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タグ: 縄文

からごころ やまとごころ

中国人は何事も秩序立て 整然と体系化する傾向があるように思います しかも数字合わせをします 陰陽五行論や儒学の三綱五常なんかそうでしょう この考え方は日本にも影響しています 三大〇〇とかはそれなんじゃないか[01] … Continue reading
整理するのはいいんですが 観念的な理論が先行するようになり 教条主義に陥ってしまいます これが本居宣長の言う「漢意(からごころ)」でないですか 誰か偉い人が決めたことを絶対視し 一つの価値観に拘泥 他の考え方を排除するのです[02] … Continue reading

官の漢意

とくに徳川綱吉の代に武家の心得として朱子学が採用されました 家父長制・長幼の序・男女差別が典型的な儒学の理屈です いずれも旗本・家中を支配・管理するのに都合がいい この倫理観に対して疑問を挟んではいけません 天性つまり天から与えられた性質であって 生まれつきのものだからです
徳川時代では原則的に 武家の倫理規範としての朱子学です 町人にまで強要していません 江戸でハリボテの人形を胸に抱いて 老人を背負うような格好をし「親孝行でござい」の呼び声で 街を流す商売がありました ふざけた話ですが収入になったそうです[03] … Continue reading

儒学の教えによる孝子顕彰の制は広く行われていました 綱吉の代には盛んに褒美を下すようになりました そんな官製の忠孝礼賛に対して反感を抱く庶民がいたのです 健全な感覚だと思います
親孝行自体は悪いことではない でも誰も否定できない正義を振りかざす 取って付けた態とらしさに違和感を覚える 親孝行屋に銭を恵むのは江戸庶民の洒落心ですね そこに目を付けたのも 公然と批判できない屈折した心理です

徳川の施政を非難して 薩長を中心とした勢力が暴力革命で政権を握りました 明治維新です 徳川時代を否定し新時代を演出するため 明治政府は王政復古を掲げました しかしそれは標語や形だけ 大和心ではありません
教育勅語を見れば 内容は儒学そのものです たとえば根幹をなす「忠」も「考」も和語(訓読み)がありません[04] … Continue reading 実際に書いたのは誰か知りませんが 御名御璽のある勅語ですから 明治天皇も内容を了承しているわけです 徳川の朱子学は かくまで武家(維新の元勲とやらはほとんど下士ですが)を洗脳していたのです

江戸時代は征夷大将軍が武家の頂点として統治していました いわば軍政です 武家は軍隊なので上意下達の組織 もっとも重視される心掛けは忠義・報恩です 儒学の規範が実に制度にふさわしい ただし武家以外の人たちには関係のない話でした 農家と武家[05] … Continue reading以外は御家大事なんて感覚はなく 己の才覚で自立していました
徳川が朱子学を取り入れたのは 旧来の制度を否定するためで 舶来崇拝の文明開化だったといえます それまでの日本は家父長制ではなく母系社会です さらに明治時代になると 天皇陛下を父として国民は赤子であると 家父長制を拡大解釈するようになります
明治の教育制度に四書五経は含まれませんが「忠ならんと欲すれば孝ならず 孝ならんと欲すれば忠ならず」なんてエピソードは書いてあります 四民平等の掛け声とは裏腹に 徳川時代より極端な儒教国家になってしまったのです[06] … Continue reading

儒学に基づく政治は専制君主です 為政者に都合のいい理屈の儒学も そのことは自覚していて 支配する者に高い徳を求めます しかし現実はそんなにうまくいかない 中国の皇帝は ほとんどが暴君だったり 人心掌握術に巧みな人物です
明治維新のきっかけになったのは 本居宣長の国学の影響が大きかったと思います でもかなりラディカルな思想ですから そのまま明治政府の施政に持ってくることはできません やはり朱子学は統治するのに都合がいいのです
しかしながら明治政府はこれを 為政者や官僚でなく国民に強要しました 武家だけであった軍事の担い手を国民全員に拡大したのです(長州の奇兵隊が原型かもしれません) 日本の徴兵制・国民皆兵は儒学によって裏付けられていました 漢意極まれり[07] … Continue reading

民の大和心

大化の改新時には神道が国民精神の根幹にあり 仏教と隋・唐に倣った政治制度が補完する形でした 神道・仏教・儒学はそれぞれに並立していました 明治維新の時は西洋の政治経済制度を取り入れ 王政復古の建前からでしょうか仏教を否定しました しかし王政復古は名ばかり儒学の理屈が色濃く残ったのです 全てを受け入れるのが大和心 他方を拒否するのは漢意です
明治政府は西洋の制度(文化・文明)がキリスト教を規範としていることを見抜けませんでした 薩長の下士にそんな教養はなかったのかもしれません 儒学の弊害に気付くことなく仏教まで廃すれば 精神の拠り所を失ってしまいます[08] … Continue reading
私見ですが キリスト教と儒学は共通点があり 神道と仏教は親和性があるように思います 日本ではいずれも融和しがちです 庶民は上辺で廃仏毀釈に従ったが ここでも健全な判断力をもって 仏教の教えを捨てなかったのが幸いでした 敬神崇仏で何の矛盾もない 庶民にこそ大和心があった[09] … Continue reading

原初の神道は国の成り立ちを神話を通じて説く いわば日本人の習俗・慣習のようなものです 教義も何もないが「魏志倭人伝」に描かれる日御子の姿が伝えています[10] … Continue reading 「惟神の道」という言葉は宗教以前の根源的な道の意です
八百万の神々が対等の大和心は 漢意の対極にあり一神教の教義とも相容れない 朱子学の皇帝に天皇陛下をなぞらえたり 西洋の王制政治を取り入れて 世俗の権力と同等に扱ってはいけません 神道(皇統)は政治制度でも宗教でもないのです 日本の成り立ちは悠久の神話の国です

日御子が国をまとめたのは 武力でも政治でもなく権威によります[11] … Continue reading 天照大神の子孫であるから天皇陛下です 日本の国体は天皇陛下の権威を中心とせねばなりません キリスト教国の拠って立つ権威も聖書や教会が齎します
薩長明治政府は天皇陛下を政治利用し 今でも続いています その上にマッカーサーGHQが 日本の歴史そのものを否定しました 現行憲法前文で唱う人類普遍の真理とは神の教えのことです

明治憲法のように統治権を総覧するとか 現行憲法がいう国の象徴ではない 総覧では主権の在り処が規定されず 象徴ということは国が主体で天皇陛下は表象に過ぎない
権威は政治制度や法律で決めることでありません キリスト教国の権威は神から与えられ 神道では2000年を超える皇統こそが権威です 天皇陛下は皇統に基づく権威なのです

註釈

註釈
01 儒学(儒教)の影響は今の時代にも残っています 旗本で禄を喰んでいるわけでもないのに家を継ぐとか 養子で入った婚家じゃないのに親元を実家と言ったり 結婚しても家名が変わるのは嫌だから旧姓のままでいたいとか すべて家父長制からくる家制度の陋習に囚われているのです
挙げ句の果てに将軍家とか天皇家なんて新聞でも書いています 征夷大将軍は一代限り世襲制じゃない ましてや天皇陛下と家制度は全く関係ないこと 江戸時代にそんな言い方はもちろんなかった 明治の頃でも朝廷・皇室とはいっても 天皇家なんて言わなかったんじゃないか 家族・家庭という意味で天皇ご一家までは許容範囲でしょうか
02 上代の大和ことばに抽象的な概念を表す言葉があったかどうか分かりません 漢字を組み合わせることにより便利に新語が作られたことは事実です その反面失われた大和言葉がたくさんあっただろうと思います
仁・義・礼・智・信は中国人の持つ抽象概念です 天・地もそうです もともと大和言葉にはなく 日本人の規範にはそぐわない概念 すなわち漢意なのです また仏教にもそんな概念はなく言葉もありません
03 世に孔孟と言いますが 孔子の教えは本来 謙虚なものだったのではないか 「学而時習之 不亦説乎」 学ぶは師に真似ぶ心 習うは己の修養です 師弟・親子・長幼の序は 学び習う年月の差なのです
孔子の玄孫弟子である孟子は 君臣だけでなく親子や職業さえも 階級秩序として規定しました こうして礼が秩序を維持するための 単なる形式・権威主義となっていきます 勉強し官職に就き出世して 栄耀栄華を極めるのが人生の目的です 秩序には礼が一番大事 徳が必要なのは支配者だけ
中国の葬儀は派手で豪勢です これは孟子の唱えた「君子不以天下倹其親」から来ているようです 自分は親孝行なんだと世間に宣揚するため 大金を使って葬礼を執り行う 拝金主義の中国人の感覚です
04 江戸時代の寺子屋は 子供の個性を伸ばす自由な教育の場でした むろん男女の差別などありません 読み書きそろばんが基本 大人になり仕事をする上で困らないだけの 教養を身につけます 論語読みの論語知らずという言葉があるように 儒者は書物の知識のみで役に立たない者と見られました
しかし明治の教育制度は 官製の画一的な価値観の鋳型に当てはめるもの 修身などは大学(四書)八条目の一つです 批判精神を摘み取り従順な羊の群れを作り出す そして忠良な官僚(牧羊犬)となって出世するのが良しとされます 西洋制度を取り入れているものの それは江戸後期に儒者が蘭学者に転向したことと同じです
05 弥生時代に水稲米の栽培が広がり 土地と水利をめぐる争いが起きるようになります すなわち武装した農民が武士の始まりです 戦国時代も結局は田圃の取り合いです(合戦だけでなく苅働き・焼働きも戦でした) 争いが終結し豊臣秀吉の太閤検地と刀狩で 武家と農家の役割が固定されました 日本の歴史で農奴などありません
06 西洋社会の貴族は王のもと軍事を担う役割です 日本の武家と同じく戦費は自己負担です 領地経営と戦に備えるためには 長男が全てを統率する必要があります すなわちヨーロッパも家父長制なのです 脱亜入欧とは裏腹に儒学と共通点がある気がします
07 八紘一宇に至っては 世界は一家人類みな兄弟という空疎な論です 一宇(一つの屋根で覆う)とは一つの価値観しか認めないということ 世界国家論とか父なる神といった考えに影響されたように思えます
昭和大戦中に八紘一宇を唱えたのは近衛内閣であり 軍部が推進したなどは捏造報道(情報)です
08 幾多の皇子・皇女が門跡として寺院に入られています 神道だの仏教だのと分け隔ることなく 何のわだかまりも持たないのが 上つ方から下々まで大様な日本の心です 狭量なのは地位と役得に汲々とする官のみ
09 お引けえなすってと仁義を切る 義理と人情の板挟み 庶民は漢語のもとの意味を軽く飛び越え 日本流にアレンジしました じつに融通無碍とらわれることがない これこそやまとごころでありましょう
10 記紀に描かれることは人間臭く 神話とは言い難いものもあります 卑弥呼(日御子)が登場しないのは不思議です 「魏志倭人伝」等が伝聞を記録したとはいえ 事実を隠す理由もありません 不確かながら史実を伝えていると見ていいかも知れない
11 北方・南方・大陸から渡ってきた人たちは それぞれの神を奉じていたでしょう やがて日本列島に定着集落を形成し 交易を通じて混血していきました 固有の神は国神・八百万神であり 日御子の導きに順い 氏神・鎮守の神となっていきます 武力に服属するのではない調和するのです 和をもって貴しとなすが吾国の習いです
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一七条憲法

紀元前500年ころ 釈迦・ソクラテス・孔子が現れ それぞれに教えを広めました 三人はおおよそ同時代の人です とくに孔子と釈迦は交流はないにしろ 互いのことを知っていた可能性があります
500年の後 イエス・キリストが誕生します 西洋の暦法では この時を紀元0世紀とします
そして西暦500年前後には マホメットと聖徳太子が生まれています この二人は同時期と言っていい[01] … Continue reading

聖徳太子は一七条の憲法を定めて 日本の国体のあり方を示しました 一七条憲法の根幹は 神道と儒学および仏教に基づきます 宗教と倫理・法律は密接な関係があるのです 宗教家でなくとも偉大な指導者といえます
吾国の始まりは 上古の神話に描かれています 神道は国の成り立ちの根本です 国成りて君臣のとるべき道は儒学に範を求めました 対外的な体裁を整える意味があったでしょう 仏教は他の宗教と同様 人が生きること死ぬことへの思惟です[02] … Continue reading

聖徳太子が それまであった古代信仰を系統立てた国記・天皇記(帝紀・旧辞と同様に原本がなく内容は不明です)を表し 日本のあり方が意味づけられました 随・唐の伸展から文化政治の圧力が強まり 日本も国家意識を持たざるを得なくなったのです[03] … Continue reading
国記・天皇記は失われ 後代に日本書紀が編纂されました 聖徳太子および一七条憲法は日本書紀に記されています 古事記と異なり日本書紀は漢文で書かれています 外交を想定し吾国の主権と独立を明らかにする書物ゆえです

世界に先駆けた十七条憲法同様に 近代憲法も為政者に対する規制を定めたものです つまり権力の規定と制限です 権利には義務がともない権力には責任がともないます それを定める憲法は 最高の法規とされます
他の法規の上に立つのは どのような権威によるのでしょうか キリスト教国の憲法は 神の導きが規範となります 法律は人間の作った決まり事 さらに上位の真理に則さねばならないのです[04]プラグマティズムの国に見えるアメリカの裁判で 陪審員や証人が聖書に誓うのは 法律以前の正義に基づくという意味です イスラム教国でも 世俗権力の上に宗教指導者が君臨します

儒学は中国で起こり日本へ伝わりました 仏教はインドから中国を経て日本にやってきました いずれも彼の地では 民間信仰として僅かに痕跡を留めるのみです ひとり日本で独自に栄え花開きました
しかも吾が国民は 古来の神道を棄てることなく 仏教にしろ儒学にしろ 外来の教えを 自家薬籠中のものにしています その精華が一七条の憲法です 仏教を前面に立てているように見えますが 神仏混淆の日本型仏教です 日本仏教は聖徳太子が成しました

儒学の根本義は天性 人として生まれた時からある本性に基づき 社会生活での人との関わり 人間としての生き方(現世での規範)を説きます 仏教は生きることを輪廻転生と見ます 生と死は繰り返され そのこと自体が煩悩です 生きることの四苦 人間関係の四苦 合わせて八苦から免れる法が悟りです

吾国の原初信仰がどのようなものだったか 想像するよりありません しかし神話にその姿を保ち続けているはずです 日本民族の心の在りようは 聖徳太子が道破されたように和です[05] … Continue reading 儒学であろうと仏教であろうと おおどかに全てを受け容れます
寛容の文化日本は争いを好まず あらゆる価値が共存します そのうえで中心となるのが天照大御神であり 天孫たる天皇陛下です 外来の神 もとよりある地神(くにつかみ) みな順らうて大いなる和の国となります[06] … Continue reading

このような国体である日本が 一神教のキリスト教と相容れないのは道理です キリスト教は唯一の価値しか認めません ただ一つの正義以外は悪となります 正義を振りかざして 争い戦い侵略する宗教です[07] … Continue reading
世界には成文憲法を持たない国がいくつかあります 古くからの歴史があり建国の由来を成文化できないためです すべての法は慣行・慣習に従います この法律以前の倫理道徳は その国の宗教や古来から伝わる掟に基づくのです

明治の帝国憲法も現行憲法も 西洋からの借り物です 根底はキリスト教の価値観です どちらの憲法も日本の歴史国体とは合わず様々な矛盾が生じました とくに問題の多い現行憲法を神の如く崇め奉るのは異様な姿です[08] … Continue reading
日本の国体にふさわしい 建国の理想は一七条の憲法ではないか 吾国の有り様は1400年経とうと変わりません 変わってはならず 変えてはいけないのです 今の世界と国内の情勢に必要な規定は 別に基本法で柔軟に定めれば済みます[09]歌手であった三波春夫さんの著書「聖徳太子憲法は生きている」が大変わかりやすく書いてあります

太子の作られたそのままを今の世に当てはめるのは いかになんでも無理がありますから変える必要はあります まず国の基礎として仏教を前面に出してはいけない(仏教が勢力を持つに従い改竄した可能性があります) 神仏混淆が根付いていても日本に国教はありません また漢意である儒学も国風とは相容れないものです 聖徳太子時代には家制度がなかったので弊害を免れました[10] … Continue reading
国是は和をもって貴しと為すです その背後にある建国の由来と人々の心のありよう すなわち日本は神話の国であるということが大切[11] … Continue reading 神国ではありません 神社神道・国家神道は明治に作られたもの 太子が制度の範を儒学に求めたように政治とは分かたねばならない

神話と宗教は別です 神話は悠久の時を物語ります 日本は1万年以上続く文化を持つ高貴な伝説の国 やまとごころは 清く明きこころ 勁く直きこころ 国民の生活は日本仏教に基づき儒学の家制度を排すべきです[12] … Continue reading 憲法は誇り高く崇高であるべきかと思います[13] … Continue reading

註釈

註釈
01 釈迦・ソクラテス・孔子・キリストを4大聖人とするのは キリスト教徒の言い分です 孔子とソクラテスは宗教というより哲学者(生死を論じていないので儒教ではなく儒学というのがふさわしい) マホメットのイスラム教も世界的な宗教です 一神教はキリスト教のみとしたいのです
旧約聖書(創世記)が編纂されたのは 釈迦・ソクラテス・孔子と同じ紀元前500年頃のことです モーゼ・ユダヤ教は世界的とはいえませんが キリストは最初ユダヤ教徒であったわけで 旧約聖書は神話で新約聖書は教典という感じですね 聖徳太子は私が付け加えただけです 宗教家でも哲学者でもない やはり政治家でしょうか
02 日本に伝わったのは大乗仏教ですから お釈迦様の説いた教義とは変容しています 個人や教団での修行より「愛憐済民」の心で衆生を救う 政治的なものでした 社会インフラの整備 薬師寺による施療など貧民救済です
仏教が朝廷の庇護のもと広まり 寺の建立等の僧たちの熱心な活動は 辺境の地にまで道路を開き 経済交通の活発化をもたらす契機となりました のちの時代の弘法大師の事績と言い伝えられる 数々の公共事業に通ずるものです
03 当時の朝鮮半島は三国時代でした 聖徳太子は高句麗・百済・新羅の各地からアドバイザーを招いています すでに任那府は機能していなかったため 偏らない正確な国際情勢を読み取り 隋・唐と主体的で対等な外交を推し進めるためです 高句麗と随の関係も当然把握していたでしょう
小野妹子を隋に遣わした際の国書に「日出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す 恙なきや」とあるのは 日本の主権と独立を明記したものです 日本の天子が隋の天子に書を遣わす お互いは対等だといっています 聖徳太子の情報収集・状勢判断・外交戦略の成果です 外交は情報戦・心理戦であることを知っていました
朝廷・王朝の朝は政を表しますが 本来の字義である夜明けは日本(ひのもと)から来る 国名を日本というようになったのは この国書からと思われます でも読み方はわからない (ふぃのもと)であったのか(にっぽん)(にふぉん)
04 プラグマティズムの国に見えるアメリカの裁判で 陪審員や証人が聖書に誓うのは 法律以前の正義に基づくという意味です
05 冠位十二階で明らかなように聖徳太子は 儒学を政治制度として取り入れたのみです 儒学には男尊女卑の思想が見られます 男が優れ女は劣るのは 生まれながらの本性だというのです これらは中国人の仕来たりであって 吾国にはなかったものです 日本は母系社会で家父長制など馴染みません 
徳川時代も武家に朱子学を取り入れています 明治政府はさらに儒学を庶民にまで強要しました いまだ日常生活に影響している家制度(家父長制) 長男が後を継ぐとか女系はダメだとかも全て 男女差別や長幼の序を重んずる儒教の残滓です 畏れ多くも皇室に対してまで家制度を強要する風を作りました
06 今も世界では民族間の争いが絶えません 吾国の人は長い年月をかけ 北方から南方からまた大陸から渡って 交流し混血し列島全域に居住していました 狩猟採集の石器時代すでに集落間の交易があり 農耕と漁業主体の縄文時代に至れば それぞれの地域で海山の恵みを頂き 風土と共に生活していたのです 争いはなかったと思われます
弥生時代に入り 水稲米が栽培されるようになると 食料が安定し人口が増えます 水稲は陸稲と異なり大規模な装置産業です 水田に適した土地と水利を巡る部族間の争いが起きます これを鎮め和らぐのは 稲作に欠かせない太陽神の子孫である日御子です 大いなる和をもって統べる皇統の始まりといえましょう
07 イスラム教も一神教ですから ただ一つの真理コーランに従わない者には剣を向けます コーランは内容からいって部族の掟に近いものかもしれない 仏教が戦わないということはなく ミャンマーのロヒンギャ問題は仏教とイスラム教の戦いです
ミャンマー(ビルマ)は仏教国でした そこにイスラム教が進出しイギリスによる植民地支配があり 今日の国情の乱れを招いています 日本でもかつて僧兵の強訴や一向一揆がありました 戦国時代では切支丹伴天連による侵略に対抗した勢力でした
08 現行憲法は英語の原文があります 日本書紀が漢文で書かれた理由と違い アメリカの価値観で作られたからです 日本の伝統・歴史を否定することが目的です ですから改訂・変更でなく廃棄しなければならないのです
09 歌手であった三波春夫さんの著書「聖徳太子憲法は生きている」が大変わかりやすく書いてあります
10 「世の人心は歓欣して流通するを貴び、大法をもうけて、はなはだしきを制すまでにし、質素節倹などの政令はかならず下すべからず。しかし、政府要路の人びとには質朴をおこなわせ、かならず驕奪の風あらしむべからず」 池波正太郎氏が紹介している 西郷隆盛が書いた政治意見書の一部です 一七条憲法の精神そのままです 西郷どんは聖徳太子のことなど意識していなかったと思います でも心は受け継いでいたのです
儒学にしても孔子の教えは 為政者に対して高い徳を求めていました しかし中国人の選民意識は平等という概念がなかったようです 孟子の代には出世栄達し権益を得ることが良とされるようになりました 中国人は拝金教なのです
11 私は「和をもって貴しとなす」を 八百万の神々が対等であった縄文の心に帰れとの教えと解釈します 神道に教義はありません 文字で書かれた時間が歴史 神話は歴史を排し時間から自由です だから悠久を語る神話は今に生きます
12 日本の伝統・歴史に即した憲法ができたら 日本書紀に習い英語バージョンも作ったほうがいい 何しろ日本固有の価値観に基づく憲法ですから 外国には理解し難いところがあるはずです 妙な形に翻訳されては困ります
Japan is a land of eternal time and noble myth,The people who live there have the Yamato mind.The Yamato mind is a pure and clear mind, a strong and candor mind.
13 日本国民は・・・・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは・・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。 現行憲法前文の抜粋です 自らの価値観ではなく他国に従うと言っているのです こんな卑屈な憲法を奉ずる国はとても独立国と言えません
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きな粉餅のこと

正月のきな粉餅

きな粉餅はなぜ正月に食べられるのでしょう 巷説では東海道名物安倍川餅が きな粉餅の始まりといいます 慶長年間に弥勒の茶屋が売り出しました しかし奈良や熊野で正月に食べるきな粉餅は それ以前からの慣わしとしか思えません[01] … Continue reading
きな粉餅以外に 芋と米を搗き混ぜた団子に きな粉をまぶしたものが 月見に供えられていました やがて月見の団子は米粉(新粉)だけになりましたが 芋と米を搗き混ぜる芋餅は 各地の伝統食として残っています

きな粉餅が正月に食べられるのは 縄文文化と弥生文化の習合を表す気がするのです[02] … Continue reading 縄文は芋文化 弥生は米文化と私は思っています 縄文と弥生は変遷しながら一繋がりに続いているということ
地域によっては 雑煮にあんこ餅を入れるところがあります 水稲米の文化に移行した後も きな粉餅やあんこ餅という形で 縄文の習俗が守られていたのではないか[03] … Continue reading 現在一般的な餅米の搗き餅は江戸時代に広まったようです

きな粉と小豆あんは縄文 餅は弥生を表す

通説では大豆の栽培は弥生時代から きな粉は室町時代に一般的になったとされます きな粉餅はそれ以降に作られたことになります しかしこれは文献初出がその時というだけのことに過ぎません 埼玉の縄文中期遺跡で出土した土器から大豆の圧痕が見つかっています しかも野生ではなく栽培種らしいのです 小豆も縄文時代から栽培されたことが確認できています[04] … Continue reading
粢餅というものがあります 米粉を水に浸して卵形(里芋形)に作ります 古代には木の実や豆でも作りました いわゆる縄文クッキーですね オコシ[05] … Continue readingや五家宝また州浜などのルーツです 小豆は軟質ですから茹でるだけであんこになります 小豆に比べて大豆は硬質なので 調理しにくいことは確かです 煎った大豆を粉に挽いて用いたのは かなり古いと思いますね[06] … Continue reading

江戸の雑煮と東京の雑煮 餅と雑煮は別に食べる

正月料理の代表である雑煮に餅を入れます 元来は様々な具(供物)を一緒に煮たのが雑煮です[07] … Continue reading 奈良・熊野だけでなく江戸でも雑煮は まず煮た餅を歳神様(恵方)に供えてから食べ そのあと他の具を汁と共に戴くのが順序でした 餅を食べるのと雑煮を祝うのは別々のことだったのです 餅を温めるため雑煮の鍋に入れていたのが 一緒に食べるようになったと思われます 雑煮にあんこ餅を入れたり 雑煮の餅にきな粉を付けて食べるのは 古来よりの慣わしが変化してきたのでしょう[08] … Continue reading
奥州では正月に様々な餅を食べます きな粉餅あんこ餅だけでなく ずんだ餅や海老餅に胡桃餅など 家庭により色々のものを取り合わせます 砂糖醤油で餅を食べるのも なかなかいいものです 沖縄のコーレーグスと醤油を合わせて(勝手に辛味醤油と呼んでいます)つけ 磯部巻きにしたのはかなりよい 実をいうと私自身は きな粉餅をあまり好きじゃない

【付記】 粳米で作る 新粉餅・五平餅・キリタンポなどは 挽餅・鄙餅等と呼ばれます ハレの食べ物ではなく日常や法事で用いるケの食です 搗かず粉に挽いて捏ね蒸して作る餅 越後の笹団子も近いですね 母方の祖母から聞いた話では 年貢米の目溢し分を使ったのだといいます
四公六民の割合で納める年貢米は籾です 役人が規定の一升枡で量りますが この時わざと溢す(量目を溢す) 溢れた籾は敷いた筵ごと回収します 溢(こぼ)すは溢(あふ)れるの意味ですから お目溢しの目は見て見ぬ振りでなく目盛の目 すなわち役人の裁量(温情)のことを指します 不作時の調整の意味もあったかもしれません
石高は上田・中田・下田の石盛に面積をかけて決められます 水田(上田)以外の畑(中田)や屋敷(下田)も含まれます 肥沃な上田なら1町歩20石以上は穫れ 上・中・下の全体を概算するとほぼ1反1石に当たります 田んぼの面積ではないので 公称石高と実際の収穫量は一致しません 畑の作物は年貢として収める必要がなく 米よりも高く売れれば実質的な増収となります 屋敷の地内に作物を植えることも可です
筵に落ちた目溢しの籾は 踏まれて屑米になります 屑米を水に浸すと藁・籾殻が浮く 水を捨て残った米を挽いて捏ね 蒸したり焼いたりするという具合です(正規の粳米を粉に挽けば上新粉となります) なお陸稲は糯米が多く糯米は年貢米ではありません
冷涼な気候で米があまり穫れない信州では 小麦粉を使ったお焼きになります 米以外の作物が盛んに作られれば各地の名産品として知られます 信州の蕎麦なんかは代表でしょう 大消費地の江戸に運ばれ蕎麦切りが流行しました 関西で蕎麦が馴染みでないのは 大阪が米の集散地であったことからでしょうか

註釈

註釈
01 安倍川餅が評判を呼んだのは もともとあったきな粉餅に 貴重な白砂糖をかけたからです なので本来きな粉と砂糖は混ぜ合わせるものではありません きな粉をまぶした餅に白砂糖をかけたのが安倍川餅 物の本には安倍川の砂糖餅とあります(一口大の餅が五文でした)
02 弥生よりはるか後代に神仏習合がありました この時も神道と仏教が交代するのではなく 互いの姿を保ちつつ適合していきます 宗教の観点からは仏教も神道も多神教という点で親和性があります
一神教はまったく異なる教義です 正義は神を信ずる我のみにあります 他と棲み分けることはできません 日本人に合わないのは道理です
日本はそれぞれの伝統を絶やすことなく 混淆して引き継ぎます 縄文の陸稲と弥生の水稲 粳米と糯米 芋と米 餅と豆など
03 あんこ餅というと甘いものを想像しますが 江戸時代の大福餅は塩餡を用いたものをいいます 餅菓子ではなく腹塞ぎの軽食でした 各地に残るあんこ餅入り雑煮は もともと甘い餡ではなかったのです
埼玉県北東部に塩餡餅(しおあんぴん)があります 砂糖を一切使わない塩味のあんこ餅です 砂糖醤油をつけて食べるのが一般的ですが 昔は雑煮に入れたそうです この地域一帯には古墳群が数々あります 古の姿を伝えているのではと思えます
埼玉は越ヶ谷宿で 塩餡大福を作っている菓子屋さんがあります 甘さで味をごまかせないので 餅が旨くないと成り立たない 日持ちもしない 昔ながらのものです こちらは砂糖きな粉でいただきます そのまま食べても大変うまい
04 石器時代のずっと後ですから 縄文時代には石臼の原型が使われていたとしても不思議でないこと(精巧な加工技術の勾玉は縄文時代から作られています) 平安時代に初めて中国から干菓子がもたらされたわけでない 文献に記されたのがその時代というだけです ミシャグジ神を祀る時に石棒と石皿が使われます これが石臼の原型ではないでしょうか 信州のお焼きは相当古くからあったと思われます
なお餅という字は中国(漢民族)では 小麦粉を練った食品を表し パンやクレープとか月餅のようなものを言います 文字を借りただけなので 米から作る日本の餅とは異なります もともと中国北部は米が栽培できず 小麦粉文化圏です
05 オコシの名の由来は 名古屋でひな祭りに作られるおこしもの(オコシ餅)と同じでしょう 練った米粉を型に押し付けてから蒸す餅です
今日見られる糯米の搗き餅が一般的になったのは 江戸時代に入ってからのようです それまでは米を粉にして蒸す練り餅が普通でした 小正月の行事に使うのは練り餅や粥となります これが古式です
06 切り分けて小正月に掻き餅にするナマコ餅があります 寒中に搗いて寒晒しにするので寒餅とも言いますが これは掻き餅の音便変化かもしれません また煎った大豆が入る豆餅も昔からのものでしょう ナマコ型なのは搗くのではなく 上新粉や白玉粉を捏ねて蒸す餅だったからです
07 なぜ雑煮なのか 様々な食物は全て自然の恵みであり 八百万の神々がもたらすのです その土地でとれるものを感謝していただく 決まりはないから雑煮です 新潟の雑煮は鮭や根菜類が入った具だくさんなものです 雑煮は名の通り煮物であって汁物ではないから 古の姿に近いのかもしれない
08 東京の雑煮は 焼いた切り餅と鶏肉が入った澄まし仕立てです これは明治以降のこと その前は味噌仕立てでした 醤油仕立ての雑煮は東京風であって お江戸の風ではありません 鶏肉が入るところを見ると薩長が始めたことでしょう 鬼平犯科帳に登場する五鉄のように お江戸ではカシワじゃなくシャモが一般です(雑煮には入れません) 江戸時代でも小松菜は使われましたし ほぼ正方形の大きな角型切り餅でした
丸い餅と角型の餅は見た目じゃなく 搗いた餅を丸めるか伸すか 作り方の違いです 家で搗いたならちぎって丸めるでしょうし 賃餅なら伸し餅で納めます これを切れば角型になります できた形に意味を持たせたのではない ですから角餅とは言わず切り餅と呼びます お江戸の餅が角型になったのは 餅を丸める女手が足らなかったのが理由です
夏場に搗く餅は 腐敗防止のためちぎって笹の葉に包みます 箱にぎっしり詰めると角丸の四角になる また鏡餅の原型は 平たく伸した餅を丸く切り 重ねたもので 文字通り鏡の形を模していました これを二つ折りにすると花びら餅です(鶴屋吉信では御所鏡と名付けています 宮中の行事に使った鏡餅が下賜された故です) 現在の鏡餅と言われるあの形は 備餅というものでした
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