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カテゴリー: 日本の伝統・本流

お萩と牡丹餅に違いはない

春に供えるのが「ぼたもち」秋に供えるのが「おはぎ」

「ぼたもち」も「おはぎ」も全く同じもので 呼び名の違いだけです 牡丹餅は春の彼岸 お萩は秋の彼岸のお供物として始まったものでしょう
浄土宗のサイトを見ると彼岸会は「菩提の種を蒔く日」とされています(春の彼岸ですね) もともとお供物は初穂を供える収穫の儀式(これは秋の彼岸)です 春と秋の彼岸の間には 雨乞いの行事から来たお盆があります
米と豆は縄文時代より大切な主要農作物 すべて農事祭が始まりです 産土の神はそのままご先祖様ですから 先祖供養そして仏教と結びつきました[01] … Continue reading

お供物が精進でなければいけない ということはないと思います 供えてお下がりを戴く(共食)ところに意義があります 彼岸会も神仏混淆の行事ですから 仏式の戒律があるわけではない[02] … Continue reading
生臭物や葷酒は 悟りを得る修行の妨げになるから禁じられたこと 檀信徒にまで強いてはいません 仏様はすでに悟りを開いているのです それに仏様は飲食をしません[03] … Continue reading

ぼたもち・おはぎ大切なのは餡と餅米のバランス

ある人から ヤオコーの牡丹餅(お萩)が美味いと聞いて買ってみました 結論からいうと私の好みではない 味の価値観は人によって違います
なので これも個人の評価・感想にすぎません ヤオコーさんを貶すつもりはありません ヤオコー・プライベートブランドは充実していて高品質です

私の理想とする牡丹餅(お萩)は 半殺しの餅と餡が同量です この割合だと餡の比率がかなり少なく かろうじて餅を覆うくらいです 従って餡は甘めでなくてはなりません 餅にも少量の塩を加えます
粒餡でも漉し餡でもかまいませんが 餡を中に入れて青海苔とか黄粉やゴマを使ったもの(カテゴリーが違うのではないか) また白餡やズンダは受け容れられません

ヤオコーの牡丹餅(お萩)は私の理想に反していました 餡の量が餅米の倍以上もあります(やけに餡が多く甘くないのは 昨今の流行りです ほとんどの餡はトレハロース臭がします) さらに餡で餅米をくるむことをせず 上からべったりと乗せたようになっています
餡が多すぎるせいか きれいに丸めるのを途中で放棄したような とても餅菓子とはいえない形状です これでは餡が多すぎて餅との調和を味わえない 牡丹餅(お萩)は餡と餅 いずれの風味が勝ってもいけません

かつての菓子は甘い物が上等とされ 江戸の羊羹は限界まで甘さを競ったそうです[04] … Continue reading 今は万事甘くないのが喜ばれます 甘みを強くするのは 保存性を高めるためでもあり 糖分が結晶化した羊羹は何カ月も日持ちしました 砂糖(甘味)を控えると保存性が低くなるので その分トレハロース等が使われます[05] … Continue reading
どちらにしても行き過ぎはよくない 甘味も餡の量もバランス感覚がいちばん大事です 歯が軋むような甘さでは味も何もわからない かといって薄甘ければ素材の風味が生きるということもない 半殺しの柔らかい餅と餡の甘さが一体となった美味さは 結構ピンポイントではないかと思います

ヤオコーのオリジナルというか総菜類は大好きです とくにヤオコー・ピノのカツサンドは絶品といってよいでしょう[06] … Continue reading yes!YAOKOの餃子も私好みの柔らかい皮でよく買います
ただ牡丹餅(お萩)は方向性が違うな というのが食べてみた感想です ヤオコーの餡は自家製です あんこが自慢なのでしょうが 私は餅菓子を食べたいのです

(2021年3月20日追記=近くの老舗餅菓子屋の牡丹餅が変わってしまいました 昔ながらの牡丹餅だったのが 今時の異様にあんこが多いものになっていました あんこの味だけで餅米の風味が全然しません これじゃ餅菓子とはいえない)

註釈

註釈
01 おはぎ・ぼたもちに使う小豆の赤が 悪鬼除けになるなんていうのも 中国習俗の影響を受けた後付けの理屈です つぶ餡・こし餡の違いも さして意味があると思えない
古代米が赤かったから ご先祖に供える供物に小豆等で色付けした赤飯(おこわ)が始まりです おはぎは同じ古代米である黒米を再現したものだという説もあります 小豆は赤いがあんこは黒く見えますからね
02 仏教が殺生を禁じているから精進物を供えなければいけない というのはちょっと違います 殺生を禁じるのは六道四生(輪廻転生)から来ていて 畜生となったご先祖がいる可能性があるからです 肉食とは関係ない話です
イスラム教はハラールだとかラマダーンとか いろいろうるさいことを言います 仏教の教えで食べ物の戒律はとくにない(原初仏教の姿をとどめている タイの上座部仏教は227もの戒律がありますが 肉食を禁じてはいません チベット仏教も肉食の禁忌は全くありません)
断食後に菩提樹の元に寄りかかっていたお釈迦様は 村の娘スジャータが振る舞う牛乳粥を 美味い美味いと言って食べていますから ビーガンだったわけじゃありません 靈供膳に鰹出しを使ってはいけないなんて馬鹿げた話です
03 肉食を禁じたのは穢れを厭うから 神道から来たことです 公家や武家また僧などの道義でした とくに武家は殺生を戒めました 居合の形で血振るいと称するのは 刀の穢れを祓う所作です 仏教に肉食禁止の教えはないが 日本仏教は神仏混淆なので もとの教義から変容しています
04 江戸で有名な羊羹屋は 鈴木越後=日本橋本町一丁目 船橋屋織江=深川佐賀町 藤むら=本郷御影町 金澤丹後=日本橋 紅谷志津摩=日本橋 だったそうです 私は柏崎市新野屋の「名題くろ羊かん」が好きです
05 トレハロースを使うのが悪いとはいえない 私が好きな餅菓子屋さん 柏崎の光月堂は 饅頭・どら焼き・最中・団子 それぞれ餡の作り方砂糖の使い方が異なります 上白糖・グラニュー糖・ザラメ・水飴・トレハロース等を組み合わせるのです
餡の美味さは小豆の質に加え 餡練りの技術で左右されます だから店によって味が違う 北海道産の小豆と砂糖と塩の天然材料で作ればよい なんて単純なものではない こし餡には晒し餡と皮むき餡があるし つぶ餡も煮た小豆を3日以上も蜜に浸したりします
06 私の味覚ではマイセンのカツサンドが旨いとは到底思えない 近頃はパッケージングされているので工場生産なんでしょう 井泉のカツサンドは美味かったのですが今どうなってるのだろう 最近は食べていません ヤオコーのカツサンドは 自家製ロースカツと自家製ロイヤルブレッド そして自家製ソースで成り立ちます 味が一体化するより3者が引き立て合うというのが私の感想です
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句読点

このブログ記事には句読点がありません 書き始めたころのオーサリングソフト・テキストエディター・ブラウザーなどは 英語の構文に基づいたものでした
そのため 句読点が行頭にきたり カギ括弧が行末にあったりしました 日本語表記に対応していなかったのです これではあまりにも読みにくいと思い 句読点の代わりにスペースを入れるようにしたのです

DTPソフトも同様でした 日本語組版の約束ごとは考えられていません たとえばH&Jの機能など日本語には不要です 日本語2バイト文字は一文字が一単語となってしまい 字間が異様に空いたりしました
今のソフトは改善されましたので かなり見やすくなっています ですから句読点を使ってもいいのですが 今更という感じでそのままにしています

句読点を使うのが正式な書き方のように 何となく思われていますが そんな決まりはありません 学校の授業でそう習ったから 皆がそのように書くだけです
明治から大正期に言文一致・口語文の表記が広まりました それまでの書き言葉ルールが通用しないので たいへん読みにくいものでした そこで返り点などをヒントに記号類が考えられました 約物といいます 読みやすさのための約束事ですね
読みやすくするための記号なので 手紙文(とくに目上の人宛)に 句読点を入れるのは失礼に当たります 候文で書く必要もないのですが たとえば表彰状などに句読点が入ってたら 変でしょう

もうひとつ教科書からと思われ 何となく正式みたいになっているのが 段落行頭の1文字空けです 私はこれも読みにくいと思います とくにweb上では1行空けの方がよいのではないでしょうか[01] … Continue reading
日本語には大文字・小文字がありません(促音などは別です) 文字の天地がすべて同じサイズなので 横組みではメリハリがなく可読性が落ちます このため欧文より行間をかなり空けます(通常は行送り1.5倍)

日本語の活字は縦書きを前提に作っているので 縦組みは比較的読みやすくなっています
 ひらがな・カタカナは少し小さめに作ってありますが 読みやすさのためではなく 画数の少ない文字が大きく見えるからです
段落の一文字空けは欧文のインデントから来ました 欧文組版にはドロップキャップというのもあります 最初の文字を倍の大きさにするのです(聖書などですと 大きな文字を花文字にして装飾します) 日本語ではドロップキャップはほとんど使いません 新聞の倍活字はここから来たのかもしれない

学校の授業で手紙文の書き方を教わったことはあります 拝啓・敬具の使い方とか時候の挨拶とかでした 唯一残る書き言葉でしょうか 脇付も習いませんでしたし 句読点を使わないなんてことも言われなかった(低学年の教科書は分かち書きで句読点を使いません)
明治や江戸時代の手紙文を見たことはないのですが 時候の挨拶なんて書いてますかね ビジネス文書と称するものでも 時候の挨拶があったりします 幼少時教育の影響は大変大きい 柔軟な脳に刷り込まれてしまいますから
学校で習ったこと教科書に書いてあることが すべて正しいわけではないし 世間の常識でもありません 学校という閉じられた社会 教科書という限られた世界だけのスタンダードなのです

註釈

註釈
01 WordPressでもH&Jの機能はあるようで 自動的に左右幅で整形して改行されます 強制改行はパラグラフと解釈され1行空きます これはビジュアルモードで書く場合です テキストモードでは通常の改行になります
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シェアリングエコノミー&クラウドファンディング

シェアリングエコノミーもクラウドファンディングも 価値の共有が本質なのではないか 共有には信頼感が欠かせない要件だ
なにも目新しいことではなく 近江商人の「三方よし」の精神そのものだ 売り手よし・買い手よし・世間よし この中でもっとも大切なのが 世間よしであるといえる

売り手と買い手が信頼しあうのは当たり前 買うのも売るのも商品やサービスだけではない 誠意のやりとりなのだ でなければ 買い叩いてやろう売りつけてやろうの 狐と狸の化かし合いになってしまう
シェアリングエコノミー・クラウドファンディング いずれも相手を信頼することで成り立つものだ

企業でこれから大切になるのは 社会との関わり方 社会にとっての有用性 ユーザーとの交流となろう つまり外向きになれということ
お客様と平等の関係を築く お互いに敬意を持ちあう 信頼がベースとなる お客様は神様じゃないし 客はカモでもない お客様志向や客の意見を取り入れるのとは違う

そしてユーザーとは客だけでない 世間様の誰が何時お客になるかわからない 固定客も見込み客も大事だが それだけではいけない お馴染みさんだけの裏メニューなど愚の骨頂だ
経営者も従業員も やはり世間の一員であることを忘れてはいけない 売り手はまた誰かにとっての買い手なのだ 買い手もあるときは売り手かもしれない お互い持ちつ持たれつで世間というのはあるのだ
取ってつけたような社会貢献が世間よしではない 本業を真っ当に行うことが社会に参加することであり すなわち世間よしなのだ 客もエンドユーザーだけにとどまらない あらゆる取引先がお客様といえる

シェアリングエコノミーもクラウドファンディングも インターネットがなければ成り立たない 一方的でない情報の共有ができたから可能になったモデル つまりフラットな関係が根底にある
日本でのとらえ方は少し的外れな気がする とくに民泊と称するものは Couchsurfing(日本風にいえばお互い様の精神)・Airbnb(これはBandB日本の民宿に近いか)などの理念と大きくかけ離れている
信頼感もなにもない ただの新しい儲け口でしかない インターネットを通じてといっても 単なる予約手段でしかない 

中国や韓国からの旅行者や短期滞在者を目当てにした アジト提供のような形になりそうである 近隣住民のことなど考えない 世間よしどころか 下手をしたら犯罪の温床になりかねないものだ
だれでも開設できる簡易宿泊所に 役人がもっともらしいお墨付きを与える 官が絡むと必ず利権が生まれる しかも中国・韓国から来る者が対象のように見えるが どうなのだろう

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