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縄文より続く日本の文化伝統 投稿

写真→映画→アニメ→小説

スティル写真のベストショットはどこにあるか それはカメラマンの指にある
どんなにハイスピードのモータードライブを使っても ベストショットは常にコマとコマの間にある
スティル写真は 時間を切り取るのだ シャッターチャンスをつかむのは カメラマンの指だけだ

映画は たくさんのコマを連続的に映し出して 動きを作り出している
一つひとつのコマは静止画だ ならば 動きというものはどこにあるのだろうか やはりコマとコマの間にあるのだ
普通は残像による目の錯覚で 動いているように見えると説明される ではこの場合の錯覚とはどんなものだろう
静止したコマとコマの間の画像を 見る人の脳が補っているのではないだろうか 人の目はありのままの現実ではなく 自分が見たいものを見たいように見ているのだ(映画のコマをいくら探しても 静止画のベストショットは見つからない)

アニメーションに置き換えてみよう
キーアニメーター(原画マン)が作った原画の間を アシスタントアニメーター(動画マン)が埋めてアニメーションができる
細かくコマ割りをすれば 滑らかな動きができるだろうか そうではない キーとキーの間を無限に埋めていっても 自然な動きはできない
動きは永遠にコマとコマの間にあるのだ
人がアニメーションを見たとき 初めて動きが生まれる アリスが鏡を覗き込んだ時にだけ 鏡の国は生まれるのだ
アニメーションの最後の演出者は 実は見る人なのだ(ボストン・ダイナミクスのロボットの動きに人間臭さを感じ 日本製ヒューマノイドの表情に違和感を覚える理由がここにある)

小説も同じことがいえる 作家が小説を書き 書籍として販売されれば小説は完成するのか
そうではない 読む人がいなければ小説にはならないのだ 読者とは本を購う人のことをいうのではない 読む人のことだ
1000人の読者がいれば 1000通りの小説が生まれる 小説は作家と読者の共同作業だ 作家は投げかけるだけだ
そのことを解らない作家が勘違いしている 描写とは説明のことではないのだ 池波正太郎の弟子を僭称するI・Yが 2ページを費やしてくどくど説明している状況は 池波先生ならただの1行で活写してみせるだろう 池波正太郎氏は映画に造詣が深い

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SNSはメディアか(その2)

TechCrunchJさんの記事に 「世界に一つ〜数点しかない珍しいものを売るAHAlife–雑誌的なコンテンツも充実」という 面白いものがありました

この〈ahalife〉いいですね こういうシンプルなデザインのサイト 大好きです トップページに行こうとすると レジスターページに飛ばされるのも あからさまでとってもいい
さらにレジスターページで商品を提示するというのもありですね これこそwebデザインの大道でしょう

それはさておき 特別なお客様に特別なサービスを提供するというのは 古典的なマーケティング手法(一見さんお断りの店とか お馴染みさんにだけ出す裏メニューとか)ですが SNSでこれを実現することはできそうです
たとえば 審査を厳しくする 地域限定など 〈ahalife〉でもポイント制の導入 さまざまなインセンティブなど インターネットの機能をうまく使っています 参考になります

Googleがオープンな世界を目指しているのに対して SNSは閉じられた世界です マーケティングの観点からは別なアプローチが必要になります 広告ではなく どちらかというとパブリシティですね ahalifeの雑誌的なコンテンツというのも その辺を狙っているのでしょう

Googleは個人情報を収集しません GoogleAdsenceは 検索しているキーワード(興味の対象)にマッチした広告を表示します この際に個人属性は必要ないのです(地域はかなり絞り込んでいるみたいですし クッキーも加味しています) 個人情報より 個人の行動パターンが重要なのです
フェイスブックも同じような パーソナライゼーション広告展開を計っているようです Googleと異なり 会員のプロファイルに基づいたものです (いわゆる個人情報とは違います)

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SNSはメディアか

Face bookがこれほど興隆した理由 日本ではふるわない理由はなんだろう 実名で参加することを厭う風習が その原因ではないかとの論調は正しいのだろうか 私にはよく分からない
確かに日本ではパソコン通信の頃から匿名が当たり前だったが

東南アジアや中近東でFace bookが普及した理由は ブロードバンド環境がないから 日本で普及しない理由はケータイがあるから という傾聴に値するご意見がある もとまか日記Zさんです 面白い見方ですね 触発されます

インターネットのリンクは 現実社会の複層的な繋がりに類似している 情報の流通がインタラクティブなのだ 受け手であり同時に発信者でもある
ここでは政府 大企業 個人が同じ土俵に立っている 尖閣諸島ビデオ ウィキリークスを見るまでもない

社会生活はもともと複層的な繋がりで成り立っている 広告が 今までマスやクラスターにアプローチしていたのは その複層的な繋がりを定量化できなかったために過ぎない
レイティング GRP ライフスタイル・セグメンテーション どれも手探りと想像の産物だ いくらチャートを眺めても 現実の人間は見えて来ない
SNSは擬似的な社会生活なのだろうが リアルなコミュニティが形成されているとは とても思えない

もっとも、現実社会でもすべてをさらけ出すことは少ない ギリシャ悲劇の仮面を(仮面劇だった)ペルソナという パーソナルの語源だ 現実の社会生活も しょせん劇場なのかもしれない 複層的な繋がりは 仮面を付け替えるのに似ているからだ
実名 匿名 愛称 あだ名 芸名 ペンネーム 雅号 仮名 偽名 ハンドルネーム 果ては戒名に諡 そして二つ名 どれが実態を表すのか? なんて不毛の論議ですね  ただ SNSをメディアと捉えたら間違える 従来の広告・マーケティングの延長で解釈していると 見誤るだろう ペルソナマーケティング 茶番ですよ (見たことはないが 昔の日本映画でありました「ある時は……pufa 七つの顔を持つ」とかいうやつ)

【マス】→【個】→【仲間】=【TVが代表する マスメディアを使った広告が主流の第1モデル】→【雑誌などのクラスターメディアへ商品情報を発信する第2モデル】→【SNSは世代も地域も自由に飛び越えた第3のモデル?】
そうだろうか? 「RT」(リツイート)も「いいね!」(Internet Explorer の〈お気に入り〉と同じく 私にはとてもイヤな語感です)も 共感の言い換えにすぎないのではないか

企業が発信する情報に対して 共感しなければ 人はその商品・サービスを購入しない 「あの人が使っているから」「隠れた名品」「いちばん売れている」「伝統のなんたら」
動機はさまざまでも すべて商品・サービス・企業の持っているストーリー(イメージ)が 自分の感性に一致したから買うのだ

SNSをメディアと捉えるのは いわゆるクチコミを作り出そうということだろう が 共感のトリガーはクチコミだけではない クチコミは言い換えればうわさ話 風評と大差ないものだ
多くの場合 風評はマスコミ発信のものが多い 今でも「TVで言っていた」は 動機付けの大きなファクターだ エモーショナルな部分に訴えるから タイガーマスク騒動はいい例だ
ちょっと変わったページがある 主にオーディオケーブルを扱っていらっしゃる「PRO CABLE」さんだ 無責任な言説に対して 実に正鵠を射た卓見を述べられている
(このページに感心したのは ブルーレイレコーダーを買い替えた時 家にあった適当な同軸ケーブルとピンプラグを使ったら 驚くほど画質が悪くなった経験があるからだ ケーブルは太いほどいいという うわさ話に惑わされていた)
専門誌のミスリード それを受け売りする読者 そこから広まるクチコミへの痛烈な批判だ 評論家が言っていた 知人から聞いたという話が いかに当てにならないか分かる

インターネット情報は玉石混淆 その中から真実を見分けるには見識が必要だ しかし既存マスメディアも実は信用するに足りないということだ
新聞・雑誌は影響力を全く失った 権威主義を振りかざしていたからだ 署名記事といえども ◯◯新聞という権威に寄りかかって書いている 権威の傘のもと匿名で権力を振るうのは 官僚にそっくりの精神構造である
匿名とは奥ゆかしさではない 単なる責任回避に過ぎない
理性の部分に訴える(本当はこれも、理知的でありたいとする層の感情に訴えているのだが)役割は これから何処が担うのだろうか ブログ? SNSではないと思う

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