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カテゴリー: 日本の伝統・本流

日本語と稲作

 

文化は言葉である

北海道から東北そして関東の太平洋岸に オホーツク系の人たちが勢力を持っていた形跡があります 阿弖流爲を代表とする蝦夷と呼ばれた人たちです 北方から来たのではあったでしょうが 今のアイヌの人たちと同じとは言えません
日本語が形成されたのは縄文時代 1万年の時をかけてのことと思われます 弥生時代には日本人は 日本語を話していたはずです[01] … Continue reading アイヌの人たちは言葉が違いますから その後に渡来しています
朝鮮半島南東部は7000年前から縄文系倭人たちが住んでいました 九州との行き来も盛んでした この人たちは古墳時代に半島の戦乱を逃れて日本に帰国しました むろん今の朝鮮人とは関係ない人たちです 日本語を話していたんじゃないでしょうか

何万年前からか分かりませんが 北方から南方から大陸から 人々が海路日本に渡ってきました[02]当時イミグレはもちろん国というのもありませんから 人々は自由に上陸し出身地ごとに小さな集落を形成していきました その人たちは集落を作り互いに交易していました 交通・物流は沿岸と河川の船運によります 産物の交換や技術交流が進み その中で集落間の婚姻が行なわれ 日本語が形成されていったのでしょう
婚姻により身体的特質が どうなるのかは知りません しかし文化とは言葉です DNAをいくら解析しても文化を理解できないのは確かです 言葉(日本語)を介在して日本文化ができてきます そして風土に根差した日本人のアイデンティティが培われます
同じ土地に住み日本語を話す 同じ文化を共有するから日本人なのです ゲノムシーケンスで親和性が高いといっても石器時代の話しです 縄文時代にできた日本語・日本文化・日本人を理解することはできない

日本の水稲米

石器時代に日本へやってきた人たちは大きく3群に分かれるでしょう 北方から来た人たち 南方から来た人たち 大陸から来た人たちです 北方の人たちは狩猟漁撈 南方の人たちは主に芋や豆類の栽培 他に樹の実・草の実・山菜の育成などで食料を得ていたと思われます 陸稲は縄文時代には栽培されていました[03] … Continue reading
人々は互いに産物や栽培技術の交流を通じて 日本の風土に合った農山漁業文化を培いました そして弥生時代には水稲米の栽培が拡大し 日本は稲作(米が主食)の国となります 水稲米は収量が多い 栄養が豊富 保存が容易という理由で広く普及したのです
水稲米の発祥は雲南地方とされます 揚子江沿いに耕作地の形跡があります いわゆる長江文明です しかし日本への伝播は南回りでしょう 海流から考えて上海あたりから 籾を持って舟で 大挙日本を目指すことはない[04] … Continue reading
日本の水稲米栽培の痕跡は3000年前に遡ります それ以前に伝わったわけです 福建米(赤米)であったと推定されます 日本人によって600年ほどで品種改良がなされ 北海道を除く日本列島全域で温帯ジャポニカ米が栽培されていきます 農耕文化も言葉(日本語)を介して伝えられます
縄文時代の記憶が赤飯(おこわ)に伝わります 赤米は江戸時代まではわずかに生産されていたようです しかし食味が悪いため 赤飯といえばササゲや小豆で色付けされた 糯米になりました 縄文時代には小豆が栽培されていましたから 糅飯として伝えられたのかもしれません

言葉と文字

日本は耕地が狭い急流が多いといった土地柄で 米作りは労働集約型の集団作業となります[05] … Continue reading また糧食が安定し人口が増えると 農地・水利を巡って争いが起きます 争いを収めるのは天子たる天皇陛下です この体制ができたのはおそらく3世紀ころ 日本文化が形を整えたのは7・8世紀となります
統一された日本創世記は古事記です 口承文芸の形で語り継がれてきたものを筆録しました[06]古事記としてまとめる際に国津神を天津神が支配するという形にしたのでしょうか 風土記には縄文以来続く国津神の神話があったかもしれません 日本書紀はそれ以前に書かれた さまざまな神話を集めて時系列でまとめました[07] … Continue reading
言葉が文字で定着され[08]和歌を記録するために万葉仮名が作られました もともとは口承文芸で文字で書くものではなかった 御神楽や民話なんかも口伝です 日本人としての意識が育まれます 外国(隋・唐)からも和国(日本国)と認識され 国の主権と独立が保たれます 日本書紀が漢文なのは対外文書だからです 古事記は和語を漢字で書いています 読める人はそう多くなかったでしょう[09] … Continue reading
各地では土地の神話や民話お神楽として継承されます 神話・民話は語り伝えられるもの文字で記されるものではない 日本文化は王朝文化だけとは限らないのです

註釈

註釈
01 日本語は言語学的に同類がない孤立した言語といわれます あちこちから集まった人たちが混血するに従い お互いの語彙と文法が融合していったのでしょうか
02 当時イミグレはもちろん国というのもありませんから 人々は自由に上陸し出身地ごとに小さな集落を形成していきました
03 太平洋沿岸は鰹の加工品が作られ 日本海沿岸は鮭の加工品が作られています ともに海流に乗る回遊魚ですが 異なる文化圏といっていいでしょうか
04 仮に長江の川船で日本にたどり着いたとしても それはボートピープルです 進んだ技術を持って勇躍日本にやってきたいうことではない
米に限らず農業は土地に根差したものです 気候地形に見合った農耕法がその土地で工夫されるのです どこかから渡来なんてしません
05 長江流域でどのような稲作が行われていたかよく分かりません 平地で水が豊富なようですから日本のような棚田はなく 苗床も作らない直播き粗放農業だったのではないでしょうか
06 古事記としてまとめる際に国津神を天津神が支配するという形にしたのでしょうか 風土記には縄文以来続く国津神の神話があったかもしれません
07 日本書紀は編年体で記録され同様の類例が併記されています 資料としてまとめられたものです 古事記は物語ですね 祭祀を司っていた天子様を政治的な天皇としました(対外的に国家としての政治体制を整えるためです) 風土記は各地の伝承ですが未完成や失われたものが多い
08 和歌を記録するために万葉仮名が作られました もともとは口承文芸で文字で書くものではなかった 御神楽や民話なんかも口伝です
09 日本は言霊の国で和の民です 言葉が通ずればよいのであって 文字は必要としなかったと思います 文字や文書は支配者が民に通達するため作られたものです
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文献初出

さる鍼灸師の方から聞いた話 鍼灸といえばツボ(経穴)です このツボは中国から伝わりました とはいえ似たような治療は世界各地で行われていたと思われます[01] … Continue reading 中国発祥で周辺諸国がそれを真似したわけじゃない 記録されていないだけのことです
中国人は様々なことを分類整理し体系化します そして文書に記す 文字による記録は汎用性があります ツボもそうやって各地に伝播しました この場合は絵図面でしょうが
体系化はある意味科学的な思考です 科学は再現性が重要です 例外があってはならないのです 再現のため体系化のためには 文字で記録する必要があります そうやって精緻な理論が組み立てられます

臨床の立場からすると ツボだけに頼ると治療効果の現れないことがよくあります 人間一人一人の身体はすべて違うから 類型化したツボそのままでは対応できないのです この辺の見極めが技なのですが 技は文字では伝えられません
あらゆる事象は 人間の作った理論に従っているわけじゃないのです 技は理屈からではなく謙虚から生まれます[02]漢方薬も同じことで 験が有る無いとか匙加減は 徒弟制度で伝えられました
体系化すると取りこぼされることが出てきます すべてが平均値の人間なんていないからです 鍼灸でいうとツボの例外が阿是穴です 以痛為輸 あぁそこが痛いという個人の反応です[03] … Continue reading 過去の経験の蓄積からおおよその見当はつきますが 患者の様子を見ながら阿是穴を探ります

この話を聞いて鍼灸に限らない 今まで中国人の記録した文献に基づいて論じられる 日本文化論で取りこぼされたことは多いんじゃないか しかもその取りこぼされたものこそが 日本文化の本流なのではないかと思い至りました 文化は固有のもので渡来などしません
そして底流に沈んでいる日本文化の源流は 文字を持たなかった縄文文化であろうと想像するのです 言葉では伝えられないこと 文字では掬い取れないことの方が遥かに多い
文献は貴重な資料です しかし表層に顕れた事々を 文字で記録したに過ぎない 深層にある物事を読み取る推理力が大切な気がします[04]縄文文化は滅びても途絶えてもいない 祭礼・古俗・慣習・掟・物語といった様式で伝えられます これを掘り起こしたのが柳田國男先生です
文献に初出をもって 事の始まりとするなんて馬鹿げています 広く行われて初めて記録されるのです 何もなかったところに中国からもたらされ それから皆が真似するなんてことはない 文化は風土に根ざしたものです

中国の影響を無視することはできません 大半は政治システムを導入しただけです 文化の影響は受けていない 私は中国に宗教はないと思っています 儒教も道教も政治支配の規範です 支配者に都合のいい理屈です[05]儒教とくに孟子は立身出世なった官僚向け 老荘道教は出世競争に敗れた者の拠り所でしょうか
聖徳太子のころ 日本は主権と独立を守るため 国としての体制を整えました 当時の外交相手は中国でしたから それに準じました そのままではなく 日本に合わせて取捨選択また改変しています
最初は朝庭が中国の風を取り入れました 主に外交目的ですが目新しいことへの好奇心も大きかったでしょう 公地公民から守護地頭制への移行により 税制と武家の人事権が征夷大将軍のものとなりました 同時に外交も太政官を通して 実質的に幕府が担います[06]豊臣秀吉は庶民の出なので 征夷大将軍にはなれません そこで関白太政大臣として支配しました 言ってみれば王政復古かもしれません

鎌倉時代は元と南宋が外交の相手です 元は覇権主義ですから交易相手は南宋となります 日本からの輸出品は刀や木材(軍船製造用)そして硫黄(火薬製造用)などが多くを占めています つまり軍需物資・武器支援ですね 外交とは軍事なのです
後の時代に徳川が 武家の統率にはなはだ都合がよい朱子学を採用しました[07] … Continue reading といっても戦国の世に南蛮文化の影響を受けたことから 徳川の時代には中国の風は次第に廃れていきます そして鎖国により独自文化が花開きます 「論語読みの論語知らず」という言葉が象徴するように 儒者は知識を振り回す教条主義であって 決して尊敬の対象とは見られていません

註釈

註釈
01 動物は傷口を舐めて治します 痛い所に手を当てるのが人類最初の治療です 手当という言葉の始まりですね これが発達して鍼灸の治療となったのでしょう
02 漢方薬も同じことで 験が有る無いとか匙加減は 徒弟制度で伝えられました
03 ツボ(経穴)は経絡の交叉点にあり気が出入りする穴です 理論であり実体はないが 治療効果が認められています それに対して阿是穴は 解剖学的に相当する組織があるのではないかと言われます
04 縄文文化は滅びても途絶えてもいない 祭礼・古俗・慣習・掟・物語といった様式で伝えられます これを掘り起こしたのが柳田國男先生です
05 儒教とくに孟子は立身出世なった官僚向け 老荘道教は出世競争に敗れた者の拠り所でしょうか
06 豊臣秀吉は庶民の出なので 征夷大将軍にはなれません そこで関白太政大臣として支配しました 言ってみれば王政復古かもしれません
07 儒教(朱子学)の家父長制は軍事組織として武家を管理する統帥綱領 また長幼の序は官僚勤務規定となりました これは明治時代まで引き継がれます
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三ツ鳥居

新潟県の魚沼神社は創建の時が不明の古社です 延喜式で越後二の宮なのに 今はすっかり寂れ果ててしまい 宮司もいません それはさておき特徴的なのは かつて鳥居が3つあったことです 一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居ではなく 3方向に鳥居が建っているのです 参道も丁字路の3本です
三ツ鳥居といえば大神神社が有名です 大小3つの鳥居を組み合わせてあって 参拝するときは8の字に潜るとか 茅の輪潜りと似ています 大宮氷川神社の参道は 一の鳥居から三の鳥居まで一直線の十八丁(2キロ)もありますが 魚沼神社の正面参道は距離がなく 丘の麓で終わっています 3方向の参道は珍しいのではないか[01]今は道路が整備され参道両側に人家が建ち並んでいます 昔は田んぼの真ん中の一本道でした 農道にしては幅が広く短すぎ不自然です

水神様を祀った神社らしく 祭礼のときは丘の頂上にあった神泉(井戸)から水を汲んで[02] … Continue reading 道なき道を麓まで降り 正面鳥居から運び入れていました この泉が元々の祭神だったのです 神の遷座ですね[03] … Continue reading
子供の頃 正面の鳥居を潜ってはいけないと言われた気もします 記憶は定かでないのですが[04] … Continue reading してみると正面の道は参道ではなく 神様専用の通り道と考えられます 他の神社でも参道中央は神様が通るから 人は端を歩くと言われますね

改めて三ツ鳥居の形を見れば 正面の大きな鳥居は神様 左右の小さな鳥居は人間と 別けているかも知れないと思えます 3方向の鳥居は古式にならったのか 単に地形の関係なのか 丘の下に降りた理由も分からない
三ツ鳥居 一の鳥居から三の鳥居 3方向に建てられた鳥居 共通点はあるようでいて なぜ三なのかは伝わっていない 偶然ということもないと思うのですが
中国の考え方は二元論ですから 偶数が吉数です 日本は三種の神器に見られるよう 奇数が吉数となります この辺に答えがありそうな気がします
ところで鳥居は冠木門と形が似ています 武家屋敷の門は通常 左右の通用口を使い 中央正門は特別の場合以外開きません
魚沼神社の祭神は水神であるとともに武神でした[05] … Continue reading 上杉謙信公が深く崇敬していたことが知られます 関東に出陣する時は必ず魚沼神社に参拝しました

註釈

註釈
01 今は道路が整備され参道両側に人家が建ち並んでいます 昔は田んぼの真ん中の一本道でした 農道にしては幅が広く短すぎ不自然です
02 やや離れたところに大池があり 農業用水につかわれていました 雨乞いに関わる白蛇伝説が伝わっています 泉そのものを水神とする原初の信仰から 人格神を祀る過程で蛇が神の使いとされます
03 麓に降りた(社を建てた)のは 自然現象の水神から 祭神を人格神に比定したときでしょう 井戸のあったところは神籬のような塀で囲われていました
04 市営の上水道が引かれた当初 この井戸を水源としました そのため神籬が取り壊され 元々の祭神が失われました 以来祭礼が行われなくなり 現在に至ったと記憶します
05 水神が武神とされたのは 中国の四象の影響でしょう 北が水で南が火と対応し それぞれ玄武 朱雀(しゅじゃく)と名付けられました この武の字からと思われます
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