦はスルメで酒を飲みます しかし干柿で酒を飲むことはしない 二日酔いに柿はよいといいますが 按ずるにこの違いは酒の質によるものでしょう
中国の酒は白酒と黄酒です 白酒は蒸留酒で50度ほどもあります 醸造の黄酒は古いものが老酒として喜ばれます どちらの酒も甘味はあまりなくドライです 干果物は合いそうです

日本酒は新酒が飲まれ 甘い酒が上等なものとされました 灘・伏見から江戸へ輸送する関係から 濃醇でアルコール度数が高い原酒で運びます 小売の際は玉割をするため 割水の少ない濃い酒がより上等だったのです
江戸時代には究極の甘い味醂が作られました 焼酎で割り井戸で冷やして飲みます カクテルですね[05] … Continue reading 江戸後期に味醂や砂糖が料理で使われるようになると 次第に辛口の酒が好まれるようになります
明治はじめの記録によれば アルコール度数18度前後 酸度9で+17〜18くらいの酒が市販されていました 超辛口です 大正時代になっても日本酒度+10が平均でした

中国の酒は伝統があります 白酒は日本の焼酎の倍の強い酒です ウオッカのように寒さをしのぎ 酔うための酒です 黄酒にしても陶淵明から蘇東坡に李白や杜甫の古詩を見れば 酔うことを詠い味のことはあまり言いません
日本酒は各地で次第に洗練され 明治時代に至って醸造試験場を中心とした官民の技術研鑽により 昭和50年代に大吟醸酒が醸し出され 世界至極の酒となりました

うまさけは うましともなく 飲むうちに 醉ひての後も 口のさやけき

蒸留酒の方は各地に秘めた島酒が伝わるそうです 古酒(クースー)の芳香は実に素晴らしいものです 麦焼酎は熟成すれば日本のウィスキー 黒糖焼酎は芳醇なラムとなるでしょう 清酒の古酒も再び造られるようになりました 蒸留酒の熟成を望みたいものです

(坂口謹一郎著・日本の酒を参照しました)

註釈

註釈
01 中国の麹は麦粉を練ってクモノスカビを付ける固形の餅麹 日本は蒸米にコウジカビを付ける散の米麹 米麹には黄麹と黒麹 黒麹の変異種白麹があります 黄麹は主に日本酒に使われます 黒麹は泡盛ですね 焼酎も黒麹か白麹を使用します 高粱酒などの中国蒸留酒は やはりクモノスカビの麯子ですから別物です
02 昭和初期まで受け継がれたきた酒造り唄は 酒と共に日本の文化です 他の国にこのような伝統があったかどうか分かりません 中国人の音楽感覚ではメリハリがないので 仕事歌はなかったような気がしますけれど
03 コウジカビは育てるのに技術が必要ですが クモノスカビは飯を炊いて水と共に加えるだけで 放っておけば勝手にドブロクになるそうです 醸造試験場技師の方の体験です だから中国では家醸酒なのですね
04 船で江戸まで運ぶため 腐敗防止に無臭の焼酎を使うようになったのは16世紀頃です ヨーロッパの酒精強化ワインも輸出のために考案されました こちらは18世紀です ともにアルコール添加酒ですね
05 中国の文献に密淋という言葉が見られます 製法は不明で料理に使われたという記録もありません 単に蜜のように甘い酒という意味でしょう 特定の製法の酒を言ってるわけじゃない 味醂と名付けたのは中国の文献からかも知れません 唐天竺渡りの珍奇希少な酒と呼称するためですね ヨーロッパには酒精強化ワインのマディラ酒やポルト酒があります 味醂と似た製法です やはり飲用にも料理にも使います
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水田と城

水田は山から

日本の水田の始まりは棚田です 南向きの山麓斜面に造りました 水稲米栽培で最も重要なのが陽当たりと水利だからです 山は照葉樹林に覆われ 保水力に優れています 斜面は水の管理がやりやすいのです
水田耕作が普及していくにつれ しだいに南面の適地が少なくなります 次には平地を開墾して水田としました 山裾に降りていったわけです[01] … Continue reading

川の中洲は水が豊富で地味が肥えています 開けているので陽当たりも良好 水田に適した土地です ただ台風などで水嵩が増した時には 実った稲が流されてしまいます 棚田(山田)に比べ治水が難しいのです[02] … Continue reading
平野に大規模な水田を造成するのは大工事です とくに水の流れを管理するのは 小集落でできることではありません 一定の勢力を持つ集団が新田を開発します 新田は開拓した者の所有になりますから 各地に豪族が出現することになるのです

山がちな地形である日本の水稲米栽培の推移です 古事記・日本書紀で描かれる 素戔嗚尊と八岐大蛇の神話は 山から始まり川の中洲に水田が作られる 稲作の歴史を正確・的確に物語っているのです 風雨の神である素戔嗚尊は 時に暴風となり田を毀ちます[03] … Continue reading 記紀で描かれる水田はおそらく川の中洲でしょう

水田の開発はもとより水稲米栽培は 田植え・草取り・稲刈りと季節ごとの労働集約型産業です しだいに作業しやすい平地の田んぼが主になっていきます[04] … Continue reading

城と水田の関係

いよいよ造れるところ全てが田んぼになれば こんどは土地の奪い合いが生じます そこまでいかなくても水争いは避けられません より恵まれた土地と水利をめぐる諍いは宿命ともいえます 互いに武器をもって戦うことになるのです
そして農民は武装し闘う兵(つわもの)[05] … Continue readingともなります 吉野ヶ里遺跡は環濠や土塁・木柵で囲まれています この頃にはすでに日常的な争いがあったのでしょう 和国大乱か?[06] … Continue reading

戦略論から言えば 山(高い位置)と川の合流地点は緊要地形です 砦を築く拠点になります 日本の城が山に築かれたり川の中洲・合流地点に多いのは 田んぼの水利も深く関係しています 土塁や石垣は棚田づくりの技術から来ていますし 水堀も治水工事と共通しています 築城は水田造成の土木工事を応用した砦造りから発達しました
城には根城と出城があり 出城は砦で根城と連携して機能します(通信連絡は狼煙) 山城には水源を押さえる意味もあります 太閤秀吉により戦国時代が終わり戦はなくなり 根城は次第に居城や政治的な シンボルの側面が大きくなります 平城は居城であり 政治権力の象徴であり 城下町の中心でした 城造りは領国経営・経済活動のため 都市計画の一部 ランドマークとなっていきます[07] … Continue reading

狩場・漁場をめぐる争いもあったでしょうが 武装して戦うほどではありません 自然を相手にする狩猟・漁撈と計画生産・装置産業の農業との違いです 所有と利用の差異ともいえるでしょう
ヨーロッパの城も川辺りに建つものが多くあります これは水運に対して課金するためです 通行税を勝手に取り立てていたのです 瀬戸内海の島に造られた水軍の城も似たようなものですね[08] … Continue reading

平野の治水と土木工事

よく知らないのですが 遊牧民は城を造ることはなかったのじゃないか イメージとしては部族単位のテント生活です 土地の所有という概念も持ってなかったと思います 万里の長城は国境線を示すために作られました[09] … Continue reading
蒙古なんかは好戦的な民族です さすがに機動力を生かした野戦は得意です でも攻城戦は不得手でした だから元寇は防塁で撃退された(日本に来襲したのは徒士でしたが 適切な防衛策です)
農業に適さない地域に住むのが遊牧民です 当然のことながら治水や築城の技術は発達しません 騎馬民族が海を渡って日本を侵略したり 稲作をもたらしたなんて いかに馬鹿げた妄説かですね(古墳の解説に 優れた土木技術を持つ渡来人が作ったなんて 支離滅裂なことが 根拠もなく書かれていたりします いまだに妄説を盲信しているのです)[10] … Continue reading

和国大乱が収まった後には 湿地帯・沼地の開拓が始まったのではないでしょうか 干拓は川の中洲よりさらに大規模な工事が必要です こうなると集落はムラからクニへ拡大します 公共工事が盛んに行われ 弥生時代から古墳時代に至ります
この頃には農機具も改良され鉄製品が使われるようになります[11] … Continue reading 作業効率は高くなっていたと思われます また農機具はそのまま土木工事にも使われます[12] … Continue reading
古墳は後代の戰で 砦代わりに使われることがありました 周りに環濠を巡らしているためです 盗掘を防ぐ水堀に見えますがどうなんでしょう もしかしたら水田のための溜池があって そこに古墳を築いたのかもしれません 元々は祭祀のための場所であったということです 大型の前方後円墳は奥の円墳が墳墓 その前の方墳は祭祀場かも知れない[13] … Continue reading

古墳時代には棚田から平野の田んぼが大半になっていたでしょう 平野とはいえ田んぼには必ず傾斜が必要です 高いところから低いところへ水は流れるからです 平地の田んぼであっても すべて緩斜面の棚田といえます
そうすると用水路・溜池等の配置計画が最も大切になってきます あれだけの大工事が墳墓のためだけに行われるとは考えにくいのです 古墳は治水の実用面と祭祀(農事祭)のためならば納得できます 祭祀は最初自然現象に捧げられ 神の使いを祀るようになり 人格神へと変化やがて部族・集落長の墳墓となったと考えます
八岐大蛇もそうですが 各地に伝わる民話で大蛇(水神)に土地の長者様の娘が嫁ぐ話があります 水利と農事祭・墳墓は密接な関係があると見てよい

註釈

註釈
01 ヤマタノオロチ神話 記紀では八つの頭と八つの尾と記されていますが 八つの岐(俣)には九つの頭と尻尾がなくてはなりません すなわち八岐大蛇(八俣大蛇)は九頭龍神と同一と見てよい
山に造られた棚田は山田でもあります ヤマタはもともと山田のことではなかったでしょうか 太安万侶が稗田阿礼の口誦を書き留めるときに勘違いした? なお菊姫(菊理媛)や宗像三姉妹は九頭龍姫の娘であるとの言い伝えがあるようです
02 信濃川の河口近くは水害に悩まされていました そこで治水のため江戸時代から分水路の工事が始まりました 今の大河津分水です 分水町の道路は昭和前半まで1メートルほどの盛土をしてありました 川が氾濫した時の備えです 同じように川の中洲にある農家は 納屋を高い盛土の上に建て さらに船を天井に用意した所が全国にありました
03 素戔嗚尊は八岐大蛇に御神酒?を供えています 供えた御神酒は濃い酒となっています 日本酒はワインより濃厚なので 米から造られた酒かもしれません 神道の形態が確立される以前は 縄文ワインが供えられていたと思われます 神に供えた酒は口噛み酒という説があります 口噛酒は濁酒ですから白い酒です 縄文のニワトコワインなら赤い酒です 紅白の酒として同時に用いられていた時期があったかも知れない
原初の酒造りである水酛造りでは 蒸米をスターターとし生米と合わせ乳酸発酵させます 口噛み酒は唾液中の消化酵素で糖化した 生米がスターターと言われます あくまでも酛づくりのスターターであり 酒の全量を生米を噛んで作るとは考えられず 口噛み酒が原初の酒ともいえない 口噛み酒の記述は大隈風土記にあるそうです 沖縄の御嶽に供える酒も近年まで口噛み酒であったといいます
酒を醸す技術があるなら米を炊くことは行われていたはず 万葉集に「味飯を水に醸み成し〜」との文言が見られます この頃すでに米飯で酒を醸すのが普通だったのです 生米を噛んでいたら偶然 酒になったなんてありえない 口噛み酒は神に供えるため 火を使うことを避けたのではないでしょうか
04 弥生時代の集落跡は大半が高地にあります 棚田は狭く作業効率が悪い それでも水利と日当たりをとったのです 当時はいわゆる古代米でしょうから 収量も少なかったはずです 平野に降りていったことと人口の増加 そして農作業が個人から集団へ移行したのも 関連していると思われます
05 兵という字は武器を持つ者を表します 兵を起こす挙兵は戦いの準備ですね 倭国大乱の頃は全員で武装して戦った事でしょう 農民であり時に兵士だったのです
武の字は戈を止めると書くように 本来は威力・抑止力を意味します また士は士大夫から来ています 武士は軍という組織に組みこまれ 兵役の義務を負う者のことです 刀を初めとする装備・兵器は自前なのですが あくまでも主君からの預かりものです 下命がなければ使うことはありません 扶持米・俸禄は軍備を整えるためですから
もっぱら農に携わる農家と もっぱら武辺の武家に分たれるのは 豊臣秀吉の刀狩り以降のことです 下剋上を阻止するためですね それでも一揆・逃散は頻繁に起きました 農とはいえ兵の心は失われていなかったのです
武士は軍に所属する者 兵士は武装した者です 兵力はforce of arms(戦闘力)であり 武力はmilitary power(軍事力)という感じでしょうか 武は有形戦闘力であり経済力でもあります(豊臣秀吉の軍) 兵は無形戦闘力すなわち練度ともいえますか(上杉謙信の兵)
06 菊姫(菊理媛)は日本書紀に登場します なぜか古事記には記載されない 日本書紀は対外的な広報誌のようなものなので 魏志倭人伝なんかと整合性を持たせるためではなかったのか 菊理は括りの事を表すとしたら 倭国大乱を治めた日御子?と比定してよいのではないか
ところで中国人が卑弥呼の文字を(ヒ・ミ・コ)と読まないのは確かです 魏志倭人伝はいろんな資料の引き写しです 聞き書きが元になっているでしょう となると3世紀の日本人は倭国大乱を治めた人物を(ひみこ)とは呼んでいなかった
当時の中国人の発音は分かりませんが (ピィ・ミィ・フゥ)という感じであったろうと思われます とすると姫神(ひめみわ・ひみわ)という呼称だったか 名前というか固有名詞で呼ぶことは考えられない
ミは回る・曲がるという意味で 敬称・美称というより蛇を表します 祭神は九頭龍でしょう また大神(大蛇)は酒の神でもあります 鬼道はおそらくトランス状態になりますから酒はつきもの? 日本酒醸造ではワインと違って水が重要です 水神(蛇)と結びつく由縁です
07 室町時代に築城されたという小田原城は 戦国時代に至って総構えと呼ばれる城塞都市にまで発展しました ギリシャ・ローマの都市国家に近いものかもしれません 海に面した土地柄もあり 水田との結びつきは薄くなっています
織田信長の安土城は 山城の概念からかけ離れた居城です もはや戦略的な意味より 威光を示すための政治的な建築物です もともと信長は米に依存しない領国経営を進めていましたから このような発想ができたのです
熊本城も城郭だけで成立するものではありません 曲がりくねった道路と町の区割りは計算されています 大事なのが川の流れを制する護岸工事 敢えてうねらせた川筋とし川底に岩山を造るという工法です 洪水で水が溢れることはなかったといいます
地震で城の石垣が崩れたのは 古い土台の上に城の姿を真似た コンクリート製のビルを建てたからです 木組みの建物は制震機能を持っているのです
08 戦国時代 上杉謙信の軍資金は直江津港・柏崎港の通関税が多くを占めていました 春日山城は低い山城ですが 直江津港を扼する地点にあります
古墳で小規模な方墳・円墳の中には 丘陵や山の中腹に作られたものがあります これも交易を管理する砦の意味があったと考えられます
09 河川や山稜は自然の要害となります 日本海もそうですね 人為的な国境線には何らかの建造物が造られます 海に境界線は引けないので 日本に明確な国境線はありません
10 短粒種の稲作は8000年ほど前 長江あたりで始まったとされます 大麦の栽培もその頃でした(寒冷地で栽培可能な小麦はさらに後) 世界的な寒冷気候により食料が不足し農耕が始まったといいます 長江を境に南と北では風土が違いますから 気候に合わせ南は米作(粒食)北は麦作(粉食)文化となります 日本は緯度からいえば北になりますが 海流の影響で温暖多雨な気候風土から 稲作が主になったのです
11 朝鮮半島南部で鉄製品の素材となる粗製鉄が発掘されます 半島南部は日本の支配下にありましたから そこで原材料を作り日本に移出 精錬し鉄製品を製作したのでしょう
12 いま日本の米作は個人の小作(平均1.5町歩)と法人組織の大規模経営があります 大規模経営といっても実際に農作業に関わるのは数人の少人数です 米作りは集約農業ですが 大型の機械を使えば1人で5町歩以上の田圃を維持運営できます そのため大規模経営は土木業を兼ねていることが多いようです
13 周りを掘り下げてその土で土塁を築くと空堀になります そこに水を引けば水堀です 環濠のある古墳はやはり水田工事の技術と共通しています この頃には道路の整備も行われていたようです 道路は盛土をしてあった痕跡があります 用水路と道路は並行して造られたかもしれません
南米のピラミッドも祭祀場であったようです この祭祀はやはり農業祭です 道路も整備されていました 古墳と共通していますが水利との関係はよくわからない 日本にも奈良をはじめとして 各地に階段ピラミッド状の古墳があります が古墳といえるのかどうか分かりません
石積ではなく山を削り取って形作ったものがあり 耕作や祭祀の跡も見られます 墳墓ではないようです 棚田あるいは段々畑との区別がつきにくい そういえば棚田は階段ピラミッドとそっくりですね 南米の階段状ピラミッドも段々畑を模したかもしれない
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