きな粉餅はなぜ正月に食べられるのでしょう 巷説では東海道名物安倍川餅が きな粉餅の始まりといいます しかし奈良や熊野で正月に食べるきな粉餅は それ以前からの慣わしとしか思えません[01] … Continue reading
きな粉餅以外に 芋と米を搗き混ぜた団子に きな粉をまぶしたものが 月見に供えられていました やがて月見の団子は米粉(新粉)だけになりましたが 芋と米を搗き混ぜる芋餅は 各地の伝統食として残っています
きな粉餅が正月に食べられるのは 縄文文化と弥生文化の習合を表す気がするのです[02] … Continue reading 縄文は芋文化 弥生は米文化と私は思っています 縄文と弥生は変遷しながら一繋がりに続いているということ
地域によっては 雑煮にあんこ餅を入れるところがあります 水稲米の文化に移行した後も きな粉餅やあんこ餅という形で 縄文の習俗が守られていたのではないか[03] … Continue reading
通説では大豆の栽培は弥生時代から きな粉は室町時代に一般的になったとされます きな粉餅はそれ以降に作られたことになります しかし埼玉の縄文中期遺跡で出土した土器から大豆の圧痕が見つかっています しかも野生ではなく栽培種らしいのです 小豆も縄文時代から栽培されたことが確認できています[04] … Continue reading
粢餅というものがあります 米粉を水に浸して卵形(里芋形)に作ります 古代には木の実や豆でも作りました いわゆる縄文クッキーですね オコシ[05] … Continue readingや五家宝また州浜などのルーツです 小豆は軟質ですから茹でるだけであんこになります 小豆に比べて大豆は硬質なので 調理しにくいことは確かです 煎った大豆を粉に挽いて用いたのは かなり古いと思いますね[06] … Continue reading
正月料理の代表である雑煮に餅を入れます 元来は様々な具(供物)を一緒に煮たのが雑煮です 奈良・熊野だけでなく江戸でも雑煮は まず煮た餅を歳神様(恵方)に供えてからいただき そのあと他の具を汁と共に食べるのが順序でした 餅を食べるのと雑煮を祝うのは別々のことだったのです[07] … Continue reading
雑煮にあんこ餅を入れたり 雑煮の餅にきな粉を付けて食べるのは 古来よりの慣わしが変化してきたのでしょう 奥州では正月に様々な餅を食べます きな粉餅あんこ餅だけでなく ずんだ餅や海老餅など 家庭により色々のものを取り合わせます 砂糖醤油で餅を食べるのも なかなかいいものです 実をいうと私自身は きな粉餅をあまり好きじゃない[08] … Continue reading
註釈
↑01 | 安倍川餅が評判を呼んだのは もともとあったきな粉餅に 貴重な白砂糖をかけたからです なので本来きな粉と砂糖は混ぜ合わせるものではありません きな粉をまぶした餅に白砂糖をかけたのが安倍川餅 混ぜたらせっかくの白砂糖が見えません(一口大の餅が五文でした) |
↑02 | 弥生よりはるか後代に神仏習合がありました この時も神道・仏教が交代するのではなく 互いの姿を保ちつつ適合していきます 宗教の観点からは仏教も神道も多神教という点で親和性があります 一神教はまったく異なる教義です 正義は神を信ずる我のみにあります 他と棲み分けることはできません 日本人に合わないのは道理です 日本はそれぞれの伝統を絶やすことなく 混淆して引き継ぎます 縄文の陸稲と弥生の水稲 粳米と糯米 芋と米 餅と豆など |
↑03 | 埼玉県北東部に塩餡餅(しおあんぴん)があります 砂糖を一切使わない塩味のあんこ餅です 砂糖醤油をつけて食べるのが一般的ですが 昔は雑煮に入れたそうです この地域一帯には古墳群が数々あります 古の姿を伝えているのではと思えます |
↑04 | 石器時代のずっと後ですから 縄文時代には石臼の原型が使われていたとしても不思議でないこと 平安時代に初めて中国から干菓子がもたらされたわけでない 文献に記されたのがその時代というだけです なお餅という字は中国(漢民族)では 小麦粉を練った食品を表し パンやクレープとか月餅のようなものを言います 文字を借りただけなので 米から作る日本の餅とは異なります もともと中国北部は小麦粉文化圏です |
↑05 | オコシの名の由来は 名古屋でひな祭りに作られるおこしもの(オコシ餅)と同じでしょう 米粉を型に押し付けてから蒸す餅です 今日見られる糯米の搗き餅が一般的になったのは 江戸時代に入ってからのようです それまでは米を粉にして蒸す練り餅が普通でした 小正月の行事に使うのは練り餅や粥となります これが古式です |
↑06 | 切り分けて小正月に掻き餅にするナマコ餅があります 寒中に搗いて寒晒しにするので寒餅とも言いますが これは掻き餅の音便変化かもしれません また煎った大豆が入る豆餅も昔からのものでしょう ナマコ型なのは搗くのではなく 上新粉や白玉粉を捏ねて蒸す餅だったからです |
↑07 | 東京の雑煮は 焼いた切り餅と鶏肉が入った澄まし仕立てです これは明治以降のこと その前は味噌仕立てでした 江戸時代でも小松菜は使われましたし ほぼ正方形の大きな角餅でした 丸餅と角餅は見た目の形じゃなく 搗いた餅を丸めるか伸すか 作り方の違いです 自家製ならちぎって丸めるでしょうし 賃餅なら伸し餅になります これを切れば角餅になります 夏場に搗く餅は ちぎって笹の葉に包みます 箱にぎっしり詰めると角丸の四角になる |
↑08 | 新粉餅・五平餅・キリタンポなどは 挽餅・鄙餅等と呼ばれます ハレの食べ物ではなく日常や法事で用いるケの食です 搗かず粉に挽いて捏ね蒸して作る餅 越後の笹団子も近いですね 母方の祖母から聞いた話では 年貢米の目溢し分の屑米を使ったのだといいます 四公六民の割合で納める年貢米は籾です 役人が規定の枡で量りますが この時わざと溢す(量目を溢す) 溢れた籾は敷いた筵ごと回収します 溢(こぼ)すは溢(あふ)れるの意味ですから お目溢しは見て見ぬ振りでなく 役人の温情のことを指します 1町歩の田から500束の稲が穫れ 脱穀して25石の籾となります 年貢米は俵に入れて納めますが 1俵に何斗入るかの決まりはなかったのです お目溢しの籾は踏まれて一部が屑米となります 屑米を挽いて水に浸すと藁・籾殻が浮く 水を捨て残った米粉を捏ねて 蒸したり焼いたりするという具合です |