商店街

海外と日本のショッピングストリート
ヨーロッパのショッピングストリートは 中央広場(プラザ)へ向かう放射状の通りに形成されている 中央広場には必ず教会があり 教会の尖塔は街並の重要な点景となる ヨーロッパの都市部には 景観を維持・保存する目的で高さ制限があるため スカイラインの上に常に尖塔が浮かび上がる 教会を目指せば町の中心に行き着く ランドマークだ

日本の商店街でも門前町から始まったものはあるが 多くの寺社は町の中心ではなく外れに立地する 修行の場や悪鬼を塞ぐ鎮め石等が祀られた場であるから 街道筋あるいは川筋に建てられるものだ(五重塔はやはりランドマークである1)ヘッダーの写真は三渓園です 原三渓は絹糸の輸出で財を成しました 絹糸は群馬県で生産され 八高線で八王子に集荷し さらに根岸線で横浜まで運ばれました
戦国時代から江戸時代 絹糸・絹布は中国から輸入される高級品でした 日本から海外に輸出されるようになったのは 機械紡績が始まってからのことです
) ヨーロッパでは 生活すべての中心にキリスト教がある したがって町の中心も教会になる

ショッピングストリートのモール化
ドイツのショッピングストリートには ラウベンと呼ばれるアーケード(通り全体を覆うアーケード街ではなく歩道に屋根がある形)が設置されている そして街路は曲がりくねっていて 囲まれた空間を形成する

これがおそらくモールの始まりだろう さらに歩行者と車の分離 スピードの制限による共存などの施策が モールに必要となる
日本のほとんどの商店街は 街道筋に形成されている 生活と密着した商店街 トランジットモール(抜けられます)だ 雪国の雁木はラウベンと同じ機構を持つが 町並みの構造上モールはできにくい

ヨーロッパ都市の道路は 馬車の通る車道と人が歩く歩道に分離されていた(理由は事故だけでなく 馬糞の問題だったようだ) 日本の街道は徒歩通行のためだった 牛車はあっても 馬車が使われることはなかった 物流は船が担っていた2)農耕に使ったり荷馬車や 騎乗することはあったが なぜか日本に乗用の馬車はなかった ヨーロッパの馬車は馬の代わりにエンジンを積んで自動車になり(エンジンの出力をホースパワーというのはその名残) アメリカの駅馬車は大陸横断鉄道になります もしかしたら乗用馬車はギリシャ・ローマ時代の戦車から来ているのかも知れない 日本では地形から戦車は使いにくく 流鏑馬止まりです
これも地形から来たものですが 日本の物流は船でした 海岸沿いの北前船は誰でも知っています 港に下ろした荷は今度は川船で内陸に運ばれます 明治時代に鉄道が敷設されました これは船の代わりに物流を担うためでした そのため線路は川沿いに敷かれ 駅は元船着き場があった場所です ですから鉄道の駅はだいたい町外れにあります

そのため 旧街道では歩行者と車の分離が難しい 車を閉め出しても活性化に通じることはない 共存でなければならない 商品の搬入などの物流を阻害してはいけない 歩行者天国ではだめなのだ

ショッピングセンター
日本のショッピングセンターに○○プラザの名が多いのは ヨーロッパ等の教会を中核とする広場から発生した市場に由来する ただし名前を拝借しただけでコンセプトは曖昧だ もちろんセンターといっても中央広場にあるわけでない
中核店(大型店)のないスペシャリティセンターには テーマに基づくテナントミックスが必要 明確なコンセプトによって 街並のアイデンティティが生まれる

ダイエーの倒産に象徴される ビッグストアの終焉 量から質 衆から個への転換が始まって久しいが 自覚している商業施設は少なく 有効な施策もみられない
昭和60年代に策定された再開発(この施策自体に疑問がある)で ビッグストアを誘致する計画は ことごとく失敗している ダイエー そごう 西武 長崎屋 十字屋が主な中核店だった この顔ぶれを見れば失敗する理由がわかるだろう

再開発で衰退する商業
不動産投資型の大型再開発が行き詰まると 今度はソフトだの文化などという 取って付けたような惹句を持ち出してくる その究極の姿が ゆるキャラなのだろうか いくらなんでもお粗末すぎるが
日本の再開発やショッピングセンターは すべてコンセプトは後付け まず容れ物を作る 次にテナントを誘致する そして適当な名称のイベントで集客する テナントミックスや街のアイデンティティは考慮されないままに

しかし 人が集まれば物が売れるわけじゃない とくに行政主導のイベントは予算を消化するのが目的で 利益を出す必要はない 経済波及効果という詭弁で数字合わせすれば仕事をしたことになる
結局終わってみれば 潤ったのは行政の隠れ蓑である第3セクターと その周辺の利権に群がる 様々な業者・政治家ということだ

路地裏・横丁・小路
かつて街道筋にあった繁華街は 地方自治体主導の再開発によって駅前に移り 次に民間デベロッパーによる大型ショッピングセンターが郊外に建設された
そして地方都市のショッピングストリートは 単に車が通過するだけの道路になり 買い物客(歩行者)の姿は消え去った

カオスと卑近な猥雑さが 路地裏・横丁の特徴であり 活況の源だった メインストリートに交差する形か並行する形で路地裏・横丁があった
メインストリートと横丁・路地裏が形成するコミュニティに裏町文化が生まれる まずコミュニティができて そこから文化が発生するのである 机上のプランニングで作るもんじゃない ゆるキャラは文化でも賑わいでもないのだ

Endnote   [ + ]

1. ヘッダーの写真は三渓園です 原三渓は絹糸の輸出で財を成しました 絹糸は群馬県で生産され 八高線で八王子に集荷し さらに根岸線で横浜まで運ばれました
戦国時代から江戸時代 絹糸・絹布は中国から輸入される高級品でした 日本から海外に輸出されるようになったのは 機械紡績が始まってからのことです
2. 農耕に使ったり荷馬車や 騎乗することはあったが なぜか日本に乗用の馬車はなかった ヨーロッパの馬車は馬の代わりにエンジンを積んで自動車になり(エンジンの出力をホースパワーというのはその名残) アメリカの駅馬車は大陸横断鉄道になります もしかしたら乗用馬車はギリシャ・ローマ時代の戦車から来ているのかも知れない 日本では地形から戦車は使いにくく 流鏑馬止まりです
これも地形から来たものですが 日本の物流は船でした 海岸沿いの北前船は誰でも知っています 港に下ろした荷は今度は川船で内陸に運ばれます 明治時代に鉄道が敷設されました これは船の代わりに物流を担うためでした そのため線路は川沿いに敷かれ 駅は元船着き場があった場所です ですから鉄道の駅はだいたい町外れにあります