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タグ: 縄文

古代びとの信仰

自然神信仰

吾が国において 畏敬・崇拝の対象になったのは 美しい風土ときに厳しい自然そのものではなかったか 自然とは無常です 移ろい行くものです 繰り返すから永遠
お釈迦さまの説いた仏教は 穢土(此の世)を逃れ 浄土(理想郷)を目指すものでした しかし吾が国人は 美しい国土に浄土を観ました 現世を美しく思う浄土現前
花鳥風月 虫の声まで愛でるのが 日本人の心です 今ここにある たわい無いものが 尊く美しい[01] … Continue reading 現実逃避したり 我欲にとらわれないのが 和の習いなのです

仏教がいう穢土とはカースト制のことです 生まれながらに階級が定められるので 死をもってしか自由・平等は得られません[02] … Continue reading 一神教が生まれたのは過酷な砂漠です 限られた緑と水を部族間で争奪する世界 互いに闘い現実を克服するのが生きることです[03] … Continue reading
仏教は現実逃避であり一神教は戦う宗教と言えます 縄文時代の暮らしぶりは分かりません 日本の気候風土は比較的おだやかです そこに住む人たちは あるがままに穏やかな生活を送ってい 互いが争うことは少なかったでしょう

惟神の道とは 四季の巡りに委ねることかと思います あらゆる作物も漁撈も狩猟も すべて自然の恵みです 自然によって生かされていたのです 自然からの恵みに感謝し自然の災いを慰撫する 祈りと祭りが吾が国の人々の信仰でした
これが変化したのは水田でしょう 水稲米は陸稲に比べ収穫量が多いものの 治水のため大規模な土木工事が必要になります 米作りそのものも集団作業です 統べる者が現れ 水利を囲って諍いが起き ついに武装するに至ります[04] … Continue reading

人格神信仰

八岐大蛇を退治た素戔嗚尊は 川の流れを制し奇稲田姫を得ます 米作りの神です にもかかわらず高天原で田圃を壊したりしています 米作りの神は風雨を司る天候の神でもあります 雨風は稲作に欠かせないが過ぎれば暴風雨なのです 地上に追放されて 大宜都比売命から食物を分け与えられますが これを斬り殺してしまいます 食べることは穢きこと 生きることは命をいただくことです
縄文時代の動植物を象った生贄が次第に土偶の姿となり 大宜都比売命・保食神の人格神と繋がります 土偶は動植物から人格への過渡的形態です すなわち記紀で描かれるのは 自然神から動植物神そして人格神に変わったことの象徴と見ます 芽生えは生であり収穫は死です 大気都比売神は斬られ土偶は欠かれます 命は奪われて伝えられ繰り返されるのです

和国大乱を鎮める日女御子は縄文への回帰であったのか 私には「なよ竹のかぐや姫」と重なって見えるのですが 御門をも袖にする月の世界の人 月の光は武装した者を無力化します 最後に天の羽衣が登場します 衣・食・住といいます 衣が人の帰趨を決定するのです(旧約聖書・創世記では食が最初でしたか)[05] … Continue reading
羽衣伝説は海辺や川縁が舞台です また地上に留まった天女は豊受大神とされることが多い 竹取物語はいろいろな伝承が入り混じっていて とくに後段は阿弥陀三尊の御来迎に影響されているかもしれません とすると かぐや姫は穢土から浄土へと向かったことになります 月の世界は不老不死で四苦はない その代わり喜怒哀楽も情愛もない世界です 清浄であるが豊かとはいえません[06] … Continue reading

縄文と弥生の信仰

満月を愛でるのは実りの秋です 竹籠に盛って供えるのは芋と栗と豆です 三方に団子は江戸時代に入ってからのこと 竹取物語には月を見るは忌むことという件があります 稲作の神である太陽神と 他の作物や漁業の神である月の神との葛藤が伺えます[07] … Continue reading
あらゆる祭礼の本祭は宵祭の神楽です そして神の遷座があります 天の羽衣に着替え月に帰るかぐや姫の乗る御輿(車と書いてありますが 宇宙船でしょうね)は宙に浮かびます 祭礼の神輿は決して地面に置くことはありません

正月15日は小正月です すなわち新年最初の満月の日 古人は冬が明けて春を迎える火祭りを執り行いました どんど焼き・塞の神は縄文からの習いでありましょう 小正月・女正月といいますが(大正月という言葉はない?)新年の祝いは十五日正月でした[08] … Continue reading  縄文と弥生は八百万の神として 時には争いながらも 一万年以上の時を共に栄えてきたのです

おそらく縄文の昔からであろう 吾が国古来の信仰は現在でも民間行事の形で受け継がれています 雑煮・塞神・小正月・月見などなど 記紀が編纂され天津神と国神が系統づけられても 外来の仏教が取り入れられても 儒学が採用されても キリシタンの布教があっても 揺らぐことなく大和心として国人の裡に生き続けます

註釈

註釈
01 10世紀初めに遣唐使を廃したことにより 中国の影響を脱した 和の優美な王朝・宮廷文化が形成されました 源氏物語・枕草子・和泉式部歌集を頂点とする 雅な国風です 日本文化の担い手は女性でありました
鎖国政策によりキリシタン文化を排し 江戸時代に上質で多彩な庶民文化が花開きました このサブカルチャーは営々と受け継がれ 今日の漫画・アニメーション文化となっています
02 インドで仏教が普及しなかったのは根強いカースト制のためです(女性はカーストの枠外なので不可触賤民と同等とされます) 仏教は命あるものすべてが平等と説きます 釈迦と同時代の孔子が説いた儒教は 長幼の序・男尊女卑など 人は生まれながらに優劣があるとします この差別主義を敷衍すれば 中国人の選民思想・中華思想に繋がります
あらゆる衆生を救うとする仏教は インドのみならず中国でも受け入れ難かった 日本は階級・身分のない社会です だから仏教が受け入れられ繁栄したのです 日本が取り入れた大乗仏教は差別なく衆生を救うのを旨とします 女人禁制は儒教の影響を受けて後代(おそらく江戸時代)に言い始めたことです 尼寺・比丘尼は珍しくもなく 女性住職の寺もあちこちにあります 中国の男女差別は徹底していて 宋代の記録を見ると女性は ほとんど物扱いです
03 一神教では 人間は他の動物より優れた特別の存在 そして神を信ずる者同士だけが平等です これも選民意識です 洗礼が最も大事な儀式とされるのは 水が貴重だったから 旧約聖書で神が洪水で人類を滅ぼしたのは どう解釈したらいいのでしょう 神の嫌味?
04 狩猟・漁撈の世界でも指導者の元で共同作業です また入会権という形で漁場・狩場は決まっていました しかしそれは利用権であって占有権ではありません 山野・海川の恵みを利用するのと違い 水田の構築は人為的なものです したがって作った者・集団に所有権があります 農地に適した土地は限られます とくに水田は水利が重要です どうしても土地争い水争いが生じてしまうのです
05 天照大神が天の岩戸に隠れたきっかけは 素戔嗚尊に機織りを邪魔されたからです 天の羽衣を織っていたのでしょうか 食の要である田圃を壊したりの乱暴狼藉は許したが(自然災害です) これには堪忍袋の緒がブチ切れました
オリュンポスの神々は半裸体で描かれることが多い気がします ヒンズー教の神々もそうです 仏像でも粗末な衣装ですね 糞掃衣というそうです お布施は文字を見ればわかるように 布を施したのが始まりです 〝仏像の服装の意味〟たいへん参考になります
一神教に食べ物・飲み物の戒律があるのはなぜなんでしょう 食糧事情が安定しない風土であることは確かです 仏教の教えにも戒律はありますが 食べ物に関しては特に煩いことを言わない 生臭ものを食べないのは修行の妨げになるからで強要はしません 禅宗は不許葷酒入山門とか言ってながら 般若湯と称して酒も飲みます 日蓮聖人は大の酒好きだったと伝わります
06 地上の穢きものを食べたかぐや姫は 月の世界へ帰るために薬を飲みます この薬は地上でのことを全て忘れてしまう まさに六根清浄ですね 仏教が関係している 人間が飲むと不老不死になるというから 中国の神仙思想の影響もありそうです 御門がこれを富士山で焼き捨てるのは 吾が国の伝統に習った正しい判断です 不老不死は生きることではない 不変は決して永遠を表さないのです 外来の仏教(中国経由のため老荘思想などの影響があります)もそのままではなく 日本流に換骨奪胎しアレンジしてしまいます
07 日女子は生涯独身でした かぐや姫も求婚を断り続けます 日女子と接するのは一人の男だけだったといいます 竹取翁に比定できるかな かぐや姫は月の世界の人でしたが 日女子は天照大神に仕えたと思われます
鬼道(奇道)がよく分からない 争いを治めたのだから 武装を無力化する月光を操るのかもしれない 今でも大嘗祭は夜に行われますし 日没や夜明けに月と太陽が同時に見えることがあります 必ずしも対立しているわけではないでしょう
08 1月1日 3月3日 5月5日 7月7日 9月9日といった数字合わせの いわゆる節句は 大陸から伝わったと思われます(なぜか江戸時代には1月7日を人日と称し五節句としました) いま年中行事とされているものには 宮中から民間に広がった唐様が紛れ込んでいます 新年に日の出を拝むのは近年のことです 昔より伝わる民俗行事の方が大切です 月を愛でる十五日正月が古来(おそらく縄文)よりの正月祝いです
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海洋民族の環日本海文明

Youtubeで誰かが 2万年前は日本列島と半島・大陸は地続きだったから 縄文人は徒歩でやってきたと話していました この人は石器時代からカヌーが使われたことを知らないのです 縄文時代に陸路があったとでも思っているのか[01] … Continue reading
人々の移動は主に食糧を求めて 生活圏が広がったり移行することから起きます 遊牧民でも一定の地域から出る事はありません 4世紀フン族の大移動も遠征ではなく版図の拡大です[02] … Continue reading 縄文時代に最果ての地を目指し 陸路長途の旅をしたとは考えられない[03] … Continue reading

日本海が中心だった

当時は最終氷河期の終わりですから 海面が低下し樺太と大陸・北海道が地続き あるいは常時結氷していたかもしれません しかし極寒の氷の上を徒歩で移動するのは 雪原を歩いてみればどれだけ困難か分かります
対馬海峡は塞がっていなかったでしょう 巨大な内海と化した日本海を介して 交易が行われていたと考えるのが自然です 内陸には川を遡って行けます わざわざ道なき陸を大荷物担いで歩く必要はない
文明とは経済活動です 経済活動の基本は交易・物流です 人も荷も流通は水運が担っていました これは鉄道が敷設される近年まで続いていたことです[04] … Continue reading

人々は何かの都合や目的を持って大挙 短期間に大陸から日本に押し寄せたのではない 旧石器時代以前から時間をかけ 海や川伝いに漁場や狩場を探し 適地に定着して農耕も始め 集落を築いたのです 石器時代はすでに あちこちの集落同士で交易がありました
縄文早期に重なる新石器時代には カヌーの原型である丸木舟が登場しています 皮張りカヤックや葦船のような筏は それ以前からあったはずです カヌーは双胴にしたりアウトリガーを取り付ければ 外洋航海も可能な船です 何らかの帆も使っていたことでしょう[05] … Continue reading

北前船は江戸時代になって突然現れたわけじゃありません 日本海側沿岸伝いに樺太から北陸に至る航路は 石器時代・縄文時代からあったのです 朝鮮半島東岸から渤海まで回航していたでしょう 縄文時代すでに木樵や船大工の専従者がいたかもしれません
そうしてみれば縄文時代から環日本海文明があったと 仮定してもおかしくないことです むろん中国の文献には書かれていません 有史以前のことですし 中国にとって辺境の地にさしたる関心はない
伝聞を記載し しかも殊更に卑しめた文字を当てはめる中国の文献より 発掘した資料やご先祖からの言い伝えを拠り所にした 想像力と常識の方が大切です

日本海以外は

オホーツク海を中心とした カムチャッカ半島・千島列島・蝦夷地と関連はありそうです ここの人達は太平洋側沿岸を行き来していたのではないでしょうか[06] … Continue reading オホーツク経済圏と言っていいかもしれない この経済圏の経済を担っていただろう北方系の人は 丸木舟を竜骨代わりにし側面に板を張り付けた イタオマプチ舟を操っていました[07] … Continue reading
九州から朝鮮半島西岸 黄海・東シナ海で交易はどうなんでしょう 台湾・琉球諸島をもって環〇〇文明圏とは言い難い 後代にいわゆる倭寇が活動するくらいなものです

戦国時代アユタヤに侵攻しようとしたスペイン船を撃退したのは 倭寇と呼ばれた人達でした なにか大東亜戦争を彷彿させます 渤海も後年の満州と地域が重なりますし 歴史は繰り返されるということかもしれません
そういえばヨーロッパでも古代 ゲルマン民族はギリシャ・ローマから蛮族扱いでした バイキングは倭寇のようなものだったのでしょう

このように日本人は海洋民族でしたが 中国人(漢民族)にとって海の向こうは異界です シルクロードが象徴するように西域との交易が主でした 自由に海上貿易を行なっていた人たちを倭寇と呼びました
今のように中国が海洋進出するまで もともと制海権は日本が握っていました 台湾はもとより海南島も漢民族の住むところではなく 流刑地で蘇東坡が島流しになったりしています 蒋介石が台湾に逃れたときでさえ 毛沢東は追撃できなかったくらいです

遠い弥生時代に海路でも陸路でも 大陸から籾を持って日本を目指す理由もありません 稲の原産地は南方ですから 北上し日本に来たのは確かといっていい 水田の適地に耕作地が広がったのです[08] … Continue reading だから伝播という言い方がふさわしい 米は交易品だったのではないか 米作りの拡散も海上交易の結果でしょう
流通・交易を通じて情報が伝わるのです 陸稲の熱帯ジャポニカ水稲の温帯ジャポニカ ともに島伝いに伝わったと思われます 八重山から沖縄に至るまでに 熱帯ジャポニカの遺伝子を持つ温帯ジャポニカ在来種が認められます 農業とくに水稲米は田作り・治水です 一所懸命・土着のものなのです[09] … Continue reading  どこかから渡来するもんじゃない

2022年2月20日追記=中近東アブダビの島で8500年前の住居跡が発見されました 以前にも同地域の島で同じような遺跡が発見されています 住んでいたのがどのような民族かわかりません 遊牧民ではないですね 漁業が主だったのでしょう 集落同士の交易があったかどうか カヤックかカヌーか船を使っていたのは確かなことです)

註釈

註釈
01 旧石器以前の人たちは徒歩で日本にやってきたかもしれません それは狩場を求めての移動であって何千年の時間をかけてのことです どこかから大挙して日本を目指したわけじゃない
02 匈奴・フン族・元など騎馬民族による広大な領土拡張は 武力を背景にした収奪支配・植民地です 遊牧民が交易を担っていた あるいは交易をしていた商人を保護する代わりに 通関税を取り立てるという支配形態です
騎馬民族が交易を独占した理由は説明するまでもありません 陸上の交通手段である馬を制していたからです 冒険商人が海上交易を独占し やがて港を基点に植民地を拡大したのと同じことです 港にあたる中継地は各地の都市です 都市を武力で制圧して 海上交易と同じように陸上交通を支配したのです 自ら定着して農耕や生産をしたわけじゃない
長征には補給路の確保が伴います 武器と人馬の糧食ですね とくに飼葉が重要です 嵩張るので持っていくのが困難 時間をかけて兵站を築いていかなければ とうてい遠征なんて不可能です セルバンテスの小説ドン・キホーテでイン(日本でいえば木賃宿)に泊まるシーンがあります 馬のために飼葉を用意していて ついでに人も泊まれる(ベッドの用意はない)施設のことです
03 グレートジャーニーのイメージに囚われているのではないでしょうか 人類がたった一人の女性から始まったなんて アダムとイブのお話から一歩も出ていない アフリカから一方通行で人類の居住地が世界に広まるというのは考えにくい 有史以前に南海の島々が陸続きだったのだろうか たとえばマダガスカル島に最初定住した人たちは アフリカ系ではなくボルネオ島に住む人たちでした 同じように中国大陸から半島を通って一方的に 人々や文明が日本列島に来るなんて不自然です
地球の気候は寒暖を繰り返していましたから その時々の食糧事情で南に向かったり北に向かったのではないか 船が使われるようになって 移動距離は飛躍的に延び移動時間は短くなり ペイロードは増えました そして交易(文明)が始まります 道路が整備されたのは遥か後代 車輪が使われるようになってからです
04 むろん石器時代・縄文早期に国はなく 日本列島や半島・大陸なんて意識しません 日本海を中心にして沿岸に点在する 集落同士の交易だったのです 朝鮮半島から九州に渡った人たちはいたでしょう その人たちは今の朝鮮人とは全く違う民族です 半島東南岸に縄文の人々が定着していた可能性もあります 後代の任那府の始まりです
05 おそらく祭祀の宝飾品に使われた糸魚川の翡翠が 全国に流通していたことが知られています 生活実用品の材料であった諏訪の黒曜石は 5千年以上前には大規模な採掘が行われていました 土器などと同様に専従者がいたのではないか
06 日本海側では昔から塩ブリ・塩鮭・ヘシコが保存食でした 太平洋岸には潮カツオがありました 西伊豆に残ります この食文化が鰹節(お江戸では小型の焼津節が重用されました)やクサヤとして続いているのです 江戸っ子が鰹を珍重するのは(5月のカツオは脂が少なく加工に向きます) 縄文時代からの伝統といえます
和漢三才図会に 堅魚の肉片や小骨を敲き混ぜて塩辛にしたものを 俗にタタキという記述があります 紀州熊野・勢州桑名・遠州荒井・相州小田原の名物とあります 鰹節の産地と重なっているので 副産物でありましょう
07 確証はないものの東北から関東に至る太平洋側沿岸には 北方の系統と思われる地名がたくさんあります 坂上田村麻呂と戦った阿弖流為は 明らかに北方系の名前です 奥州安倍氏に至ればかなり同化してきたと見られます 現在のアイヌの人たちも元を辿ればツングース系であり 古代北方系統の人と同系です
08 中国大陸は南が米作地帯で北が麦作地帯と明瞭に分かれています 気候風土によるものです 中国東北部から朝鮮半島内陸部で農業・漁業は行われず 採集・狩猟・遊牧が主だったでしょう 米作りが朝鮮半島を迂回する必然性はありません
09 中国の文献にばかり頼る(有り難がる)から 大陸・半島から日本列島に進んだ技術・文明が齎された なんて思い込みが生まれるのです 日本人は石器時代から船で自由に行き来していました
「3万年前の航海(国立科学博物館)」では 台湾から与那国島まで丸木舟を使って2日の航海で到達しています 例によって毎日新聞・朝日新聞あたりが 取るに足らない難癖をつけて 2日間で渡ったという事実を無視しようとしています 情報操作の一つですね
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祭り(祀り)の意義

鎮守の森

日本人は森の民でありました 熊野本宮大社はもと川の中洲にあった森を祀った神社です 現在の主神である(けつみみこのおおかみ)は樹・森の神です まさに鎮守の森の原型といえましょう なお中洲は(おおゆのはら)といい 大斎原と書きます
熊の字は〈ゆう〉とも読みます これは漢音でも呉音でもなく 慣用的な音です 古語と思われますが語源・意味とも不明です 大斎原の斎は〈いむ〉のほか 斎木〈ゆき〉などの読みがあります 〈ゆ〉の音に斎の字を当てただけでしょう

してみると熊野は〈くまの〉ではなく 〈ゆうや〉〈ゆや〉あるいは〈ゆの〉であったかもしれません 熊の字を当てた理由は森の主が熊だから? しかし神武東征で熊の化身が現れたというものの 熊祭りが行われていたという伝承はないようです
宮沢賢治の童話「狼森と笊森、盗森」は 森と人との関わり信仰を描いています 狼森は〈おいのもり〉と読みます 〈おおかみ〉は大神からの呼び名でしょう 森の主は狼であったのです (おいの)は東北地方の言葉ですが方言は古語が残ったものです これも語源はよく分からない
古代は山や島・川・湖など自然そのものを祀りました 森もそうだったのでしょう 動物が表象また使いとされることがあります 白蛇や狼・白鹿など でも熊はアイヌのイヨマンテ以外は知りません

南方熊楠大人が明治政府の行った神社合祀に対して大反対を唱えました 数々の理由を述べていますが 森林が失われることに危惧を抱いたのが 最大の理由です 博物学者らしい動機ではあります[01] … Continue reading
八百万の国神は土地から切り離され 所縁のない神社へ合祀されました 神社に複数の神が祀られこととなったのです[02] … Continue reading 神社合祀により数多の鎮守の森が失われたのは事実です(実態は神木を切り倒して用材として売り 統廃合の費用に当てようとしました でもほとんど値が付かなかった)
狼森が失われたため狼(大神)は姿を消し 里山が荒廃して日本の風土は一変しました もはや我々は森の民などと名乗れません この始まりは薩長明治政府の神社合祀だったのです

廻りと繰り返しが永遠

四大文明と言われるところは 平野を大河が流れています 雨期の泥水が土地を肥沃にし その水を用水池に貯めておき乾期の灌漑に使います 日本はほぼ温帯湿潤気候なので雨は降りますが 山国のため急流が多い 水を溜めておくことが難しいのです 治水は照葉樹林(里山)の保水力を頼る段々畑や棚田となります 山田は巨大な溜池とも言えるのです[03]水稲米の拡がり(北上)は伝播というのが正しい 中国からもたらされた  … Continue reading
治水はある程度可能とはいえ 天候を人智で左右することはできません 日照りに対しては祈るしかないのです 荒ぶる神(風雨の神)であった素戔嗚尊が 太陽神天照大神に服属するのは自然な姿です 月読尊は標の神 豊穣の実りを示すとともに 海洋神・漁業神でもあります[04] … Continue reading

この三柱の神々を祀ること(祭り)が 米作りで成り立つ瑞穂の国の姿です すべての祭りは農事祭です 日ごとに日の出を迎え 月は廻り 四季が一巡すれば実りが齎されます 日本の風土・自然と共に生きること すなわち祈りと祀り(祭り)が古代神道そのものです[05] … Continue reading
もっとも重要で縄文時代から行われていたのが 夏至の水祭りと冬至の火祭りです 田植えの時には早苗饗(さなぶり) 穂がつき結実すれば夏越の祓え 各地の秋祭りは収穫祭です 正月はもと新年初めの満月を祝うものでした 十五日正月といわれます[06] … Continue reading

天照大神 月読尊 素戔嗚尊は天津神三兄弟 それぞれ太陽神と月の神 ならば素戔嗚はなんの神か 自然現象を神格化したのは間違いない 行動を見ると天候の神でしょうか[07] … Continue reading 稲作関連ならば水に関係する 気候(四季)を表すのなら 年の神となります
日の神・月の神・年の神で三神 太陽と月の周りは農事に そして四季(特に降雨)は稲作と深く関わります 三種の神器はそのまま三柱の神を表し 形代なのです
八咫鏡は太陽を表します 八岐大蛇の尻尾から出た剣を 素戔嗚尊は天照大神に献上しています 天叢雲は文字通り雨雲を表し 刀身は稲光[08] … Continue readingの象徴です ゼウスの武器が稲妻であったように鋭利な剣です 月を読むとは農事暦ですから 八尺瓊勾玉は月日を数える標でありましょうか[09] … Continue reading

註釈

註釈
01 神社合祀は市町村制と深く結びついています 廃藩置県の次に全国の村落を統廃合して 新しい行政区域をつくりました 村々が統廃合されると ひとつの村に複数の産土の神が存在することになります
農業ことに稲作は神道と切り離すことができません 米作りと祭りは共に集団作業で不即不離のものなのです 集落は土地の氏神を中心としていました 一つの集落に一つの鎮守様があったのです
規模の大きい神社で複数の神を祀ることは 明治以前からありました これは主に吉田神道などの影響です 箔をつけるためでしょうか色んな神を勧請したのです また一つの神が二つ以上の名を持つとされることもあります
02 明治政府の国家神道(神社神道)は もともと対等であった八百万の神々(鎮守様)を 伊勢神宮(天照大神)を頂点とする階層構造に組み入れました 中央集権の政治体制を正当化するため 神社も統合したのです
このような序列・系統立ては延喜式の昔から行われましたが 明治政府は廃仏毀釈といいながら 一方では摂社をも廃しました そのため各地に伝わる民間伝承も 次第に失われることになったのです
03 水稲米の拡がり(北上)は伝播というのが正しい 中国からもたらされた  などということはありません 日本人が風土に合わせて品種改良した結果 少しづつ耕作地が広がり 熱帯ジャポニカ・温帯ジャポニカができました 中国大陸では長江を境に 南は水稲米が主でしたが 北進することはありません 冷涼な気候に加え乾燥地帯だからです 主な穀類は粟・稗・高粱でした 後の時代に小麦・大麦が栽培されます
04 蟻の熊野参りという言葉があります 熊野は古くから信仰されていました 紀伊半島は稲作に適さない土地柄で 漁業および海上交易が盛んであり 熊野水軍と呼ばれる勢力が 大阪湾から瀬戸内海を支配するようになります
魚付きの森というように森はまた海とも深い縁があります 熊野と月読命は関係ありそうですが 記紀の編纂から吉田神道そして神社合祀と 各地の神社の言い伝えは改竄され失われてきました 古の姿はわからなくなっています
05 祭りには御神楽が奉納され御神酒が供えられます 酒は米の精華であって神聖なものでした 原初の酒は生米を使った水酛づくりだったと言われます
水稲米が作られる以前にも酒は醸されていました 長野県の井戸尻遺跡(5000年前)からは 果実の種や皮が付着した有孔土器をはじめ さまざまな酒器が発掘され 秋田県の池内遺跡や青森県の三内丸山遺跡でも ニワトコの実を醸造したと思しき痕跡が出土しています 縄文のワインです
縄文時代で既に酒造りに土器が使われています 米を使った日本酒(の原型)でも甕で発酵させていたでしょう 酒母は炊いて糖化させた飯です 沖縄で神に供える酒は炊飯ではなく 口で噛んで糖化させ醸したものだったそうです 火を使わないのはおそらく宗教的な理由からと思われます 延喜式に蒸米を使った種麹の記述が見られますから 平安時代中期には現在に近い酒造りが確立されていたのです
06 ナマハゲなどの行事は古代神道の姿を伝えます 柳田國男の「遠野物語」に見える オシラサマは 正月十五日に白粉を塗って祭るとあります 歳神様は中国からやってきました 七福神もほとんど外来の神です 現在行われている正月行事は 古来(縄文)からのものと中国由来の節会とが混合しています
07 素戔嗚尊は時に泣き叫んだり 水田を壊したりと手のつけられない神です これらの行動は暴風雨を表すとみていいでしょう 半面で稲作の神とされていて 木を植えたりもしています 八岐大蛇を退治て(治水)奇稲田姫を娶るは 水稲米を栽培することです
08 雷が多いと豊作と古来いわれてきました 放電が大気中の窒素分を水に溶け込ませるというのです ゆえに稲妻です 天叢雲剣が稲妻・稲光を表すとしたら 七枝刀の形がふさわしいのですが 誰も見たことがないので なんとも言えません
09 数珠もロザリオも数取りに用います 八尺は大きさか長さを表していて 勾玉の数は四季を表すなら4個です 新月から満月の月齢だと12個になります そして管玉が間に30個ずつなら 全体で一年を表します 月読命は縄文の主神であったかもしれません
天岩戸隠れは日蝕ではなく 春を迎える冬至祭りでしょう 日蝕はそう度々起こることでないし 稲作に影響があるわけでもない 賢木を根こそぎ抜いて飾り立てるのは クリスマスツリーを思わせ 天宇受売尊が足音を立てて踊るのは 鳥追いを偲ばせます
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