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タグ: 八岐大蛇

水田と城

水田は山から

日本の水田の始まりは棚田です 南向きの山麓斜面に造りました 水稲米栽培で最も重要なのが陽当たりと水利だからです 山は照葉樹林に覆われ 保水力に優れています 斜面は水の管理がやりやすいのです
水田耕作が普及していくにつれ しだいに南面の適地が少なくなります 次には平地を開墾して水田としました 山裾に降りていったわけです[01] … Continue reading

川の中洲は水が豊富で地味が肥えています 開けているので陽当たりも良好 水田に適した土地です ただ台風などで水嵩が増した時には 実った稲が流されてしまいます 棚田(山田)に比べ治水が難しいのです[02] … Continue reading
平野に大規模な水田を造成するのは大工事です とくに水の流れを管理するのは 小集落でできることではありません 一定の勢力を持つ集団が新田を開発します 新田は開拓した者の所有になりますから 各地に豪族が出現することになるのです

山がちな地形である日本の水稲米栽培の推移です 古事記・日本書紀で描かれる 素戔嗚尊と八岐大蛇の神話は 山から始まり川の中洲に水田が作られる 稲作の歴史を正確・的確に物語っているのです 風雨の神である素戔嗚尊は 時に暴風となり田を毀ちます[03] … Continue reading 記紀で描かれる水田はおそらく川の中洲でしょう

水田の開発はもとより水稲米栽培は 田植え・草取り・稲刈りと季節ごとの労働集約型産業です しだいに作業しやすい平地の田んぼが主になっていきます[04] … Continue reading

城と水田の関係

いよいよ造れるところ全てが田んぼになれば こんどは土地の奪い合いが生じます そこまでいかなくても水争いは避けられません より恵まれた土地と水利をめぐる諍いは宿命ともいえます 互いに武器をもって戦うことになるのです
そして農民は武装し闘う兵(つわもの)[05] … Continue readingともなります 吉野ヶ里遺跡は環濠や土塁・木柵で囲まれています この頃にはすでに日常的な争いがあったのでしょう 和国大乱か?[06] … Continue reading

戦略論から言えば 山(高い位置)と川の合流地点は緊要地形です 砦を築く拠点になります 日本の城が山に築かれたり川の中洲・合流地点に多いのは 田んぼの水利も深く関係しています 土塁や石垣は棚田づくりの技術から来ていますし 水堀も治水工事と共通しています 築城は水田造成の土木工事を応用した砦造りから発達しました
城には根城と出城があり 出城は砦で根城と連携して機能します(通信連絡は狼煙) 山城には水源を押さえる意味もあります 太閤秀吉により戦国時代が終わり戦はなくなり 根城は次第に居城や政治的な シンボルの側面が大きくなります 平城は居城であり 政治権力の象徴であり 城下町の中心でした 城造りは領国経営・経済活動のため 都市計画の一部 ランドマークとなっていきます[07] … Continue reading

狩場・漁場をめぐる争いもあったでしょうが 武装して戦うほどではありません 自然を相手にする狩猟・漁撈と計画生産・装置産業の農業との違いです 所有と利用の差異ともいえるでしょう
ヨーロッパの城も川辺りに建つものが多くあります これは水運に対して課金するためです 通行税を勝手に取り立てていたのです 瀬戸内海の島に造られた水軍の城も似たようなものですね[08] … Continue reading

平野の治水と土木工事

よく知らないのですが 遊牧民は城を造ることはなかったのじゃないか イメージとしては部族単位のテント生活です 土地の所有という概念も持ってなかったと思います 万里の長城は国境線を示すために作られました[09] … Continue reading
蒙古なんかは好戦的な民族です さすがに機動力を生かした野戦は得意です でも攻城戦は不得手でした だから元寇は防塁で撃退された(日本に来襲したのは徒士でしたが 適切な防衛策です)
農業に適さない地域に住むのが遊牧民です 当然のことながら治水や築城の技術は発達しません 騎馬民族が海を渡って日本を侵略したり 稲作をもたらしたなんて いかに馬鹿げた妄説かですね(古墳の解説に 優れた土木技術を持つ渡来人が作ったなんて 支離滅裂なことが 根拠もなく書かれていたりします いまだに妄説を盲信しているのです)[10] … Continue reading

和国大乱が収まった後には 湿地帯・沼地の開拓が始まったのではないでしょうか 干拓は川の中洲よりさらに大規模な工事が必要です こうなると集落はムラからクニへ拡大します 公共工事が盛んに行われ 弥生時代から古墳時代に至ります
この頃には農機具も改良され鉄製品が使われるようになります[11] … Continue reading 作業効率は高くなっていたと思われます また農機具はそのまま土木工事にも使われます[12] … Continue reading
古墳は後代の戰で 砦代わりに使われることがありました 周りに環濠を巡らしているためです 盗掘を防ぐ水堀に見えますがどうなんでしょう もしかしたら水田のための溜池があって そこに古墳を築いたのかもしれません 元々は祭祀のための場所であったということです 大型の前方後円墳は奥の円墳が墳墓 その前の方墳は祭祀場かも知れない[13] … Continue reading

古墳時代には棚田から平野の田んぼが大半になっていたでしょう 平野とはいえ田んぼには必ず傾斜が必要です 高いところから低いところへ水は流れるからです 平地の田んぼであっても すべて緩斜面の棚田といえます
そうすると用水路・溜池等の配置計画が最も大切になってきます あれだけの大工事が墳墓のためだけに行われるとは考えにくいのです 古墳は治水の実用面と祭祀(農事祭)のためならば納得できます 祭祀は最初自然現象に捧げられ 神の使いを祀るようになり 人格神へと変化やがて部族・集落長の墳墓となったと考えます
八岐大蛇もそうですが 各地に伝わる民話で大蛇(水神)に土地の長者様の娘が嫁ぐ話があります 水利と農事祭・墳墓は密接な関係があると見てよい

註釈

註釈
01 ヤマタノオロチ神話 記紀では八つの頭と八つの尾と記されていますが 八つの岐(俣)には九つの頭と尻尾がなくてはなりません すなわち八岐大蛇(八俣大蛇)は九頭龍神と同一と見てよい
山に造られた棚田は山田でもあります ヤマタはもともと山田のことではなかったでしょうか 太安万侶が稗田阿礼の口誦を書き留めるときに勘違いした? なお菊姫(菊理媛)や宗像三姉妹は九頭龍姫の娘であるとの言い伝えがあるようです
02 信濃川の河口近くは水害に悩まされていました そこで治水のため江戸時代から分水路の工事が始まりました 今の大河津分水です 分水町の道路は昭和前半まで1メートルほどの盛土をしてありました 川が氾濫した時の備えです 同じように川の中洲にある農家は 納屋を高い盛土の上に建て さらに船を天井に用意した所が全国にありました
03 素戔嗚尊は八岐大蛇に御神酒?を供えています 供えた御神酒は濃い酒となっています 日本酒はワインより濃厚なので 米から造られた酒かもしれません 神道の形態が確立される以前は 縄文ワインが供えられていたと思われます 神に供えた酒は口噛み酒という説があります 口噛酒は濁酒ですから白い酒です 縄文のニワトコワインなら赤い酒です 紅白の酒として同時に用いられていた時期があったかも知れない
原初の酒造りである水酛造りでは 蒸米をスターターとし生米と合わせ乳酸発酵させます 口噛み酒は唾液中の消化酵素で糖化した 生米がスターターと言われます あくまでも酛づくりのスターターであり 酒の全量を生米を噛んで作るとは考えられず 口噛み酒が原初の酒ともいえない
酒を醸す技術があるなら米を炊くことは行われていたはず 猿酒でもあるまいし 生米を噛んでいたら偶然 酒になったなんてありえない 口噛み酒は神に供えるため 火を使うことを避けたのではないでしょうか
04 弥生時代の集落跡は大半が高地にあります 棚田は狭く作業効率が悪い それでも水利と日当たりをとったのです 当時はいわゆる古代米でしょうから 収量も少なかったはずです 平野に降りていったことと人口の増加 そして農作業が個人から集団へ移行したのも 関連していると思われます
05 兵という字は武器を持つ者を表します 兵を起こす挙兵は戦いの準備ですね 倭国大乱の頃は全員で武装して戦った事でしょう 農民であり時に兵士だったのです
武の字は戈を止めると書くように 本来は威力・抑止力を意味します また士は士大夫から来ています 武士は軍という組織に組みこまれ 兵役の義務を負う者のことです ここで初めて兵農が分離されます
もっぱら農に携わる農家と もっぱら武辺の武家に分たれるのは 豊臣秀吉の刀狩り以降のことです 下剋上を阻止するためですね それでも一揆・逃散は頻繁に起きました 農とはいえ兵の心は失われていなかったのです
武士は軍に所属する者 兵士は武装した者です 兵力はforce of arms(戦闘力)であり 武力はmilitary power(軍事力)という感じでしょうか 武は有形戦闘力であり経済力でもあります(豊臣秀吉の軍) 兵は無形戦闘力すなわち練度ともいえますか(上杉謙信の兵)
06 菊姫(菊理媛)は日本書紀に登場します なぜか古事記には記載されない 日本書紀は対外的な広報誌のようなものなので 魏志倭人伝なんかと整合性を持たせるためではなかったのか 菊理は括りの事を表すとしたら 倭国大乱を治めた日御子?と比定してよいのではないか
ところで中国人が卑弥呼の文字を(ヒ・ミ・コ)と読まないのは確かです 魏志倭人伝はいろんな資料の引き写しです 聞き書きが元になっているでしょう となると3世紀の日本人は倭国大乱を治めた人物を(ひみこ)とは呼んでいなかった
当時の中国人の発音は分かりませんが (ピィ・ミィ・フゥ)という感じであったろうと思われます とすると姫神(ひめみわ・ひみわ)という呼称だったか 名前ではないかもしれません
ミは回る・曲がるという意味で 敬称・美称というより蛇を表します 祭神は九頭龍でしょう また大神(大蛇)は酒の神でもあります 鬼道はおそらくトランス状態になりますから酒はつきもの? 日本酒醸造ではワインと違って水が重要です 水神(蛇)と結びつく由縁です
07 室町時代に築城されたという小田原城は 戦国時代に至って総構えと呼ばれる城塞都市にまで発展しました ギリシャ・ローマの都市国家に近いものかもしれません 海に面した土地柄もあり 水田との結びつきは薄くなっています
織田信長の安土城は 山城の概念からかけ離れた居城です もはや戦略的な意味より 威光を示すための政治的な建築物です もともと信長は米に依存しない領国経営を進めていましたから このような発想ができたのです
熊本城も城郭だけで成立するものではありません 曲がりくねった道路と町の区割りは計算されています 大事なのが川の流れを制する護岸工事 敢えてうねらせた川筋とし川底に岩山を造るという工法です 洪水で水が溢れることはなかったといいます
地震で城の石垣が崩れたのは 古い土台の上に城の姿を真似た コンクリート製のビルを建てたからです 木組みの建物は制震機能を持っているのです
08 戦国時代 上杉謙信の軍資金は直江津港・柏崎港の通関税が多くを占めていました 春日山城は低い山城ですが 直江津港を扼する地点にあります
古墳で小規模な方墳・円墳の中には 丘陵や山の中腹に作られたものがあります これも交易を管理する砦の意味があったと考えられます
09 河川や山稜は自然の要害となります 日本海もそうですね 人為的な国境線には何らかの建造物が造られます 海に境界線は引けないので 日本に明確な国境線はありません
10 短粒種の稲作は8000年ほど前 長江あたりで始まったとされます 大麦の栽培もその頃でした(寒冷地で栽培可能な小麦はさらに後) 世界的な寒冷気候により食料が不足し農耕が始まったといいます 長江を境に南と北では風土が違いますから 気候に合わせ南は米作(粒食)北は麦作(粉食)文化となります 日本は緯度からいえば北になりますが 海流の影響で温暖多雨な気候風土から 稲作が主になったのです
11 朝鮮半島南部で鉄製品の素材となる粗製鉄が発掘されます 半島南部は日本の支配下にありましたから そこで原材料を作り日本で完成品としたのでしょう
12 いま日本の米作は個人の小作(平均1.5町歩)と法人組織の大規模経営があります 大規模経営といっても実際に農作業に関わるのは数人の少人数です 米作りは集約農業ですが 大型の機械を使えば1人で5町歩以上の田圃を維持運営できます そのため大規模経営は土木業を兼ねていることが多いようです
13 周りを掘り下げてその土で土塁を築くと空堀になります そこに水を引けば水堀です 環濠のある古墳はやはり水田工事の技術と共通しています この頃には道路の整備も行われていたようです 道路は盛土をしてあった痕跡があります 用水路と道路は並行して造られたかもしれません
南米のピラミッドも祭祀場であったようです この祭祀はやはり農業祭です 道路も整備されていました 古墳と共通していますが水利との関係はよくわからない 日本にも奈良をはじめとして 各地に階段ピラミッド状の古墳があります が古墳といえるのかどうか分かりません
石積ではなく山を削り取って形作ったものがあり 耕作や祭祀の跡も見られます 墳墓ではないようです 棚田あるいは段々畑との区別がつきにくい そういえば棚田は階段ピラミッドとそっくりですね 南米の階段状ピラミッドも段々畑を模したかもしれない
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古代びとの信仰

自然神信仰

吾が国において 畏敬・崇拝の対象になったのは 美しい風土ときに厳しい自然そのものではなかったか 自然とは無常です 移ろい行くものです 繰り返すから永遠
お釈迦さまの説いた仏教は 穢土(此の世)を逃れ 浄土(理想郷)を目指すものでした しかし吾が国人は 美しい国土に浄土を観ました 現世を美しく思う浄土現前
花鳥風月 虫の声まで愛でるのが 日本人の心です 今ここにある たわい無いものが 尊く美しい[01] … Continue reading 現実逃避したり 我欲にとらわれないのが 和の習いなのです

仏教がいう穢土とはカースト制のことです 生まれながらに階級が定められるので 死をもってしか自由・平等は得られません[02] … Continue reading 一神教が生まれたのは過酷な砂漠です 限られた緑と水を部族間で争奪する世界 互いに闘い現実を克服するのが生きることです[03] … Continue reading
仏教は現実逃避であり一神教は戦う宗教と言えます 縄文時代の暮らしぶりは分かりません 日本の気候風土は比較的おだやかです そこに住む人たちは あるがままに穏やかな生活を送ってい 互いが争うことは少なかったでしょう

惟神の道とは 四季の巡りに委ねることかと思います あらゆる作物も漁撈も狩猟も すべて自然の恵みです 自然によって生かされていたのです 自然からの恵みに感謝し自然の災いを慰撫する 祈りと祭りが吾が国の人々の信仰でした
これが変化したのは水田でしょう 水稲米は陸稲に比べ収穫量が多いものの 治水のため大規模な土木工事が必要になります 米作りそのものも集団作業です 統べる者が現れ 水利を囲って諍いが起き ついに武装するに至ります[04] … Continue reading

人格神信仰

八岐大蛇を退治た素戔嗚尊は 川の流れを制し奇稲田姫を得ます 米作りの神です にもかかわらず高天原で田圃を壊したりしています 米作りの神は風雨を司る天候の神でもあります 雨風は稲作に欠かせないが過ぎれば暴風雨なのです 地上に追放されて 大宜都比売命から食物を分け与えられますが これを斬り殺してしまいます 食べることは穢きこと 生きることは命をいただくことです
縄文時代の動植物を象った生贄が次第に土偶の姿となり 大宜都比売命・保食神の人格神と繋がります 土偶は動植物から人格への過渡的形態です すなわち記紀で描かれるのは 自然神から動植物神そして人格神に変わったことの象徴と見ます 芽生えは生であり収穫は死です 大気都比売神は斬られ土偶は欠かれます 命は奪われて伝えられ繰り返されるのです

和国大乱を鎮める日女御子は縄文への回帰であったのか 私には「なよ竹のかぐや姫」と重なって見えるのですが 御門をも袖にする月の世界の人 月の光は武装した者を無力化します 最後に天の羽衣が登場します 衣・食・住といいます 衣が人の帰趨を決定するのです(旧約聖書・創世記では食が最初でしたか)[05] … Continue reading
羽衣伝説は海辺や川縁が舞台です また地上に留まった天女は豊受大神とされることが多い 竹取物語はいろいろな伝承が入り混じっていて とくに後段は阿弥陀三尊の御来迎に影響されているかもしれません とすると かぐや姫は穢土から浄土へと向かったことになります 月の世界は不老不死で四苦はない その代わり喜怒哀楽も情愛もない世界です 清浄であるが豊かとはいえません[06] … Continue reading

縄文と弥生の信仰

満月を愛でるのは実りの秋です 竹籠に盛って供えるのは芋と栗と豆です 三方に団子は江戸時代に入ってからのこと 竹取物語には月を見るは忌むことという件があります 稲作の神である太陽神と 他の作物や漁業の神である月の神との葛藤が伺えます[07] … Continue reading
あらゆる祭礼の本祭は宵祭の神楽です そして神の遷座があります 天の羽衣に着替え月に帰るかぐや姫の乗る御輿(車と書いてありますが 宇宙船でしょうね)は宙に浮かびます 祭礼の神輿は決して地面に置くことはありません

正月15日は小正月です すなわち新年最初の満月の日 古人は冬が明けて春を迎える火祭りを執り行いました どんど焼き・塞の神は縄文からの習いでありましょう 小正月・女正月といいますが(大正月という言葉はない?)新年の祝いは十五日正月でした[08] … Continue reading  縄文と弥生は八百万の神として 時には争いながらも 一万年以上の時を共に栄えてきたのです

おそらく縄文の昔からであろう 吾が国古来の信仰は現在でも民間行事の形で受け継がれています 雑煮・塞神・小正月・月見などなど 記紀が編纂され天津神と国神が系統づけられても 外来の仏教が取り入れられても 儒学が採用されても キリシタンの布教があっても 揺らぐことなく大和心として国人の裡に生き続けます

註釈

註釈
01 10世紀初めに遣唐使を廃したことにより 中国の影響を脱した 和の優美な王朝・宮廷文化が形成されました 源氏物語・枕草子・和泉式部歌集を頂点とする 雅な国風です 日本文化の担い手は女性でありました
鎖国政策によりキリシタン文化を排し 江戸時代に上質で多彩な庶民文化が花開きました このサブカルチャーは営々と受け継がれ 今日の漫画・アニメーション文化となっています
02 インドで仏教が普及しなかったのは根強いカースト制のためです(女性はカーストの枠外なので不可触賤民と同等とされます) 仏教は命あるものすべてが平等と説きます 釈迦と同時代の孔子が説いた儒教は 長幼の序・男尊女卑など 人は生まれながらに優劣があるとします この差別主義を敷衍すれば 中国人の選民思想・中華思想に繋がります
あらゆる衆生を救うとする仏教は インドのみならず中国でも受け入れ難かった 日本は階級・身分のない社会です だから仏教が受け入れられ繁栄したのです 日本が取り入れた大乗仏教は差別なく衆生を救うのを旨とします 女人禁制は儒教の影響を受けて後代(おそらく江戸時代)に言い始めたことです
03 一神教では 人間は他の動物より優れた特別の存在 そして神を信ずる者同士だけが平等です これも選民意識です 洗礼が最も大事な儀式とされるのは 水が貴重だったから 旧約聖書で神が洪水で人類を滅ぼしたのは どう解釈したらいいのでしょう 神の嫌味?
04 狩猟・漁撈の世界でも指導者の元で共同作業です また入会権という形で漁場・狩場は決まっていました しかしそれは利用権であって占有権ではありません 山野・海川の恵みを利用するのと違い 水田の構築は人為的なものです したがって作った者・集団に所有権があります 農地に適した土地は限られます とくに水田は水利が重要です どうしても土地争い水争いが生じてしまうのです
05 天照大神が天の岩戸に隠れたきっかけは 素戔嗚尊に機織りを邪魔されたからです 天の羽衣を織っていたのでしょうか 食の要である田圃を壊したりの乱暴狼藉は許したが(自然災害です) これには堪忍袋の緒がブチ切れました
オリュンポスの神々は半裸体で描かれることが多い気がします ヒンズー教の神々もそうです 仏像でも粗末な衣装ですね 糞掃衣というそうです お布施は文字を見ればわかるように 布を施したのが始まりです 〝仏像の服装の意味〟たいへん参考になります
一神教に食べ物・飲み物の戒律があるのはなぜなんでしょう 食糧事情が安定しない風土であることは確かです 仏教の教えにも戒律はありますが 食べ物に関しては特に煩いことを言わない 生臭ものを食べないのは修行の妨げになるからで 在家には強要しません それに不許葷酒入山門とか言ってながら 般若湯と称して酒も飲みます
06 地上の穢きものを食べたかぐや姫は 月の世界へ帰るために薬を飲みます この薬は地上でのことを全て忘れてしまう まさに六根清浄ですね 仏教が関係している 人間が飲むと不老不死になるというから 中国の神仙思想の影響もありそうです 御門がこれを富士山で焼き捨てるのは 吾が国の伝統に習った正しい判断です 不老不死は生きることではない 不変は決して永遠を表さないのです 外来の仏教(中国経由のため老荘思想などの影響があります)もそのままではなく 日本流に換骨奪胎しアレンジしてしまいます
07 日女子は生涯独身でした かぐや姫も求婚を断り続けます 日女子と接するのは一人の男だけだったといいます 竹取翁に比定できるかな かぐや姫は月の世界の人でしたが 日女子は天照大神に仕えたと思われます
鬼道(奇道)がよく分からない 争いを治めたのだから 武装を無力化する月光を操るのかもしれない 今でも大嘗祭は夜に行われますし 日没や夜明けに月と太陽が同時に見えることがあります 必ずしも対立しているわけではないでしょう
08 1月1日 3月3日 5月5日 7月7日 9月9日といった数字合わせの いわゆる節句は 大陸から伝わったと思われます(なぜか江戸時代には1月7日を人日と称し五節句としました) いま年中行事とされているものには 宮中から民間に広がった唐様が紛れ込んでいます 新年に日の出を拝むのは近年のことです 昔より伝わる民俗行事の方が大切です 月を愛でる十五日正月が古来(おそらく縄文)よりの正月祝いです
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祭り(祀り)の意義

鎮守の森

日本人は森の民でありました 熊野本宮大社はもと川の中洲にあった森を祀った神社です 現在の主神である(けつみみこのおおかみ)は樹・森の神です まさに鎮守の森の原型といえましょう なお中洲は(おおゆのはら)といい 大斎原と書きます
熊の字は〈ゆう〉とも読みます これは漢音でも呉音でもなく 慣用的な音です 古語と思われますが語源・意味とも不明です 大斎原の斎は〈いむ〉のほか 斎木〈ゆき〉などの読みがあります 〈ゆ〉の音に斎の字を当てただけでしょう

してみると熊野は〈くまの〉ではなく 〈ゆうや〉〈ゆや〉あるいは〈ゆの〉であったかもしれません 熊の字を当てた理由は森の主が熊だから? しかし熊祭りが行われていたという伝承はないようです
宮沢賢治の童話「狼森と笊森、盗森」は 森と人との関わり信仰を描いています 狼森は〈おいのもり〉と読みます 〈おおかみ〉は大神からの呼び名でしょう 森の主は狼であったのです (おいの)は東北地方の言葉ですが方言は古語が残ったものです これも語源はよく分からない
古代は山や島・川・湖など自然そのものを祀りました 森もそうだったのでしょう 動物が表象また使いとされることがあります 白蛇や狼・白鹿など でも熊はアイヌのイヨマンテ以外は知りません

南方熊楠大人が明治政府の行った神社合祀に対して大反対を唱えました 数々の理由を述べていますが 森林が失われることに危惧を抱いたのが 最大の理由です 博物学者らしい動機ではあります[01] … Continue reading
八百万の国神は土地から切り離され 所縁のない神社へ合祀されました 神社に複数の神が祀られこととなったのです[02] … Continue reading 神社合祀により数多の鎮守の森が失われたのは事実です(実態は神木を切り倒して用材として売り 統廃合の費用に当てようとしました でもほとんど値が付かなかった)
狼森が失われたため狼(大神)は姿を消し 里山が荒廃して日本の風土は一変しました もはや我々は森の民などと名乗れません この始まりは薩長明治政府の神社合祀だったのです

廻りと繰り返しが永遠

四大文明と言われるところは 平野を大河が流れています 雨期の泥水が土地を肥沃にし その水を用水池に貯めておき乾期の灌漑に使います 日本はほぼ温帯湿潤気候なので雨は降りますが 山国のため急流が多い 水を溜めておくことが難しいのです 治水は照葉樹林(里山)の保水力を頼る段々畑や棚田となります 山田は巨大な溜池とも言えるのです
治水はある程度可能とはいえ 天候を人智で左右することはできません 日照りに対しては祈るしかないのです 荒ぶる神(風雨の神)であった素戔嗚尊が 太陽神天照大神に服属するのは自然な姿です 月読尊は標の神 豊穣の実りを示すとともに 海洋神・漁業神でもあります[03] … Continue reading

この三柱の神々を祀ること(祭り)が 米作りで成り立つ瑞穂の国の姿です すべての祭りは農事祭です 日ごとに日の出を迎え 月は廻り 四季が一巡すれば実りが齎されます 日本の風土・自然と共に生きること すなわち祈りと祀り(祭り)が古代神道そのものです[04] … Continue reading
もっとも重要で縄文時代から行われていたのが 夏至の水祭りと冬至の火祭りです 田植えの時には早苗饗(さなぶり) 穂がつき結実すれば夏越の祓え 各地の秋祭りは収穫祭です 正月はもと新年初めの満月を祝うものでした 十五日正月といわれます[05] … Continue reading

天照大神 月読尊 素戔嗚尊は天津神三兄弟 それぞれ太陽神と月の神 ならば素戔嗚はなんの神か 自然現象を神格化したのは間違いない 行動を見ると天候の神でしょうか[06] … Continue reading 稲作関連ならば水に関係する 気候(四季)を表すのなら 年の神となります
日の神・月の神・年の神で三神 太陽と月の周りは農事に そして四季(特に降雨)は稲作と深く関わります 三種の神器はそのまま三柱の神を表し 形代なのです
八咫鏡は太陽を表します 八岐大蛇の尻尾から出た剣を 素戔嗚尊は天照大神に献上しています 天叢雲は文字通り雨雲を表し 刀身は稲光[07] … Continue readingの象徴です ゼウスの武器が稲妻であったように鋭利な剣です 月を読むとは農事暦ですから 八尺瓊勾玉は月日を数える標でありましょうか[08] … Continue reading

註釈

註釈
01 神社合祀は市町村制と深く結びついています 廃藩置県の次に全国の村落を統廃合して 新しい行政区域をつくりました 村々が統廃合されると ひとつの村に複数の産土の神が存在することになります
農業ことに稲作は神道と切り離すことができません 米作りと祭りは共に集団作業で不即不離のものなのです 集落は土地の氏神を中心としていました 一つの集落に一つの鎮守様があったのです
規模の大きい神社で複数の神を祀ることは 明治以前からありました これは主に吉田神道などの影響です 箔をつけるためでしょうか色んな神を勧請したのです また一つの神が二つ以上の名を持つとされることもあります
02 明治政府の国家神道(神社神道)は もともと対等であった八百万の神々(鎮守様)を 伊勢神宮(天照大神)を頂点とする階層構造に組み入れました 中央集権の政治体制を正当化するため 神社も統合したのです
このような序列・系統立ては延喜式の昔から行われましたが 明治政府は廃仏毀釈といいながら 一方では摂社をも廃しました そのため各地に伝わる民間伝承も 次第に失われることになったのです
03 蟻の熊野参りという言葉があります 熊野は古くから信仰されていました 紀伊半島は稲作に適さない土地柄で 漁業および海上交易が盛んであり 熊野水軍と呼ばれる勢力が 大阪湾から瀬戸内海を支配するようになります
魚付きの森というように森はまた海とも深い縁があります 熊野と月読命は関係ありそうですが 記紀の編纂から吉田神道そして神社合祀と 各地の神社の言い伝えは改竄され失われてきました 古の姿はわからなくなっています
04 祭りには御神楽が奉納され御神酒が供えられます 酒は米の精華であって神聖なものでした 原初の酒は生米を使った水酛づくりだったと言われます
水稲米が作られる以前にも酒は醸されていました 長野県の井戸尻遺跡(5000年前)からは 果実の種や皮が付着した有孔土器をはじめ さまざまな酒器が発掘され 秋田県の池内遺跡や青森県の三内丸山遺跡でも ニワトコの実を醸造したと思しき痕跡が出土しています 縄文のワインです
縄文時代で既に酒造りに土器が使われています 米を使った日本酒(の原型)でも甕で発酵させていたでしょう 酒母は炊いて糖化させた飯です 沖縄で神に供える酒は炊飯ではなく 口で噛んで糖化させ醸したものだったそうです 火を使わないのはおそらく宗教的な理由からと思われます 延喜式に蒸米を使った種麹の記述が見られますから 平安時代中期には現在に近い酒造りが確立されていたのです
05 ナマハゲなどの行事は古代神道の姿を伝えます 柳田國男の「遠野物語」に見える オシラサマは 正月十五日に白粉を塗って祭るとあります 歳神様は中国からやってきました 七福神もほとんど外来の神です 現在行われている正月行事は 古来(縄文)からのものと中国由来の節会とが混合しています
06 素戔嗚尊は時に泣き叫んだり 水田を壊したりと手のつけられない神です これらの行動は暴風雨を表すとみていいでしょう 半面で稲作の神とされていて 木を植えたりもしています 八岐大蛇を退治て(治水)奇稲田姫を娶るは 水稲米を栽培することです
07 雷が多いと豊作と古来いわれてきました 放電が大気中の窒素分を水に溶け込ませるというのです ゆえに稲妻です 天叢雲剣が稲妻・稲光を表すとしたら 七枝刀の形がふさわしいのですが 誰も見たことがないので なんとも言えません
08 数珠もロザリオも数取りに用います 八尺は大きさか長さを表していて 勾玉の数は四季を表すなら4個です 新月から満月の月齢だと12個になります そして管玉が間に30個ずつなら 全体で一年を表します 月読命は縄文の主神であったかもしれません
天岩戸隠れは日蝕ではなく 春を迎える冬至祭りでしょう 日蝕はそう度々起こることでないし 稲作に影響があるわけでもない 賢木を根こそぎ抜いて飾り立てるのは クリスマスツリーを思わせ 天宇受売尊が足音を立てて踊るのは 鳥追いを偲ばせます
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