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後詰めの重要性(長篠の戦い)

インターアクティブ・マーケティングの小笠原様が 長篠の戦いを例に引いたマーケティング(営業?)論を展開されています
重商主義などの経済政策を見れば 信長がマーケティングの天才であったという見解は同感ですし 説いている内容はうなずけるのですが……
信長公記を初めとした戦国時代の軍記は すべて江戸時代になって自ら(主君)の家名を高めるために書かれたものです 分かりやすく興味を引くためとはいえ これを根拠とするのは危険です とりわけ戦略・戦術の参考にはなりません

戦略論でいうとマーケティングは守り セールスは攻めです 守りと攻めが連携するには 通底するコンセプトを社内(とくに営業)で共有する必要があります
いかに堅城でも根城だけでは戦いに勝てません 後詰め(出城との連携)があって初めて敵を破ることができるのです コンセプト共有のためにはスローガン・コンセプトワード等の明確でシンプルなものを掲げます 信長のスローガンは「天下布武」ですね

長篠の戦いは武田勝頼の攻城戦失敗であって 野戦決戦(会戦)ではありません 城攻めで武田方の矢玉が尽きてしまったかも知れません 長篠城は川の合流地点という緊要地形ですが出城です おそらく設楽が原に誘い出す囮であったのでしょう
馬防柵云々は単に3日陣地(掩蔽)のことと思われます 砦を構築(野戦築城)する時間があったか 数万人規模の部隊編成をするには 陣触れから1か月はかかります 戦国時代は半農・半武で農閑期にしか戦えません 常設軍の即応部隊のようにはいきません

後詰めである織田・徳川連合軍は3万人以上の軍勢ですから 分進合撃をしたはず(兵力の逐次投入ではないですよ) そのあたりが3段撃ち説になったのではないでしょうか[01]信長は他の大名と違い重商主義でした 流通を重視していたはずです 街道整備や馬運による補給線も整備していたでしょう
万を数える軍勢がキャンペーンの目標を共有するために 戦術は限りなくシンプルでなければなりません 連合軍で同じ戦術を採用するのもあり得ません
前線指揮官は状況判断(独断専行)の資質がなにより肝要です 籠城戦ならまだしもどのように戦況が変わるか分からない戦場前縁で 3段撃ちのような複雑な戦技は通用しないでしょう

鉄砲と馬の戦術的運用を見てみましょう 

戦国時代の主力兵器(決戦兵器)は槍です 飛び道具だけで戦闘は決着しません 銃器が主流になった近代戦においても 接近戦には銃剣が使用されていました
鉄砲は使い方として弓矢と同じく制圧射撃です 轟音と飛来する弾丸が見えないことにより ハラスメント効果が弓矢以上ですから 重宝されたと思われます 最新兵器という認識だったかは疑問です(私は鉄砲の流行はイエズス会が噛んでいるとみます)

馬は第2次大戦までそうであったように 主に輜重用の荷駄として使われました 指揮をとるため将帥が騎乗することはあります 視線が高くなりますから
また戦争の基本は補給戦です 人間の糧食より飼葉の補給がはるかに困難 ナポレオン軍の荷車積荷は秣が大半だったという話まであります
戦国時代の戦に当たっては一人一日黒(玄)米一升を用意しました 干飯であっても長丁場ならかなりの量です 荷駄を使って運んだことでしょう 蒙古の平原じゃないのだから 戦場機動の面で取り回しが不便な馬は 戦闘に使えるものではありません

ですから騎馬隊対鉄砲隊という戦術はとうてい考えられません これが一般的なイメージになったのは 黒澤明の「影武者」が強い影響を持っている! とのご説があります 《未来航路》様の銃砲と歴史2-1長篠の戦い1「通説」への疑問 じつに卓見です
きっと黒澤明監督は画造りのとき ヨーロッパの軽騎兵あたりを参考にしたのだと思います 「七人の侍」なんて西部劇の砦みたいです 馬防柵はここから来た? どちらもスペクタクルとして秀逸ですから 知らず知らず印象に刻み込まれますね

自衛隊の教則本でも長篠の戦いは取り上げています(古い戦例と注釈があります) やはり騎馬隊と鉄砲云々とは書いてありますが 最新兵器の鉄砲対旧来の騎馬戦ではなく 戦闘力の組織化という観点で分析しています もし武田軍が騎馬で突破しようとしたのなら 補給が途絶えたため一か八かの窮余の戦法です[02] … Continue reading

註釈

註釈
01 信長は他の大名と違い重商主義でした 流通を重視していたはずです 街道整備や馬運による補給線も整備していたでしょう
02 信玄の代では予め調略を行って 敵方の中に内通・背反の者を確保してから実戦に入っています 当然補給も十分用意していたでしょう 勝頼の短慮が招いた敗戦ですね

カテゴリー: マーケティング戦略論