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食文化

酒の文化

雁屋哲原作「美味しんぼ」第54集《日本酒の実力》が 日本酒に対し誤解を招く内容を描いていたそうです 美味しんぼが参考にした元ネタは 日本消費者連盟が編纂し三一書房が発行した書籍「ほんものの酒を!」です この顔ぶれでは プロパガンダ本といわざるを得ないですね[01] … Continue reading

美味しんぼの作者も編集担当も 悪意や政治的意図はなく 不用意に不確かな文献を援用しただけかと思います[02] … Continue reading ストーリー展開は上手いから多くの読者を持ち アニメーション放映もされた作品だけに 影響も大きく日本酒に対する偏見が広まってしまいました 純米酒信仰もその一つです

美味しんぼの前にも 日本酒を扱った漫画「夏子の酒」が描かれています(こちらはTVドラマ化されました) やはり純米酒信仰と醸造アルコールの歪曲がベースになっているとのこと
この漫画のモデルになった酒は 新潟県の酒店(新津市だったか?)がネゴシアンとして作らせ 漫画・TVによるキャンペーンと出荷調整で値を吊り上げた という話を聞いたことがあります

フランスワインにはヴィンテージがあります ワインは葡萄を絞っただけの単発酵の酒ですから 出来不出来はもっぱら葡萄の良し悪しに頼ることになります 良いワインを作るためには 良い葡萄畑を確保するのが絶対条件なのです
葡萄の作柄は天候その他に左右されるため ワインも出来の良い年悪い年があります 良い葡萄が収穫できた年がヴィンテージ[03] … Continue readingとなります

日本酒も主材料である米の品質は大事です 吟醸・大吟醸に山田錦が使われるのは 大粒で平板状心白であることに加え 硬質なことがあげられます 紡錘状心白の五百万石では50%以上磨くと胴割れします 最近できた新潟県の越淡麗は 完全な平板状(線状)心白で 吟醸・大吟醸酒のための酒米といえます
しかし 日本酒は杜氏の技で作るものですから 米の出来不出来だけで品質が決まるわけではありません とくにに吟醸づくりは細心の注意を払って酒造りをします
麹米に白い花が咲いた状態は総ハゼで 麹菌が表面に成長しているのです 吟醸づくりのための麹米は突きハゼといい 菌糸が虎斑状に米に食い込んだ状態です ただ菌糸が米の中心部にまで入ってしまうと あまり良くありません 吟醸づくりに米粒の大きさ硬度は重要です

葡萄と同じく 米の出来もその年の天候等に影響されます 純米酒となると桶ごとに異なる発酵具合を調整するのは極めて難しくなります 吟醸・大吟醸ならばなおさらです 醸造工程で加える原料アルコールも発酵調整技術の一つです
酒米の品種だけでなく産地も重要です 日本酒にはヴィンテージがないので 毎年一定の品質が要求されますから 一つの産地で純米酒を作るのはリスクを伴うでしょう
なお日本酒の柱造りと同様に ワイン醸造でもアルコール添加の技術はあります マディラワイン・シェリー・ポルトワインは 代表的な酒精強化ワインです

フランスワインのヴィンテージは 結局のところ権威付けであり差別化です 商業主義の表れといえます AOCやソムリエだとかネゴシアンなんかもそうです フランス人の商売上手なところです
日本酒の純米信仰や 大吟醸酒の過剰な精白度競争も 同様に商業主義のような気がします ヴィンテージはなくとも 希少価値を演出しプレミアムを付けて売る例はあります
ワインの世界でも ビオワインだのオーガニックワインだのと 新たな差別化が図られているようです 星座の運行に基づいて醸造するとか言ってますから これも純米酒信仰に近いのかもしれない

精米歩合はどうやって測ると思いますか 精米機の糠箱から取り出す糠の重量で計算します 100kgの玄米を投入すれば糠の重量が50kgになった時点で50%精米となります 精米の熱で水分が飛んだり糠の粉が飛散することも考慮に入れ タイミングを見て精米機を止めます
大吟醸酒で酒米の精白度が競われています 大吟醸は精米歩合50%以下ですが 磨けばいいというものでないのです 30%台・20%台に意味があるとは思えません とくに精米歩合が低いほど密度の粗い部分が多くなり 砕米など無効精米は増えます[04] … Continue reading

ダシの文化

1960年代にチャイニーズ・レストラン・シンドロームという言葉がありました 中華料理に大量に使われる化学調味料が 人体に影響を及ぼすという説です
医学的に証明されてはいないようですが チャイニーズレストランが世界中に広まったことと関連しているのでしょう

2013年和食がユネスコのお墨付きをもらったといって 日本では官民あげて喜びました 他からの評価に一喜一憂している姿は 自国の食文化に自信がないからです これも舶来崇拝の裏返しの姿です
評価されたのはダシ味だそうです 甘・辛・酸・苦・塩の五味に加えるべき第六の味だとか 味の素がいう「うま味」は昆布ダシの主成分グルタミン酸です

世界中に広まっていた中華料理に代わり 和食レストランがヨーロッパを中心に見られるようになりました しかし実態は中国人の経営になる 日本食もどきの紛い物が大半でした
フランス人と並んで中国人も大変商売上手です しかも柔軟な発想で 別に自国料理にこだわることはない 儲かると思えば何でも取り入れます
そのうえ 今まで大量に使っていた化学調味料は ダシ味なので 日本料理に転換するのは訳もないことです

ダシ味はもちろん日本の大切な食文化です でも鰹節ダシが正統などということはない 先に書いた正月料理の福島「こづゆ」は 干し貝柱のダシが特徴です
それにダシの素といって売られているのは 鰹節製造工程で出る煮熟の煮汁が原料ですし 多店舗展開の有名料理店では その店の味を再現した 専用ダシの素が使われているという話もあります[05] … Continue reading

和食=ダシ味となり いまや本国日本も何でもダシ味になってしまいました 和食は味を加えるのでなく 引き算の技といわれます 素材の味を引き出すという和食の伝統は失われてしまうのでしょうか
料理に限らず 減塩をうたう梅干しや漬物などの塩蔵品がダシ味になってきました 塩によって熟成される味が忘れられそうです 甚だしいのは煎茶にまで化学調味料が使われることがあったほどです[06] … Continue reading

「味の素」の瓶を見かけることは少なくなりましたが 味の素の売上は落ちていない 加工食品にはほとんど化学調味料が使われているからです それらも(うま味調味料)ダシ味と言い換えています[07] … Continue reading
塩蔵品は本来保存のためです 加えて塩が馴れたころ新たな旨味が生み出されます 健康的な(?)減塩になったため 味を補う目的で人工ダシ味を加えるようになりました それだけならまだしも 保存料・防腐剤まで必要になってきます まったくもって本末転倒です

註釈

註釈
01 一体この連中は何を意図して こんな悪意に満ちたフェイク情報を流すのでしょう 日本文化を卑しめようとするのは単に舶来崇拝なのかな ワインをやたら崇めていますが おフランスにひれ伏している?
02 美味しんぼはろくに取材もしないで フェイクな情報をもっともらしく書くようです ワインは添加物を使わないとか 市販のマヨネーズが植物油と卵と酢と食塩だけで作られるとかです どんな文献を参考にしたのか すべて事実無根デタラメです ワインは酸化防止剤を始めとして添加物だらけです
03 厳密な意味でのヴィンテージは単年度産のものですが ワインは品質を均等にするため通常ブレンドして瓶詰めされます 収穫年度だけでなく多品種をブレンドしたり 他の土地で取れたものをブレンドするのが普通です 日本酒の桶買いと同じことをやっているわけです
04 砕米は要するに米粉(みじん粉)ですから 白糠になってしまいます 糠の重量で精米度を測るので 見かけ上の精白度に影響します また米粒が小さいほど麹菌の菌糸が 中心にまで入ってしまいがちです 過剰な精白は本来の吟醸づくりとかけ離れたものです
05 この頃の人工調味料の進化は凄まじいもので 本物より本物らしい味を作れます たとえば日本酒エッセンスなんかは 銘柄ごとの違いまで作り分けています(日本酒風味のケーキに本当の日本酒を使ったら 燗冷ましの出来損ないになるだけです)
本物よりチョッピリよく描く似顔絵と同じで 特徴を良い方向にデフォルメするのではないですか 実物とそっくりに描くと似ていないと言われてしまいます お椀の蓋を開けたら お出しの香りがプーンと なんかそうだと思います
06 夏目漱石が初めて玉露を飲んだ感想を書いていますが 爽やかで涼しい味だったそうです 昭和50年代から茶畑に窒素肥料を大量に使うようになりました アミノ酸ことにグルタミン酸の含有を増やすためです お茶に旨味が要求されるようになり まるで出し味のような煎茶や玉露がもてはやされたのです ついに味の素を添加した煎茶が流通することになりました
07 ついにダシがうまい煎餅まで現れる始末です タンパク加水分解物をまぶした(魔法の粉ですね) 亀田のハッピーターンあたりが嚆矢かもしれません そういう意味では亀田製菓さん先見の明があった
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正月

正月料理

正月料理といえるのは「雑煮」です 他のものと違い雑煮だけは食べると言わず祝うと言います 歳神様に供えた下がり物をいただく共食ですから 特別な言い方をします
今は雑煮祝いという季語にのみ残る言葉となりました 関東の雑煮が醤油仕立てになったのは近年のことです お江戸でも雑煮は味噌仕立てと物の本にあります 具材はよく分かりません 小松菜は江戸初期からあったようです[01] … Continue reading

おせちは重箱に詰めるものでなく 祝い膳に平椀(ひら・おひら)で出される煮染めを言います 周防では煮染めを大平と呼び 祝い膳に欠かせない料理です お平が付くとは豪華・贅沢な膳を言い お平に盛るのは鳥肉等と根菜類の煮物です のっぺい・こづゆも同様おせち料理です 会津では今も「こづゆ」に正しく平椀を用いています[02] … Continue reading
箱に詰めて重ねておくのは「喰積(くいつみ)」です これは祝い膳(おせち)ではありません ごまめ・昆布巻き・卵焼き・きんとん・黒豆・数の子など 保存のきくものを三が日の間取り分けて食べます 来客などにも振る舞いました 1段の重箱に黒豆2段の重箱に数の子など 一つの箱に一品ずつ詰めるものです

江戸で田作り(ごまめ)は祝い膳に上ったようです 祝い膳のあと御目見以上の旗本は日の出前に登城しました 城に上がらない者は上司の屋敷へ年始に行きます 上司は留守ですから玄関先で賀詞(賀状)を置いて帰ります
武家でない町人の正月祝いは大晦(おおつごもり)なので歳末も新年も一緒です 氏神や鎮守社で氏子が籠もります これを簡略化したのが初詣・2年参りですね 寺に初詣したり除夜の鐘は 仏教行事と中国由来の年神さまが一緒になったものと思われます

節会(せちえ)の行事は宮中や公家の間で行われていました それぞれに料理もありました 1月1日は菱葩餅 3月3日桃の節句は菱餅 5月5日端午の節句は粽 7月7日素麺 9月9日菊酒 などなど その風が庶民にまで広まったのでしょう[03] … Continue reading
京以外の地方では年越し魚(歳取り魚)として 塩鮭・塩鰤等が用いられました 節会の料理とは違い 土地土地の氏神様に供えたのが始まりです そのお下がりを雑煮として神と共食します 越後の雑煮に鮭が入るのは古来の名残です

重箱は祝膳に使わない

身近な人に聞いてみたところ 正月に餅を食べるのは共通していても 子供のころ重箱に入った「おせち」はなかったと言います 私もそんなものは記憶にない 奥州では正月料理として ずんだ餅くるみ餅えび餅など5〜6種類の様々な餅をいただくそうです 雑煮に餅が入るのはいつ頃からか 寡聞にして知りません[04] … Continue reading

今日見られる おせち料理と称した重箱に詰めた形は 京都あたりの料理屋さんが年末 お得意先に配ったのが始まりです(届けるとき箱詰めにしますが 折詰では正月らしくないので 喰積になぞらえて重箱に詰めたのでしょう 伝統的なものでもなんでもないから 中華風・洋風といったいろんな料理を詰めます)[05] … Continue reading 一般の家庭でこのようなことは行わなかったし お節は煮染め・のっぺい・コヅユであって 重箱なんかに詰めません[06] … Continue reading

十五日正月、成人式

外来の歳神様を迎えた時から1月1日が正月とされました 年神様はその名が示すように暦の神です[07] … Continue reading 古来の正月行事は どんど焼(左義長・塞の神)・なまはげ・鳥追いなどでした これらはいずれも農事祭で 新年最初の満月の夜から朝(十五日正月)に行われました 農業を司る月の神様の祭りです[08] … Continue reading
十五日正月にはナマコ餅(寒餅)を切った掻餅を焼いたり 小豆粥・七種粥[09]七種粥を人日の節句1月7日に炊くというのは 七に掛けた語呂合わせですを炊きます 元々は春を迎える冬至祭(火祭)であったろうと推測します 粥は木や柱に供える儀式がありました また木の枝に餅を飾る餅花・成らせ餅の行事も広く行われていました[10] … Continue reading

すべて言い伝え伝承であり 文献に残るものではありません そのためか十五日正月(小日正月・女正月とも言われます)の行事は 明治になってから軽んじられる傾向がありました 神社神道より古い慣わしなので[11] … Continue reading明治政府の国家神道制度にそぐわなかったのです
さらに昭和大戦敗戦後に十五日正月を祝日とした時 「成人の日」と名付けました 「こどもの日」や「としよりの日」を作ったので その関連ということかと思います 元服云々は役人らしいデタラメな後付けの理由です[12] … Continue reading

埼玉県蕨町の青年団団長が 成人=選挙権であることに着目し 二十歳になった男女を集め青年祭[13] … Continue readingなるものを開催しました この団長はのちに蕨市長になっています[14]青年団出身の政治家は他にも数多くいます もともと政治活動が主体の組織です これが合法的な事前運動と評判を呼び 全国各地の自治体で成人式が行われるようになったのです[15] … Continue reading
その風潮を追認する形で十五日正月を成人の日としました こうやって正月行事とはまったく無縁の祝日として 成人の日が制定され成人式が定着しました さらに日にちが変更され[16] … Continue reading 古来よりの習わしは失われていきます

かつての祝祭日はことごとく祝日と言い換えられ 本来の意義は忘れられてしまいました 祭事が大切なのです 諸外国も全てそうです 農事祭がキリスト教に関連付けられ 祝われています[17] … Continue reading
占領政策から敗戦後の日本の祝祭日は単なる休日とされ(一種の宗教弾圧です) しかも次々と理屈をつけて増やし 諸外国の倍くらいとなりました[18]よく知らないのですが 諸外国でもナショナルホリデーは … Continue reading

註釈

註釈
01 醤油が使われるようになったのは江戸中期以降です それまでの澄まし汁は 味噌の上澄みを使ったり生垂れを使う また仕立てた汁の上澄みのみを用いたものを言います 雑煮は古来よりの正月料理ですから 醤油が一般的になった江戸末期でも味噌仕立てだったのでしょう
02 鳥肉と根菜類の煮染めが 鳥肉の代わりにコンニャクや麩を用い 汁沢山なこづゆとなりました その汁にトロミをつけたのがノッペです とろみは小麦粉や里芋の粘り 葛を引く地域もあるかもしれない 加賀は贅沢なところなので 鳥肉を主にした治部煮ですね 平に盛るかどうかは知らない
03 菱葩餅(花びら餅)は 枕草子に新年歯固めの儀で鏡餅云々とあるように 鏡を模した丸く平たい餅を二つ折りにしたものです 今のゴーダ・チーズのような円盤型は 鏡餅ではなく備餅と言っていました 備餅(供え餅)は搗餅ではなく煉餅だったと思います 鏡餅は円形で鏡のような餅です 太陽を模したものではないか 望月という言葉もあります 備餅が古来の形で月に供えていたのかもしれない
菱餅は古代には菱の実の餅だったでしょう 菱形の三色は江戸時代以降です 粽(ちまき)は季節がら腐敗防止のため 餅などを笹で包んだもの 越後では今も糯米の三角粽を作ります(柏餅なんぞ食べません) 京都の葛を使った粽は菓子ですが 戦国時代に京の治安が乱れ 朝廷でも米不足となったための代替品でした 古来からの伝統的なものではありません
04 奈良や熊野では 雑煮の餅に黄粉を付けていただく風が残ります 黄粉は大豆から作ります 芋・豆・米その他の穀類文化(縄文)が伝えられているものと思われます
喰積の昆布巻(昆布+塩引や身欠鰊)・数の子・スルメ・黒豆などは乾物・塩漬けの保存食で 縄文時代から食されているものが多い おそらくこれが古来からのお供えです 縁起担ぎから始まったなんて後付けの理由に過ぎません マメに生きるだのヨロコンブなんて無理やりなこじつけです お節の煮染めに使う鳥肉や根菜類もすべて冬季にある食材です
05 重箱は保存用や持ち運び(弁当)のための容器です 本来祝い膳には使いません 似たようなもので松花堂弁当というのがあります 絵の具箱を岡持ちのように見立てたもので 吉兆という新興の料理屋が変わった趣向でと 客に出したのが始まりです
06 明治36年の村井弦斎作「食道楽」に お節を重箱に詰めるという語が見えます お江戸の食積と京だか薩長だかの風が ごちゃ混ぜになったのでしょうか 明治維新により廃仏毀釈にとどまらず 伝統行事も姿を変えてしまいました とくに東京が顕著です 会津が頑なにコヅユの伝統を守るのと対照的です
07 歳徳神という言い方は江戸中期以降のようです 神とはいいながら寺で祀ったりしていました 七福神(これも外来の神)と一緒で 由来がよく分からない習俗ですね
08 1月1日が正月になっても日没が1日の終わりなので 正月の行事は大晦日の大晦(おおつごもり)です クリスマスの行事が12月24日夜なのも同じ理由です 元旦に初日の出を拝むという風習はなかったようです 夜明け前に若水を汲みますから それが変形したのでしょうか
09 七種粥を人日の節句1月7日に炊くというのは 七に掛けた語呂合わせです
10 子供のころ餅を木に付けたこともあるし 餅粉を最中の皮のように焼いたものを 木の枝に挿した記憶もあります
世界的に似た行事は行われていました キリスト教が布教された地域では この風習がクリスマスツリーとなります
11 月の満ち欠けが農事歴の基礎となります インカの古代農法では収穫は満月の翌朝とされたそうです 月読命(海洋・農業神)→天照大御神(米作・太陽神)と変遷し 暦法が伝わって以来 1月1日に歳神様を祀るようになりました 本来の農事祭は民間伝承(女・子供が主)として 月への信仰の形で縄文以来伝わっていたのです
12 十五日正月と元服の儀はなんの関係もありません 元服=烏帽子祝=官途成のことです 正月に祝うなんて決まりも習慣もない それまでの幼名から大夫や左衛門・右衛門・尉といった官名を名乗ります
13 蕨市ではいまでも成年式と呼びますが 青年も成年も同じ読みなので 他の自治体では成人式としたのでしょう 青年団の関わりを隠蔽する意図もあります
14 青年団出身の政治家は他にも数多くいます もともと政治活動が主体の組織です
15 荒れる成人式は 選挙目的の胡散臭い意図を敏感に感じ取っているからです GHQの指令かなんか分かりませんが 正月行事とはなんの関係もない祝日を作り 古来の大切な行事をおろそかにする 時の政府役人への不信の念が形を変えたものでしょう
16 成人の日と名付けた時点で 満月を祝う意味が忘れられ 15日である必要もなくなったのです 日本の伝統を抹消し歴史を否定する GHQの宣撫工作から続く成人の日の正体です
17 十五日正月が女正月と言われるように 農事祭は女子供が主体になります(作物の実りは出産と同じこととご先祖様たちも認識していました) 鳥追で各家を子供たちが回るとお菓子をもらえます クリスマスプレゼントも同じことです
作物も子供も自然(神様)からの授かりものと考える 敬虔な心は世界共通です イースターの祭りも死と再生(刈入れと種蒔き)を表す行事です これを無理やりキリストの復活としましたが イースターといえば卵 卵は出産の象徴ですね
18 よく知らないのですが 諸外国でもナショナルホリデーは 宗教・習俗関連の行事(祭日)と 独立記念日のような国家的イベントを祝う(祝日)ものだと思います
海の日だとか山の日だとか成人の日だとか こじつけた意味不明な祝日はないでしょう 日本は祝祭日が祝日になり ついには国民の休日とかいう 訳のわからんものを作る
ホリデーの語源はholy day(聖なる日)です べつに宗教でなくても 伝統行事を祝うことに意義があるのです マッカーサーの亡霊にまだ惑わされているのか
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渤海と稲作

7世紀から10世紀にかけて 日本海の対岸に渤海という国がありました 唐と新羅の滅亡に合わせるかのように 歴史から消えていった国です[01] … Continue reading

地域からいって構成民族はツングース系(満州人)と思われます 後の満州国と重なる部分も多かったようですが 詳しい成り立ちは不明です
旧・新唐書などに記載はあります これは後代に書かれたもので かなりいい加減です 位置も範囲もはっきりしません

日本との関係は深く 公式の使節派遣(日本への来貢の形)だけでも年間十数回あったようです そのほかにも貿易・ 交流していたでしょうから 大変に緊密な間柄だったのです おそらく周辺国から圧迫を受けており 日本の経済力・軍事力を当てにしていたと考えて間違いありません[02] … Continue reading

朝鮮人は古代朝鮮政権のひとつだといい ソ連は連邦を形成する少数民族だったと唱え 中国は当時の一地方政権にすぎないと主張します
すべて根拠のない手前勝手な言い分です 古来より日本と深い関係のある渤海と満州国の正当性を貶める為にする議論にすぎません
例えばハルビンなどの地名は 中国語(漢族)とは縁のないものです 樺太から満州(渤海)の言語の名残でしょう

中国の文献にありながら信用できないものとして 思い浮かぶのは魏志倭人伝です 妙にありがたがっていますが 11世紀の公文書でも周辺国に関して適当に書いているのです 3世紀に成立したといわれる魏志倭人伝に書かれたことを 一字一句真実として受け取るとはどういうつもりなんでしょう 中国の公式文書(と称するもの)が正統で 日本の言い伝え・伝承など考慮に値しないという態度が学問ですか
何しろ白髪三千丈の国なので数字はまったく当てになりません 通読したわけじゃないので何ともいえませんが 三国志自体かなり偏向した記述らしいですし 中国からみて辺境の国のことは殊更に卑しめて書いています 卑弥呼だの邪馬台国といった文字には歪曲する意図があからさまです

稲作に関して興味深いことがあります 米と魚(一部獣肉)を漬け込んだ ナレ寿司は東南アジアから台湾 日本列島そして渤海沿岸地域に広がっているのです 東岸を除いて朝鮮半島にはありません
日本海側沿岸に今も伝わる カブラ寿司・ハタハタ寿司・ニシン漬けなど 米麹に漬け込む飯寿司もナレ寿司のうちに含まれるでしょう(熟鮓は魚を食べるもの 飯寿司は魚と共に米を食べます) また魚醤が使われるのも共通しています
これを見ても 稲作が海路で伝わった(陸づたいに朝鮮半島からではない)こと 古代に日本海を仲立ちとして日本と渤海地域との交流が盛んであったことが窺えます 対馬暖流とリマン寒流を利用すればこの地域を廻航できます

日本列島西岸を中心にして 朝鮮半島東岸を結び渤海沿岸と樺太を含む 海路を介した環日本海文化圏があったのかもしれません 内陸からの川が海に流れ込む沿岸地域で漁労と稲作を営む 中国の史書で倭人として書かれる人たちです[03] … Continue reading
7世紀の渤海成立以前から関係が築かれていたのではないでしょうか 能登半島あたりで造船が盛んだったとの記録も見られるようです 渤海との交流に使われた比較的大型の船です
渤海で米作りが行われていたかはわかりません あったとしても寒いところですから弥生の水稲ではなく縄文の陸稲ではないですか あるいは交易品として米が流通していた可能性も高いのです

註釈

註釈
01 この頃は朝鮮半島と渤海(満州)で華麗な文化文明が栄えていました しかし伝統として残ることなく そのとき限りで途絶えました 我国の皇統のように 文化の中心たる存在がなかったためです
02 空海が学問僧として唐に渡った時 かねてから知り合いだった渤海の僧と出会い 懐かしかったと書いています その僧は日本に来たことがあるわけです 優秀だったので同じく唐に留学したのでしょう
03 倭寇・和冦と呼ばれたのは 環日本海から東・南シナ海で交易に従事した 冒険商人の伝統をひく人たちです 渤海や東南アジアでは通常の交易をしていました しかし中国・朝鮮半島では敵対していて海賊呼ばわりです 中国は皇帝が交易の利益を独占していて 私貿易を許さなかったからです
倭人の倭は大和言葉の〈わ〉に文字を当てはめただけです わの意味合いとしては我・和・輪あたりでしょう 倭の字は従順な貌や恭しい態度といった意味があります とすると倭寇=海賊という呼称は似つかわしくないですね 大和以前は倭と書いて(やまと)と読んでいました
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