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カテゴリー: 日本の伝統・本流

打ち水

古都の夏

京都に所用があり 折角のことですから 菩提寺の本山に詣でたことがあります 宿からバスで左京区にあるその寺に向かいました
6月ではありましたが 京の町は大変暑い バスを待つ間 日差しを避けて小路に入りました するとその小路には 涼しい風が吹き通るのです
一歩入っただけでまるで別世界のようです 奥に料理屋さんの玄関が見えたので 私道だったのかもしれません
寺に着き 本尊を拝したり念珠を求めたりしていました 有名な寺でないので観光客は一人もいません やがて鉦太鼓の音が響きわたり始めました どうやらお勤めの時刻だったようです
読経も聞こえてきたので 本堂の外廊に座ることにしました 正座していると暫くして 中に請じ入れていただきました 外は強い日差しでしたが 仄暗い室内には爽やかな風が抜けます

京の古い屋並み 昔からある神社仏閣は 暑い夏を過ごす工夫が凝らされていると聞きます 風の通り道を計算して建築されているのです 体感してみて初めて 先人の偉大さに気づきました
所用先の近くにある本能寺にも足を運んでみました 観光化され人がごった返し 狭い境内にはコンクリート造りの建物が建ち並び 風どころか人いきれで蒸せ返るようです

コンクリートに打ち水?

ひところ TVで打ち水が盛んに取り上げられたことがあります 子供たちや浴衣の女性が 柄杓で熱く焼けたアスファルトに水を撒く図が放映されました
打ち水も昔からの涼を求める工夫です 物理的な事情はよく分かりませんが 撒いた水が蒸発する際に気化熱を奪い 周囲との気温差で風が巻き起こるようです 小さなダウンバーストでしょうか

木陰が涼しいのも同じ理屈です 木の葉が日差しを遮ると共に 温度差から並木には風が吹き抜けます 打ち水をするのは 砂利を敷き詰めた庭が最適です 保水力と浸透性があり 緩やかに水が蒸散することで風が生ずるのです 周囲に木々があればなお良い
日の高い時に焼けただれたアスファルトに水を撒いては 湿気で蒸しむしするだけです 多少の気化熱の効果はあるでしょうが ビル風を巻き起こすまでは至らない(そういえば 散水車を見かけなくなりました 通ったあとに僅かながら風が吹き抜けたものです)

打ち水は昼日中ではなく日が傾きかける西日頃です[01] … Continue reading それに水の撒き方が違います 扇状に満遍なく撒かねばなりません 撒いた水が流れたり水溜りができるようではいけません
さる人が「露地に水打つ事 大凡に心得べからず……」と書いています[02] … Continue reading この打ち水は 客を迎える茶室への苔むした道が しっとりと濡れているように という心馳せですから 見た目の涼です
しかしながら 水を撒く事ひとつでも心得が必要という点では教えられます 私は利休や茶道は好きでないのですが

註釈

註釈
01 行水を使う時刻と一緒ですね 昼の汗を流し着替えて縁なぞに腰を掛け 打ち水のかすかな風に夕涼み といったところですか これには扇でなく団扇が似合う
02 南方録(来歴が怪しく偽書とされています) 利休を権威付け 茶と禅を結びつけ 日本文化の代表の如く演出するには 秘密めいた由来が与っています
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神(紙)エクセル

神(紙)エクセルというものがあるそうです 紙にプリントしたときの見栄えのため 神業のごとくエクセルを使った 主に役所関係の書類のことらしい
セルに文章を書くことになるので データの流用ができず 問題になっているらしいのです とくに全角数字がいけないという
以前にも書きましたが 全角・半角とか等幅フォントが混在するのは 日本語版ウインドウズ独特の仕様です Macでは考えられない

役所の書類は「様式1」だ「様式2」だと 細かく規定があります 厳密にこの様式どおりの書類をワードでは作れません
前例主義の役所では 以前の様式と1ミリでも違うと 上司からクレームがつくのでしょう そこでエクセルを駆使して 寸分違わぬ書類の雛形を作ったのではないかと想像します

じつに労作ではありますが いかにも日本的いかにもお役所仕事いかにも馬鹿げたことです
お役所の仕事は体裁を整えること つじつま合わせがもっとも大切です そのためによけいな仕事を作り出す 生産性とか効率は 仕事の邪魔でしかない

エクセルやワードを使ったことがないので どうもこういった感覚が分かりません でもイラストレーターで自由にレイアウトした文書より ワードのありきたりな定形文書の方が読みやすいと言われることはあります
見慣れているからなんでしょうか 斬新なもの規格外のものは なかなか受け入れられないものです そのくせ全角・半角混在は全く気にならないのですね

書式の根拠は曖昧

考えるに文書の様式は 活版時代の技術的制約からきたのだと思います 印刷屋さん独特の書式があり それがいつの間にかスタンダードになったのでないでしょうか
活版が写植になり コンピューターによる印刷へと変化してきました しかし書式やレイアウト(組版)は活字時代のまま電子出版にまで引き継がれています
確かにかつての職人さんが築いてきた様式は 用の美といいますか日本語文書の完成形です これに準拠していれば間違いはない しかし細部まで旧態に拘る必要もないですね[01]手紙文の時候の挨拶とかも よく分からん習慣です 江戸時代の手紙は巻紙に候文ですか 折り方にも決まりがあったようで なかなか難しい

御・行を二重線で消す

奇妙に思うのは こういった印刷屋さんのテンプレートで あらかじめ宛先が〇〇行となっているところを二重線で消して その脇に様とか御中と書き直して返信するという習慣です 御名前や御芳名の御や芳を消したりするって何の意味があるのでしょう そんなのは謙遜でも奥床しさでも慎みでも礼儀でもない
おそらくマナー評論家みたいなのが言い出したことではないだろうか 二重線や一本線で消して訂正印なんてのも お役所の書式から来ていますから これも一種の権威主義かもしれない 自分の間違いならいいが 相手の書いた文を訂正したり書面を汚すことこそ むしろ無礼でありみっともないと思いますが[02] … Continue reading

年賀状と年賀欠礼

これも 誰が言い出したか始めたのか よくわからない習慣として 年賀欠礼ってありますね 印刷屋さんと郵便局の都合でしょうか 私は全く必要ないと思うし うちの菩提寺の先代住職が亡くなったときも 寺から普通に年賀状が来ました
仏教で喪に服するという教えは聞いたことがない 七七日で忌明けとなりますし 新盆を迎えて葬儀に関する一切は終わります いろんな宗派のサイトを見ても だいたい新盆を迎えれば年賀状を出すと書いてます
親戚など葬儀に参列した人なら承知していることだし 年賀状だけの付き合いの人に 身内のことを知らせる必要もないでしょう[03] … Continue reading だいたい本当に喪に服しているとも思えません 服喪とは公の席や晴れやかな場に出るのを慎むことです 最も穢れを厭う宮中賢所の内侍でも 服喪期間は半年だそうです

註釈

註釈
01 手紙文の時候の挨拶とかも よく分からん習慣です 江戸時代の手紙は巻紙に候文ですか 折り方にも決まりがあったようで なかなか難しい
02 結婚式の招待状なんか汚したくないですね 私は往復はがきを出すとき 自分宛てには名前のみにします 同級会の幹事やったとき 男子は全員そのまま送ってきました 女子は全員が様を書き加えていました 医師の紹介状には脇付の侍史を書く習慣があるみたいです あと目上の人への手紙には 句読点を使わないのが礼儀だったんですが
03 年賀状は 江戸時代の旗本たちが上役宅への年始挨拶に持っていった 賀詞が始まりといいます 挨拶に行っても お目見え以上の家格の者は登城していますから留守です そこで受付の用人に賀詞を渡して 確かに挨拶に行った証拠とするのです
後代でも年始の挨拶は 玄関で賀詞を述べ名刺を置くだけが習慣でした 年始の客が来ても主人が出て応対することはありません 私が小学生くらいの頃はそんな習慣がまだありました
年賀状は年始の代わりですから一家の主がすること よく覚えてないが喪中ハガキのやり取りなんかなかったんじゃないかな 身内の不幸と年始の挨拶はまったく関係ないことですから
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日本の伝統・本流

日本の伝統

春日大社の式年造替が行われました このとき奉納されていた太刀が新たに打ち直されました 刀鍛冶は月山流当主です 月山流は大神神社座する桜井市に工房を構える 鎌倉以来の伝統ある流派です

古いものをむやみに尊ぶのではない 千年も前に作られたと同じ刀剣をいま再現できること これこそが連綿と続く日本の伝統の姿あり方です

三種の神器は壇ノ浦に沈みました いま宮中にある神器はその後に作られたものでしょう 伊勢神宮にも八咫鏡が納められています 熱田神宮には天叢雲劔が祀られており 弥栄瓊勾玉は宮中のみです

いずれが実物であるとか 形代であるとかの議論は無意味です 式年遷宮と同じことで 形あるものを祭るのではない 継承することが貴いのです
形あるものはいつか必ず滅びます いつまでも新たに甦ることが永久にあるということです

日の本は日出処の国です 常に生まれ変わり常に若々しく 清新なる国柄を表しています
日本の歴史伝統は常に新しく 久しく引き継がれます それが式年遷宮や式年造替 また御柱祭の意義なのです

天叢雲劔が表す勇武 八咫鏡が表す正明 弥栄瓊勾玉が表す親和 日本の伝統は清き明き直ぐなる心を伝えることに他なりません

昭和24年も伊勢神宮式年遷宮に当たる年でしたが 占領下のため国費が出せず断念せざるを得ませんでした
このことが知られると 横山大観・川合玉堂などが展覧会を開いて寄付を募る活動が始まり 4年遅れの28年に見事遷宮が執り行われました 麗しき日本の伝統が発揮されたのです

日本の本流

安土桃山時代とはいえ 桃山時代はすなわち豊臣秀吉その人です 個人と時代が等寸で重なる希有な時代といえます 豊臣秀吉は庶民の出であるといい 当人もそれを否定していません すなわち下克上です

下克上は大陸の覇道と同じではない 日本の底流に いつの時代でも流れている 民族の心の奔流が迸ったものです 世直しといっていいのかもしれない

徳川時代の一揆もそうです 明治維新もそうであるし 自由民権運動も まさしく世直しです そして今 インターネットの世界にも世直しの声が吹き荒れています

安土桃山時代といいます 信長は己の権勢を示すため安土城こそ作ったものの ついに文明を作ることはなく せいぜいが南蛮趣味くらいでした
太閤秀吉が切支丹伴天連を廃したから 桃山時代は明るく華やかで絢爛な 国振りの時代でありました

日本の建築様式は 高床式に始まり 寝殿作りとなり 書院作りに至り 数寄屋作りで完成しました その後に日本建築の進展はありません
この数寄屋作りは桃山時代・利休の手になるものです 大殿と呼ばれる各宗派の大本山建築もこの時代に創始されたといいます
桃山時代の建築を見ると 太閤秀吉の無邪気なおおどかさに比べ 利休はいかにも小賢しい

侘び茶といいながら懐石料理は 大貿易港の堺に唐・天竺・南蛮より渡来した 珍味佳肴の贅沢な食膳でした 田舎者の信長・秀吉を驚かすのはわけなかったことでしょう
信長はたやすく南蛮かぶれになりましたが 秀吉は利休の底の浅さが 国風に害をなすと見抜いていました

侘び・寂び・禅・武士道が日本の文化だなぞ言い始めたのは たかだか明治以降にすぎません 武士道は新渡戸稲造が英語で書いたガイドブック 禅も鈴木大拙の英語の紹介本に由来します
茶道と華道が女子の嗜みとされ いわゆる花嫁修業がいわれたのは昭和大戦敗戦後です 西洋のマナースクールを真似て 裏千家と池坊の当主夫人が提携して広めました[01] … Continue reading

これらもたしかに日本文化の一面ではあるが 本流とはいえないものです 元禄文化・桃山文化・王朝文化 さらに東北のねぷたを初めとした 各地に伝わる縄文文化を顧みないのは 片手落ちというより日本文化の本流に目を瞑ることになります

註釈

註釈
01 明治時代まで婦女子の嗜みとされていたのは 花・書・歌に加え茶がありました この茶は煎茶道のことでした いわゆる茶の湯は武家の嗜みであり 女子のものではなかったのです
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