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タグ: 縄文

正月

正月料理

正月料理といえるのは「雑煮」です 他のものと違い雑煮だけは食べると言わず祝うと言います 歳神様に供えた下がり物をいただく共食ですから 特別な言い方をします
今は雑煮祝いという季語にのみ残る言葉となりました 関東の雑煮が醤油仕立てになったのは近年のことです お江戸でも雑煮は味噌仕立てと物の本にあります 具材はよく分かりません 小松菜は江戸初期からあったようです[01] … Continue reading

おせちは重箱に詰めるものでなく 祝い膳に平椀(ひら・おひら)で出される煮染めを言います 周防では煮染めを大平と呼び 祝い膳に欠かせない料理です お平が付くとは豪華・贅沢な膳を言い お平に盛るのは鳥肉等と根菜類の煮物です のっぺい・こづゆも同様おせち料理です 会津では今も「こづゆ」に正しく平椀を用いています[02] … Continue reading
箱に詰めて重ねておくのは「喰積(くいつみ)」です これは祝い膳(おせち)ではありません ごまめ・昆布巻き・卵焼き・きんとん・黒豆・数の子など 保存のきくものを三が日の間取り分けて食べます 来客などにも振る舞いました 1段の重箱に黒豆2段の重箱に数の子など 一つの箱に一品ずつ詰めるものです

江戸で田作り(ごまめ)は祝い膳に上ったようです 祝い膳のあと御目見以上の旗本は日の出前に登城しました 城に上がらない者は上司の屋敷へ年始に行きます 上司は留守ですから玄関先で賀詞(賀状)を置いて帰ります
武家でない町人の正月祝いは大晦(おおつごもり)なので歳末も新年も一緒です 氏神や鎮守社で氏子が籠もります これを簡略化したのが初詣・2年参りですね 寺に初詣したり除夜の鐘は 仏教行事と中国由来の年神さまが一緒になったものと思われます

節会(せちえ)の行事は宮中や公家の間で行われていました それぞれに料理もありました 1月1日は菱葩餅 3月3日桃の節句は菱餅 5月5日端午の節句は粽 7月7日素麺 9月9日菊酒 などなど その風が庶民にまで広まったのでしょう[03] … Continue reading
京以外の地方では年越し魚(歳取り魚)として 塩鮭・塩鰤等が用いられました 節会の料理とは違い 土地土地の氏神様に供えたのが始まりです そのお下がりを雑煮として神と共食します 越後の雑煮に鮭が入るのは古来の名残です

重箱は祝膳に使わない

身近な人に聞いてみたところ 正月に餅を食べるのは共通していても 子供のころ重箱に入った「おせち」はなかったと言います 私もそんなものは記憶にない 奥州では正月料理として ずんだ餅くるみ餅えび餅など5〜6種類の様々な餅をいただくそうです 雑煮に餅が入るのはいつ頃からか 寡聞にして知りません[04] … Continue reading

今日見られる おせち料理と称した重箱に詰めた形は 京都あたりの料理屋さんが年末 お得意先に配ったのが始まりです(届けるとき箱詰めにしますが 折詰では正月らしくないので 喰積になぞらえて重箱に詰めたのでしょう 伝統的なものでもなんでもないから 中華風・洋風といったいろんな料理を詰めます)[05] … Continue reading 一般の家庭でこのようなことは行わなかったし お節は煮染め・のっぺい・コヅユであって 重箱なんかに詰めません[06] … Continue reading

十五日正月、成人式

外来の歳神様を迎えた時から1月1日が正月とされました 年神様はその名が示すように暦の神です[07] … Continue reading 古来の正月行事は どんど焼(左義長・塞の神)・なまはげ・鳥追いなどでした これらはいずれも農事祭で 新年最初の満月の夜から朝(十五日正月)に行われました 農業を司る月の神様の祭りです[08] … Continue reading
十五日正月にはナマコ餅(寒餅)を切った掻餅を焼いたり 小豆粥・七種粥[09]七種粥を人日の節句1月7日に炊くというのは 七に掛けた語呂合わせですを炊きます 元々は春を迎える冬至祭(火祭)であったろうと推測します 粥は木や柱に供える儀式がありました また木の枝に餅を飾る餅花・成らせ餅の行事も広く行われていました[10] … Continue reading

すべて言い伝え伝承であり 文献に残るものではありません そのためか十五日正月(小日正月・女正月とも言われます)の行事は 明治になってから軽んじられる傾向がありました 神社神道より古い慣わしなので[11] … Continue reading明治政府の国家神道制度にそぐわなかったのです
さらに昭和大戦敗戦後に十五日正月を祝日とした時 「成人の日」と名付けました 「こどもの日」や「としよりの日」を作ったので その関連ということかと思います 元服云々は役人らしいデタラメな後付けの理由です[12] … Continue reading

埼玉県蕨町の青年団団長が 成人=選挙権であることに着目し 二十歳になった男女を集め青年祭[13] … Continue readingなるものを開催しました この団長はのちに蕨市長になっています[14]青年団出身の政治家は他にも数多くいます もともと政治活動が主体の組織です これが合法的な事前運動と評判を呼び 全国各地の自治体で成人式が行われるようになったのです[15] … Continue reading
その風潮を追認する形で十五日正月を成人の日としました こうやって正月行事とはまったく無縁の祝日として 成人の日が制定され成人式が定着しました さらに日にちが変更され[16] … Continue reading 古来よりの習わしは失われていきます

かつての祝祭日はことごとく祝日と言い換えられ 本来の意義は忘れられてしまいました 祭事が大切なのです 諸外国も全てそうです 農事祭がキリスト教に関連付けられ 祝われています[17] … Continue reading
占領政策から敗戦後の日本の祝祭日は単なる休日とされ(一種の宗教弾圧です) しかも次々と理屈をつけて増やし 諸外国の倍くらいとなりました[18]よく知らないのですが 諸外国でもナショナルホリデーは … Continue reading

註釈

註釈
01 醤油が使われるようになったのは江戸中期以降です それまでの澄まし汁は 味噌の上澄みを使ったり生垂れを使う また仕立てた汁の上澄みのみを用いたものを言います 雑煮は古来よりの正月料理ですから 醤油が一般的になった江戸末期でも味噌仕立てだったのでしょう
02 鳥肉と根菜類の煮染めが 鳥肉の代わりにコンニャクや麩を用い 汁沢山なこづゆとなりました その汁にトロミをつけたのがノッペです とろみは小麦粉や里芋の粘り 葛を引く地域もあるかもしれない 加賀は贅沢なところなので 鳥肉を主にした治部煮ですね 平に盛るかどうかは知らない
03 菱葩餅(花びら餅)は 枕草子に新年歯固めの儀で鏡餅云々とあるように 鏡を模した丸く平たい餅を二つ折りにしたものです 今のゴーダ・チーズのような円盤型は 鏡餅ではなく備餅と言っていました 備餅(供え餅)は搗餅ではなく煉餅だったと思います 鏡餅は円形で鏡のような餅です 太陽を模したものではないか 望月という言葉もあります 備餅が古来の形で月に供えていたのかもしれない
菱餅は古代には菱の実の餅だったでしょう 菱形の三色は江戸時代以降です 粽(ちまき)は季節がら腐敗防止のため 餅などを笹で包んだもの 越後では今も糯米の三角粽を作ります(柏餅なんぞ食べません) 京都の葛を使った粽は菓子ですが 戦国時代に京の治安が乱れ 朝廷でも米不足となったための代替品でした 古来からの伝統的なものではありません
04 奈良や熊野では 雑煮の餅に黄粉を付けていただく風が残ります 黄粉は大豆から作ります 芋・豆・米その他の穀類文化(縄文)が伝えられているものと思われます
喰積の昆布巻(昆布+塩引や身欠鰊)・数の子・スルメ・黒豆などは乾物・塩漬けの保存食で 縄文時代から食されているものが多い おそらくこれが古来からのお供えです 縁起担ぎから始まったなんて後付けの理由に過ぎません マメに生きるだのヨロコンブなんて無理やりなこじつけです お節の煮染めに使う鳥肉や根菜類もすべて冬季にある食材です
05 重箱は保存用や持ち運び(弁当)のための容器です 本来祝い膳には使いません 似たようなもので松花堂弁当というのがあります 絵の具箱を岡持ちのように見立てたもので 吉兆という新興の料理屋が変わった趣向でと 客に出したのが始まりです
06 明治36年の村井弦斎作「食道楽」に お節を重箱に詰めるという語が見えます お江戸の食積と京だか薩長だかの風が ごちゃ混ぜになったのでしょうか 明治維新により廃仏毀釈にとどまらず 伝統行事も姿を変えてしまいました とくに東京が顕著です 会津が頑なにコヅユの伝統を守るのと対照的です
07 歳徳神という言い方は江戸中期以降のようです 神とはいいながら寺で祀ったりしていました 七福神(これも外来の神)と一緒で 由来がよく分からない習俗ですね
08 1月1日が正月になっても日没が1日の終わりなので 正月の行事は大晦日の大晦(おおつごもり)です クリスマスの行事が12月24日夜なのも同じ理由です 元旦に初日の出を拝むという風習はなかったようです 夜明け前に若水を汲みますから それが変形したのでしょうか
09 七種粥を人日の節句1月7日に炊くというのは 七に掛けた語呂合わせです
10 子供のころ餅を木に付けたこともあるし 餅粉を最中の皮のように焼いたものを 木の枝に挿した記憶もあります
世界的に似た行事は行われていました キリスト教が布教された地域では この風習がクリスマスツリーとなります
11 月の満ち欠けが農事歴の基礎となります インカの古代農法では収穫は満月の翌朝とされたそうです 月読命(海洋・農業神)→天照大御神(米作・太陽神)と変遷し 暦法が伝わって以来 1月1日に歳神様を祀るようになりました 本来の農事祭は民間伝承(女・子供が主)として 月への信仰の形で縄文以来伝わっていたのです
12 十五日正月と元服の儀はなんの関係もありません 元服=烏帽子祝=官途成のことです 正月に祝うなんて決まりも習慣もない それまでの幼名から大夫や左衛門・右衛門・尉といった官名を名乗ります
13 蕨市ではいまでも成年式と呼びますが 青年も成年も同じ読みなので 他の自治体では成人式としたのでしょう 青年団の関わりを隠蔽する意図もあります
14 青年団出身の政治家は他にも数多くいます もともと政治活動が主体の組織です
15 荒れる成人式は 選挙目的の胡散臭い意図を敏感に感じ取っているからです GHQの指令かなんか分かりませんが 正月行事とはなんの関係もない祝日を作り 古来の大切な行事をおろそかにする 時の政府役人への不信の念が形を変えたものでしょう
16 成人の日と名付けた時点で 満月を祝う意味が忘れられ 15日である必要もなくなったのです 日本の伝統を抹消し歴史を否定する GHQの宣撫工作から続く成人の日の正体です
17 十五日正月が女正月と言われるように 農事祭は女子供が主体になります(作物の実りは出産と同じこととご先祖様たちも認識していました) 鳥追で各家を子供たちが回るとお菓子をもらえます クリスマスプレゼントも同じことです
作物も子供も自然(神様)からの授かりものと考える 敬虔な心は世界共通です イースターの祭りも死と再生(刈入れと種蒔き)を表す行事です これを無理やりキリストの復活としましたが イースターといえば卵 卵は出産の象徴ですね
18 よく知らないのですが 諸外国でもナショナルホリデーは 宗教・習俗関連の行事(祭日)と 独立記念日のような国家的イベントを祝う(祝日)ものだと思います
海の日だとか山の日だとか成人の日だとか こじつけた意味不明な祝日はないでしょう 日本は祝祭日が祝日になり ついには国民の休日とかいう 訳のわからんものを作る
ホリデーの語源はholy day(聖なる日)です べつに宗教でなくても 伝統行事を祝うことに意義があるのです マッカーサーの亡霊にまだ惑わされているのか
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竹と月と芋

芋名月・栗名月・豆名月という言葉がありますが 米名月はない 米と月は結びつけられていないのです[01] … Continue reading 月見は芋や豆それに栗といった作物を供えたものです それも必ず竹で作った笊や箕に盛りました 檜の三方に米の団子を供えることはなかったのです

竹取物語=かぐや姫のお話は竹がテーマになっています かぐや姫は三月で大きくなります(筍のような早さ) 季節単位・年単位ではなく月単位の時間経過 その間稲藁のつぐらではなく竹の籠で育てられています
ただし竹取物語に芋はでてきません 今昔物語集版では月との関係さえありません 後段になって 実は月の世界の者と言い出すのも唐突すぎます もともとの話が変化していったのか幾つかの話が結びついたのか

今の月見は団子を三方に載せて供えます 月見団子の作り方は ご飯を蒸して芋と混ぜ つぶして里芋の形に丸め黄粉をまぶします 米が主となっているものの やはり芋と豆です(芋餅・芋団子として各地に伝わります) これは嵩増しではなく米文化と芋文化の融合を象徴している気がします

月を愛でる人たち(芋=縄文文化) 欠けを忌む人たち(米=弥生文化)の習合が 十五夜の月見の風習かもしれません そしてあらゆる祭礼が宵祭なのも 月の文化の名残ではないか(東北のねぷた かんとう なまはげ 各地の盆踊りや神楽)[02] … Continue reading

天皇陛下が月を見るときは見上げることをせず 水面に映る月を見ると聞きます かぐや姫のことを思い出してしまうから? 太陽神が主神で月の神は侍神ですから 見上げることを憚ったのでしょう(それにしては大嘗祭は夜に執り行われます)
銀閣寺(慈照寺)は月待山の麓にある月見のための館です それも池に映る月を楽しむものでした(内田百閒が描く松濱軒の大池月影が そんな感じなのでしょうか)
向月台は江戸末期に造られたそうですが 勝手にあのような造形を築くことは考えられず 類似のものは以前からあったでしょう 白砂に照り映える白銀の月明かりを愛でるものです 築山は室内から眺めるためにあります その上に登って月を見るなんて馬鹿なことはしません[03] … Continue reading
 
米作が中心の大和朝廷の神話(古事記)は太陽神の天照大神が中心です 日照と水は米作りに欠かせませんから 月読命の存在はじつに影が薄い この女神の名は月を読むで明らかに農業神です しかし米は司ってないのでしょう イモ類の原産地はジャングル(竹林?)の中なので直射日光を嫌います

太陽と月の大きな違いに満ち欠けがあります 欠けを忌む人たちにとって月は不吉だったのかもしれません なにしろ日食にあれだけ大騒ぎしたのです 後の世でも日蝕の日は廃務といって 朝廷の全ての活動を停止したそうです 稲作民が優勢になったのは主食の保存性のためかと見ますがいかがでしょう

かぐや姫(なよたけ姫)が月に帰るのは満月の時でした 車に乗ってと記載されていますが 空を飛ぶ乗り物は船ではないかと思います 各地で行われる祭礼の神輿が担ぎあげられ(宙に浮かぶ)揉み上げられるのも 船を表すような気がします 竹取翁に富をもたらしていますから豊穣の神様であって 天照大御神の食事を担当する豊受大神のことかもしれない

この神様は別名を屋船豊宇気姫命といい 羽衣伝説とも関係があるようです 船の文字が使われているのが興味深いですね 航海と漁業の神でもあるのでしょう
羽衣伝説の舞台は水辺ないし海岸となります 潮の満干は月が影響していて また月や星は海路の標でもあります 海の民と月の関係は深いものです

古事記・日本書紀は船に関する記述が多数あります 葦船なんかヘイエルダールのコンティキ号(たしか屋根を架けた形状です)が思い起こせます 日本人は海洋民族であったことの証左だと私は考えます
インカ文明の末裔であるペルーに昔より伝えられる農業暦で 収穫は満月の翌朝に行うというのがありました 満月は稔りを表し そして月見は稔の秋です

註釈

註釈
01 満月には月の兎が餅を搗いてると言われます 月の影の見方によると思いますが 臼と杵の形状は豎臼と竪杵です これは餅搗きではなく籾摺り用ですね
搗き餅が一般的になるのは 江戸中期以降です ところで兎は出雲神話に出てきます 民話にもよく登場します 月読命と関係があるのかもしれない
02 考えてみると太陽を拝む昼の祭礼というのはほとんど聞いたことがない 天照大神を頂点とする神話・民話も記紀以外にはないようだし どこかで歴史の断絶があったと思えます
03 銀閣寺は黒漆塗りです 仄かな月明かりに浮かぶ 銀色の向月台の姿を邪魔しないためでありましょう 立待月・居待月・寝待月 建物の中から月を見るのです かつては現在の建物の隣に 観月のための館があったといわれます 銀閣寺の銀は月明かりの意です
備前閑谷学校講堂の庭は花頭窓から眺めます 暗い室内の床は黒漆で塗られ 窓を通した庭の色彩が照り映えます 漆黒の空間に浮かぶ景色 この造形を何といったらいいか 窓に切り取られた風景を愛でる 他の国には見られない美意識です
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稲と芋の伝播は舟運

稲作技術が日本に伝来したという言い方はよくありません 木の実・草の実で飢えを凌いでいた未開の原日本人(縄文人?)に 大陸から(朝鮮半島経由で)進んだ文明がもたらされたと誤認させる意図があります 唯物史観[01] … Continue readingでしょうか 最初に理屈があり それに合わせてイベントを組み立てるという

人々は最初 食べ物に不自由しない南方で暮らしていたと思われます どのような理由か次第に北方へ移住して行きます そのときはタロイモ(里芋)の種芋を携えて行ったのでしょう いまでも里芋のことを「太郎芋」と呼ぶ地域があるそうです
その後に籾を携えて移住してきた人たちがあります 芋を主食とした人たちと争いがあったかもしれません しかし陸稲にしろ水稲にしろ稲作は朝鮮半島経由ではありません 籾を持って陸伝いに道なき道を北の地域へ行き それから南下したとは考えにくい
稲は日差しと水と温暖な気候が必要な南方の植物です 素直に考えて日本へは南から島伝いに船で渡ってくるでしょう そして沿岸に定着するはずです

古事記・日本書紀に「枯野・軽野」と呼ばれる船の記述があります これはおそらくアウトリガーの外洋カヌーです 沖縄サバニ船の先祖かとも思われますが不明です 東北地方にもサッパ(笹舟・小舟=サプネ?)という船がありますから 日本列島沿いに海路の交通があったはずです
湖南省あたりから種籾を担いで 満州・朝鮮半島経由の陸路で日本に来るなんて 絶対にない いずれにせよ稲を育てたこともなくカヌーを漕いだこともない学者には想像できないことです こんなことを唱える連中は田植えが後ろ向きに進むことも知らないでしょう

北方の島伝いに船で交易していた オホーツク文化があります 縄文前期の頃です 定住していましたが農耕はやっていなかったようです 千島列島から樺太を巡る オホーツク海南部で活躍した海洋民族でしょう
中心となるのは網走でした カムチャッカ半島北部(内陸)はトナカイ等の狩猟や遊牧ですね 交流はあったはずですから 船はエスキモーが使うような 軟式構造のシーカヤックかもしれません オホーツク文化とアイヌ文化の関連性はよくわかりません

沖縄のサバニ船と蝦夷が使った?イタオマチプの構造はよく似ています ともに船底を一本の木をくりぬいた丸木舟状のキールで形作り 側面に板を張り付けるハギ船と呼ばれるものです 津軽海峡のムダマハギ参照
沖縄から宗谷岬までカヌーで渡航する実験をした人がいます 一人が櫂で漕ぐだけで平均1日50キロ以上は進んだそうです 日本海流(黒潮)は秒速2メートルの速さです
古代の人たちは操船技術に優れていたでしょう キールがあればマストを立て帆も張れますから 天候に恵まれ海流に乗れば1日200キロも不可能ではなく そうすれば南方から日本に到着するのに1週間か十日ぐらいかと想像します 島伝いならそれほど困難な航路でもなさそうです[02] … Continue reading

芋を運んだ古代の外洋船は丸木舟構造ではなく 竹で骨格を作り獣皮や樹皮で外殻を覆った シーカヤックではなかったか また東南アジアには内海用ですが竹籠で作った船もあるようです(コールタールで防水していた) これらは軟式構造のため丸木底舟に比べて船脚は早くありません
おそらくカヤックで来たのは石器時代から縄文前期のことです 暖流に乗ってやって来ました 縄文時代には漆が使われていますから 後期には竹釘と漆で丸木に板を接着したハギ舟で 稲籾を運んだかも知れません イタオマチプは板を紐で継いだ縫い合わせ船ですから 中間の縄文中期あたりでしょうか

最初芋を携えてきた人たちは竹も利用していました 竹細工を生業とする竹取翁はこの系統の子孫です 竹取翁物語は藤原氏になぞらえていますが 稲作民の大和朝廷に月の世界の人(芋文化?)が対抗する内容です 竹取翁物語に「月の顔見るは忌むこと」とあります 下界の汚れた食べ物云々は米のことですね多分 とすると月見とは?

註釈

註釈
01 唯物史観って皇国史観の裏返しと見ていいでしょう 日本の文化・歴史の中心に天皇がありました この事実(ファクト)を片一方は王者になぞらえ もう片方は覇者になぞらえたという感じ どちらも自分に都合のいいように 借り物の理屈を持ってきただけです(牽強付会というやつだが なぜか変換できない)
02 いかに海洋民族が遠目がきいたといっても 大海原で島影はほとんど視認できません 自らの位置を知り航路を確かめる術は 月と星の観測です 月読命は航海の神であったのです かぐや姫物語や羽衣伝説はこのことを伝えます
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