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水田と城

水田は山から

日本の水田の始まりは棚田です 南向きの山麓斜面に造りました 水稲米栽培で最も重要なのが陽当たりと水利だからです 山は照葉樹林に覆われ 保水力に優れています 斜面は水の管理がやりやすいのです
水田耕作が普及していくにつれ しだいに南面の適地が少なくなります 次には平地を開墾して水田としました 山裾に降りていったわけです[01] … Continue reading

川の中洲は水が豊富で地味が肥えています 開けているので陽当たりも良好 水田に適した土地です ただ台風などで水嵩が増した時には 実った稲が流されてしまいます 棚田(山田)に比べ治水が難しいのです[02] … Continue reading
平野に大規模な水田を造成するのは大工事です とくに水の流れを管理するのは 小集落でできることではありません 一定の勢力を持つ集団が新田を開発します 新田は開拓した者の所有になりますから 各地に豪族が出現することになるのです

山がちな地形である日本の水稲米栽培の推移です 古事記・日本書紀で描かれる 素戔嗚尊と八岐大蛇の神話は 山から始まり川の中洲に水田が作られる 稲作の歴史を正確・的確に物語っているのです 風雨の神である素戔嗚尊は 時に暴風となり田を毀ちます[03] … Continue reading 記紀で描かれる水田はおそらく川の中洲でしょう

水田の開発はもとより水稲米栽培は 田植え・草取り・稲刈りと季節ごとの労働集約型産業です しだいに作業しやすい平地の田んぼが主になっていきます[04] … Continue reading

城と水田の関係

いよいよ造れるところ全てが田んぼになれば こんどは土地の奪い合いが生じます そこまでいかなくても水争いは避けられません より恵まれた土地と水利をめぐる諍いは宿命ともいえます 互いに武器をもって戦うことになるのです
そして農民は武装し闘う兵(つわもの)[05] … Continue readingともなります 吉野ヶ里遺跡は環濠や土塁・木柵で囲まれています この頃にはすでに日常的な争いがあったのでしょう 和国大乱か?[06] … Continue reading

戦略論から言えば 山(高い位置)と川の合流地点は緊要地形です 砦を築く拠点になります 日本の城が山に築かれたり川の中洲・合流地点に多いのは 田んぼの水利も深く関係しています 土塁や石垣は棚田づくりの技術から来ていますし 水堀も治水工事と共通しています 築城は水田造成の土木工事を応用した砦造りから発達しました
城には根城と出城があり 出城は砦で根城と連携して機能します(通信連絡は狼煙) 山城には水源を押さえる意味もあります 太閤秀吉により戦国時代が終わり戦はなくなり 根城は次第に居城や政治的な シンボルの側面が大きくなります 平城は居城であり 政治権力の象徴であり 城下町の中心でした 城造りは領国経営・経済活動のため 都市計画の一部 ランドマークとなっていきます[07] … Continue reading

狩場・漁場をめぐる争いもあったでしょうが 武装して戦うほどではありません 自然を相手にする狩猟・漁撈と計画生産・装置産業の農業との違いです 所有と利用の差異ともいえるでしょう
ヨーロッパの城も川辺りに建つものが多くあります これは水運に対して課金するためです 通行税を勝手に取り立てていたのです 瀬戸内海の島に造られた水軍の城も似たようなものですね[08] … Continue reading

平野の治水と土木工事

よく知らないのですが 遊牧民は城を造ることはなかったのじゃないか イメージとしては部族単位のテント生活です 土地の所有という概念も持ってなかったと思います 万里の長城は国境線を示すために作られました[09] … Continue reading
蒙古なんかは好戦的な民族です さすがに機動力を生かした野戦は得意です でも攻城戦は不得手でした だから元寇は防塁で撃退された(日本に来襲したのは徒士でしたが 適切な防衛策です)
農業に適さない地域に住むのが遊牧民です 当然のことながら治水や築城の技術は発達しません 騎馬民族が海を渡って日本を侵略したり 稲作をもたらしたなんて いかに馬鹿げた妄説かですね(古墳の解説に 優れた土木技術を持つ渡来人が作ったなんて 支離滅裂なことが 根拠もなく書かれていたりします いまだに妄説を盲信しているのです)[10] … Continue reading

和国大乱が収まった後には 湿地帯・沼地の開拓が始まったのではないでしょうか 干拓は川の中洲よりさらに大規模な工事が必要です こうなると集落はムラからクニへ拡大します 公共工事が盛んに行われ 弥生時代から古墳時代に至ります
この頃には農機具も改良され鉄製品が使われるようになります[11] … Continue reading 作業効率は高くなっていたと思われます また農機具はそのまま土木工事にも使われます[12] … Continue reading
古墳は後代の戰で 砦代わりに使われることがありました 周りに環濠を巡らしているためです 盗掘を防ぐ水堀に見えますがどうなんでしょう もしかしたら水田のための溜池があって そこに古墳を築いたのかもしれません 元々は祭祀のための場所であったということです 大型の前方後円墳は奥の円墳が墳墓 その前の方墳は祭祀場かも知れない[13] … Continue reading

古墳時代には棚田から平野の田んぼが大半になっていたでしょう 平野とはいえ田んぼには必ず傾斜が必要です 高いところから低いところへ水は流れるからです 平地の田んぼであっても すべて緩斜面の棚田といえます
そうすると用水路・溜池等の配置計画が最も大切になってきます あれだけの大工事が墳墓のためだけに行われるとは考えにくいのです 古墳は治水の実用面と祭祀(農事祭)のためならば納得できます 祭祀は最初自然現象に捧げられ 神の使いを祀るようになり 人格神へと変化やがて部族・集落長の墳墓となったと考えます
八岐大蛇もそうですが 各地に伝わる民話で大蛇(水神)に土地の長者様の娘が嫁ぐ話があります 水利と農事祭・墳墓は密接な関係があると見てよい

註釈

註釈
01 ヤマタノオロチ神話 記紀では八つの頭と八つの尾と記されていますが 八つの岐(俣)には九つの頭と尻尾がなくてはなりません すなわち八岐大蛇(八俣大蛇)は九頭龍神と同一と見てよい
山に造られた棚田は山田でもあります ヤマタはもともと山田のことではなかったでしょうか 太安万侶が稗田阿礼の口誦を書き留めるときに勘違いした? なお菊姫(菊理媛)や宗像三姉妹は九頭龍姫の娘であるとの言い伝えがあるようです
02 信濃川の河口近くは水害に悩まされていました そこで治水のため江戸時代から分水路の工事が始まりました 今の大河津分水です 分水町の道路は昭和前半まで1メートルほどの盛土をしてありました 川が氾濫した時の備えです 同じように川の中洲にある農家は 納屋を高い盛土の上に建て さらに船を天井に用意した所が全国にありました
03 素戔嗚尊は八岐大蛇に御神酒?を供えています 供えた御神酒は濃い酒となっています 日本酒はワインより濃厚なので 米から造られた酒かもしれません 神道の形態が確立される以前は 縄文ワインが供えられていたと思われます 神に供えた酒は口噛み酒という説があります 口噛酒は濁酒ですから白い酒です 縄文のニワトコワインなら赤い酒です 紅白の酒として同時に用いられていた時期があったかも知れない
原初の酒造りである水酛造りでは 蒸米をスターターとし生米と合わせ乳酸発酵させます 口噛み酒は唾液中の消化酵素で糖化した 生米がスターターと言われます あくまでも酛づくりのスターターであり 酒の全量を生米を噛んで作るとは考えられず 口噛み酒が原初の酒ともいえない 口噛み酒の記述は大隈風土記にあるそうです 沖縄の御嶽に供える酒も近年まで口噛み酒であったといいます
酒を醸す技術があるなら米を炊くことは行われていたはず 万葉集に「味飯を水に醸み成し〜」との文言が見られます この頃すでに米飯で酒を醸すのが普通だったのです 生米を噛んでいたら偶然 酒になったなんてありえない 口噛み酒は神に供えるため 火を使うことを避けたのではないでしょうか
04 弥生時代の集落跡は大半が高地にあります 棚田は狭く作業効率が悪い それでも水利と日当たりをとったのです 当時はいわゆる古代米でしょうから 収量も少なかったはずです 平野に降りていったことと人口の増加 そして農作業が個人から集団へ移行したのも 関連していると思われます
05 兵という字は武器を持つ者を表します 兵を起こす挙兵は戦いの準備ですね 倭国大乱の頃は全員で武装して戦った事でしょう 農民であり時に兵士だったのです
武の字は戈を止めると書くように 本来は威力・抑止力を意味します また士は士大夫から来ています 武士は軍という組織に組みこまれ 兵役の義務を負う者のことです 刀を初めとする装備・兵器は自前なのですが あくまでも主君からの預かりものです 下命がなければ使うことはありません 扶持米・俸禄は軍備を整えるためですから
もっぱら農に携わる農家と もっぱら武辺の武家に分たれるのは 豊臣秀吉の刀狩り以降のことです 下剋上を阻止するためですね それでも一揆・逃散は頻繁に起きました 農とはいえ兵の心は失われていなかったのです
武士は軍に所属する者 兵士は武装した者です 兵力はforce of arms(戦闘力)であり 武力はmilitary power(軍事力)という感じでしょうか 武は有形戦闘力であり経済力でもあります(豊臣秀吉の軍) 兵は無形戦闘力すなわち練度ともいえますか(上杉謙信の兵)
06 菊姫(菊理媛)は日本書紀に登場します なぜか古事記には記載されない 日本書紀は対外的な広報誌のようなものなので 魏志倭人伝なんかと整合性を持たせるためではなかったのか 菊理は括りの事を表すとしたら 倭国大乱を治めた日御子?と比定してよいのではないか
ところで中国人が卑弥呼の文字を(ヒ・ミ・コ)と読まないのは確かです 魏志倭人伝はいろんな資料の引き写しです 聞き書きが元になっているでしょう となると3世紀の日本人は倭国大乱を治めた人物を(ひみこ)とは呼んでいなかった
当時の中国人の発音は分かりませんが (ピィ・ミィ・フゥ)という感じであったろうと思われます とすると姫神(ひめみわ・ひみわ)という呼称だったか 名前というか固有名詞で呼ぶことは考えられない
ミは回る・曲がるという意味で 敬称・美称というより蛇を表します 祭神は九頭龍でしょう また大神(大蛇)は酒の神でもあります 鬼道はおそらくトランス状態になりますから酒はつきもの? 日本酒醸造ではワインと違って水が重要です 水神(蛇)と結びつく由縁です
07 室町時代に築城されたという小田原城は 戦国時代に至って総構えと呼ばれる城塞都市にまで発展しました ギリシャ・ローマの都市国家に近いものかもしれません 海に面した土地柄もあり 水田との結びつきは薄くなっています
織田信長の安土城は 山城の概念からかけ離れた居城です もはや戦略的な意味より 威光を示すための政治的な建築物です もともと信長は米に依存しない領国経営を進めていましたから このような発想ができたのです
熊本城も城郭だけで成立するものではありません 曲がりくねった道路と町の区割りは計算されています 大事なのが川の流れを制する護岸工事 敢えてうねらせた川筋とし川底に岩山を造るという工法です 洪水で水が溢れることはなかったといいます
地震で城の石垣が崩れたのは 古い土台の上に城の姿を真似た コンクリート製のビルを建てたからです 木組みの建物は制震機能を持っているのです
08 戦国時代 上杉謙信の軍資金は直江津港・柏崎港の通関税が多くを占めていました 春日山城は低い山城ですが 直江津港を扼する地点にあります
古墳で小規模な方墳・円墳の中には 丘陵や山の中腹に作られたものがあります これも交易を管理する砦の意味があったと考えられます
09 河川や山稜は自然の要害となります 日本海もそうですね 人為的な国境線には何らかの建造物が造られます 海に境界線は引けないので 日本に明確な国境線はありません
10 短粒種の稲作は8000年ほど前 長江あたりで始まったとされます 大麦の栽培もその頃でした(寒冷地で栽培可能な小麦はさらに後) 世界的な寒冷気候により食料が不足し農耕が始まったといいます 長江を境に南と北では風土が違いますから 気候に合わせ南は米作(粒食)北は麦作(粉食)文化となります 日本は緯度からいえば北になりますが 海流の影響で温暖多雨な気候風土から 稲作が主になったのです
11 朝鮮半島南部で鉄製品の素材となる粗製鉄が発掘されます 半島南部は日本の支配下にありましたから そこで原材料を作り日本に移出 精錬し鉄製品を製作したのでしょう
12 いま日本の米作は個人の小作(平均1.5町歩)と法人組織の大規模経営があります 大規模経営といっても実際に農作業に関わるのは数人の少人数です 米作りは集約農業ですが 大型の機械を使えば1人で5町歩以上の田圃を維持運営できます そのため大規模経営は土木業を兼ねていることが多いようです
13 周りを掘り下げてその土で土塁を築くと空堀になります そこに水を引けば水堀です 環濠のある古墳はやはり水田工事の技術と共通しています この頃には道路の整備も行われていたようです 道路は盛土をしてあった痕跡があります 用水路と道路は並行して造られたかもしれません
南米のピラミッドも祭祀場であったようです この祭祀はやはり農業祭です 道路も整備されていました 古墳と共通していますが水利との関係はよくわからない 日本にも奈良をはじめとして 各地に階段ピラミッド状の古墳があります が古墳といえるのかどうか分かりません
石積ではなく山を削り取って形作ったものがあり 耕作や祭祀の跡も見られます 墳墓ではないようです 棚田あるいは段々畑との区別がつきにくい そういえば棚田は階段ピラミッドとそっくりですね 南米の階段状ピラミッドも段々畑を模したかもしれない

カテゴリー: 日本の伝統・本流