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タグ: 正月

古代びとの信仰

自然神信仰

吾が国において 畏敬・崇拝の対象になったのは 美しい風土ときに厳しい自然そのものではなかったか 自然とは無常です 移ろい行くものです 繰り返すから永遠
お釈迦さまの説いた仏教は 穢土(此の世)を逃れ 浄土(理想郷)を目指すものでした しかし吾が国人は 美しい国土に浄土を観ました 現世を美しく思う浄土現前
花鳥風月 虫の声まで愛でるのが 日本人の心です 今ここにある たわい無いものが 尊く美しい[01] … Continue reading 現実逃避したり 我欲にとらわれないのが 和の習いなのです

仏教がいう穢土とはカースト制のことです 生まれながらに階級が定められるので 死をもってしか自由・平等は得られません[02] … Continue reading 一神教が生まれたのは過酷な砂漠です 限られた緑と水を部族間で争奪する世界 互いに闘い現実を克服するのが生きることです[03] … Continue reading
仏教は現実逃避であり一神教は戦う宗教と言えます 縄文時代の暮らしぶりは分かりません 日本の気候風土は比較的おだやかです そこに住む人たちは あるがままに穏やかな生活を送ってい 互いが争うことは少なかったでしょう

惟神の道とは 四季の巡りに委ねることかと思います あらゆる作物も漁撈も狩猟も すべて自然の恵みです 自然によって生かされていたのです 自然からの恵みに感謝し自然の災いを慰撫する 祈りと祭りが吾が国の人々の信仰でした
これが変化したのは水田でしょう 水稲米は陸稲に比べ収穫量が多いものの 治水のため大規模な土木工事が必要になります 米作りそのものも集団作業です 統べる者が現れ 水利を囲って諍いが起き ついに武装するに至ります[04] … Continue reading

人格神信仰

八岐大蛇を退治た素戔嗚尊は 川の流れを制し奇稲田姫を得ます 米作りの神です にもかかわらず高天原で田圃を壊したりしています 米作りの神は風雨を司る天候の神でもあります 雨風は稲作に欠かせないが過ぎれば暴風雨なのです 地上に追放されて 大宜都比売命から食物を分け与えられますが これを斬り殺してしまいます 食べることは穢きこと 生きることは命をいただくことです
縄文時代の動植物を象った生贄が次第に土偶の姿となり 大宜都比売命・保食神の人格神と繋がります 土偶は動植物から人格への過渡的形態です すなわち記紀で描かれるのは 自然神から動植物神そして人格神に変わったことの象徴と見ます 芽生えは生であり収穫は死です 大気都比売神は斬られ土偶は欠かれます 命は奪われて伝えられ繰り返されるのです

和国大乱を鎮める日女御子は縄文への回帰であったのか 私には「なよ竹のかぐや姫」と重なって見えるのですが 御門をも袖にする月の世界の人 月の光は武装した者を無力化します 最後に天の羽衣が登場します 衣・食・住といいます 衣が人の帰趨を決定するのです(旧約聖書・創世記では食が最初でしたか)[05] … Continue reading
羽衣伝説は海辺や川縁が舞台です また地上に留まった天女は豊受大神とされることが多い 竹取物語はいろいろな伝承が入り混じっていて とくに後段は阿弥陀三尊の御来迎に影響されているかもしれません とすると かぐや姫は穢土から浄土へと向かったことになります 月の世界は不老不死で四苦はない その代わり喜怒哀楽も情愛もない世界です 清浄であるが豊かとはいえません[06] … Continue reading

縄文と弥生の信仰

満月を愛でるのは実りの秋です 竹籠に盛って供えるのは芋と栗と豆です 三方に団子は江戸時代に入ってからのこと 竹取物語には月を見るは忌むことという件があります 稲作の神である太陽神と 他の作物や漁業の神である月の神との葛藤が伺えます[07] … Continue reading
あらゆる祭礼の本祭は宵祭の神楽です そして神の遷座があります 天の羽衣に着替え月に帰るかぐや姫の乗る御輿(車と書いてありますが 宇宙船でしょうね)は宙に浮かびます 祭礼の神輿は決して地面に置くことはありません

正月15日は小正月です すなわち新年最初の満月の日 古人は冬が明けて春を迎える火祭りを執り行いました どんど焼き・塞の神は縄文からの習いでありましょう 小正月・女正月といいますが(大正月という言葉はない?)新年の祝いは十五日正月でした[08] … Continue reading  縄文と弥生は八百万の神として 時には争いながらも 一万年以上の時を共に栄えてきたのです

おそらく縄文の昔からであろう 吾が国古来の信仰は現在でも民間行事の形で受け継がれています 雑煮・塞神・小正月・月見などなど 記紀が編纂され天津神と国神が系統づけられても 外来の仏教が取り入れられても 儒学が採用されても キリシタンの布教があっても 揺らぐことなく大和心として国人の裡に生き続けます

註釈

註釈
01 10世紀初めに遣唐使を廃したことにより 中国の影響を脱した 和の優美な王朝・宮廷文化が形成されました 源氏物語・枕草子・和泉式部歌集を頂点とする 雅な国風です 日本文化の担い手は女性でありました
鎖国政策によりキリシタン文化を排し 江戸時代に上質で多彩な庶民文化が花開きました このサブカルチャーは営々と受け継がれ 今日の漫画・アニメーション文化となっています
02 インドで仏教が普及しなかったのは根強いカースト制のためです(女性はカーストの枠外なので不可触賤民と同等とされます) 仏教は命あるものすべてが平等と説きます 釈迦と同時代の孔子が説いた儒教は 長幼の序・男尊女卑など 人は生まれながらに優劣があるとします この差別主義を敷衍すれば 中国人の選民思想・中華思想に繋がります
あらゆる衆生を救うとする仏教は インドのみならず中国でも受け入れ難かった 日本は階級・身分のない社会です だから仏教が受け入れられ繁栄したのです 日本が取り入れた大乗仏教は差別なく衆生を救うのを旨とします 女人禁制は儒教の影響を受けて後代(おそらく江戸時代)に言い始めたことです 尼寺・比丘尼は珍しくもなく 女性住職の寺もあちこちにあります 中国の男女差別は徹底していて 宋代の記録を見ると女性は ほとんど物扱いです
03 一神教では 人間は他の動物より優れた特別の存在 そして神を信ずる者同士だけが平等です これも選民意識です 洗礼が最も大事な儀式とされるのは 水が貴重だったから 旧約聖書で神が洪水で人類を滅ぼしたのは どう解釈したらいいのでしょう 神の嫌味?
04 狩猟・漁撈の世界でも指導者の元で共同作業です また入会権という形で漁場・狩場は決まっていました しかしそれは利用権であって占有権ではありません 山野・海川の恵みを利用するのと違い 水田の構築は人為的なものです したがって作った者・集団に所有権があります 農地に適した土地は限られます とくに水田は水利が重要です どうしても土地争い水争いが生じてしまうのです
05 天照大神が天の岩戸に隠れたきっかけは 素戔嗚尊に機織りを邪魔されたからです 天の羽衣を織っていたのでしょうか 食の要である田圃を壊したりの乱暴狼藉は許したが(自然災害です) これには堪忍袋の緒がブチ切れました
オリュンポスの神々は半裸体で描かれることが多い気がします ヒンズー教の神々もそうです 仏像でも粗末な衣装ですね 糞掃衣というそうです お布施は文字を見ればわかるように 布を施したのが始まりです 〝仏像の服装の意味〟たいへん参考になります
一神教に食べ物・飲み物の戒律があるのはなぜなんでしょう 食糧事情が安定しない風土であることは確かです 仏教の教えにも戒律はありますが 食べ物に関しては特に煩いことを言わない 生臭ものを食べないのは修行の妨げになるからで強要はしません 禅宗は不許葷酒入山門とか言ってながら 般若湯と称して酒も飲みます 日蓮聖人は大の酒好きだったと伝わります
06 地上の穢きものを食べたかぐや姫は 月の世界へ帰るために薬を飲みます この薬は地上でのことを全て忘れてしまう まさに六根清浄ですね 仏教が関係している 人間が飲むと不老不死になるというから 中国の神仙思想の影響もありそうです 御門がこれを富士山で焼き捨てるのは 吾が国の伝統に習った正しい判断です 不老不死は生きることではない 不変は決して永遠を表さないのです 外来の仏教(中国経由のため老荘思想などの影響があります)もそのままではなく 日本流に換骨奪胎しアレンジしてしまいます
07 日女子は生涯独身でした かぐや姫も求婚を断り続けます 日女子と接するのは一人の男だけだったといいます 竹取翁に比定できるかな かぐや姫は月の世界の人でしたが 日女子は天照大神に仕えたと思われます
鬼道(奇道)がよく分からない 争いを治めたのだから 武装を無力化する月光を操るのかもしれない 今でも大嘗祭は夜に行われますし 日没や夜明けに月と太陽が同時に見えることがあります 必ずしも対立しているわけではないでしょう
08 1月1日 3月3日 5月5日 7月7日 9月9日といった数字合わせの いわゆる節句は 大陸から伝わったと思われます(なぜか江戸時代には1月7日を人日と称し五節句としました) いま年中行事とされているものには 宮中から民間に広がった唐様が紛れ込んでいます 新年に日の出を拝むのは近年のことです 昔より伝わる民俗行事の方が大切です 月を愛でる十五日正月が古来(おそらく縄文)よりの正月祝いです
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祭り(祀り)の意義

鎮守の森

日本人は森の民でありました 熊野本宮大社はもと川の中洲にあった森を祀った神社です 現在の主神である(けつみみこのおおかみ)は樹・森の神です まさに鎮守の森の原型といえましょう なお中洲は(おおゆのはら)といい 大斎原と書きます
熊の字は〈ゆう〉とも読みます これは漢音でも呉音でもなく 慣用的な音です 古語と思われますが語源・意味とも不明です 大斎原の斎は〈いむ〉のほか 斎木〈ゆき〉などの読みがあります 〈ゆ〉の音に斎の字を当てただけでしょう

してみると熊野は〈くまの〉ではなく 〈ゆうや〉〈ゆや〉あるいは〈ゆの〉であったかもしれません 熊の字を当てた理由は森の主が熊だから? しかし神武東征で熊の化身が現れたというものの 熊祭りが行われていたという伝承はないようです
宮沢賢治の童話「狼森と笊森、盗森」は 森と人との関わり信仰を描いています 狼森は〈おいのもり〉と読みます 〈おおかみ〉は大神からの呼び名でしょう 森の主は狼であったのです (おいの)は東北地方の言葉ですが方言は古語が残ったものです これも語源はよく分からない
古代は山や島・川・湖など自然そのものを祀りました 森もそうだったのでしょう 動物が表象また使いとされることがあります 白蛇や狼・白鹿など でも熊はアイヌのイヨマンテ以外は知りません

南方熊楠大人が明治政府の行った神社合祀に対して大反対を唱えました 数々の理由を述べていますが 森林が失われることに危惧を抱いたのが 最大の理由です 博物学者らしい動機ではあります[01] … Continue reading
八百万の国神は土地から切り離され 所縁のない神社へ合祀されました 神社に複数の神が祀られこととなったのです[02] … Continue reading 神社合祀により数多の鎮守の森が失われたのは事実です(実態は神木を切り倒して用材として売り 統廃合の費用に当てようとしました でもほとんど値が付かなかった)
狼森が失われたため狼(大神)は姿を消し 里山が荒廃して日本の風土は一変しました もはや我々は森の民などと名乗れません この始まりは薩長明治政府の神社合祀だったのです

廻りと繰り返しが永遠

四大文明と言われるところは 平野を大河が流れています 雨期の泥水が土地を肥沃にし その水を用水池に貯めておき乾期の灌漑に使います 日本はほぼ温帯湿潤気候なので雨は降りますが 山国のため急流が多い 水を溜めておくことが難しいのです 治水は照葉樹林(里山)の保水力を頼る段々畑や棚田となります 山田は巨大な溜池とも言えるのです[03]水稲米の拡がり(北上)は伝播というのが正しい 中国からもたらされた  … Continue reading
治水はある程度可能とはいえ 天候を人智で左右することはできません 日照りに対しては祈るしかないのです 荒ぶる神(風雨の神)であった素戔嗚尊が 太陽神天照大神に服属するのは自然な姿です 月読尊は標の神 豊穣の実りを示すとともに 海洋神・漁業神でもあります[04] … Continue reading

この三柱の神々を祀ること(祭り)が 米作りで成り立つ瑞穂の国の姿です すべての祭りは農事祭です 日ごとに日の出を迎え 月は廻り 四季が一巡すれば実りが齎されます 日本の風土・自然と共に生きること すなわち祈りと祀り(祭り)が古代神道そのものです[05] … Continue reading
もっとも重要で縄文時代から行われていたのが 夏至の水祭りと冬至の火祭りです 田植えの時には早苗饗(さなぶり) 穂がつき結実すれば夏越の祓え 各地の秋祭りは収穫祭です 正月はもと新年初めの満月を祝うものでした 十五日正月といわれます[06] … Continue reading

天照大神 月読尊 素戔嗚尊は天津神三兄弟 それぞれ太陽神と月の神 ならば素戔嗚はなんの神か 自然現象を神格化したのは間違いない 行動を見ると天候の神でしょうか[07] … Continue reading 稲作関連ならば水に関係する 気候(四季)を表すのなら 年の神となります
日の神・月の神・年の神で三神 太陽と月の周りは農事に そして四季(特に降雨)は稲作と深く関わります 三種の神器はそのまま三柱の神を表し 形代なのです
八咫鏡は太陽を表します 八岐大蛇の尻尾から出た剣を 素戔嗚尊は天照大神に献上しています 天叢雲は文字通り雨雲を表し 刀身は稲光[08] … Continue readingの象徴です ゼウスの武器が稲妻であったように鋭利な剣です 月を読むとは農事暦ですから 八尺瓊勾玉は月日を数える標でありましょうか[09] … Continue reading

註釈

註釈
01 神社合祀は市町村制と深く結びついています 廃藩置県の次に全国の村落を統廃合して 新しい行政区域をつくりました 村々が統廃合されると ひとつの村に複数の産土の神が存在することになります
農業ことに稲作は神道と切り離すことができません 米作りと祭りは共に集団作業で不即不離のものなのです 集落は土地の氏神を中心としていました 一つの集落に一つの鎮守様があったのです
規模の大きい神社で複数の神を祀ることは 明治以前からありました これは主に吉田神道などの影響です 箔をつけるためでしょうか色んな神を勧請したのです また一つの神が二つ以上の名を持つとされることもあります
02 明治政府の国家神道(神社神道)は もともと対等であった八百万の神々(鎮守様)を 伊勢神宮(天照大神)を頂点とする階層構造に組み入れました 中央集権の政治体制を正当化するため 神社も統合したのです
このような序列・系統立ては延喜式の昔から行われましたが 明治政府は廃仏毀釈といいながら 一方では摂社をも廃しました そのため各地に伝わる民間伝承も 次第に失われることになったのです
03 水稲米の拡がり(北上)は伝播というのが正しい 中国からもたらされた  などということはありません 日本人が風土に合わせて品種改良した結果 少しづつ耕作地が広がり 熱帯ジャポニカ・温帯ジャポニカができました 中国大陸では長江を境に 南は水稲米が主でしたが 北進することはありません 冷涼な気候に加え乾燥地帯だからです 主な穀類は粟・稗・高粱でした 後の時代に小麦・大麦が栽培されます
04 蟻の熊野参りという言葉があります 熊野は古くから信仰されていました 紀伊半島は稲作に適さない土地柄で 漁業および海上交易が盛んであり 熊野水軍と呼ばれる勢力が 大阪湾から瀬戸内海を支配するようになります
魚付きの森というように森はまた海とも深い縁があります 熊野と月読命は関係ありそうですが 記紀の編纂から吉田神道そして神社合祀と 各地の神社の言い伝えは改竄され失われてきました 古の姿はわからなくなっています
05 祭りには御神楽が奉納され御神酒が供えられます 酒は米の精華であって神聖なものでした 原初の酒は生米を使った水酛づくりだったと言われます
水稲米が作られる以前にも酒は醸されていました 長野県の井戸尻遺跡(5000年前)からは 果実の種や皮が付着した有孔土器をはじめ さまざまな酒器が発掘され 秋田県の池内遺跡や青森県の三内丸山遺跡でも ニワトコの実を醸造したと思しき痕跡が出土しています 縄文のワインです
縄文時代で既に酒造りに土器が使われています 米を使った日本酒(の原型)でも甕で発酵させていたでしょう 酒母は炊いて糖化させた飯です 沖縄で神に供える酒は炊飯ではなく 口で噛んで糖化させ醸したものだったそうです 火を使わないのはおそらく宗教的な理由からと思われます 延喜式に蒸米を使った種麹の記述が見られますから 平安時代中期には現在に近い酒造りが確立されていたのです
06 ナマハゲなどの行事は古代神道の姿を伝えます 柳田國男の「遠野物語」に見える オシラサマは 正月十五日に白粉を塗って祭るとあります 歳神様は中国からやってきました 七福神もほとんど外来の神です 現在行われている正月行事は 古来(縄文)からのものと中国由来の節会とが混合しています
07 素戔嗚尊は時に泣き叫んだり 水田を壊したりと手のつけられない神です これらの行動は暴風雨を表すとみていいでしょう 半面で稲作の神とされていて 木を植えたりもしています 八岐大蛇を退治て(治水)奇稲田姫を娶るは 水稲米を栽培することです
08 雷が多いと豊作と古来いわれてきました 放電が大気中の窒素分を水に溶け込ませるというのです ゆえに稲妻です 天叢雲剣が稲妻・稲光を表すとしたら 七枝刀の形がふさわしいのですが 誰も見たことがないので なんとも言えません
09 数珠もロザリオも数取りに用います 八尺は大きさか長さを表していて 勾玉の数は四季を表すなら4個です 新月から満月の月齢だと12個になります そして管玉が間に30個ずつなら 全体で一年を表します 月読命は縄文の主神であったかもしれません
天岩戸隠れは日蝕ではなく 春を迎える冬至祭りでしょう 日蝕はそう度々起こることでないし 稲作に影響があるわけでもない 賢木を根こそぎ抜いて飾り立てるのは クリスマスツリーを思わせ 天宇受売尊が足音を立てて踊るのは 鳥追いを偲ばせます
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きな粉餅のこと

正月のきな粉餅

きな粉餅はなぜ正月に食べられるのでしょう 巷説では東海道名物安倍川餅が きな粉餅の始まりといいます 慶長年間に弥勒の茶屋が売り出しました しかし奈良や熊野で正月に食べるきな粉餅は それ以前からの慣わしとしか思えません[01] … Continue reading
きな粉餅以外に 芋と米を搗き混ぜた団子に きな粉をまぶしたものが 月見に供えられていました やがて月見の団子は米粉(新粉)だけになりましたが 芋と米を搗き混ぜる芋餅は 各地の伝統食として残っています

きな粉餅が正月に食べられるのは 縄文文化と弥生文化の習合を表す気がするのです[02] … Continue reading 縄文は芋文化 弥生は米文化と私は思っています 縄文と弥生は変遷しながら一繋がりに続いているということ
地域によっては 雑煮にあんこ餅を入れるところがあります 水稲米の文化に移行した後も きな粉餅やあんこ餅という形で 縄文の習俗が守られていたのではないか[03] … Continue reading 現在一般的な餅米の搗き餅は江戸時代に広まったようです

きな粉と小豆あんは縄文 餅は弥生を表す

通説では大豆の栽培は弥生時代から きな粉は室町時代に一般的になったとされます きな粉餅はそれ以降に作られたことになります しかしこれは文献初出がその時というだけのことに過ぎません 埼玉の縄文中期遺跡で出土した土器から大豆の圧痕が見つかっています しかも野生ではなく栽培種らしいのです 小豆も縄文時代から栽培されたことが確認できています[04] … Continue reading
粢餅というものがあります 米粉を水に浸して卵形(里芋形)に作ります 古代には木の実や豆でも作りました いわゆる縄文クッキーですね オコシ[05] … Continue readingや五家宝また州浜などのルーツです 小豆は軟質ですから茹でるだけであんこになります 小豆に比べて大豆は硬質なので 調理しにくいことは確かです 煎った大豆を粉に挽いて用いたのは かなり古いと思いますね[06] … Continue reading

江戸の雑煮と東京の雑煮 餅と雑煮は別に食べる

正月料理の代表である雑煮に餅を入れます 元来は様々な具(供物)を一緒に煮たのが雑煮です[07] … Continue reading 奈良・熊野だけでなく江戸でも雑煮は まず煮た餅を歳神様(恵方)に供えてから食べ そのあと他の具を汁と共に戴くのが順序でした 餅を食べるのと雑煮を祝うのは別々のことだったのです 餅を温めるため雑煮の鍋に入れていたのが 一緒に食べるようになったと思われます 雑煮にあんこ餅を入れたり 雑煮の餅にきな粉を付けて食べるのは 古来よりの慣わしが変化してきたのでしょう[08] … Continue reading
奥州では正月に様々な餅を食べます きな粉餅あんこ餅だけでなく ずんだ餅や海老餅に胡桃餅など 家庭により色々のものを取り合わせます 砂糖醤油で餅を食べるのも なかなかいいものです 沖縄のコーレーグスと醤油を合わせて(勝手に辛味醤油と呼んでいます)つけ 磯部巻きにしたのはかなりよい 実をいうと私自身は きな粉餅をあまり好きじゃない

【付記】 粳米で作る 新粉餅・五平餅・キリタンポなどは 挽餅・鄙餅等と呼ばれます ハレの食べ物ではなく日常や法事で用いるケの食です 搗かず粉に挽いて捏ね蒸して作る餅 越後の笹団子も近いですね 母方の祖母から聞いた話では 年貢米の目溢し分を使ったのだといいます
四公六民の割合で納める年貢米は籾です 役人が規定の一升枡で量りますが この時わざと溢す(量目を溢す) 溢れた籾は敷いた筵ごと回収します 溢(こぼ)すは溢(あふ)れるの意味ですから お目溢しの目は見て見ぬ振りでなく目盛の目 すなわち役人の裁量(温情)のことを指します 不作時の調整の意味もあったかもしれません
石高は上田・中田・下田の石盛に面積をかけて決められます 水田(上田)以外の畑(中田)や屋敷(下田)も含まれます 肥沃な上田なら1町歩20石以上は穫れ 上・中・下の全体を概算するとほぼ1反1石に当たります 田んぼの面積ではないので 公称石高と実際の収穫量は一致しません 畑の作物は年貢として収める必要がなく 米よりも高く売れれば実質的な増収となります 屋敷の地内に作物を植えることも可です
筵に落ちた目溢しの籾は 踏まれて屑米になります 屑米を水に浸すと藁・籾殻が浮く 水を捨て残った米を挽いて捏ね 蒸したり焼いたりするという具合です(正規の粳米を粉に挽けば上新粉となります) なお陸稲は糯米が多く糯米は年貢米ではありません
冷涼な気候で米があまり穫れない信州では 小麦粉を使ったお焼きになります 米以外の作物が盛んに作られれば各地の名産品として知られます 信州の蕎麦なんかは代表でしょう 大消費地の江戸に運ばれ蕎麦切りが流行しました 関西で蕎麦が馴染みでないのは 大阪が米の集散地であったことからでしょうか

註釈

註釈
01 安倍川餅が評判を呼んだのは もともとあったきな粉餅に 貴重な白砂糖をかけたからです なので本来きな粉と砂糖は混ぜ合わせるものではありません きな粉をまぶした餅に白砂糖をかけたのが安倍川餅 物の本には安倍川の砂糖餅とあります(一口大の餅が五文でした)
02 弥生よりはるか後代に神仏習合がありました この時も神道と仏教が交代するのではなく 互いの姿を保ちつつ適合していきます 宗教の観点からは仏教も神道も多神教という点で親和性があります
一神教はまったく異なる教義です 正義は神を信ずる我のみにあります 他と棲み分けることはできません 日本人に合わないのは道理です
日本はそれぞれの伝統を絶やすことなく 混淆して引き継ぎます 縄文の陸稲と弥生の水稲 粳米と糯米 芋と米 餅と豆など
03 あんこ餅というと甘いものを想像しますが 江戸時代の大福餅は塩餡を用いたものをいいます 餅菓子ではなく腹塞ぎの軽食でした 各地に残るあんこ餅入り雑煮は もともと甘い餡ではなかったのです
埼玉県北東部に塩餡餅(しおあんぴん)があります 砂糖を一切使わない塩味のあんこ餅です 砂糖醤油をつけて食べるのが一般的ですが 昔は雑煮に入れたそうです この地域一帯には古墳群が数々あります 古の姿を伝えているのではと思えます
埼玉は越ヶ谷宿で 塩餡大福を作っている菓子屋さんがあります 甘さで味をごまかせないので 餅が旨くないと成り立たない 日持ちもしない 昔ながらのものです こちらは砂糖きな粉でいただきます そのまま食べても大変うまい
04 石器時代のずっと後ですから 縄文時代には石臼の原型が使われていたとしても不思議でないこと(精巧な加工技術の勾玉は縄文時代から作られています) 平安時代に初めて中国から干菓子がもたらされたわけでない 文献に記されたのがその時代というだけです ミシャグジ神を祀る時に石棒と石皿が使われます これが石臼の原型ではないでしょうか 信州のお焼きは相当古くからあったと思われます
なお餅という字は中国(漢民族)では 小麦粉を練った食品を表し パンやクレープとか月餅のようなものを言います 文字を借りただけなので 米から作る日本の餅とは異なります もともと中国北部は米が栽培できず 小麦粉文化圏です
05 オコシの名の由来は 名古屋でひな祭りに作られるおこしもの(オコシ餅)と同じでしょう 練った米粉を型に押し付けてから蒸す餅です
今日見られる糯米の搗き餅が一般的になったのは 江戸時代に入ってからのようです それまでは米を粉にして蒸す練り餅が普通でした 小正月の行事に使うのは練り餅や粥となります これが古式です
06 切り分けて小正月に掻き餅にするナマコ餅があります 寒中に搗いて寒晒しにするので寒餅とも言いますが これは掻き餅の音便変化かもしれません また煎った大豆が入る豆餅も昔からのものでしょう ナマコ型なのは搗くのではなく 上新粉や白玉粉を捏ねて蒸す餅だったからです
07 なぜ雑煮なのか 様々な食物は全て自然の恵みであり 八百万の神々がもたらすのです その土地でとれるものを感謝していただく 決まりはないから雑煮です 新潟の雑煮は鮭や根菜類が入った具だくさんなものです 雑煮は名の通り煮物であって汁物ではないから 古の姿に近いのかもしれない
08 東京の雑煮は 焼いた切り餅と鶏肉が入った澄まし仕立てです これは明治以降のこと その前は味噌仕立てでした 醤油仕立ての雑煮は東京風であって お江戸の風ではありません 鶏肉が入るところを見ると薩長が始めたことでしょう 鬼平犯科帳に登場する五鉄のように お江戸ではカシワじゃなくシャモが一般です(雑煮には入れません) 江戸時代でも小松菜は使われましたし ほぼ正方形の大きな角型切り餅でした
丸い餅と角型の餅は見た目じゃなく 搗いた餅を丸めるか伸すか 作り方の違いです 家で搗いたならちぎって丸めるでしょうし 賃餅なら伸し餅で納めます これを切れば角型になります できた形に意味を持たせたのではない ですから角餅とは言わず切り餅と呼びます お江戸の餅が角型になったのは 餅を丸める女手が足らなかったのが理由です
夏場に搗く餅は 腐敗防止のためちぎって笹の葉に包みます 箱にぎっしり詰めると角丸の四角になる また鏡餅の原型は 平たく伸した餅を丸く切り 重ねたもので 文字通り鏡の形を模していました これを二つ折りにすると花びら餅です(鶴屋吉信では御所鏡と名付けています 宮中の行事に使った鏡餅が下賜された故です) 現在の鏡餅と言われるあの形は 備餅というものでした
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