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タグ: 古墳

水田と城

水田は山から

日本の水田の始まりは棚田です 南向きの山麓斜面に造りました 水稲米栽培で最も重要なのが陽当たりと水利だからです 山は照葉樹林に覆われ 保水力に優れています 斜面は水の管理がやりやすいのです
水田耕作が普及していくにつれ しだいに南面の適地が少なくなります 次には平地を開墾して水田としました 山裾に降りていったわけです[01] … Continue reading

川の中洲は水が豊富で地味が肥えています 開けているので陽当たりも良好 水田に適した土地です ただ台風などで水嵩が増した時には 実った稲が流されてしまいます 棚田(山田)に比べ治水が難しいのです[02] … Continue reading
平野に大規模な水田を造成するのは大工事です とくに水の流れを管理するのは 小集落でできることではありません 一定の勢力を持つ集団が新田を開発します 新田は開拓した者の所有になりますから 各地に豪族が出現することになるのです

山がちな地形である日本の水稲米栽培の推移です 古事記・日本書紀で描かれる 素戔嗚尊と八岐大蛇の神話は 山から始まり川の中洲に水田が作られる 稲作の歴史を正確・的確に物語っているのです 風雨の神である素戔嗚尊は 時に暴風となり田を毀ちます[03] … Continue reading 記紀で描かれる水田はおそらく川の中洲でしょう

水田の開発はもとより水稲米栽培は 田植え・草取り・稲刈りと季節ごとの労働集約型産業です しだいに作業しやすい平地の田んぼが主になっていきます[04] … Continue reading

城と水田の関係

いよいよ造れるところ全てが田んぼになれば こんどは土地の奪い合いが生じます そこまでいかなくても水争いは避けられません より恵まれた土地と水利をめぐる諍いは宿命ともいえます 互いに武器をもって戦うことになるのです
そして農民は武装し闘う兵(つわもの)[05] … Continue readingともなります 吉野ヶ里遺跡は環濠や土塁・木柵で囲まれています この頃にはすでに日常的な争いがあったのでしょう 和国大乱か?[06] … Continue reading

戦略論から言えば 山(高い位置)と川の合流地点は緊要地形です 砦を築く拠点になります 日本の城が山に築かれたり川の中洲・合流地点に多いのは 田んぼの水利も深く関係しています 土塁や石垣は棚田づくりの技術から来ていますし 水堀も治水工事と共通しています 築城は水田造成の土木工事を応用した砦造りから発達しました
城には根城と出城があり 出城は砦で根城と連携して機能します(通信連絡は狼煙) 山城には水源を押さえる意味もあります 太閤秀吉により戦国時代が終わり戦はなくなり 根城は次第に居城や政治的な シンボルの側面が大きくなります 平城は居城であり 政治権力の象徴であり 城下町の中心でした 城造りは領国経営・経済活動のため 都市計画の一部 ランドマークとなっていきます[07] … Continue reading

狩場・漁場をめぐる争いもあったでしょうが 武装して戦うほどではありません 自然を相手にする狩猟・漁撈と計画生産・装置産業の農業との違いです 所有と利用の差異ともいえるでしょう
ヨーロッパの城も川辺りに建つものが多くあります これは水運に対して課金するためです 通行税を勝手に取り立てていたのです 瀬戸内海の島に造られた水軍の城も似たようなものですね[08] … Continue reading

平野の治水と土木工事

よく知らないのですが 遊牧民は城を造ることはなかったのじゃないか イメージとしては部族単位のテント生活です 土地の所有という概念も持ってなかったと思います 万里の長城は国境線を示すために作られました[09] … Continue reading
蒙古なんかは好戦的な民族です さすがに機動力を生かした野戦は得意です でも攻城戦は不得手でした だから元寇は防塁で撃退された(日本に来襲したのは徒士でしたが 適切な防衛策です)
農業に適さない地域に住むのが遊牧民です 当然のことながら治水や築城の技術は発達しません 騎馬民族が海を渡って日本を侵略したり 稲作をもたらしたなんて いかに馬鹿げた妄説かですね(古墳の解説に 優れた土木技術を持つ渡来人が作ったなんて 支離滅裂なことが 根拠もなく書かれていたりします いまだに妄説を盲信しているのです)[10] … Continue reading

和国大乱が収まった後には 湿地帯・沼地の開拓が始まったのではないでしょうか 干拓は川の中洲よりさらに大規模な工事が必要です こうなると集落はムラからクニへ拡大します 公共工事が盛んに行われ 弥生時代から古墳時代に至ります
この頃には農機具も改良され鉄製品が使われるようになります[11] … Continue reading 作業効率は高くなっていたと思われます また農機具はそのまま土木工事にも使われます[12] … Continue reading
古墳は後代の戰で 砦代わりに使われることがありました 周りに環濠を巡らしているためです 盗掘を防ぐ水堀に見えますがどうなんでしょう もしかしたら水田のための溜池があって そこに古墳を築いたのかもしれません 元々は祭祀のための場所であったということです 大型の前方後円墳は奥の円墳が墳墓 その前の方墳は祭祀場かも知れない[13] … Continue reading

古墳時代には棚田から平野の田んぼが大半になっていたでしょう 平野とはいえ田んぼには必ず傾斜が必要です 高いところから低いところへ水は流れるからです 平地の田んぼであっても すべて緩斜面の棚田といえます
そうすると用水路・溜池等の配置計画が最も大切になってきます あれだけの大工事が墳墓のためだけに行われるとは考えにくいのです 古墳は治水の実用面と祭祀(農事祭)のためならば納得できます 祭祀は最初自然現象に捧げられ 神の使いを祀るようになり 人格神へと変化やがて部族・集落長の墳墓となったと考えます
八岐大蛇もそうですが 各地に伝わる民話で大蛇(水神)に土地の長者様の娘が嫁ぐ話があります 水利と農事祭・墳墓は密接な関係があると見てよい

註釈

註釈
01 ヤマタノオロチ神話 記紀では八つの頭と八つの尾と記されていますが 八つの岐(俣)には九つの頭と尻尾がなくてはなりません すなわち八岐大蛇(八俣大蛇)は九頭龍神と同一と見てよい
山に造られた棚田は山田でもあります ヤマタはもともと山田のことではなかったでしょうか 太安万侶が稗田阿礼の口誦を書き留めるときに勘違いした? なお菊姫(菊理媛)や宗像三姉妹は九頭龍姫の娘であるとの言い伝えがあるようです
02 信濃川の河口近くは水害に悩まされていました そこで治水のため江戸時代から分水路の工事が始まりました 今の大河津分水です 分水町の道路は昭和前半まで1メートルほどの盛土をしてありました 川が氾濫した時の備えです 同じように川の中洲にある農家は 納屋を高い盛土の上に建て さらに船を天井に用意した所が全国にありました
03 素戔嗚尊は八岐大蛇に御神酒?を供えています 供えた御神酒は濃い酒となっています 日本酒はワインより濃厚なので 米から造られた酒かもしれません 神道の形態が確立される以前は 縄文ワインが供えられていたと思われます 神に供えた酒は口噛み酒という説があります 口噛酒は濁酒ですから白い酒です 縄文のニワトコワインなら赤い酒です 紅白の酒として同時に用いられていた時期があったかも知れない
原初の酒造りである水酛造りでは 蒸米をスターターとし生米と合わせ乳酸発酵させます 口噛み酒は唾液中の消化酵素で糖化した 生米がスターターと言われます あくまでも酛づくりのスターターであり 酒の全量を生米を噛んで作るとは考えられず 口噛み酒が原初の酒ともいえない 口噛み酒の記述は大隈風土記にあるそうです 沖縄の御嶽に供える酒も近年まで口噛み酒であったといいます
酒を醸す技術があるなら米を炊くことは行われていたはず 万葉集に「味飯を水に醸み成し〜」との文言が見られます この頃すでに米飯で酒を醸すのが普通だったのです 生米を噛んでいたら偶然 酒になったなんてありえない 口噛み酒は神に供えるため 火を使うことを避けたのではないでしょうか
04 弥生時代の集落跡は大半が高地にあります 棚田は狭く作業効率が悪い それでも水利と日当たりをとったのです 当時はいわゆる古代米でしょうから 収量も少なかったはずです 平野に降りていったことと人口の増加 そして農作業が個人から集団へ移行したのも 関連していると思われます
05 兵という字は武器を持つ者を表します 兵を起こす挙兵は戦いの準備ですね 倭国大乱の頃は全員で武装して戦った事でしょう 農民であり時に兵士だったのです
武の字は戈を止めると書くように 本来は威力・抑止力を意味します また士は士大夫から来ています 武士は軍という組織に組みこまれ 兵役の義務を負う者のことです 刀を初めとする装備・兵器は自前なのですが あくまでも主君からの預かりものです 下命がなければ使うことはありません 扶持米・俸禄は軍備を整えるためですから
もっぱら農に携わる農家と もっぱら武辺の武家に分たれるのは 豊臣秀吉の刀狩り以降のことです 下剋上を阻止するためですね それでも一揆・逃散は頻繁に起きました 農とはいえ兵の心は失われていなかったのです
武士は軍に所属する者 兵士は武装した者です 兵力はforce of arms(戦闘力)であり 武力はmilitary power(軍事力)という感じでしょうか 武は有形戦闘力であり経済力でもあります(豊臣秀吉の軍) 兵は無形戦闘力すなわち練度ともいえますか(上杉謙信の兵)
06 菊姫(菊理媛)は日本書紀に登場します なぜか古事記には記載されない 日本書紀は対外的な広報誌のようなものなので 魏志倭人伝なんかと整合性を持たせるためではなかったのか 菊理は括りの事を表すとしたら 倭国大乱を治めた日御子?と比定してよいのではないか
ところで中国人が卑弥呼の文字を(ヒ・ミ・コ)と読まないのは確かです 魏志倭人伝はいろんな資料の引き写しです 聞き書きが元になっているでしょう となると3世紀の日本人は倭国大乱を治めた人物を(ひみこ)とは呼んでいなかった
当時の中国人の発音は分かりませんが (ピィ・ミィ・フゥ)という感じであったろうと思われます とすると姫神(ひめみわ・ひみわ)という呼称だったか 名前というか固有名詞で呼ぶことは考えられない
ミは回る・曲がるという意味で 敬称・美称というより蛇を表します 祭神は九頭龍でしょう また大神(大蛇)は酒の神でもあります 鬼道はおそらくトランス状態になりますから酒はつきもの? 日本酒醸造ではワインと違って水が重要です 水神(蛇)と結びつく由縁です
07 室町時代に築城されたという小田原城は 戦国時代に至って総構えと呼ばれる城塞都市にまで発展しました ギリシャ・ローマの都市国家に近いものかもしれません 海に面した土地柄もあり 水田との結びつきは薄くなっています
織田信長の安土城は 山城の概念からかけ離れた居城です もはや戦略的な意味より 威光を示すための政治的な建築物です もともと信長は米に依存しない領国経営を進めていましたから このような発想ができたのです
熊本城も城郭だけで成立するものではありません 曲がりくねった道路と町の区割りは計算されています 大事なのが川の流れを制する護岸工事 敢えてうねらせた川筋とし川底に岩山を造るという工法です 洪水で水が溢れることはなかったといいます
地震で城の石垣が崩れたのは 古い土台の上に城の姿を真似た コンクリート製のビルを建てたからです 木組みの建物は制震機能を持っているのです
08 戦国時代 上杉謙信の軍資金は直江津港・柏崎港の通関税が多くを占めていました 春日山城は低い山城ですが 直江津港を扼する地点にあります
古墳で小規模な方墳・円墳の中には 丘陵や山の中腹に作られたものがあります これも交易を管理する砦の意味があったと考えられます
09 河川や山稜は自然の要害となります 日本海もそうですね 人為的な国境線には何らかの建造物が造られます 海に境界線は引けないので 日本に明確な国境線はありません
10 短粒種の稲作は8000年ほど前 長江あたりで始まったとされます 大麦の栽培もその頃でした(寒冷地で栽培可能な小麦はさらに後) 世界的な寒冷気候により食料が不足し農耕が始まったといいます 長江を境に南と北では風土が違いますから 気候に合わせ南は米作(粒食)北は麦作(粉食)文化となります 日本は緯度からいえば北になりますが 海流の影響で温暖多雨な気候風土から 稲作が主になったのです
11 朝鮮半島南部で鉄製品の素材となる粗製鉄が発掘されます 半島南部は日本の支配下にありましたから そこで原材料を作り日本に移出 精錬し鉄製品を製作したのでしょう
12 いま日本の米作は個人の小作(平均1.5町歩)と法人組織の大規模経営があります 大規模経営といっても実際に農作業に関わるのは数人の少人数です 米作りは集約農業ですが 大型の機械を使えば1人で5町歩以上の田圃を維持運営できます そのため大規模経営は土木業を兼ねていることが多いようです
13 周りを掘り下げてその土で土塁を築くと空堀になります そこに水を引けば水堀です 環濠のある古墳はやはり水田工事の技術と共通しています この頃には道路の整備も行われていたようです 道路は盛土をしてあった痕跡があります 用水路と道路は並行して造られたかもしれません
南米のピラミッドも祭祀場であったようです この祭祀はやはり農業祭です 道路も整備されていました 古墳と共通していますが水利との関係はよくわからない 日本にも奈良をはじめとして 各地に階段ピラミッド状の古墳があります が古墳といえるのかどうか分かりません
石積ではなく山を削り取って形作ったものがあり 耕作や祭祀の跡も見られます 墳墓ではないようです 棚田あるいは段々畑との区別がつきにくい そういえば棚田は階段ピラミッドとそっくりですね 南米の階段状ピラミッドも段々畑を模したかもしれない
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神も仏も

神社は拝殿でした 神を遥拝する場所(神籬)だったのです いつの間にか神が降り立つ場所となり 御神体や依代を祀るようになります 古墳時代から飛鳥時代あたりでしょうか 社殿が作られるのは 自然神から人格神に変わった頃かもしれません[01] … Continue reading
天照大神を天の岩戸から迎える場所に 逆木を立てたと言いますから これが神籬のはじめと思われます やがて神籬に建物ができ本殿とされるようになりました 賢木(榊)は神木に変わり本殿内には心御柱があります 神の数詞が柱となるのはこの後でしょう

仏壇も同じことです 在家で仏を拝むための場所です 仏閣は神社と違い本来は僧が修行するための道場 生活の場でもあります 伽藍構造では講堂・庫裏・食堂などが重要な施設です 信徒が参拝するのは仏像のある金堂です
仏間は金堂を模したものです 金堂に設けてある須弥壇のミニチュアが 仏間に造作される仏壇です 古くからの家では床の間のように造り付けています 江戸時代の後期あたりから 家具のように置かれる形 大型の厨子になったと思われます

伊勢に天照大神を祀ったのは大和王朝の時代とされます それまでは五十鈴川(⇒猿田彦)が御神体でした[02]サルタヒコは道案内の神とされますから 道祖神(⇒塞の神)と同一でしょう 神宮はもともと心御柱を覆う屋根でした 式年遷宮[03] … Continue readingのための隣地に小さな社(屋代=屋根を架ける場)が建っていますが ここも心御柱が中にあります 心御柱が依代であり八咫鏡が形代でしょうか よく分からん
五重塔にも芯御柱があります これは神社と違い構造材です(最初は基壇に仏舎利を納めたらしい) 棟持柱の代わりに一本の柱で塔を支えています[04] … Continue reading 諏訪大社の御柱祭 伝えられる出雲大社の姿 復元された三内丸山の巨木建造物を考え合わせると 日本人の信仰が見えてくる気がします

神は神社にいません 仏も仏壇にはいない あるのは依代や仏像だけです 仏教に詳しくなくよく分からないのですが 西方浄土はどこから来た信仰なのでしょうか 阿弥陀三尊の御来迎は山を越えてです 私には夕焼け小焼けからと思えるのです
太陽が没する前に空が茜色に焼けます 茜は西の字が含まれます夕焼けの色です 日が沈むと空の色は濃い紫となりますが 一瞬の後ふたたび山の端が茜に輝くときがあります 小焼けですね 阿弥陀如来の慈悲の光が射すのです[05] … Continue reading
当家は浄土宗なので大日如来となると全く分からない 太陽そのものや日の出を象徴したのではないらしく 強い光で遍く地上を照らす存在と言います 聖霊なる神と似ている面がある 密教の成立は6世紀とされますので 西洋宗教の影響を受けた可能性はあります

註釈

註釈
01 キリストを神格化するカトリック教会の権威が確立されたのも7〜8世紀ですから 人格神への移行は世界的な潮流であったかもしれません むろん回教徒のいう偶像崇拝とは全く異なる信仰の姿です
02 サルタヒコは道案内の神とされますから 道祖神(⇒塞の神)と同一でしょう
03 伊勢神宮の式年遷宮 春日大社の式年造替 出雲大社もかつては建て替えていたようです 何れにしても神社は仮のものだったことが分かります 諏訪大社も熊野本宮も大神神社も同じです もともと建物はなかった 大神神社は日本最古と言われ おそらく縄文時代から祀られています 三輪山が祭神であり神社は拝殿のみです 沖縄の御嶽は自然の岩組が原初の姿を留めています
04 大黒柱は棟持柱ではありません 台所にある柱で一家の主婦が司ります 大黒は食の神様で俗語で「うちの大黒」といえば 主婦を指すのはご存知の通り 家中で一番太い柱というのは風説です 屋台骨と混同したのかもしれない
棟持柱は通常2本あります 当たり前のことですね 大黒柱は1本だけです 下の方に粥を供える風習があったそうです 地域によっては梢を下にした 逆木で立てると聞いたことがあります 心御柱から来たのではないか
05 夕焼けで子供らの顔が赤く染まります 小焼けは小さな光で なかなかこちらまで届きません 海に沈む夕日も見たことがあります 荘厳で美しくはあるが御来迎とは見えない おそらく小焼けもないと思います 平安時代のご来迎図は ほとんど山越えですね 京都は盆地ですから
地球の大気を横から見ると 成層圏が青くその先は次第に紫となっていきます 大気圏は無色です 日中に天を仰げば成層圏の青が見えます 成層圏に近づくほど空の色は青紫になっていきます 反対に陽が沈むときは大気圏の層が厚いので 成層圏の青色が届かず黄から赤の色が見えるわけです
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きな粉餅のこと

正月のきな粉餅

きな粉餅はなぜ正月に食べられるのでしょう 巷説では東海道名物安倍川餅が きな粉餅の始まりといいます 慶長年間に弥勒の茶屋が売り出しました しかし奈良や熊野で正月に食べるきな粉餅は それ以前からの慣わしとしか思えません[01] … Continue reading
きな粉餅以外に 芋と米を搗き混ぜた団子に きな粉をまぶしたものが 月見に供えられていました やがて月見の団子は米粉(新粉)だけになりましたが 芋と米を搗き混ぜる芋餅は 各地の伝統食として残っています

きな粉餅が正月に食べられるのは 縄文文化と弥生文化の習合を表す気がするのです[02] … Continue reading 縄文は芋文化 弥生は米文化と私は思っています 縄文と弥生は変遷しながら一繋がりに続いているということ
地域によっては 雑煮にあんこ餅を入れるところがあります 水稲米の文化に移行した後も きな粉餅やあんこ餅という形で 縄文の習俗が守られていたのではないか[03] … Continue reading 現在一般的な餅米の搗き餅は江戸時代に広まったようです

きな粉と小豆あんは縄文 餅は弥生を表す

通説では大豆の栽培は弥生時代から きな粉は室町時代に一般的になったとされます きな粉餅はそれ以降に作られたことになります しかしこれは文献初出がその時というだけのことに過ぎません 埼玉の縄文中期遺跡で出土した土器から大豆の圧痕が見つかっています しかも野生ではなく栽培種らしいのです 小豆も縄文時代から栽培されたことが確認できています[04] … Continue reading
粢餅というものがあります 米粉を水に浸して卵形(里芋形)に作ります 古代には木の実や豆でも作りました いわゆる縄文クッキーですね オコシ[05] … Continue readingや五家宝また州浜などのルーツです 小豆は軟質ですから茹でるだけであんこになります 小豆に比べて大豆は硬質なので 調理しにくいことは確かです 煎った大豆を粉に挽いて用いたのは かなり古いと思いますね[06] … Continue reading

江戸の雑煮と東京の雑煮 餅と雑煮は別に食べる

正月料理の代表である雑煮に餅を入れます 元来は様々な具(供物)を一緒に煮たのが雑煮です[07] … Continue reading 奈良・熊野だけでなく江戸でも雑煮は まず煮た餅を歳神様(恵方)に供えてから食べ そのあと他の具を汁と共に戴くのが順序でした 餅を食べるのと雑煮を祝うのは別々のことだったのです 餅を温めるため雑煮の鍋に入れていたのが 一緒に食べるようになったと思われます 雑煮にあんこ餅を入れたり 雑煮の餅にきな粉を付けて食べるのは 古来よりの慣わしが変化してきたのでしょう[08] … Continue reading
奥州では正月に様々な餅を食べます きな粉餅あんこ餅だけでなく ずんだ餅や海老餅に胡桃餅など 家庭により色々のものを取り合わせます 砂糖醤油で餅を食べるのも なかなかいいものです 沖縄のコーレーグスと醤油を合わせて(勝手に辛味醤油と呼んでいます)つけ 磯部巻きにしたのはかなりよい 実をいうと私自身は きな粉餅をあまり好きじゃない

【付記】 粳米で作る 新粉餅・五平餅・キリタンポなどは 挽餅・鄙餅等と呼ばれます ハレの食べ物ではなく日常や法事で用いるケの食です 搗かず粉に挽いて捏ね蒸して作る餅 越後の笹団子も近いですね 母方の祖母から聞いた話では 年貢米の目溢し分を使ったのだといいます
四公六民の割合で納める年貢米は籾です 役人が規定の一升枡で量りますが この時わざと溢す(量目を溢す) 溢れた籾は敷いた筵ごと回収します 溢(こぼ)すは溢(あふ)れるの意味ですから お目溢しの目は見て見ぬ振りでなく目盛の目 すなわち役人の裁量(温情)のことを指します 不作時の調整の意味もあったかもしれません
石高は上田・中田・下田の石盛に面積をかけて決められます 水田(上田)以外の畑(中田)や屋敷(下田)も含まれます 肥沃な上田なら1町歩20石以上は穫れ 上・中・下の全体を概算するとほぼ1反1石に当たります 田んぼの面積ではないので 公称石高と実際の収穫量は一致しません 畑の作物は年貢として収める必要がなく 米よりも高く売れれば実質的な増収となります 屋敷の地内に作物を植えることも可です
筵に落ちた目溢しの籾は 踏まれて屑米になります 屑米を水に浸すと藁・籾殻が浮く 水を捨て残った米を挽いて捏ね 蒸したり焼いたりするという具合です(正規の粳米を粉に挽けば上新粉となります) なお陸稲は糯米が多く糯米は年貢米ではありません
冷涼な気候で米があまり穫れない信州では 小麦粉を使ったお焼きになります 米以外の作物が盛んに作られれば各地の名産品として知られます 信州の蕎麦なんかは代表でしょう 大消費地の江戸に運ばれ蕎麦切りが流行しました 関西で蕎麦が馴染みでないのは 大阪が米の集散地であったことからでしょうか

註釈

註釈
01 安倍川餅が評判を呼んだのは もともとあったきな粉餅に 貴重な白砂糖をかけたからです なので本来きな粉と砂糖は混ぜ合わせるものではありません きな粉をまぶした餅に白砂糖をかけたのが安倍川餅 物の本には安倍川の砂糖餅とあります(一口大の餅が五文でした)
02 弥生よりはるか後代に神仏習合がありました この時も神道と仏教が交代するのではなく 互いの姿を保ちつつ適合していきます 宗教の観点からは仏教も神道も多神教という点で親和性があります
一神教はまったく異なる教義です 正義は神を信ずる我のみにあります 他と棲み分けることはできません 日本人に合わないのは道理です
日本はそれぞれの伝統を絶やすことなく 混淆して引き継ぎます 縄文の陸稲と弥生の水稲 粳米と糯米 芋と米 餅と豆など
03 あんこ餅というと甘いものを想像しますが 江戸時代の大福餅は塩餡を用いたものをいいます 餅菓子ではなく腹塞ぎの軽食でした 各地に残るあんこ餅入り雑煮は もともと甘い餡ではなかったのです
埼玉県北東部に塩餡餅(しおあんぴん)があります 砂糖を一切使わない塩味のあんこ餅です 砂糖醤油をつけて食べるのが一般的ですが 昔は雑煮に入れたそうです この地域一帯には古墳群が数々あります 古の姿を伝えているのではと思えます
埼玉は越ヶ谷宿で 塩餡大福を作っている菓子屋さんがあります 甘さで味をごまかせないので 餅が旨くないと成り立たない 日持ちもしない 昔ながらのものです こちらは砂糖きな粉でいただきます そのまま食べても大変うまい
04 石器時代のずっと後ですから 縄文時代には石臼の原型が使われていたとしても不思議でないこと(精巧な加工技術の勾玉は縄文時代から作られています) 平安時代に初めて中国から干菓子がもたらされたわけでない 文献に記されたのがその時代というだけです ミシャグジ神を祀る時に石棒と石皿が使われます これが石臼の原型ではないでしょうか 信州のお焼きは相当古くからあったと思われます
なお餅という字は中国(漢民族)では 小麦粉を練った食品を表し パンやクレープとか月餅のようなものを言います 文字を借りただけなので 米から作る日本の餅とは異なります もともと中国北部は米が栽培できず 小麦粉文化圏です
05 オコシの名の由来は 名古屋でひな祭りに作られるおこしもの(オコシ餅)と同じでしょう 練った米粉を型に押し付けてから蒸す餅です
今日見られる糯米の搗き餅が一般的になったのは 江戸時代に入ってからのようです それまでは米を粉にして蒸す練り餅が普通でした 小正月の行事に使うのは練り餅や粥となります これが古式です
06 切り分けて小正月に掻き餅にするナマコ餅があります 寒中に搗いて寒晒しにするので寒餅とも言いますが これは掻き餅の音便変化かもしれません また煎った大豆が入る豆餅も昔からのものでしょう ナマコ型なのは搗くのではなく 上新粉や白玉粉を捏ねて蒸す餅だったからです
07 なぜ雑煮なのか 様々な食物は全て自然の恵みであり 八百万の神々がもたらすのです その土地でとれるものを感謝していただく 決まりはないから雑煮です 新潟の雑煮は鮭や根菜類が入った具だくさんなものです 雑煮は名の通り煮物であって汁物ではないから 古の姿に近いのかもしれない
08 東京の雑煮は 焼いた切り餅と鶏肉が入った澄まし仕立てです これは明治以降のこと その前は味噌仕立てでした 醤油仕立ての雑煮は東京風であって お江戸の風ではありません 鶏肉が入るところを見ると薩長が始めたことでしょう 鬼平犯科帳に登場する五鉄のように お江戸ではカシワじゃなくシャモが一般です(雑煮には入れません) 江戸時代でも小松菜は使われましたし ほぼ正方形の大きな角型切り餅でした
丸い餅と角型の餅は見た目じゃなく 搗いた餅を丸めるか伸すか 作り方の違いです 家で搗いたならちぎって丸めるでしょうし 賃餅なら伸し餅で納めます これを切れば角型になります できた形に意味を持たせたのではない ですから角餅とは言わず切り餅と呼びます お江戸の餅が角型になったのは 餅を丸める女手が足らなかったのが理由です
夏場に搗く餅は 腐敗防止のためちぎって笹の葉に包みます 箱にぎっしり詰めると角丸の四角になる また鏡餅の原型は 平たく伸した餅を丸く切り 重ねたもので 文字通り鏡の形を模していました これを二つ折りにすると花びら餅です(鶴屋吉信では御所鏡と名付けています 宮中の行事に使った鏡餅が下賜された故です) 現在の鏡餅と言われるあの形は 備餅というものでした
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