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タグ: 縄文

実家 入籍

実家

実家ってなんでしょう(広辞苑の第一版を見ると 実家は旧民法の法律用語であり 廃語になったと記されています) 今でも使われる実家は 夫婦双方の親元(生家)を指すことが多いようです 元の戸籍名が違えば実家と呼ばれるのでしょうか でも戸籍名が同じなら親元は実家でないはずです
次男は昔風にいえば分家・新宅になるし長男が嫁を迎えると当主です 嫁・婿に関わりなく婚姻が家督相続を意味しますから 時期は前後しても両親は隠居することになります[01] … Continue reading 子供夫婦が同居してない親元は隠宅となります 実家とはいいません

そういえば実家は聞きますが 婚家(こんか)だけが死語になっている気がします 本来実家は婚家の対義語です 嫁入り・婿取りで婚家ができ 初めて生家を実家と呼びます 婚家も実家と同じく旧民法の法律用語でしょう よく分からないのですが 婚家・実家とも明治にできた用語です たぶん江戸時代にはない言葉です[02] … Continue reading
戸籍制度のない国なら 実家も婚家もありません 婚姻届(夫婦)と出生届(親子)は別のものです[03] … Continue reading 所管が違うから関連性はない もちろん外国であっても 子を連れて親元へ帰省は行われると思います 親子の情愛に変わりはありませんから でも実家に帰るとは言わないでしょう(そもそも実家に当たる言葉がない)

お国はどこですかと問われれば すぐに答えることができます お国訛りもあるし お国自慢もします 実家はどこと聞かれても 生まれ育った家は既になく 婿養子でもないので答えようがない[04] … Continue reading この場合の実家は 父母が住む家(建物)を言ってるのかもしれません
結婚すれば双方の両親とは別に 新しい家庭ができる あるいは代替わりします 二人の新しい家庭なのですから そこが唯一の家です 戸籍制度があろうとなかろうと 社会の単位は家庭(家族)です 新宅に対して隠宅 分家に対して本家 実家の対義語は婚家です 親元を実家というなら 自分たちの家庭は何という 虚家?偽家?[05] … Continue reading

入籍

実家(生家)の戸籍名に拘ったり囚われているから 夫婦別姓だのと訳のわからん議論が出てきます 日本の姓氏は十万種もあるとされ 便宜的なもので特に血統を表すとはいえません 家名とか跡取りがどうとかなんて 今やなんの実質もないはずです
夫婦別姓論者は家制度に固執している連中です 婿取りや嫁入りで別の家の家族になれば その家名を名乗るのは当たり前のことです 別に結婚で姓が変わるということではない 出生届には名だけを書きます 姓は個人の属性でないのです[06] … Continue reading

大切なのは家庭 故郷 そして祖国です 何より大切なのは家族の一体感です だから戸籍制度のない国でも 何々夫人と夫のラストネームを名乗るのです キュリー夫人は本名ではなく通称名です フランスでピエール・キュリーと結婚後マリ・キュリーと名乗ります[07] … Continue reading
(隣国の半島と大陸だけは 通称であっても 婚家の姓を名乗ることが許されないと聞きます 夫婦別姓ではなく嫁だけが家名を名乗れないのです 出自は絶対で結婚しても姓は変わらない 儒学に基づく男尊女卑の国ですから 婿取りということがあるのかは知りません)

今どき出身地を聞いても お国はどこなんて言う人はいない[08] … Continue reading 同じように実家とか本家・分家なんて時代錯誤かと思います 武家社会じゃないんだから
私見ですが 結婚は恋愛のゴールではなく 新家庭を築くスタートです 別にどちらかの親の家を継ぐわけじゃない 新たに一家を構え社会に参加するのです ですから 入籍という言葉は実態を表していない不適切な言い方です たぶん旧民法の用語でしょう[09] … Continue reading

各家それぞれの事情があるので一概にはいえません 一般的に嫡流が結婚して代が替われば 同居・別居に関わりなく両親は隠居となります(徳川でいえば駿府様ですね)
大御所みたいな存在の場合もあるでしょうが 親元にご機嫌伺いに行くことを 実家に帰省するという言い方はおかしい 生家が隠宅になることはあっても そこは実家ではありませんから[10] … Continue reading

旧民法で隠居は生前に家督を譲ることと制度化されました そのため明治以降は両親が隠居せず生きている限り 代替わりできなくなったのです この弊害は日本国憲法(皇室典範)にまで引き継がれ 畏れ多くも天皇陛下の退位ができなくなりました
戸籍制度・家制度に縛られないはずの皇室にまで 家父長制を強いているのです 天皇家なんてありません 歴史を知らん薩長の田舎侍が王政復古などと言いながら 家父長制を拡大解釈しました[11] … Continue reading

註釈

註釈
01 お江戸は他の地方から移り住む人が多かったため 武家・町人に限らず単身赴任や核家族はたくさんありました 町内のご隠居さんは大家を兼ねていて 落語でおなじみ親代わりの存在でした
02 実家は婚家とともに明治時代にできた法律用語です 江戸時代は単に里と言っていたでしょう 里帰りや里に戻らせていただきますは 今でも使われる言葉です(?)
旧民法がなくなったのですから 婚家も実家も廃語にしなければなりません いまだに生家のことを実家というのは 明治時代旧民法で作られた 家制度に囚われているのです
03 親子の縁は与えられたものです 血縁は切っても切れない 夫婦の縁は社会に認められて婚姻となります 披露宴(盃事)が社会に認知されるための儀式(結婚式)ですね 婚姻は家と家の取り決めではなく 男女に関わりなく個人が移籍することを意味します
なので披露宴に生家(婚家の)両親は連なりません 江戸時代の婚姻は養子みたいなものでしたから 政略結婚以外は簡単に縁切りし生家に戻ることができました 江戸で未婚率が高かったのは 男女の比率に加え 夫に頼らなくても 女の人が自立できた社会だからです 女性側からの離縁も普通でした 再婚も自由です 寡婦(やもめ)や出戻りは珍しいことではなく 裏長屋で小唄のお師匠なんかしてました
04 石高の低い地へ転封の場合(左遷ですね)随行する家臣は次男以下が習いだったそうです 長男と両親は残り多くは帰農します 当家もそうでした 時期によっては年貢米の取り分について争いが起きることがあります 上杉遺民一揆もそうでした
05 振り返って考えると 結婚の前と後は全く別の人生です 独身の頃の家族は両親と兄弟です 結婚後の家族は妻と子供です 両親兄弟は血族であっても家族ではないというのが実感です 結婚してからは自分の家族のために生きてきました 儒学の教えからすれば私は親不孝者です
06 江戸時代の藩士一族は家禄で暮らしていました 経済の基盤が家なのでそこから離れると生活できません 王政復古を唱えた明治政府も下士が中心でしたから 家制度を当然のこととして 疑問にも思わなかった 明治の家父長制はこれを成文化したわけです
07 キュリー夫人の生家はポーランドの下級貴族でした ヨーロッパにも家制度はありましたが貴族に限ります キュリー夫人の最初の恋仲だった青年は庶民だったため 身分違いの結婚を周囲に反対されたのだそうです
日本に身分制はないのですが家格の違いみたいなものはありました たとえば篤姫は いったん近衛家の養女となってから徳川に嫁いでいます
08 お国柄とか県民性はあると思います やはり気候風土や歴史に影響されるのでしょう 祖国も同じことです ご先祖が生きてきた国土・国風が 今の私たちの姿を作ります
09 今の戸籍制度では結婚すると新しい戸籍ができます 入籍というのはすでにある戸籍に入ることですから 養子以外の場合は使うべきではありません
10 里帰りという言葉もありますが 帰省とは意味合いが違います 盆と正月に薮入りがありました 休暇で里に帰り両親・ご先祖に挨拶する 奉公人といえど通いの番頭になれば 一家を構えているので薮入りなんぞありません 子(孫)を連れて親元にご機嫌伺いはすると思います これは帰省ですね
11 縄文時代は各地に小集落が点在していました おそらく家族単位ではなく 離れた集落同士の雑婚だったのではないでしょうか 嫁入りといったことはなかったと思われます また若者組は子供が集落の構成員であることを示します 子供は家でなく集落に属していたのです
源氏物語で描かれるように平安時代に至っても通い婚でしたし 農村には近世までそれに近い風習(足入れ婚)が残っていたとされます 家制度は徳川時代の武家に始まり 明治に至り国民全体に拡大されたものです 婚姻後の里帰りは家制度の前の風習からでしょう
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お萩と牡丹餅に違いはない

春に供えるのが「ぼたもち」秋に供えるのが「おはぎ」

「ぼたもち」も「おはぎ」も全く同じもので 呼び名の違いだけです 牡丹餅は春の彼岸 お萩は秋の彼岸のお供物として始まったものでしょう
浄土宗のサイトを見ると彼岸会は「菩提の種を蒔く日」とされています(春の彼岸ですね) もともとお供物は初穂を供える収穫の儀式(これは秋の彼岸)です 春と秋の彼岸の間には 雨乞いの行事から来たお盆があります
米と豆は縄文時代より大切な主要農作物 すべて農事祭が始まりです 産土の神はそのままご先祖様ですから 先祖供養そして仏教と結びつきました[01] … Continue reading

お供物が精進でなければいけない ということはないと思います 供えてお下がりを戴く(共食)ところに意義があります 彼岸会も神仏混淆の行事ですから 仏式の戒律があるわけではない[02] … Continue reading
生臭物や葷酒は 悟りを得る修行の妨げになるから禁じられたこと 檀信徒にまで強いてはいません 仏様はすでに悟りを開いているのです それに仏様は飲食をしません[03] … Continue reading

ぼたもち・おはぎ大切なのは餡と餅米のバランス

ある人から ヤオコーの牡丹餅(お萩)が美味いと聞いて買ってみました 結論からいうと私の好みではない 味の価値観は人によって違います
なので これも個人の評価・感想にすぎません ヤオコーさんを貶すつもりはありません ヤオコー・プライベートブランドは充実していて高品質です

私の理想とする牡丹餅(お萩)は 半殺しの餅と餡が同量です この割合だと餡の比率がかなり少なく かろうじて餅を覆うくらいです 従って餡は甘めでなくてはなりません 餅にも少量の塩を加えます
粒餡でも漉し餡でもかまいませんが 餡を中に入れて青海苔とか黄粉やゴマを使ったもの(カテゴリーが違うのではないか) また白餡やズンダは受け容れられません

ヤオコーの牡丹餅(お萩)は私の理想に反していました 餡の量が餅米の倍以上もあります(やけに餡が多く甘くないのは 昨今の流行りです ほとんどの餡はトレハロース臭がします) さらに餡で餅米をくるむことをせず 上からべったりと乗せたようになっています
餡が多すぎるせいか きれいに丸めるのを途中で放棄したような とても餅菓子とはいえない形状です これでは餡が多すぎて餅との調和を味わえない 牡丹餅(お萩)は餡と餅 いずれの風味が勝ってもいけません

かつての菓子は甘い物が上等とされ 江戸の羊羹は限界まで甘さを競ったそうです[04] … Continue reading 今は万事甘くないのが喜ばれます 甘みを強くするのは 保存性を高めるためでもあり 糖分が結晶化した羊羹は何カ月も日持ちしました 砂糖(甘味)を控えると保存性が低くなるので その分トレハロース等が使われます[05] … Continue reading
どちらにしても行き過ぎはよくない 甘味も餡の量もバランス感覚がいちばん大事です 歯が軋むような甘さでは味も何もわからない かといって薄甘ければ素材の風味が生きるということもない 半殺しの柔らかい餅と餡の甘さが一体となった美味さは 結構ピンポイントではないかと思います

ヤオコーのオリジナルというか総菜類は大好きです とくにヤオコー・ピノのカツサンドは絶品といってよいでしょう[06] … Continue reading yes!YAOKOの餃子も私好みの柔らかい皮でよく買います
ただ牡丹餅(お萩)は方向性が違うな というのが食べてみた感想です ヤオコーの餡は自家製です あんこが自慢なのでしょうが 私は餅菓子を食べたいのです

(2021年3月20日追記=近くの老舗餅菓子屋の牡丹餅が変わってしまいました 昔ながらの牡丹餅だったのが 今時の異様にあんこが多いものになっていました あんこの味だけで餅米の風味が全然しません これじゃ餅菓子とはいえない)

註釈

註釈
01 おはぎ・ぼたもちに使う小豆の赤が 悪鬼除けになるなんていうのも 中国習俗の影響を受けた後付けの理屈です つぶ餡・こし餡の違いも さして意味があると思えない
古代米が赤かったから ご先祖に供える供物に小豆等で色付けした赤飯(おこわ)が始まりです おはぎは同じ古代米である黒米を再現したものだという説もあります 小豆は赤いがあんこは黒く見えますからね
02 仏教が殺生を禁じているから精進物を供えなければいけない というのはちょっと違います 殺生を禁じるのは六道四生(輪廻転生)から来ていて 畜生となったご先祖がいる可能性があるからです 肉食とは関係ない話です
イスラム教はハラールだとかラマダーンとか いろいろうるさいことを言います 仏教の教えで食べ物の戒律はとくにない(原初仏教の姿をとどめている タイの上座部仏教は227もの戒律がありますが 肉食を禁じてはいません チベット仏教も肉食の禁忌は全くありません)
断食後に菩提樹の元に寄りかかっていたお釈迦様は 村の娘スジャータが振る舞う牛乳粥を 美味い美味いと言って食べていますから ビーガンだったわけじゃありません 靈供膳に鰹出しを使ってはいけないなんて馬鹿げた話です
03 肉食を禁じたのは穢れを厭うから 神道から来たことです 公家や武家また僧などの道義でした とくに武家は殺生を戒めました 居合の形で血振るいと称するのは 刀の穢れを祓う所作です 仏教に肉食禁止の教えはないが 日本仏教は神仏混淆なので もとの教義から変容しています
04 江戸で有名な羊羹屋は 鈴木越後=日本橋本町一丁目 船橋屋織江=深川佐賀町 藤むら=本郷御影町 金澤丹後=日本橋 紅谷志津摩=日本橋 だったそうです 私は柏崎市新野屋の「名題くろ羊かん」が好きです
05 トレハロースを使うのが悪いとはいえない 私が好きな餅菓子屋さん 柏崎の光月堂は 饅頭・どら焼き・最中・団子 それぞれ餡の作り方砂糖の使い方が異なります 上白糖・グラニュー糖・ザラメ・水飴・トレハロース等を組み合わせるのです
餡の美味さは小豆の質に加え 餡練りの技術で左右されます だから店によって味が違う 北海道産の小豆と砂糖と塩の天然材料で作ればよい なんて単純なものではない こし餡には晒し餡と皮むき餡があるし つぶ餡も煮た小豆を3日以上も蜜に浸したりします
06 私の味覚ではマイセンのカツサンドが旨いとは到底思えない 近頃はパッケージングされているので工場生産なんでしょう 井泉のカツサンドは美味かったのですが今どうなってるのだろう 最近は食べていません ヤオコーのカツサンドは 自家製ロースカツと自家製ロイヤルブレッド そして自家製ソースで成り立ちます 味が一体化するより3者が引き立て合うというのが私の感想です
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騎馬民族征服王朝?

騎馬民族征服説なる 珍説(トンデモ学説)があります 強大な軍事力と進んだ文明を持つ人たちが 船団を組んで朝鮮半島から襲来し 縄文人だか弥生人を征服したというのです 荒唐無稽極まりない
彼らが持ってきた最新兵器が馬だった? それまで馬を見たことがなかった人々は 馬蹄にかけられて平伏したのです? 水稲の技術も持ってきて先住の者は農奴となった?[01] … Continue reading

時代が降って元寇がありました 騎馬民族の蒙古軍が日本を襲ったのです 合戦の絵図を見ますと 鎌倉から馳せつけた騎馬武者に対し 蒙古軍はなぜか徒歩なのです チンギスハンは騎馬軍団を率いて 世界国家を樹立したんではなかったか
たしかに前線の兵士は蒙古人ではなく 朝鮮や江南から徴兵されました それに海路大量の馬を運ぶのは大変だったでしょう てつはうと集団戦術に変更した理由はわかる気がします[02] … Continue reading

でも2000年以上も前に内陸部に住む人たちが 敢えて海を渡り馬と鉄製品を持ち込んだはずです 元の時代に至って造船と操船の技術が衰えたのか それとも半島に残った者たちは 馬に乗ることを忘れ鋭利な刀剣を作ることもしなかったのか 不思議ですね[03] … Continue reading
スペイン人がインカを侵略しました このときも馬を見たことがないインカ人は なす術もなく降伏したといいます でも戦術的な敗因は飛び道具(鉄砲)でしょう

本当のところは分かりません 少数のスペイン人が侵略したのは確かなようですが 騎馬民族征服説も このあたりにヒントを得たと思われます
ハワイのカメハメハ大王は 漂泊の末に流れ着いたスペイン船の鉄砲を使って 統一王朝を築いたと伝えられます

騎馬民族は遊牧民です 土地に執着しないから 侵略の必要はないのです 版図を広げるといっても 稲を持ってきて土着し農業を営むわけでない そもそも国境や領土という概念を持っていなかったと考えていい
スペイン人は別に騎馬民族ではありません 大航海時代は交易を求めたのですね 彼らは冒険商人といわれ海賊の一種です

日本も環日本海で交易をしていました この系譜を引き継いだ 後代の北前船なんかも船頭=船主の冒険商人です 呂宋助左衛門・大黒屋光太夫もそうです 東南アジアから樺太そして渤海にかけて活躍しました 大陸にとってはうるさい存在でした だから倭寇などと海賊扱いしたのです[04] … Continue reading

騎馬民族征服説は 優れた文物がことごとく朝鮮半島経由で渡来したと唱える人たちに 都合のいい仮説でした 稲作も製鉄も馬も仏教も全てです なのに半島では残らず 日本で開花した? 否定されたといっても まだ影響力は続いています

註釈

註釈
01 騎馬民族は農耕に適さない土地に住むため 放牧の生活を送っているのです とくに朝鮮半島北部などは寒冷で水利にも恵まれず 稲は生育しません 高句麗は騎馬民族で平壌冷麺の如く粉食文化です 百済・新羅には日本から稲作が伝わっていた形跡があります
02 てつはうは焙烙玉のようなものです 蒙古軍の帯びた刀剣類は鍛鉄でなかった 大量生産ができる鋳物でした タタラ製鉄は日本独自の技術で大陸・半島には痕跡さえありません 日本刀は日本だけにしかないのです(ダマスカス鋼は似ているかもしれない)
03 元寇を撃退した我が騎馬武者の技は 流鏑馬という形で現在にまで伝わります 半島・大陸は騎乗で使う弓ではなく 歩兵用の弩(石弓)が主力武器でした 集団戦術としての運用ですから個人技とはいえない 継承もされていないでしょう
04 日本は海洋国ですから 周辺の国や三国間で盛んに交易していました 八幡大菩薩の旗を掲げており 八幡船と言われました 中国はそれらの船に課税したいのですが 言うことは聞きません そこで倭寇と海賊呼ばわりし 日本に取り締まるよう要求していました
豊臣秀吉は表向き海賊停止令を出すものの 中国の身勝手な言い分に対抗する形で 公認したのが朱印船の始まりです これら一連の動きは その後の朝鮮出兵に関連している と見ていいんじゃないですか
豊臣秀吉の外交センスは 聖徳太子にも比肩できると思います しかし軍事侵攻は無理があります ポルトガル・スペインは 武装した船で交易していたライバルです むしろ朱印船(八幡船)をもって 制海権を狙うべきでした
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