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タグ: 縄文

無嗜みで焼物の価値が理解できない

中国や朝鮮の陶磁器はたしかに優品です しかし吾が国のものに比べ 技巧に走り生命を感じさせません 時の権力者の命に従って 欠点のないものを作ることに腐心している 造り手のゆとりがない精緻な細工物です 朝鮮の両班たちは陶工の作った最上のものは納めず 次善作を中国の皇帝に献上したといいます 同じものを作れと言われた時のためです 歴史からくる強かな生き方です[01] … Continue reading

なにかの雑誌で骨董とは茶道具のことと書いてありました たしか武者小路千家の方だったと思います 茶は剣・禅とともに武家の嗜みでありました[02] … Continue reading 江戸時代まで名物といわれる茶器は 諸大名が所有するものでした
明治維新で版籍奉還があり大名の台所事情が怪しくなります そこで手元にあった茶道具などを売りに出します 秘蔵品が俄かづくりの華族や政商・成金の手に渡りました
さらに昭和大戦敗戦の後 GHQによって華族が廃止され財閥が解体されたことにより 骨董品が一般に出回り市場が形成されたのだそうです 書画骨董といいますように美術品と骨董は異なります 古物愛好の骨董は趣味であって文化芸術とはいえない

古い工芸品を骨董と言ったのは明治になってからのようです しかし武家の嗜みから離れた骨董は 茶の湯からも遠ざかり 単に希少な器物 年代物の古道具(アンティーク)と同列に扱われます
TV番組で中島誠之助氏が海揚がりの器に数十万円の値をつけていました その上でもしこれに箱書きがあったら数百万円になるだろうというのです 難破船から引き揚げた輸出品ですから 同じものが幾つかあります
値の差は箱書き(箱代?)なのです 器物そのものの価値じゃない 名高い名物は袋の上に袋を重ね 箱をさらに大きな箱に入れています それぞれに由来があるそうで 付加価値が積み重なっていくのです

利休の数寄執心は 殊更で素直さがないものです 心得のない者の目には捻くれているとしか見えません ことに楽焼などは作為が嫌味です さらに下って柳宗悦の民藝など 高みから教え諭すかのような態度は不快です[03] … Continue reading 青山二郎の系統に至っては半可通の集まりでないですか[04] … Continue reading 北大路魯山人の趣向は品下った衒いしか感じられない[05] … Continue reading 陶器の世界は無粋な私など さっぱり分からないことだらけです

註釈

註釈
01 中国では油滴天目が尊ばれ 日本においては窯変天目が喜ばれます 窯変は文字通り人の手になるものではありません たぶん油滴の出来損ないなのです 日本人が価値を見出した失敗作を 高値で売りつけた?
小林東五翁が窯変の一種カイラギ生成の理を発見しました 李朝高麗陶磁を作る際高台の削りと仕上げを急いだことにより偶然できたようです 陶工たちは同じ規格のものを大量に作ることを要求されていました その中の優品を中国に納めていたのです 井戸の辺りに放置されていた不良品?に 千利休が美を見出し価値が生まれました
02 茶室の始まりは慈照寺(銀閣寺)東求堂内にある〈同仁斎〉といわれます 足利義政が村田珠光に習って作ったものです 鎌倉以来の武家は武具以外の文化を持つことができなかった 侘だの寂だのという言葉は見栄なのかも知れません 太閤秀吉が開いた北野大茶湯の顛末は興味深い 秀吉は武家ではなかったのです
禅はインド出身の達磨大師が中国で広めました 老荘思想と仏教が一緒になったもので 個人の内面を重視します 実力主義の武家に好まれました
徳川の世になると公的秩序である儒教(朱子学)が取り入れられます 桃山文化は統率を嫌う大阪庶民の間に残されることになります
03 柳宗悦の民藝運動は 李朝工芸品の雑器を持ち上げたところから始まります 利休の真似をしたのかどうかは分かりません やがてバーナード・リーチと知り合い 日本国内の雑器をイギリス人も認めたと褒めることで 好事家が高値で求めるようになります 骨董とは違う市場が形成されたのです
04 私は貧乏人ゆえ茶には縁がなく 骨董のことは知りません だから良さが全くわからない しかし小林秀雄の文を読めば もっともらしく書いていても修辞に満ちた いい加減な内容です 他の者も推して知るべしであろうと思っています
禅問答もさっぱりわかりません 高校生の時に人に勧められ 鈴木大拙を読みましたが さして感銘を受けなかった ま「BUSHIDO The Soul of Japan」よりはマシですが 柳宗悦なんかと同類の様です 禅林の枯山水もいいと思いませんね 足立美術館の庭のほうがずっと素直です
05 「美味しんぼ」の海原雄山は北大路魯山人がモデルですね 魯山人はやはりセルフプロデュース力に優れています 雁屋哲氏の漫画の方も食に関して大変な影響力がありました しかし自らの見識で書いているのではなく あちこちの書籍などから拾ってきた 無責任な受け売りばかりです とくに日本酒への悪質なデマ拡散は目に余るものがあります
借り物の内容を検証もしないで 海原雄山に語らせる 魯山人は豊かで繊細な感受性の持ち主であって 傲慢さはその裏返しなのだと 愛弟子辻義一氏は言っておられたそうです 優れた味覚を持っていたにもかかわらず アサヒビールを愛飲していたとか 当時は大吟醸がなかったので仕方ないか
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神も仏も

神社は拝殿でした 神を遥拝する場所(神籬)だったのです いつの間にか神が降り立つ場所となり 御神体や依代を祀るようになります 古墳時代から飛鳥時代あたりでしょうか 社殿が作られるのは 自然神から人格神に変わった頃かもしれません[01] … Continue reading
天照大神を天の岩戸から迎える場所に 逆木を立てたと言いますから これが神籬のはじめと思われます やがて神籬に建物ができ本殿とされるようになりました 賢木(榊)は神木に変わり本殿内には心御柱があります 神の数詞が柱となるのはこの後でしょう

仏壇も同じことです 在家で仏を拝むための場所です 仏閣は神社と違い本来は僧が修行するための道場 生活の場でもあります 伽藍構造では講堂・庫裏・食堂などが重要な施設です 信徒が参拝するのは仏像のある金堂です
仏間は金堂を模したものです 金堂に設けてある須弥壇のミニチュアが 仏間に造作される仏壇です 古くからの家では床の間のように造り付けています 江戸時代の後期あたりから 家具のように置かれる形 大型の厨子になったと思われます

伊勢に天照大神を祀ったのは大和王朝の時代とされます それまでは五十鈴川(⇒猿田彦)が御神体でした[02]サルタヒコは道案内の神とされますから 道祖神(⇒塞の神)と同一でしょう 神宮はもともと心御柱を覆う屋根でした 式年遷宮[03] … Continue readingのための隣地に小さな社(屋代=屋根を架ける場)が建っていますが ここも心御柱が中にあります 心御柱が依代であり八咫鏡が形代でしょうか よく分からん
五重塔にも芯御柱があります これは神社と違い構造材です(最初は基壇に仏舎利を納めたらしい) 棟持柱の代わりに一本の柱で塔を支えています[04] … Continue reading 諏訪大社の御柱祭 伝えられる出雲大社の姿 復元された三内丸山の巨木建造物を考え合わせると 日本人の信仰が見えてくる気がします

神は神社にいません 仏も仏壇にはいない あるのは依代や仏像だけです 仏教に詳しくなくよく分からないのですが 西方浄土はどこから来た信仰なのでしょうか 阿弥陀三尊の御来迎は山を越えてです 私には夕焼け小焼けからと思えるのです
太陽が没する前に空が茜色に焼けます 茜は西の字が含まれます夕焼けの色です 日が沈むと空の色は濃い紫となりますが 一瞬の後ふたたび山の端が茜に輝くときがあります 小焼けですね 阿弥陀如来の慈悲の光が射すのです[05] … Continue reading
当家は浄土宗なので大日如来となると全く分からない 太陽そのものや日の出を象徴したのではないらしく 強い光で遍く地上を照らす存在と言います 聖霊なる神と似ている面がある 密教の成立は6世紀とされますので 西洋宗教の影響を受けた可能性はあります

註釈

註釈
01 キリストを神格化するカトリック教会の権威が確立されたのも7〜8世紀ですから 人格神への移行は世界的な潮流であったかもしれません むろん回教徒のいう偶像崇拝とは全く異なる信仰の姿です
02 サルタヒコは道案内の神とされますから 道祖神(⇒塞の神)と同一でしょう
03 伊勢神宮の式年遷宮 春日大社の式年造替 出雲大社もかつては建て替えていたようです 何れにしても神社は仮のものだったことが分かります 諏訪大社も熊野本宮も大神神社も同じです もともと建物はなかった 大神神社は日本最古と言われ おそらく縄文時代から祀られています 三輪山が祭神であり神社は拝殿のみです 沖縄の御嶽は自然の岩組が原初の姿を留めています
04 大黒柱は棟持柱ではありません 台所にある柱で一家の主婦が司ります 大黒は食の神様で俗語で「うちの大黒」といえば 主婦を指すのはご存知の通り 家中で一番太い柱というのは風説です 屋台骨と混同したのかもしれない
棟持柱は通常2本あります 当たり前のことですね 大黒柱は1本だけです 下の方に粥を供える風習があったそうです 地域によっては梢を下にした 逆木で立てると聞いたことがあります 心御柱から来たのではないか
05 夕焼けで子供らの顔が赤く染まります 小焼けは小さな光で なかなかこちらまで届きません 海に沈む夕日も見たことがあります 荘厳で美しくはあるが御来迎とは見えない おそらく小焼けもないと思います 平安時代のご来迎図は ほとんど山越えですね 京都は盆地ですから
地球の大気を横から見ると 成層圏が青くその先は次第に紫となっていきます 大気圏は無色です 日中に天を仰げば成層圏の青が見えます 成層圏に近づくほど空の色は青紫になっていきます 反対に陽が沈むときは大気圏の層が厚いので 成層圏の青色が届かず黄から赤の色が見えるわけです
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惟神はあるがまま

神威

愛子さまが ローブデコルテにティアラを召された美しさ 讃える言葉を知らぬ身が擬かしい 世界の王族に並び立つ者はいないと思える
生まれ持つ気高さが麗しい 二千年を超える皇統の品位であろう あるがままに清く明し 静やかな威厳を備えられている ただひれ伏したい

美智子様は美しく淑やか 雅子様は美しく聡明 愛子様は美しく雅やかにあらせられる 上古より伝える詢乎たる日本の美しき姿が現れたのだ
政治制度・世俗権力から超越した権威そのものが皇統 日本民族精神の淵源 あらゆる価値・美質の基なのだ それゆえに天皇陛下はEmperor(皇帝)ではなく むしろPatriarch(族長)であろう[01] … Continue reading

上皇・法皇が政務をとった院政時代 幼帝を神として仕えることが行われた 神楽が稚児舞であったり 聖徳太子像が童形に造られるのに共通するであろう
日本だけのことでなく 幼い子を神の現身と見立てる風習は 世界各地にある 日御子は高齢であったようだが 後継者であるトヨは13歳だったと記されている[02] … Continue reading

人為

何も所有せず欲もない 余計な知識を持たないので あるがままに見ることができる そこに神性を見出したのだ 卜占が神意であるのと同じことである
しょせん人間の考えなど浅はかなもの 人の定めた法は人間社会の約束事にすぎない これを権威と称するなど 思い上がり勘違いと心得ねばならない

間違えてはいけない 世界共通・人類普遍の真理などない 様々な集団・民族・国それぞれの価値観があるのみ だから争いは絶えず治める法が必要になる 法は方便なのだ
日本に規範となる国教はない 神道は神話であって創世記の物語 詔勅(みことのり)をもって掟とすることもできず ゆえに聖徳太子は政治と権力規定のため一七条憲法を定めた

世界には成文憲法を持たない国がある 法はその国の慣習に基づいて作られる 慣習は宗教であったり 古来からの掟であったりする いずれにせよ法以前の規範である
憲法は国のあり方を示すのではない 法はすべて その時々の情勢により変わってくる決まりごとであって 正義でもなく倫理道徳ではないのだ

註釈

註釈
01 ヨーロッパ(キリスト教国)で開かれた王室を標榜するのは マグナカルタの精神から来ている 王権は神から授かったもの とはいえ神の前に人間は平等 ときによっては王位から引きずり下ろすことも王権を制限することもできる つまり開かれた王室とは国民(貴族)が王室を監視する権利のことといえる
皇室は王権のような世俗権力を持たない 天皇陛下・皇族は国民に寄り添い国民の幸せを祈る 国民は素直に皇室を敬愛する 日本の皇室・国民のあり方とは根本的に違うのだ
02 記紀と魏志倭人伝とにある相違は 政治的な意図からと考えられる 中国の文献は不確かな伝聞であるが 事実と見てよいだろう 風土記や旧事・帝紀 国記・天皇記が失われたのも不可解なこと 縄文文化と断絶する原因の気がしてならない
同じようなことが明治維新と昭和大戦後に行われている 薩長明治政府が西洋の進んだ文明を取り入れるとして 江戸時代までの文化との断絶が起き 昭和大戦敗戦後に占領政策の尻馬に乗り 官僚共が日本文化を否定する施策を推し進めた
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