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タグ: 古墳

神も仏も

神社は拝殿でした 神を遥拝する場所(神籬)だったのです いつの間にか神が降り立つ場所となり 御神体や依代を祀るようになります 古墳時代から飛鳥時代あたりでしょうか 社殿が作られるのは 自然神から人格神に変わった頃かもしれません[01] … Continue reading
天照大神を天の岩戸から迎える場所に 逆木を立てたと言いますから これが神籬のはじめと思われます やがて神籬に建物ができ本殿とされるようになりました 賢木(榊)は神木に変わり本殿内には心御柱があります 神の数詞が柱となるのはこの後でしょう

仏壇も同じことです 在家で仏を拝むための場所です 仏閣は神社と違い本来は僧が修行するための道場 生活の場でもあります 伽藍構造では講堂・庫裏・食堂などが重要な施設です 信徒が参拝するのは仏像のある金堂です
仏間は金堂を模したものです 金堂に設けてある須弥壇のミニチュアが 仏間に造作される仏壇です 古くからの家では床の間のように造り付けています 江戸時代の後期あたりから 家具のように置かれる形 大型の厨子になったと思われます

伊勢に天照大神を祀ったのは大和王朝の時代とされます それまでは五十鈴川(⇒猿田彦)が御神体でした[02]サルタヒコは道案内の神とされますから 道祖神(⇒塞の神)と同一でしょう 神宮はもともと心御柱を覆う屋根でした 式年遷宮[03] … Continue readingのための隣地に小さな社(屋代=屋根を架ける場)が建っていますが ここも心御柱が中にあります 心御柱が依代であり八咫鏡が形代でしょうか よく分からん
五重塔にも芯御柱があります これは神社と違い構造材です(最初は基壇に仏舎利を納めたらしい) 棟持柱の代わりに一本の柱で塔を支えています[04] … Continue reading 諏訪大社の御柱祭 伝えられる出雲大社の姿 復元された三内丸山の巨木建造物を考え合わせると 日本人の信仰が見えてくる気がします

神は神社にいません 仏も仏壇にはいない あるのは依代や仏像だけです 仏教に詳しくなくよく分からないのですが 西方浄土はどこから来た信仰なのでしょうか 阿弥陀三尊の御来迎は山を越えてです 私には夕焼け小焼けからと思えるのです
太陽が没する前に空が茜色に焼けます 茜は西の字が含まれます夕焼けの色です 日が沈むと空の色は濃い紫となりますが 一瞬の後ふたたび山の端が茜に輝くときがあります 小焼けですね 阿弥陀如来の慈悲の光が射すのです[05] … Continue reading
当家は浄土宗なので大日如来となると全く分からない 太陽そのものや日の出を象徴したのではないらしく 強い光で遍く地上を照らす存在と言います 聖霊なる神と似ている面がある 密教の成立は6世紀とされますので 西洋宗教の影響を受けた可能性はあります

註釈

註釈
01 キリストを神格化するカトリック教会の権威が確立されたのも7〜8世紀ですから 人格神への移行は世界的な潮流であったかもしれません むろん回教徒のいう偶像崇拝とは全く異なる信仰の姿です
02 サルタヒコは道案内の神とされますから 道祖神(⇒塞の神)と同一でしょう
03 伊勢神宮の式年遷宮 春日大社の式年造替 出雲大社もかつては建て替えていたようです 何れにしても神社は仮のものだったことが分かります 諏訪大社も熊野本宮も大神神社も同じです もともと建物はなかった 大神神社は日本最古と言われ おそらく縄文時代から祀られています 三輪山が祭神であり神社は拝殿のみです 沖縄の御嶽は自然の岩組が原初の姿を留めています
04 大黒柱は棟持柱ではありません 台所にある柱で一家の主婦が司ります 大黒は食の神様で俗語で「うちの大黒」といえば 主婦を指すのはご存知の通り 家中で一番太い柱というのは風説です 屋台骨と混同したのかもしれない
棟持柱は通常2本あります 当たり前のことですね 大黒柱は1本だけです 下の方に粥を供える風習があったそうです 地域によっては梢を下にした 逆木で立てると聞いたことがあります 心御柱から来たのではないか
05 夕焼けで子供らの顔が赤く染まります 小焼けは小さな光で なかなかこちらまで届きません 海に沈む夕日も見たことがあります 荘厳で美しくはあるが御来迎とは見えない おそらく小焼けもないと思います 平安時代のご来迎図は ほとんど山越えですね 京都は盆地ですから
地球の大気を横から見ると 成層圏が青くその先は次第に紫となっていきます 大気圏は無色です 日中に天を仰げば成層圏の青が見えます 成層圏に近づくほど空の色は青紫になっていきます 反対に陽が沈むときは大気圏の層が厚いので 成層圏の青色が届かず黄から赤の色が見えるわけです
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きな粉餅のこと

正月のきな粉餅

きな粉餅はなぜ正月に食べられるのでしょう 巷説では東海道名物安倍川餅が きな粉餅の始まりといいます 慶長年間に弥勒の茶屋が売り出しました しかし奈良や熊野で正月に食べるきな粉餅は それ以前からの慣わしとしか思えません[01] … Continue reading
きな粉餅以外に 芋と米を搗き混ぜた団子に きな粉をまぶしたものが 月見に供えられていました やがて月見の団子は米粉(新粉)だけになりましたが 芋と米を搗き混ぜる芋餅は 各地の伝統食として残っています

きな粉餅が正月に食べられるのは 縄文文化と弥生文化の習合を表す気がするのです[02] … Continue reading 縄文は芋文化 弥生は米文化と私は思っています 縄文と弥生は変遷しながら一繋がりに続いているということ
地域によっては 雑煮にあんこ餅を入れるところがあります 水稲米の文化に移行した後も きな粉餅やあんこ餅という形で 縄文の習俗が守られていたのではないか[03] … Continue reading 現在一般的な餅米の搗き餅は江戸時代に広まったようです

きな粉と小豆あんは縄文 餅は弥生を表す

通説では大豆の栽培は弥生時代から きな粉は室町時代に一般的になったとされます きな粉餅はそれ以降に作られたことになります しかしこれは文献初出がその時というだけのことに過ぎません 埼玉の縄文中期遺跡で出土した土器から大豆の圧痕が見つかっています しかも野生ではなく栽培種らしいのです 小豆も縄文時代から栽培されたことが確認できています[04] … Continue reading
粢餅というものがあります 米粉を水に浸して卵形(里芋形)に作ります 古代には木の実や豆でも作りました いわゆる縄文クッキーですね オコシ[05] … Continue readingや五家宝また州浜などのルーツです 小豆は軟質ですから茹でるだけであんこになります 小豆に比べて大豆は硬質なので 調理しにくいことは確かです 煎った大豆を粉に挽いて用いたのは かなり古いと思いますね[06] … Continue reading

江戸の雑煮と東京の雑煮 餅と雑煮は別に食べる

正月料理の代表である雑煮に餅を入れます 元来は様々な具(供物)を一緒に煮たのが雑煮です[07] … Continue reading 奈良・熊野だけでなく江戸でも雑煮は まず煮た餅を歳神様(恵方)に供えてから食べ そのあと他の具を汁と共に戴くのが順序でした 餅を食べるのと雑煮を祝うのは別々のことだったのです 餅を温めるため雑煮の鍋に入れていたのが 一緒に食べるようになったと思われます 雑煮にあんこ餅を入れたり 雑煮の餅にきな粉を付けて食べるのは 古来よりの慣わしが変化してきたのでしょう[08] … Continue reading
奥州では正月に様々な餅を食べます きな粉餅あんこ餅だけでなく ずんだ餅や海老餅に胡桃餅など 家庭により色々のものを取り合わせます 砂糖醤油で餅を食べるのも なかなかいいものです 沖縄のコーレーグスと醤油を合わせて(勝手に辛味醤油と呼んでいます)つけ 磯部巻きにしたのはかなりよい 実をいうと私自身は きな粉餅をあまり好きじゃない

【付記】 粳米で作る 新粉餅・五平餅・キリタンポなどは 挽餅・鄙餅等と呼ばれます ハレの食べ物ではなく日常や法事で用いるケの食です 搗かず粉に挽いて捏ね蒸して作る餅 越後の笹団子も近いですね 母方の祖母から聞いた話では 年貢米の目溢し分を使ったのだといいます
四公六民の割合で納める年貢米は籾です 役人が規定の一升枡で量りますが この時わざと溢す(量目を溢す) 溢れた籾は敷いた筵ごと回収します 溢(こぼ)すは溢(あふ)れるの意味ですから お目溢しの目は見て見ぬ振りでなく目盛の目 すなわち役人の裁量(温情)のことを指します 不作時の調整の意味もあったかもしれません
石高は上田・中田・下田の石盛に面積をかけて決められます 水田(上田)以外の畑(中田)や屋敷(下田)も含まれます 肥沃な上田なら1町歩20石以上は穫れ 上・中・下の全体を概算するとほぼ1反1石に当たります 田んぼの面積ではないので 公称石高と実際の収穫量は一致しません 畑の作物は年貢として収める必要がなく 米よりも高く売れれば実質的な増収となります 屋敷の地内に作物を植えることも可です
筵に落ちた目溢しの籾は 踏まれて屑米になります 屑米を水に浸すと藁・籾殻が浮く 水を捨て残った米を挽いて捏ね 蒸したり焼いたりするという具合です(正規の粳米を粉に挽けば上新粉となります) なお陸稲は糯米が多く糯米は年貢米ではありません
冷涼な気候で米があまり穫れない信州では 小麦粉を使ったお焼きになります 米以外の作物が盛んに作られれば各地の名産品として知られます 信州の蕎麦なんかは代表でしょう 大消費地の江戸に運ばれ蕎麦切りが流行しました 関西で蕎麦が馴染みでないのは 大阪が米の集散地であったことからでしょうか

註釈

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01 安倍川餅が評判を呼んだのは もともとあったきな粉餅に 貴重な白砂糖をかけたからです なので本来きな粉と砂糖は混ぜ合わせるものではありません きな粉をまぶした餅に白砂糖をかけたのが安倍川餅 物の本には安倍川の砂糖餅とあります(一口大の餅が五文でした)
02 弥生よりはるか後代に神仏習合がありました この時も神道と仏教が交代するのではなく 互いの姿を保ちつつ適合していきます 宗教の観点からは仏教も神道も多神教という点で親和性があります
一神教はまったく異なる教義です 正義は神を信ずる我のみにあります 他と棲み分けることはできません 日本人に合わないのは道理です
日本はそれぞれの伝統を絶やすことなく 混淆して引き継ぎます 縄文の陸稲と弥生の水稲 粳米と糯米 芋と米 餅と豆など
03 あんこ餅というと甘いものを想像しますが 江戸時代の大福餅は塩餡を用いたものをいいます 餅菓子ではなく腹塞ぎの軽食でした 各地に残るあんこ餅入り雑煮は もともと甘い餡ではなかったのです
埼玉県北東部に塩餡餅(しおあんぴん)があります 砂糖を一切使わない塩味のあんこ餅です 砂糖醤油をつけて食べるのが一般的ですが 昔は雑煮に入れたそうです この地域一帯には古墳群が数々あります 古の姿を伝えているのではと思えます
埼玉は越ヶ谷宿で 塩餡大福を作っている菓子屋さんがあります 甘さで味をごまかせないので 餅が旨くないと成り立たない 日持ちもしない 昔ながらのものです こちらは砂糖きな粉でいただきます そのまま食べても大変うまい
04 石器時代のずっと後ですから 縄文時代には石臼の原型が使われていたとしても不思議でないこと(精巧な加工技術の勾玉は縄文時代から作られています) 平安時代に初めて中国から干菓子がもたらされたわけでない 文献に記されたのがその時代というだけです ミシャグジ神を祀る時に石棒と石皿が使われます これが石臼の原型ではないでしょうか 信州のお焼きは相当古くからあったと思われます
なお餅という字は中国(漢民族)では 小麦粉を練った食品を表し パンやクレープとか月餅のようなものを言います 文字を借りただけなので 米から作る日本の餅とは異なります もともと中国北部は米が栽培できず 小麦粉文化圏です
05 オコシの名の由来は 名古屋でひな祭りに作られるおこしもの(オコシ餅)と同じでしょう 練った米粉を型に押し付けてから蒸す餅です
今日見られる糯米の搗き餅が一般的になったのは 江戸時代に入ってからのようです それまでは米を粉にして蒸す練り餅が普通でした 小正月の行事に使うのは練り餅や粥となります これが古式です
06 切り分けて小正月に掻き餅にするナマコ餅があります 寒中に搗いて寒晒しにするので寒餅とも言いますが これは掻き餅の音便変化かもしれません また煎った大豆が入る豆餅も昔からのものでしょう ナマコ型なのは搗くのではなく 上新粉や白玉粉を捏ねて蒸す餅だったからです
07 なぜ雑煮なのか 様々な食物は全て自然の恵みであり 八百万の神々がもたらすのです その土地でとれるものを感謝していただく 決まりはないから雑煮です 新潟の雑煮は鮭や根菜類が入った具だくさんなものです 雑煮は名の通り煮物であって汁物ではないから 古の姿に近いのかもしれない
08 東京の雑煮は 焼いた切り餅と鶏肉が入った澄まし仕立てです これは明治以降のこと その前は味噌仕立てでした 醤油仕立ての雑煮は東京風であって お江戸の風ではありません 鶏肉が入るところを見ると薩長が始めたことでしょう 鬼平犯科帳に登場する五鉄のように お江戸ではカシワじゃなくシャモが一般です(雑煮には入れません) 江戸時代でも小松菜は使われましたし ほぼ正方形の大きな角型切り餅でした
丸い餅と角型の餅は見た目じゃなく 搗いた餅を丸めるか伸すか 作り方の違いです 家で搗いたならちぎって丸めるでしょうし 賃餅なら伸し餅で納めます これを切れば角型になります できた形に意味を持たせたのではない ですから角餅とは言わず切り餅と呼びます お江戸の餅が角型になったのは 餅を丸める女手が足らなかったのが理由です
夏場に搗く餅は 腐敗防止のためちぎって笹の葉に包みます 箱にぎっしり詰めると角丸の四角になる また鏡餅の原型は 平たく伸した餅を丸く切り 重ねたもので 文字通り鏡の形を模していました これを二つ折りにすると花びら餅です(鶴屋吉信では御所鏡と名付けています 宮中の行事に使った鏡餅が下賜された故です) 現在の鏡餅と言われるあの形は 備餅というものでした
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土偶は土鈴となったか

土偶と縄文の祈り

縄文時代に作られた土偶は その形状から妊婦を現していると思われます なぜ妊婦なのでしょう[01] … Continue reading

縄文時代に農耕はなかったとされます[02] … Continue reading しかし定住・共同生活していたことは確かです 山菜や自然薯が採れるのは一定の場所です 栽培しないとしても時季を見計らって収穫するものです 里山は手入を怠れば荒れ果ててしまいます これは現在も変わりません
縄文前期おそらく6000年前には陸稲が栽培されていました 豆・芋・雑穀類はそれ以上前から作られたはずです 水田がなかったといえ農耕が行われなかったとはいえない
(8000年前の縄文早期 すでに煮炊き用の炉〈竃〉が使われていました おそらく共同炊事場だったのではないでしょうか三重県埋蔵文化財センター 昭和初期頃までの農村風景と さほど変わらない生活が営まれていたのです)

採集であろうと農耕であろうと 木の実・草の実そして穀物は 春に芽吹き夏に花咲き秋に実り冬に枯れます 命あるものは誕生と死を繰り返します 縄文の人たち(ご先祖様)も生命の営みは皆同じと見ていたでしょう
豊かな実りを願って 種蒔き・雨乞いの祭りを執り行い 収穫された作物を捧げて感謝しました そして翌年に備え種を保存します このときの祈りのため 妊婦を現す土偶が使われたのではないか と私は考えています

妊婦の土偶には 腹部が中空で中に粘土の塊が入っているものがあります 振るとカラカラと音がします 後代の銅鐸のように祭礼には音曲が付き物です 中の粘土塊は胎児を現すと同時に 音を出すためではなかっただろうか

土鈴と弥生の祈り

さて土偶は弥生時代に入ると姿を消します なぜ作られなくなったかは分かりません 想像するに それまで行われていたアニミズム的祭祀が洗練されて 古代神道の形が整えられたからじゃないか[03] … Continue reading
すなわち妊婦の姿から 音を奏でる祭具として土鈴に変化したと見ます 鈴は神楽や各種祭礼でもっとも重要な祭具です それなのに鈴が使われる由来は詳らかではありません 発想が飛躍しすぎるかもしれませんが 土鈴から銅鐸そして金属製の鈴となったのか

そういえば 装飾過多ともいえる縄文土器から シンプルな弥生土器に変化していったのも 同じ理由かもしれません 火炎土器なんか単なる貯蔵でなく お供えのためとしか思えません
ニューギニア高地の人たちは 近年まで古来からの土器を使用していたそうです 貯蔵用の土器は装飾のあるもの 煮炊きには装飾なしの実用的なものと 使い分けていました

縄文初期には装飾土器が煮炊きにも使われていたでしょう それは食物を神(自然)からの授かりものとして供え お下がりを共食するためです 縄文の人たちは日常を神とともに生きていました[04] … Continue reading
後世の神事に使われる器は一回限りの土器(かわらけ)となっています[05] … Continue reading 収穫量の多い水稲により食料事情が良くなったことから 稲作は自然の恵みから人格神に結びつけられ 神事は「ハレ」日常は「ケ」と切り離されていきました
しかしながら縄文日本人の敬虔な精神は 形を変えつつも絶えることなく 現在の雑煮に伝わっています また初物を仏壇に供えてからいただくのも 同じ心がけからです[06] … Continue reading 明治以前は神仏混淆ですから切り離して考える必要はありません[07] … Continue reading

註釈

註釈
01 近年土偶は植物(穀類・豆類)の擬人化ではないかとの説があります 私もそうだろうと思います 種が芽吹き花開き結実し稔るのは 人が婚姻し子を成し誕生するのと まったく同じ営みです 穀物も我が子も隔てなく健やかな成長を祈って祭祀を行ったのです
02 山菜採りをしたこともない学者の机上の説です 採集といっても適当にそこら辺を歩き回って たまたま見つけた木の実・草の実を採るわけじゃない 翌年に備えてすべて採り尽くすことはないし 採ったあと周りを手入れして生育を促します
採集とはいえ管理することが必要なのです 狩猟・漁労も同じで狩場・漁場があります これらが入会権となりました 勝手に山に入って茸を採るなんて許されないことです 共同作業の結や蒔は なにも稲作に限ったものではない
03 古墳時代には 鈴を腰に付けた巫女の姿と思われる埴輪が作られていました この辺が最も古い祭具としての鈴でしょう 宮中賢所の内侍によると 鈴はもっとも重要な祭具なのだそうです
神社の賽銭箱の上に鈴が吊るされるのは近年の風習です お参りするとき鈴を鳴らすなんてのも新しいこと そうすると仏壇に鈴(りん)を置くのも近年のことかもしれません 鈴の音に霊力があるとか神様に対する合図だとかは後付けの理由にすぎない 二礼二拍手一礼が定着したのも敗戦後です
04 土偶が全て欠けているのは 死と再生を意味します 縄文時代の主神であった土偶は 大宜都比売命として古事記・日本書紀に伝えられます また縄文土器の口の部分に 土偶様の面を取り付けたものがあります
05 発見される土偶は意図的に掻いています 1年区切りの年季祭礼で使われたのでしょう 1年草である穀物のサイクルに合わせたのではないだろうか 土器が一回限り使われるのはこれを継承したと考えます
06 上座部仏教では釈迦を尊崇します 村の娘スジャータが牛乳粥を振る舞って 元気を取り戻したお釈迦様が悟りを開いたことから 釈迦涅槃像に食物をお供えするようです しかし日本に伝わったのは大乗仏教ですから 仏前に供える靈供膳等は仏教の教えではないと思われます
ことさらに仏教と神道を区分けするのは 明治政府による神仏分離令以来のことです 古代神道の伝統の上に築かれたのが日本型仏教で 日本では神も仏も不即不離のものでした 仏前に魚肉類を忌む理由はないのです
07 神社神道も明治からです それまでの神社は産土の神であって すべて国津神です 伊勢神宮も本来皇室の祖先神です(天津神として特別扱いしたのは記紀からです) 室町時代に始まった吉田神道は民間で広く伝わり 各地の神社の祭神や縁起を改竄することがありました いま祀られている祭神が創建当時からのものとは限りません
江戸中期の契沖に始まる国学は幕末期 本居宣長によってファナティックな原理主義となり 朱子学と結びついて極端な忠君愛国思想を生み出しました 明治時代になって偏狭な国家神道となりましたが 排仏排儒といいながら教育勅語など儒教そのものです
神社本庁などが唱える伊勢神宮を頂点とした神社神道は 国学→明治維新→王政復古→国家神道の流れの中で作られたものです 維新の志士・元勲を称する者たちが 権威づけのために始めました 縄文時代からの日本人の信仰とは大きくかけ離れたものです
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