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情報心理戦とマーケティングの戦理・戦略・戦術・戦技 投稿

ソーシャルマーケティングなど不可能だ

アメリカのデモは全く分からない 中東で起きたことと同じ経緯なのだろうか 少なくとも政治体制としては アメリカは独裁国ではない
もともと不平等は自由経済に付きもののはずだし 自治の精神に富んだ国といえるのではないか

FacebookとTwitterが核になって このような潮流が生まれたのは確かだろう
マートンの2段階の伝達に似ている気もする たとえば「十二使徒」や「城功氏の6人の内弟子説」などが思い浮かべられる この6の倍数と WWWが6角形を基本とするのは 偶然と思えないのだ
⑴ 限られた少数に限定情報が伝えられる(第1段階・権威付け・Facebook?)
フェイスブックの「like!」はコメントとはまったく違う 理由も感想もいらない 反論や疑問もない ただ相手を承認するだけ
⑵ 次にピラミッド形に伝播される(第2段階・流布・ReTweet?)
Twitterの特徴としては 過度の単純化が挙げられる 自分の見解が不要なため 参加と服従の障壁が少ないのである
ともに付和雷同を起こしやすい媒体といえる 無批判な拡張は むろんブログにも見られる傾向ではある インターネットはそもそもコピー&ペーストの世界なのだ

しかし 中心人物が不在であるから煽動とはいえない 何なのだろう やはりよく分からない
SNSを使ってクチコミを作り出そうなどという考えが いかに妄想に過ぎないかだけはよく分かる とてもコントロールできるものではない インターネットはマス媒体とは違うのだ

2021年1月追記=トランプ氏の再選を巡ってアメリカで Qアノンなる陰謀論が巻き起こった これもSNSを通じて拡散したものだ もともとアメリカは新教徒を中心とした様々な宗派の集団が 入植しコミュニティを作ったのが始まり カルト的な集団は少なからず存在する インターネットによって拡散しやすくなったのは事実である しょせん根も葉もないデマであるから終焉も早かった)

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AIDMA_AISAS_A3JR

このごろ広告業界以外の方が「AIDMA」とか「AISAS」とかの解説をしているのを見かけます
AIDMAはかなり古く 現実にそれで通用するかは ?の部分が多いものです
AISASは どうなんでしょう Eコマースには当てはまるような気もしますが……

「A3JR」というのを考えてみました 私のオリジナルではなく プロパガンダや布教による態度変容の過程をまとめたものです 決して新しいものではありません ギリシャ・ローマ時代から使われている手法です(でもインターネットの世界 webマーケティングにもっとも合致していると思われます)

⑴ 注目(Attention)=同じAttentionですが AIDMAの場合「注意」を喚起するための キャッチフレーズやビジュアルインパクトを指します 「注目」としたのは 主体的な検索等によって 情報の受け手が親近感を持つ状況作りのことです
⑵ 誘引(Attraction)=AIDMAの「関心」と似ています ただ興味を持たせるだけでなく それよりももっと直截的に 利益を差し出すことです いわゆるパンとサーカスです インターネットの場合は役に立つ貴重な情報にあたります
⑶ 同意(Assenting)=この辺から大きく変わってきます AIDMAでは欲求をかき立てる段階ですが A3JRはメッセージを理解し 納得してもらうことを重視します 理性的にとは限りません 感情的であったり 時に脅迫的なこともあります
⑷ 参加(Join)=もっとも重要なプロセスです 一方的な伝達ではなく 双方向性であり さらに強制と服従を伴う一種の儀式ともいえます 現実の行動としては うなずく クリックする 質問に答えるから 署名 電話するなどがあります
⑸ 反応(Reaction)=いろいろな程度があります 商品を購入する 積極的に人にも勧める 自ら宣伝役を買って出るなど 潜在意識にとどめるだけの場合もあります それでも次のメッセージを容易に受け入れる下地はできているのです

※AIDMA=⑴ 注意(Attention)⑵ 関心(Interest)⑶ 欲求(Desire)⑷ 記憶(Memory)⑸ 行動(Action)

こちらの 広告テクノロジーは「アホマーケター量産装置」? マーケの本質は“売れる”環境づくりの知恵やノウハウにあり(加藤 公一 レオ) 記事が面白いです 一見新しそうな技術もじつは衣だけ 中身はそう変わらないことを見抜いていらっしゃいます 通販激戦区九州で活躍されておられるそうで 実践に基づいた感想なのでしょう(たぶん)

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写真→映画→アニメ→小説

スティル写真のベストショットはどこにあるか それはカメラマンの指にある
どんなにハイスピードのモータードライブを使っても ベストショットは常にコマとコマの間にある
スティル写真は 時間を切り取るのだ シャッターチャンスをつかむのは カメラマンの指だけだ

映画は たくさんのコマを連続的に映し出して 動きを作り出している
一つひとつのコマは静止画だ ならば 動きというものはどこにあるのだろうか やはりコマとコマの間にあるのだ
普通は残像による目の錯覚で 動いているように見えると説明される ではこの場合の錯覚とはどんなものだろう
静止したコマとコマの間の画像を 見る人の脳が補っているのではないだろうか 人の目はありのままの現実ではなく 自分が見たいものを見たいように見ているのだ(映画のコマをいくら探しても 静止画のベストショットは見つからない)

アニメーションに置き換えてみよう
キーアニメーター(原画マン)が作った原画の間を アシスタントアニメーター(動画マン)が埋めてアニメーションができる
細かくコマ割りをすれば 滑らかな動きができるだろうか そうではない キーとキーの間を無限に埋めていっても 自然な動きはできない
動きは永遠にコマとコマの間にあるのだ
人がアニメーションを見たとき 初めて動きが生まれる アリスが鏡を覗き込んだ時にだけ 鏡の国は生まれるのだ
アニメーションの最後の演出者は 実は見る人なのだ(ボストン・ダイナミクスのロボットの動きに人間臭さを感じ 日本製ヒューマノイドの表情に違和感を覚える理由がここにある)

小説も同じことがいえる 作家が小説を書き 書籍として販売されれば小説は完成するのか
そうではない 読む人がいなければ小説にはならないのだ 読者とは本を購う人のことをいうのではない 読む人のことだ
1000人の読者がいれば 1000通りの小説が生まれる 小説は作家と読者の共同作業だ 作家は投げかけるだけだ
そのことを解らない作家が勘違いしている 描写とは説明のことではないのだ 池波正太郎の弟子を僭称するI・Yが 2ページを費やしてくどくど説明している状況は 池波先生ならただの1行で活写してみせるだろう 池波正太郎氏は映画に造詣が深い

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