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縄文より続く日本の文化伝統 投稿

「雪国」夜の底 国境

トンネルの闇と雪国の夜の底

川端康成の「雪国」冒頭は誰でも知っています 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」 なぜ県境ではなく国境と書いたのか 雪国とそうでない地域の境を描いただけではなさそうです

その後に続く「夜の底が白くなった」 これは雪国育ちでないと分からないかもしれない 川端康成の取材の確かさと描写力です 主人公の島村は夜汽車に乗っているのです
冬の夜汽車の車窓は真っ暗です ことに鄙びた温泉地ならなおのこと でも線路際には客車の明かりが届いて そこが白く浮き上がるのです
トンネルも暗闇ですから 抜けても窓外の景色に変わりはない ただ窓際の席にいる者の目にだけ夜の底が見えます[01] … Continue reading

すべてが島村の視点なんですね 「島村の前のガラス窓を落した」「雪の冷気が流れこんだ」「雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた」 旅情も雪景色も全然描いていない トンネルを抜けたら一面の銀世界が広がってるわけじゃないのです[02] … Continue reading

ただこの後には夕景という言葉が出てきます すると冬の夜の情景を描写したのではなかったのか 時間が錯綜しています
トンネルを抜けた向こうの雪国は 島村の目から見た時間も場所も定かでない 異国ということなのでしょうか[03] … Continue reading

雪の夜

小説中に湯沢町はおろか 群馬県も新潟県も出てきません 清水トンネルは県境にあるが 島村の見る雪国は国境のトンネルの向こうです
上野国と越後国の境ではなく 雪国への境目なのです 国境の読み方は考えてなかったのじゃないか 雪国との境なら〈くにざかい〉と読むべきでしょうが どちらでも構わないと思いますね 望見の小説ですから 声に出して朗読するものではない[04] … Continue reading
駒子も葉子も実在と想念の境目が曖昧です この辺が小説作りの妙となります 葉子の目が夜汽車の窓に映る 島村は駒子の顔が鏡の向こうに浮かぶと見る[05] … Continue reading

角巻き姿の駒子だったか葉子だったかが 雪をこざいてやってくる場面がありました これもたしか夜のシーンです 仕舞い込んでしまって手元に本がないのでうろ覚えなのですが[06] … Continue reading
そして後段に描かれる凍てつく夜の天の川は 冒頭の夜の底と対をなしています 雪国の夜は異世界です 凍みた雪原に月の光が射すと 無数の氷の粒が煌めきとても人境とは思えない 雪積もる国の夜は 現実が物語の比喩表現です 島村の見る現は幻と重なり幻は現と化します[07] … Continue reading

読み方と意味

同じ文字に幾つもの読み方があるのは おそらく日本語だけの特質です 漢字の読み方に正誤はないのです 和歌はもともと口誦の文芸で 5音や7音のリズムが重視されました
漢字かな交じりの文章で書き表すようになってからは 掛詞や縁語などの言葉遊びともいえる表現が見られます 技法として押韻[08] … Continue readingはまずありません(長歌・旋頭歌・今様はよく分かりませんが)

漢字がもたらす字形のイメージ 意味からの連想といったものが 日本文学に多彩な表現力を与えました 一方で視覚に頼る表現になってしまいます いまや和歌の朗詠は宮中に残るばかりとなった感があります 紙の本に特別な意味を見出すのも 仮名遣いの問題も日本語特有なのかなと思います[09] … Continue reading

日本語と英語

サイデンステッカーさんの英訳決定稿では 最初は入っていた border が省かれています そして「夜の底が白くなった」に力点をおいています 雪国の国と国境の国は対応していますが このあたりを英語では表現しきれないのです
ヨーロッパの人達が読んだら 汽車でborderを越えるとき 国境警備隊の検問を想像してしまうかもしれません(映画007に列車内で国境警備隊が 乗客のパスポートを点検するシーンがありました これも確か凍てつく冬でした)

ノーベル賞選考は英語版によるかと思います 英語版では国境の語句自体が書かれていないのです 長いトンネルを抜けて現れる 夜空と白い雪面の対比が重要な意味を持ちます サイデンステッカーさんの最終判断は 「雪国」という小説のテーマを正しく伝える名訳となりました

註釈

註釈
01 「夜の底」を隠喩とする解釈が多いようです トンネルが異国への入り口という意味では 隠喩なので構わないのですが 私はあまり深読みせず素直に読み取るのが よいと思っています 学校の授業などで一字一句を取り上げてグダグダいうのが好きでなかった
02 清水トンネルは新潟と群馬の県境三国峠にあります 峠ですから入り口の群馬側にも 少ないものの雪が積もっていて 抜けて初めて雪景色となるわけじゃない 大切なのはトンネルを抜けて夜の底が現れることです
03 2018年1月15日追記=センター入試試験で「ムーミン谷」が どの国にあるかとの問題が出たそうです ムーミン谷はムーミン谷であって作品中にしか存在しないのです 同じように川端康成が 越後湯沢温泉の高半旅館で小説を書いたからといって そこが舞台とはいえません 県境とは書かなかった理由がわかります 新潟県湯沢町の話ではないから 県境でなく国境なのです
私事ですが この時の高半旅館の次男であった 高橋有恒氏と面識があります 医師であり文学青年でもあった方です
04 「こっきょう」は音読み「くにざかい」は訓読み(小学校で習いました)どちらで読んでもかまわないのです ただし意味合いはやや違ってきます
音読み訓読みといえば 重箱読み・湯桶読みがあります 〈ゆとう〉と読めば 蕎麦屋で出てくる柄の付いた四角の容器 〈ゆおけ〉なら風呂場で使う手桶のことです
書き言葉・話し言葉も教科書にあった言葉かもしれない 同じ文字なのに読み方で意味が変わる 日本語は不思議です
05 長編小説には単行本書き下ろしと あちこちの雑誌に書いた短編をまとめる二つの書き方がありました 川端康成は後者の書き方です
書き下ろしはいわゆる構想何年というやつですね これは出版しない限り収入に結びつかない(菊池寛は前払いしたそうです) なので雑誌に短編の形で書いて稿料を稼ぐ方法を取ったのです
雑誌に書いたものを単行本にまとめるとき 前後に矛盾を生ずることや話が繋がらないことがあります 作家によって違いますが ゲラ拝時かなり手を加えたり書き直すのが普通のことでした
06 高半旅館は越後湯沢の町を見下ろす小高い丘の上です 坂道を雪をこざいて登ってくるシーンは やはり夜空と雪面の対比がイメージされます 新雪の積もった坂道を登るには 藁沓とカンジキが欠かせません
07 雪が降りしきる深夜 一人こたつに当たっていると 雪の積もる音が微かに聞こえます 粉雪の音はサラサラ 牡丹雪の音はホタホタ 底冷えがして背中が寒い こんな晩に雪女が表れるのです
08 いつだったか五言絶句か七言律詩 中国語の朗読を聞いたことがあります リズミカルで耳に心地よい 中国の詩も読み上げるものだそうですが 微妙な発音の違いを生かす押韻は欠かせないと感じました しかし日本語の読み下しでは全く意味がありません
09 いつも何か探しているようだナひばり(風天) この句のナがじつに効果的です ここがカタカナでないと成立しません しかしカタカナでもひらがなでも同じ音ですから 文字にしなければ意味をなさない 俳句はリズムの文学ですが それは声に出さない文字のリズムでしょう 漢字仮名交じりの日本語でしかできない表現です
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竹と月と芋

芋名月・栗名月・豆名月という言葉がありますが 米名月はない 米と月は結びつけられていないのです[01] … Continue reading 月見は芋や豆それに栗といった作物を供えたものです それも必ず竹で作った笊や箕に盛りました 檜の三方に米の団子を供えることはなかったのです

竹取物語=かぐや姫のお話は竹がテーマになっています かぐや姫は三月で大きくなります(筍のような早さ) 季節単位・年単位ではなく月単位の時間経過 その間稲藁のつぐらではなく竹の籠で育てられています
ただし竹取物語に芋はでてきません 今昔物語集版では月との関係さえありません 後段になって 実は月の世界の者と言い出すのも唐突すぎます もともとの話が変化していったのか幾つかの話が結びついたのか

今の月見は団子を三方に載せて供えます 月見団子の作り方は ご飯を蒸して芋と混ぜ つぶして里芋の形に丸め黄粉をまぶします 米が主となっているものの やはり芋と豆です(芋餅・芋団子として各地に伝わります) これは嵩増しではなく米文化と芋文化の融合を象徴している気がします

月を愛でる人たち(芋=縄文文化) 欠けを忌む人たち(米=弥生文化)の習合が 十五夜の月見の風習かもしれません そしてあらゆる祭礼が宵祭なのも 月の文化の名残ではないか(東北のねぷた かんとう なまはげ 各地の盆踊りや神楽)[02] … Continue reading

天皇陛下が月を見るときは見上げることをせず 水面に映る月を見ると聞きます かぐや姫のことを思い出してしまうから? 太陽神が主神で月の神は侍神ですから 見上げることを憚ったのでしょう(それにしては大嘗祭は夜に執り行われます)
銀閣寺(慈照寺)は月待山の麓にある月見のための館です それも池に映る月を楽しむものでした(内田百閒が描く松濱軒の大池月影が そんな感じなのでしょうか)
向月台は江戸末期に造られたそうですが 勝手にあのような造形を築くことは考えられず 類似のものは以前からあったでしょう 白砂に照り映える白銀の月明かりを愛でるものです 築山は室内から眺めるためにあります その上に登って月を見るなんて馬鹿なことはしません[03] … Continue reading
 
米作が中心の大和朝廷の神話(古事記)は太陽神の天照大神が中心です 日照と水は米作りに欠かせませんから 月読命の存在はじつに影が薄い この女神の名は月を読むで明らかに農業神です しかし米は司ってないのでしょう イモ類の原産地はジャングル(竹林?)の中なので直射日光を嫌います

太陽と月の大きな違いに満ち欠けがあります 欠けを忌む人たちにとって月は不吉だったのかもしれません なにしろ日食にあれだけ大騒ぎしたのです 後の世でも日蝕の日は廃務といって 朝廷の全ての活動を停止したそうです 稲作民が優勢になったのは主食の保存性のためかと見ますがいかがでしょう

かぐや姫(なよたけ姫)が月に帰るのは満月の時でした 車に乗ってと記載されていますが 空を飛ぶ乗り物は船ではないかと思います 各地で行われる祭礼の神輿が担ぎあげられ(宙に浮かぶ)揉み上げられるのも 船を表すような気がします 竹取翁に富をもたらしていますから豊穣の神様であって 天照大御神の食事を担当する豊受大神のことかもしれない

この神様は別名を屋船豊宇気姫命といい 羽衣伝説とも関係があるようです 船の文字が使われているのが興味深いですね 航海と漁業の神でもあるのでしょう
羽衣伝説の舞台は水辺ないし海岸となります 潮の満干は月が影響していて また月や星は海路の標でもあります 海の民と月の関係は深いものです

古事記・日本書紀は船に関する記述が多数あります 葦船なんかヘイエルダールのコンティキ号(たしか屋根を架けた形状です)が思い起こせます 日本人は海洋民族であったことの証左だと私は考えます
インカ文明の末裔であるペルーに昔より伝えられる農業暦で 収穫は満月の翌朝に行うというのがありました 満月は稔りを表し そして月見は稔の秋です

註釈

註釈
01 満月には月の兎が餅を搗いてると言われます 月の影の見方によると思いますが 臼と杵の形状は豎臼と竪杵です これは餅搗きではなく籾摺り用ですね
搗き餅が一般的になるのは 江戸中期以降です ところで兎は出雲神話に出てきます 民話にもよく登場します 月読命と関係があるのかもしれない
02 考えてみると太陽を拝む昼の祭礼というのはほとんど聞いたことがない 天照大神を頂点とする神話・民話も記紀以外にはないようだし どこかで歴史の断絶があったと思えます
03 銀閣寺は黒漆塗りです 仄かな月明かりに浮かぶ 銀色の向月台の姿を邪魔しないためでありましょう 立待月・居待月・寝待月 建物の中から月を見るのです かつては現在の建物の隣に 観月のための館があったといわれます 銀閣寺の銀は月明かりの意です
備前閑谷学校講堂の庭は花頭窓から眺めます 暗い室内の床は黒漆で塗られ 窓を通した庭の色彩が照り映えます 漆黒の空間に浮かぶ景色 この造形を何といったらいいか 窓に切り取られた風景を愛でる 他の国には見られない美意識です
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稲と芋の伝播は舟運

稲作技術が日本に伝来したという言い方はよくありません 木の実・草の実で飢えを凌いでいた未開の原日本人(縄文人?)に 大陸から(朝鮮半島経由で)進んだ文明がもたらされたと誤認させる意図があります 唯物史観[01] … Continue readingでしょうか 最初に理屈があり それに合わせてイベントを組み立てるという

人々は最初 食べ物に不自由しない南方で暮らしていたと思われます どのような理由か次第に北方へ移住して行きます そのときはタロイモ(里芋)の種芋を携えて行ったのでしょう いまでも里芋のことを「太郎芋」と呼ぶ地域があるそうです
その後に籾を携えて移住してきた人たちがあります 芋を主食とした人たちと争いがあったかもしれません しかし陸稲にしろ水稲にしろ稲作は朝鮮半島経由ではありません 籾を持って陸伝いに道なき道を北の地域へ行き それから南下したとは考えにくい
稲は日差しと水と温暖な気候が必要な南方の植物です 素直に考えて日本へは南から島伝いに船で渡ってくるでしょう そして沿岸に定着するはずです

古事記・日本書紀に「枯野・軽野」と呼ばれる船の記述があります これはおそらくアウトリガーの外洋カヌーです 沖縄サバニ船の先祖かとも思われますが不明です 東北地方にもサッパ(笹舟・小舟=サプネ?)という船がありますから 日本列島沿いに海路の交通があったはずです
湖南省あたりから種籾を担いで 満州・朝鮮半島経由の陸路で日本に来るなんて 絶対にない いずれにせよ稲を育てたこともなくカヌーを漕いだこともない学者には想像できないことです こんなことを唱える連中は田植えが後ろ向きに進むことも知らないでしょう

北方の島伝いに船で交易していた オホーツク文化があります 縄文前期の頃です 定住していましたが農耕はやっていなかったようです 千島列島から樺太を巡る オホーツク海南部で活躍した海洋民族でしょう
中心となるのは網走でした カムチャッカ半島北部(内陸)はトナカイ等の狩猟や遊牧ですね 交流はあったはずですから 船はエスキモーが使うような 軟式構造のシーカヤックかもしれません オホーツク文化とアイヌ文化の関連性はよくわかりません

沖縄のサバニ船と蝦夷が使った?イタオマチプの構造はよく似ています ともに船底を一本の木をくりぬいた丸木舟状のキールで形作り 側面に板を張り付けるハギ船と呼ばれるものです 津軽海峡のムダマハギ参照
沖縄から宗谷岬までカヌーで渡航する実験をした人がいます 一人が櫂で漕ぐだけで平均1日50キロ以上は進んだそうです 日本海流(黒潮)は秒速2メートルの速さです
古代の人たちは操船技術に優れていたでしょう キールがあればマストを立て帆も張れますから 天候に恵まれ海流に乗れば1日200キロも不可能ではなく そうすれば南方から日本に到着するのに1週間か十日ぐらいかと想像します 島伝いならそれほど困難な航路でもなさそうです[02] … Continue reading

芋を運んだ古代の外洋船は丸木舟構造ではなく 竹で骨格を作り獣皮や樹皮で外殻を覆った シーカヤックではなかったか また東南アジアには内海用ですが竹籠で作った船もあるようです(コールタールで防水していた) これらは軟式構造のため丸木底舟に比べて船脚は早くありません
おそらくカヤックで来たのは石器時代から縄文前期のことです 暖流に乗ってやって来ました 縄文時代には漆が使われていますから 後期には竹釘と漆で丸木に板を接着したハギ舟で 稲籾を運んだかも知れません イタオマチプは板を紐で継いだ縫い合わせ船ですから 中間の縄文中期あたりでしょうか

最初芋を携えてきた人たちは竹も利用していました 竹細工を生業とする竹取翁はこの系統の子孫です 竹取翁物語は藤原氏になぞらえていますが 稲作民の大和朝廷に月の世界の人(芋文化?)が対抗する内容です 竹取翁物語に「月の顔見るは忌むこと」とあります 下界の汚れた食べ物云々は米のことですね多分 とすると月見とは?

註釈

註釈
01 唯物史観って皇国史観の裏返しと見ていいでしょう 日本の文化・歴史の中心に天皇がありました この事実(ファクト)を片一方は王者になぞらえ もう片方は覇者になぞらえたという感じ どちらも自分に都合のいいように 借り物の理屈を持ってきただけです(牽強付会というやつだが なぜか変換できない)
02 いかに海洋民族が遠目がきいたといっても 大海原で島影はほとんど視認できません 自らの位置を知り航路を確かめる術は 月と星の観測です 月読命は航海の神であったのです かぐや姫物語や羽衣伝説はこのことを伝えます
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