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タグ: 八岐大蛇

祭り

祭りは神に奉う・順う・服うの意でありましょう 古代の神は日本の自然・風土・四季の恵そのものです 祭りは祭礼・例祭と言いますように 様式・習わし・仕来りとして 繰り返し伝えられます あたかも自然の営みをなぞるが如くに すなわち祭りは随神の道であり 幾千年と続く民族の記憶なのです 日本の風土そこに生きる人々心の遺伝子とも言えるでしょう

自然神から人格神

縄文から弥生にかけて 日本の祭りは様変わりしたと思われます 自然神信仰から人格神を祀るようになったのです 自然と人間の橋渡し役は動物神・植物神 過渡期の形態が土偶です 無形の神の化身であったり 神の使いと考えられていました 各地に大蛇の伝説が伝わります 大蛇は時に人の姿となります 諏訪大社の祭りはかつて鹿を供えていたと言われます
神の姿が変わった大きなきっかけは 水稲米栽培の普及です それまでにも陸稲や豆・芋類などが作られていました 畑作と違い水田は大規模な造成工事が必要です ことに重要なのが水の管理です 田んぼには高低差があり 水を温めながら流れを作っています[01] … Continue reading 水稲米というのは極めて人工の穀物なのです 多くの人手が必要で 統率と秩序が求められます
自然の恵みをいただく縄文の神は自然そのものでした 自然を畏怖し自然を祀らうのが縄文の祭りです 弥生の祭りは農事祭です 自然の営み力に人手を加えることで 収穫量が飛躍的に増大します
水稲米栽培の技術が発展して 人智により安定した糧食を手に入れることが可能となりました そして神は人格を帯びてきたのです

縄文から弥生

勾玉の形は様々あります 一般的にイメージする 片方が太く反対が細く曲っているのは動物の牙でしょう 他にC形のものがあり これは鹿や猪の蹄に見えます 細長い形状もあります まるで釣針のようです
勾玉は縄文時代から作られています これらの形からすると 狩猟漁撈と関係していると見てよいんじゃないか[02] … Continue reading
八尺瓊勾玉はどんな形なのか 五百津之美須麻流之珠(管玉)と セットになっているようです 多数の管玉が水稲米を現すとすれば 縄文・弥生文化の習合とも考えられます
弥生以降の祭りで本祭は宵祭の神楽です お神輿や山車じゃありません 神社は本殿に相対するように神楽殿があります お神楽が夜に行われるのは 天岩戸隠れの象徴でしょうか それとも月読命を祀るのでしょうか
八岐大蛇退治も定番です 天候・気象は人の手の及ばないところですが 治水は可能です 人工と自然の調和が人格神なのです 異形の八百万の国津神と人格神たる天津神の融和でもあります[03]天津神と国津神の関係性は もののけ姫や千と千尋の神隠しをイメージすればよいかなと思います

註釈

註釈
01 稲は熱帯雨林(インド)地域の産ですから 日差しと水が必要です 日本列島は雨に恵まれているものの熱帯ではありません 稲を育てるためには人の手で 日差しと水の流れを作らねばならないのです こうやって熱帯ジャポニカから品種改良されたのが温帯ジャポニカ米です
6000年前無人だった朝鮮半島南部に九州から縄文の人たちが移住しました 陸稲は持っていったかもしれません 同じ稲科の高梁は乾燥と寒冷にに強く 水に恵まれない中国東北部や朝鮮半島北部で栽培されるようになりました 水稲米が日本から半島南部に伝わるのは後の時代です
02 大神神社や宗像大社の子持ち勾玉は かなり時代が下り形状も異なります 祭祀に使われたのだろうが 何を表したのかはよく分からない 動物のようではあります 土偶との関連は興味あるところです 土偶が作られなくなったのは ほぼ自然任せだった縄文の陸稲づくりから 人工の水稲米が主になったからでしょう
03 天津神と国津神の関係性は もののけ姫や千と千尋の神隠しをイメージすればよいかなと思います
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御神酒

神に酒を供えるのはなぜか 荒ぶる神を鎮めるため 神の託宣を聞くため 御饌(みけ)のうち酒はことに味がよく 霊妙な心理作用をもたらします いつかおみきといえば酒のことになりました
神を鎮めるには 酔い潰してしまうのが手っ取り早い? 下がり物の酒を頂いて神憑りになる? ただ酔っぱらうのは大蛇だったり鬼ですね 人格神は下戸のようです
卑弥呼が鬼道を行う際飲んだのは どんな酒だったのか 縄文ワイン 米から造った天甜酒 焼酎だったかもしれません 平安時代すでに酒で酒を醸す貴醸酒が造られています 蒸留酒が文献に表れるのは16世紀のようですが いつ頃から作られたかは不明です

八塩折の酒

八岐大蛇の話に出てくる酒は 八塩折の酒とか衆果の酒とか書かれています 果実を集めて作った酒ならワインですね 八塩折がよく分からない
記紀では濃い酒となってます 濃醇な貴醸酒は平安時代に「しおり」と記されているようです しかしこれでは衆果との整合性がない だいたい米の酒との記述はないのです[01] … Continue reading
八俣大蛇が酔い潰れるということは アルコール度数の高い酒です 私は蒸留酒ではないかと思ってます
縄文ワインを蒸留したのか 酒精強化ワインだったのか 焼酎に果実を合わせて リキュールとしたのか
各地の焼酎は主に米麹を酛にし サツマイモやサトウキビを使います 果実が原料とすると栗焼酎か キルシュヴァッサーのような酒だったかもしれません[02] … Continue reading
それまでもヤマタノオロチに 酒は供えていたはずです 縄文ワインであったのなら アルコール度数はかなり低い
今までにない美味い酒だと 飲みすぎてしまったのです いずれにしてもその製法は途絶えて 700年代には伝わっていなかった その後米の酒が主流になった経緯もわかりません

芋粥

芥川龍之介の小説と原話の今昔物語によれば 芋粥は山芋を甘葛でさっと煮た粥となっています 粥とはいえ米は使いません 山芋は東南アジアでよく食べられる ヤム芋に相当します また里芋は山に対しての名ですが 太郎芋と呼ぶ地域があるそうです(タロ芋は里芋の仲間です)
奄美地方にミキと呼ばれる発酵食品があります 今は米とサツマイモで作ります かつては山芋・里芋などが使われ 3日間発酵させるので 三日ミシャクと言われたそうです
ミキは甘酒のようなものです ちょっと無理がありますが 昔のミキは芋粥に近いか 芋粥に甘葛を使ったのは いつ頃からか不明ですが 元々は発酵によって 甘味を出したのかもしれません
ミシャクの語源は分かりません 諏訪大社に伝わるミシャグジ伝説との関連はあるでしょうか
ミキはお神酒に通じますが 神社で供える酒は神饌・御饌(ミケ)の一部であり おミキは酒に限定されてないのです

米の酒

お神酒は4種類あります いずれも米から造られます 伊勢神宮ではすべてを供えるそうです 中に醴酒と呼ばれるものがあります 醴酒は甘酒とも濁酒とも言われます ミキは芋を使った甘酒でした 米の醴酒は縄文芋文化と弥生米文化の習合から生まれたか
口噛酒は火を使わない特殊な作りです 生米をスターターに使う菩提酛(水酛)の始まりかもしれません 日本の酒造りは神に供えた米飯に 黴が生えたところから始まりました 麹菌が付き糖化した米飯を「カムタチ(カビタチ)」といいます 今の酒造と同じ散麹(バラ糀)の様子を表す言葉です 醸すの語源は黴立つなのです[03] … Continue reading
天舐酒はカムタチを用いた甘酒(醴酒・一夜酒)でしょうか[04] … Continue reading 甘酒に酵母を合わせてアルコール醗酵させると酒になります 最初は野生酵母が作用したのだと思われます 日本酒が神社仏閣で醸され 御神酒として供えられる由縁です 縄文時代には土器で煮炊きしていました 生米を噛んで放置していたら酒になったは不自然です 乳酸発酵させスターターとして用いたなら分かるが 全量を口で噛むなんてあり得ない 酒より飯が先のはずだし 弥生時代に生米を食べていたとは考えられません[05] … Continue reading

註釈

註釈
01 ヤマタノオロチが飲んだのは 八醞折の酒とも集果の酒八甕ともなっています この八は八岐大蛇に掛けたもので そのまま8回醸した貴醸酒とするのは疑問です ちなみに岐が8なら頭は9つです 集果の酒は9甕用意しなければ足りない
02 泡盛の起源がアラックだという解説が見られますが ココヤシ酒等は天然酵母で勝手に発酵します ワインと同じ猿酒です 穀物で酒を作るには麹と酵母を人工的に加える必要があり 泡盛とは製法がまるで違います
03 私は音韻論は分からないので私見ですが 神立ち(かみたち→かむたち→かびたち)黴立ち と変化したのではないでしょうか 醸すは雰囲気を醸し出すといった使い方をします いわば空気感のようなものです カムタチは何処からともなくやってきます また物議を醸すという言い方は 発酵の様子に似ているかもしれません(かむたち→かむたつ→かもす)と見るのが順当であろうと思います 噛むが醸すに音韻変化はしないでしょう
04 木花咲耶姫が天舐酒を作りました 巫女が米を噛んで糖化し発酵のスターターにするのは これが由来でしょう 神に捧げる酒造りは女性の仕事なのです 中世に至って産業化するに従い 男性が酒造りを担うようになります
05 宮中で行われる新嘗祭に白酒と黒酒が供えられます 白酒は清酒です 黒酒はこれに臭木の灰を混ぜたものです 昔の酒は酸度が高かったことから 中和するためです なお酒造りの際に米を搗く(精米)のは四人の女の人の仕事です おそらく縦杵と搗き臼を使うと思います 月の兎の姿ですね 生米を噛むのは女の人ですから その伝統を引き継いでいるのでしょう
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水田と城

水田は山から

日本の水田の始まりは棚田です 南向きの山麓斜面に造りました 水稲米栽培で最も重要なのが陽当たりと水利だからです 山は照葉樹林に覆われ 保水力に優れています 斜面は水の管理がやりやすいのです
水田耕作が普及していくにつれ しだいに南面の適地が少なくなります 次には平地を開墾して水田としました 山裾に降りていったわけです[01] … Continue reading

川の中洲は水が豊富で地味が肥えています 開けているので陽当たりも良好 水田に適した土地です ただ台風などで水嵩が増した時には 実った稲が流されてしまいます 棚田(山田)に比べ治水が難しいのです[02] … Continue reading
平野に大規模な水田を造成するのは大工事です とくに水の流れを管理するのは 小集落でできることではありません 一定の勢力を持つ集団が新田を開発します 新田は開拓した者の所有になりますから 各地に豪族が出現することになるのです

山がちな地形である日本の水稲米栽培の推移です 古事記・日本書紀で描かれる 素戔嗚尊と八岐大蛇の神話は 山から始まり川の中洲に水田が作られる 稲作の歴史を正確・的確に物語っているのです 風雨の神である素戔嗚尊は 時に暴風となり田を毀ちます[03] … Continue reading 記紀で描かれる水田はおそらく川の中洲でしょう

水田の開発はもとより水稲米栽培は 田植え・草取り・稲刈りと季節ごとの労働集約型産業です しだいに作業しやすい平地の田んぼが主になっていきます[04] … Continue reading

城と水田の関係

いよいよ造れるところ全てが田んぼになれば こんどは土地の奪い合いが生じます そこまでいかなくても水争いは避けられません より恵まれた土地と水利をめぐる諍いは宿命ともいえます 互いに武器をもって戦うことになるのです
そして農民は武装し闘う兵(つわもの)[05] … Continue readingともなります 吉野ヶ里遺跡は環濠や土塁・木柵で囲まれています この頃にはすでに日常的な争いがあったのでしょう 和国大乱か?[06] … Continue reading

戦略論から言えば 山(高い位置)と川の合流地点は緊要地形です 砦を築く拠点になります 日本の城が山に築かれたり川の中洲・合流地点に多いのは 田んぼの水利も深く関係しています 土塁や石垣は棚田づくりの技術から来ていますし 水堀も治水工事と共通しています 築城は水田造成の土木工事を応用した砦造りから発達しました
城には根城と出城があり 出城は砦で根城と連携して機能します(通信連絡は狼煙) 山城には水源を押さえる意味もあります 太閤秀吉により戦国時代が終わり戦はなくなり 根城は次第に居城や政治的な シンボルの側面が大きくなります 平城は居城であり 政治権力の象徴であり 城下町の中心でした 城造りは領国経営・経済活動のため 都市計画の一部 ランドマークとなっていきます[07] … Continue reading

狩場・漁場をめぐる争いもあったでしょうが 武装して戦うほどではありません 自然を相手にする狩猟・漁撈と計画生産・装置産業の農業との違いです 所有と利用の差異ともいえるでしょう
ヨーロッパの城も川辺りに建つものが多くあります これは水運に対して課金するためです 通行税を勝手に取り立てていたのです 瀬戸内海の島に造られた水軍の城も似たようなものですね[08] … Continue reading

平野の治水と土木工事

よく知らないのですが 遊牧民は城を造ることはなかったのじゃないか イメージとしては部族単位のテント生活です 土地の所有という概念も持ってなかったと思います 万里の長城は国境線を示すために作られました[09] … Continue reading
蒙古なんかは好戦的な民族です さすがに機動力を生かした野戦は得意です でも攻城戦は不得手でした だから元寇は防塁で撃退された(日本に来襲したのは徒士でしたが 適切な防衛策です)
農業に適さない地域に住むのが遊牧民です 当然のことながら治水や築城の技術は発達しません 騎馬民族が海を渡って日本を侵略したり 稲作をもたらしたなんて いかに馬鹿げた妄説かですね(古墳の解説に 優れた土木技術を持つ渡来人が作ったなんて 支離滅裂なことが 根拠もなく書かれていたりします いまだに妄説を盲信しているのです)[10] … Continue reading

和国大乱が収まった後には 湿地帯・沼地の開拓が始まったのではないでしょうか 干拓は川の中洲よりさらに大規模な工事が必要です こうなると集落はムラからクニへ拡大します 公共工事が盛んに行われ 弥生時代から古墳時代に至ります
この頃には農機具も改良され鉄製品が使われるようになります[11] … Continue reading 作業効率は高くなっていたと思われます また農機具はそのまま土木工事にも使われます[12] … Continue reading
古墳は後代の戰で 砦代わりに使われることがありました 周りに環濠を巡らしているためです 盗掘を防ぐ水堀に見えますがどうなんでしょう もしかしたら水田のための溜池があって そこに古墳を築いたのかもしれません 元々は祭祀のための場所であったということです 大型の前方後円墳は奥の円墳が墳墓 その前の方墳は祭祀場かも知れない[13] … Continue reading

古墳時代には棚田から平野の田んぼが大半になっていたでしょう 平野とはいえ田んぼには必ず傾斜が必要です 高いところから低いところへ水は流れるからです 平地の田んぼであっても すべて緩斜面の棚田といえます
そうすると用水路・溜池等の配置計画が最も大切になってきます あれだけの大工事が墳墓のためだけに行われるとは考えにくいのです 古墳は治水の実用面と祭祀(農事祭)のためならば納得できます 祭祀は最初自然現象に捧げられ 神の使いを祀るようになり 人格神へと変化やがて部族・集落長の墳墓となったと考えます
八岐大蛇もそうですが 各地に伝わる民話で大蛇(水神)に土地の長者様の娘が嫁ぐ話があります 水利と農事祭・墳墓は密接な関係があると見てよい

註釈

註釈
01 ヤマタノオロチ神話 記紀では八つの頭と八つの尾と記されていますが 八つの岐(俣)には九つの頭と尻尾がなくてはなりません すなわち八岐大蛇(八俣大蛇)は九頭龍神と同一と見てよい
山に造られた棚田は山田でもあります ヤマタはもともと山田のことではなかったでしょうか 太安万侶が稗田阿礼の口誦を書き留めるときに勘違いした? なお菊姫(菊理媛)や宗像三姉妹は九頭龍姫の娘であるとの言い伝えがあるようです
02 信濃川の河口近くは水害に悩まされていました そこで治水のため江戸時代から分水路の工事が始まりました 今の大河津分水です 分水町の道路は昭和前半まで1メートルほどの盛土をしてありました 川が氾濫した時の備えです 同じように川の中洲にある農家は 納屋を高い盛土の上に建て さらに船を天井に用意した所が全国にありました
03 素戔嗚尊は八岐大蛇に御神酒?を供えています 供えた御神酒は濃い酒となっています 日本酒はワインより濃厚なので 米から造られた酒かもしれません 神道の形態が確立される以前は 縄文ワインが供えられていたと思われます 神に供えた酒は口噛み酒という説があります 口噛酒は濁酒ですから白い酒です 縄文のニワトコワインなら赤い酒です 紅白の酒として同時に用いられていた時期があったかも知れない
原初の酒造りである水酛造りでは 蒸米をスターターとし生米と合わせ乳酸発酵させます 口噛み酒は唾液中の消化酵素で糖化した 生米がスターターと言われます あくまでも酛づくりのスターターであり 酒の全量を生米を噛んで作るとは考えられず 口噛み酒が原初の酒ともいえない 口噛み酒の記述は大隈風土記にあるそうです 沖縄の御嶽に供える酒も近年まで口噛み酒であったといいます
酒を醸す技術があるなら米を炊くことは行われていたはず 万葉集に「味飯を水に醸み成し〜」との文言が見られます この頃すでに米飯で酒を醸すのが普通だったのです 生米を噛んでいたら偶然 酒になったなんてありえない 口噛み酒は神に供えるため 火を使うことを避けたのではないでしょうか
04 弥生時代の集落跡は大半が高地にあります 棚田は狭く作業効率が悪い それでも水利と日当たりをとったのです 当時はいわゆる古代米でしょうから 収量も少なかったはずです 平野に降りていったことと人口の増加 そして農作業が個人から集団へ移行したのも 関連していると思われます
05 兵という字は武器を持つ者を表します 兵を起こす挙兵は戦いの準備ですね 倭国大乱の頃は全員で武装して戦った事でしょう 農民であり時に兵士だったのです
武の字は戈を止めると書くように 本来は威力・抑止力を意味します また士は士大夫から来ています 武士は軍という組織に組みこまれ 兵役の義務を負う者のことです 刀を初めとする装備・兵器は自前なのですが あくまでも主君からの預かりものです 下命がなければ使うことはありません 扶持米・俸禄は軍備を整えるためですから
もっぱら農に携わる農家と もっぱら武辺の武家に分たれるのは 豊臣秀吉の刀狩り以降のことです 下剋上を阻止するためですね それでも一揆・逃散は頻繁に起きました 農とはいえ兵の心は失われていなかったのです
武士は軍に所属する者 兵士は武装した者です 兵力はforce of arms(戦闘力)であり 武力はmilitary power(軍事力)という感じでしょうか 武は有形戦闘力であり経済力でもあります(豊臣秀吉の軍) 兵は無形戦闘力すなわち練度ともいえますか(上杉謙信の兵)
06 菊姫(菊理媛)は日本書紀に登場します なぜか古事記には記載されない 日本書紀は対外的な広報誌のようなものなので 魏志倭人伝なんかと整合性を持たせるためではなかったのか 菊理は括りの事を表すとしたら 倭国大乱を治めた日御子?と比定してよいのではないか
ところで中国人が卑弥呼の文字を(ヒ・ミ・コ)と読まないのは確かです 魏志倭人伝はいろんな資料の引き写しです 聞き書きが元になっているでしょう となると3世紀の日本人は倭国大乱を治めた人物を(ひみこ)とは呼んでいなかった
当時の中国人の発音は分かりませんが (ピィ・ミィ・フゥ)という感じであったろうと思われます とすると姫神(ひめみわ・ひみわ)という呼称だったか 名前というか固有名詞で呼ぶことは考えられない
ミは回る・曲がるという意味で 敬称・美称というより蛇を表します 祭神は九頭龍でしょう また大神(大蛇)は酒の神でもあります 鬼道はおそらくトランス状態になりますから酒はつきもの? 日本酒醸造ではワインと違って水が重要です 水神(蛇)と結びつく由縁です
07 室町時代に築城されたという小田原城は 戦国時代に至って総構えと呼ばれる城塞都市にまで発展しました ギリシャ・ローマの都市国家に近いものかもしれません 海に面した土地柄もあり 水田との結びつきは薄くなっています
織田信長の安土城は 山城の概念からかけ離れた居城です もはや戦略的な意味より 威光を示すための政治的な建築物です もともと信長は米に依存しない領国経営を進めていましたから このような発想ができたのです
熊本城も城郭だけで成立するものではありません 曲がりくねった道路と町の区割りは計算されています 大事なのが川の流れを制する護岸工事 敢えてうねらせた川筋とし川底に岩山を造るという工法です 洪水で水が溢れることはなかったといいます
地震で城の石垣が崩れたのは 古い土台の上に城の姿を真似た コンクリート製のビルを建てたからです 木組みの建物は制震機能を持っているのです
08 戦国時代 上杉謙信の軍資金は直江津港・柏崎港の通関税が多くを占めていました 春日山城は低い山城ですが 直江津港を扼する地点にあります
古墳で小規模な方墳・円墳の中には 丘陵や山の中腹に作られたものがあります これも交易を管理する砦の意味があったと考えられます
09 河川や山稜は自然の要害となります 日本海もそうですね 人為的な国境線には何らかの建造物が造られます 海に境界線は引けないので 日本に明確な国境線はありません
10 短粒種の稲作は8000年ほど前 長江あたりで始まったとされます 大麦の栽培もその頃でした(寒冷地で栽培可能な小麦はさらに後) 世界的な寒冷気候により食料が不足し農耕が始まったといいます 長江を境に南と北では風土が違いますから 気候に合わせ南は米作(粒食)北は麦作(粉食)文化となります 日本は緯度からいえば北になりますが 海流の影響で温暖多雨な気候風土から 稲作が主になったのです
11 朝鮮半島南部で鉄製品の素材となる粗製鉄が発掘されます 半島南部は日本の支配下にありましたから そこで原材料を作り日本に移出 精錬し鉄製品を製作したのでしょう
12 いま日本の米作は個人の小作(平均1.5町歩)と法人組織の大規模経営があります 大規模経営といっても実際に農作業に関わるのは数人の少人数です 米作りは集約農業ですが 大型の機械を使えば1人で5町歩以上の田圃を維持運営できます そのため大規模経営は土木業を兼ねていることが多いようです
13 周りを掘り下げてその土で土塁を築くと空堀になります そこに水を引けば水堀です 環濠のある古墳はやはり水田工事の技術と共通しています この頃には道路の整備も行われていたようです 道路は盛土をしてあった痕跡があります 用水路と道路は並行して造られたかもしれません
南米のピラミッドも祭祀場であったようです この祭祀はやはり農業祭です 道路も整備されていました 古墳と共通していますが水利との関係はよくわからない 日本にも奈良をはじめとして 各地に階段ピラミッド状の古墳があります が古墳といえるのかどうか分かりません
石積ではなく山を削り取って形作ったものがあり 耕作や祭祀の跡も見られます 墳墓ではないようです 棚田あるいは段々畑との区別がつきにくい そういえば棚田は階段ピラミッドとそっくりですね 南米の階段状ピラミッドも段々畑を模したかもしれない
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