鎮守の森
日本人は森の民でありました 熊野本宮大社はもと川の中洲にあった森を祀った神社です 現在の主神である(けつみみこのおおかみ)は樹・森の神です まさに鎮守の森の原型といえましょう なお中洲は(おおゆのはら)といい 大斎原と書きます
熊の字は〈ゆう〉とも読みます これは漢音でも呉音でもなく 慣用的な音です 古語と思われますが語源・意味とも不明です 大斎原の斎は〈いむ〉のほか 斎木〈ゆき〉などの読みがあります 〈ゆ〉の音に斎の字を当てただけでしょう
してみると熊野は〈くまの〉ではなく 〈ゆうや〉〈ゆや〉あるいは〈ゆの〉であったかもしれません 熊の字を当てた理由は森の主が熊だから? しかし神武東征で熊の化身が現れたというものの 熊祭りが行われていたという伝承はないようです
宮沢賢治の童話「狼森と笊森、盗森」は 森と人との関わり信仰を描いています 狼森は〈おいのもり〉と読みます 〈おおかみ〉は大神からの呼び名でしょう 森の主は狼であったのです (おいの)は東北地方の言葉ですが方言は古語が残ったものです これも語源はよく分からない
古代は山や島・川・湖など自然そのものを祀りました 森もそうだったのでしょう 動物が表象また使いとされることがあります 白蛇や狼・白鹿など でも熊はアイヌのイヨマンテ以外は知りません
南方熊楠大人が明治政府の行った神社合祀に対して大反対を唱えました 数々の理由を述べていますが 森林が失われることに危惧を抱いたのが 最大の理由です 博物学者らしい動機ではあります[01] … Continue reading
八百万の国神は土地から切り離され 所縁のない神社へ合祀されました 神社に複数の神が祀られこととなったのです[02] … Continue reading 神社合祀により数多の鎮守の森が失われたのは事実です(実態は神木を切り倒して用材として売り 統廃合の費用に当てようとしました でもほとんど値が付かなかった)
狼森が失われたため狼(大神)は姿を消し 里山が荒廃して日本の風土は一変しました もはや我々は森の民などと名乗れません この始まりは薩長明治政府の神社合祀だったのです
廻りと繰り返しが永遠
四大文明と言われるところは 平野を大河が流れています 雨期の泥水が土地を肥沃にし その水を用水池に貯めておき乾期の灌漑に使います 日本はほぼ温帯湿潤気候なので雨は降りますが 山国のため急流が多い 水を溜めておくことが難しいのです 治水は照葉樹林(里山)の保水力を頼る段々畑や棚田となります 山田は巨大な溜池とも言えるのです[03]水稲米の拡がり(北上)は伝播というのが正しい 中国からもたらされた … Continue reading
治水はある程度可能とはいえ 天候を人智で左右することはできません 日照りに対しては祈るしかないのです 荒ぶる神(風雨の神)であった素戔嗚尊が 太陽神天照大神に服属するのは自然な姿です 月読尊は標の神 豊穣の実りを示すとともに 海洋神・漁業神でもあります[04] … Continue reading
この三柱の神々を祀ること(祭り)が 米作りで成り立つ瑞穂の国の姿です すべての祭りは農事祭です 日ごとに日の出を迎え 月は廻り 四季が一巡すれば実りが齎されます 日本の風土・自然と共に生きること すなわち祈りと祀り(祭り)が古代神道そのものです[05] … Continue reading
もっとも重要で縄文時代から行われていたのが 夏至の水祭りと冬至の火祭りです 田植えの時には早苗饗(さなぶり) 穂がつき結実すれば夏越の祓え 各地の秋祭りは収穫祭です 正月はもと新年初めの満月を祝うものでした 十五日正月といわれます[06] … Continue reading
天照大神 月読尊 素戔嗚尊は天津神三兄弟 それぞれ太陽神と月の神 ならば素戔嗚はなんの神か 自然現象を神格化したのは間違いない 行動を見ると天候の神でしょうか[07] … Continue reading 稲作関連ならば水に関係する 気候(四季)を表すのなら 年の神となります
日の神・月の神・年の神で三神 太陽と月の周りは農事に そして四季(特に降雨)は稲作と深く関わります 三種の神器はそのまま三柱の神を表し 形代なのです
八咫鏡は太陽を表します 八岐大蛇の尻尾から出た剣を 素戔嗚尊は天照大神に献上しています 天叢雲は文字通り雨雲を表し 刀身は稲光[08] … Continue readingの象徴です ゼウスの武器が稲妻であったように鋭利な剣です 月を読むとは農事暦ですから 八尺瓊勾玉は月日を数える標でありましょうか[09] … Continue reading
註釈
↑01 | 神社合祀は市町村制と深く結びついています 廃藩置県の次に全国の村落を統廃合して 新しい行政区域をつくりました 村々が統廃合されると ひとつの村に複数の産土の神が存在することになります 農業ことに稲作は神道と切り離すことができません 米作りと祭りは共に集団作業で不即不離のものなのです 集落は土地の氏神を中心としていました 一つの集落に一つの鎮守様があったのです 規模の大きい神社で複数の神を祀ることは 明治以前からありました これは主に吉田神道などの影響です 箔をつけるためでしょうか色んな神を勧請したのです また一つの神が二つ以上の名を持つとされることもあります |
---|---|
↑02 | 明治政府の国家神道(神社神道)は もともと対等であった八百万の神々(鎮守様)を 伊勢神宮(天照大神)を頂点とする階層構造に組み入れました 中央集権の政治体制を正当化するため 神社も統合したのです このような序列・系統立ては延喜式の昔から行われましたが 明治政府は廃仏毀釈といいながら 一方では摂社をも廃しました そのため各地に伝わる民間伝承も 次第に失われることになったのです |
↑03 | 水稲米の拡がり(北上)は伝播というのが正しい 中国からもたらされた などということはありません 日本人が風土に合わせて品種改良した結果 少しづつ耕作地が広がり 熱帯ジャポニカ・温帯ジャポニカができました 中国大陸では長江を境に 南は水稲米が主でしたが 北進することはありません 冷涼な気候に加え乾燥地帯だからです 主な穀類は粟・稗・高粱でした 後の時代に小麦・大麦が栽培されます |
↑04 | 蟻の熊野参りという言葉があります 熊野は古くから信仰されていました 紀伊半島は稲作に適さない土地柄で 漁業および海上交易が盛んであり 熊野水軍と呼ばれる勢力が 大阪湾から瀬戸内海を支配するようになります 魚付きの森というように森はまた海とも深い縁があります 熊野と月読命は関係ありそうですが 記紀の編纂から吉田神道そして神社合祀と 各地の神社の言い伝えは改竄され失われてきました 古の姿はわからなくなっています |
↑05 | 祭りには御神楽が奉納され御神酒が供えられます 酒は米の精華であって神聖なものでした 原初の酒は生米を使った水酛づくりだったと言われます 水稲米が作られる以前にも酒は醸されていました 長野県の井戸尻遺跡(5000年前)からは 果実の種や皮が付着した有孔土器をはじめ さまざまな酒器が発掘され 秋田県の池内遺跡や青森県の三内丸山遺跡でも ニワトコの実を醸造したと思しき痕跡が出土しています 縄文のワインです 縄文時代で既に酒造りに土器が使われています 米を使った日本酒(の原型)でも甕で発酵させていたでしょう 酒母は炊いて糖化させた飯です 沖縄で神に供える酒は炊飯ではなく 口で噛んで糖化させ醸したものだったそうです 火を使わないのはおそらく宗教的な理由からと思われます 延喜式に蒸米を使った種麹の記述が見られますから 平安時代中期には現在に近い酒造りが確立されていたのです |
↑06 | ナマハゲなどの行事は古代神道の姿を伝えます 柳田國男の「遠野物語」に見える オシラサマは 正月十五日に白粉を塗って祭るとあります 歳神様は中国からやってきました 七福神もほとんど外来の神です 現在行われている正月行事は 古来(縄文)からのものと中国由来の節会とが混合しています |
↑07 | 素戔嗚尊は時に泣き叫んだり 水田を壊したりと手のつけられない神です これらの行動は暴風雨を表すとみていいでしょう 半面で稲作の神とされていて 木を植えたりもしています 八岐大蛇を退治て(治水)奇稲田姫を娶るは 水稲米を栽培することです |
↑08 | 雷が多いと豊作と古来いわれてきました 放電が大気中の窒素分を水に溶け込ませるというのです ゆえに稲妻です 天叢雲剣が稲妻・稲光を表すとしたら 七枝刀の形がふさわしいのですが 誰も見たことがないので なんとも言えません |
↑09 | 数珠もロザリオも数取りに用います 八尺は大きさか長さを表していて 勾玉の数は四季を表すなら4個です 新月から満月の月齢だと12個になります そして管玉が間に30個ずつなら 全体で一年を表します 月読命は縄文の主神であったかもしれません 天岩戸隠れは日蝕ではなく 春を迎える冬至祭りでしょう 日蝕はそう度々起こることでないし 稲作に影響があるわけでもない 賢木を根こそぎ抜いて飾り立てるのは クリスマスツリーを思わせ 天宇受売尊が足音を立てて踊るのは 鳥追いを偲ばせます |