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カテゴリー: 日本の伝統・本流

TVと映画の衣・食・住

TV

最近のTVってアップの画面が多いと思いませんか[01] … Continue reading とくに料理・食べ物関係で顕著です 盛り付けも含めての料理ですから 飯粒が見えるほどの超どアップって汚らしいとまでは言いませんが……[02] … Continue reading スパゲッティとフォークを取り合わせた 昔あった食品サンプルの真似をしたわけでもないだろうが
まぁ盛り付けを云々するような料理でないということか 実際に盛り付けがいい加減になってきた気がします

映画と違って セット・大道具・小道具にそれほど時間も手もかけられないからでしょうか 尺をケチっているのか 同じカットを何度も使い回してるし ズームインとパンを多用するし たぶん画造りができないのですね(基本はFIXです)
それと どうして画面にやたらと文字を入れるんでしょう ハンディキャッパーのためという いいわけはあるだろうが 要するに画像だけで伝える技術がないからです
昔スーパーインポーズの文字がうるさいと言われ自粛したのですが 結局もとに戻ってしまった そうすると文字をかぶせるのもCMの真似でしょうか

そういえば この頃「蕎麦つゆ」「天つゆ」「丼つゆ」という言葉が聞かれません TVの食べ物番組なんかで 何でもかんでも「タレ」というからでしょう そのうちに生蕎麦の汁(きそばのつゆ)を「なまそばのたれ」と読むようになるでしょう 生醤油なんてのもすでに使われなくなってます[03] … Continue reading
もっとも「ツユ」と「タレ」の厳密な定義があると思えませんから 間違いと言い切れないのですが 似た言葉で「吸い地」「下地」「寄せ地」は全く使われなくなりました 水炊き・シャブシャブみたいなのが流行ったからだろうか
あと出版の方ですが「出汁」という表記は嫌ですね だし汁のことを出汁汁と書くのだろうか(デジルジルと読んでしまいそう) 「味噌汁の出汁」とは書きたくない 「出し」でいいと思う 味噌汁には煮干し出しですね [04] … Continue reading

それにしても 一億総白痴化とか 子供の教育に悪いとか 俗悪番組とか言ってた言葉が懐かしい そういう言い方をするのは TVに影響力があると多くの人が認めていたからです
いまでも風説の流布という点では 影響力を保っているようです ひと頃のワイドショーほどではないと思いますが
個人のブログで料理の写真を投稿するのも たぶんTVの真似です 珍妙な言葉遣いも やはりTVからが多いと思います 「もっちりした刺身」とか「日本代表監督の初陣」[05]サッカーの国際試合中継を観るときは 音を切るか絞ります アナウンサーの大仰で騒々しい実況が不愉快ですからなんて そうです 映画なんて 今やまったく影響力を持ちませんもの

昔からTVの制作は手探り状態でやってきたわけで 舞台中継みたいなものでした 初期のころは生放送が前提だったため 編集が最終的な演出という映画製作の常識は考慮されなかったのかも知れません[06] … Continue reading
今のTV番組で食べ物関係だと「孤独のグルメ」の作り方はいいと思います 松重豊さんの食べる演技が絶妙だけれど 食べるのは本番だけなんですね 作り込まない表現として面白い 実際の店でロケしているし 巧まざる臨場感が出ています
ドキュメンタリータッチの わざとらしい演出では決して臨場感は表せません あのさりげなさは手堅い脚本と演出のなせる業です 描写と説明の違いフィクションのリアリティーを心得ていると思う

映画

映画とくに時代劇に学んだことは多いですね 「徳川幕府」なんて言葉は教科書で初めて見ました 映画の世界では「ご公儀」が当たり前でした TVでも初期のころはちゃんと「公儀隠密」でしたけど 江戸湾とか江戸城という台詞もなかったと思う
今でも太秦で松竹あたりが頑張ってます でもTVの仕事しかないんでしょう 昔の映画はどうだったか よく覚えていないのですが TV時代劇を見ていてちょっと気になることがあります それは箱枕の使い方です

母方の祖父母の家(つまり母の実家)に箱枕と搔巻がありました 面白がって使っていたところ 祖母に箱枕は敷布団の外に出すものだと言われました それも頭ではなく首筋(盆の窪辺り)へ当てるのです 髷を結ったままですから(祖母は看護婦だったので 日本髪ではありません)
たしかに布団の上では安定しないし それに高すぎます 畳の上に置くと足の下部が弧を描いていて 寝返りも打ちやすいのです(正確には、これは船底枕というらしい)
ただそうして寝ると 肩の辺りがすーすーと涼しくていけません そこで掛け布団ではなく 搔巻が都合いいわけです 肩口を覆いますから風が入り込まない

昔の映画で箱枕のシーンを見た記憶がないのは 庶民の寝姿はあまり絵にならないからですね お殿様は箱枕ではなく 括り枕を使っていたように思います それと掛け布団も使っていました 病気の殿様は頭に紫の鉢巻をしていて 布団を吊っていました あれはよく分からない
お姫様や奥方様は髷を結ったまま寝ることはないだろうし これも見たことはないのですが たぶん髷を解いて紙で巻いたのでは たしか宮中賢所の内侍がそのようにして寝むと聞きましたから この寝方だととても寝返りを打つことはできません

布団を着るという言い方があったように 一般庶民は掻巻きです 掛け布団を使うのはよほど裕福な商家などです 裏長屋に住んでいる人たちになると 布団を持っているのはいい方です それも二つ折りにして いわゆる柏餅[07] … Continue readingで寝ていたようです この寝方では当然 枕は布団の外になります(箱枕を使っていたかどうかは分からない)

冬はそれだけでは寒いから 綿入れを着込みます 春になって気候が和らぐと 冬の間に着ていた綿入れから綿を抜いて袷にします その綿を質草として預け 代わりに蚊帳(紙帳)を請け出すといった具合です
着物は古着屋さんで買うのが常識だったし[08] … Continue reading クズ屋さんが商売として成り立っていた江戸時代の経済はじつに合理的でした

註釈

註釈
01 オリエンタル即席カレーのCMを見たら けっこうアップのカットが多いですね CMの映像から来ているのかな マクドナルドのTVCMにもアップのカット多用があったかもしれない(シズル感とかいってた時代です)
02 回転寿司のTVCMで シャリの上から魚の切り身を落とすように ペラっと乗せるのがありました やはりアップでスローモーションの映像です 回転寿司は握ってないですから ある意味正直だなと思いましたが あれを見て旨そうと思うのでしょうかね 食材を粗末に扱っているという印象しか受けません
03 実際ある寿司屋でフロアの人が「穴子のタレ」と言ってました(回らない寿司屋です) みたらし団子と間違ってるのかと思いました 何しろ「エバラすき焼のたれ」という商品があるのですから ツメだけでなく割り下という言葉もなくなりますね
タレは鰻の蒲焼と焼鳥ぐらいですね 鰻のタレは付け焼きと似ていますが 溜まりと味醂を合わせたものだったんじゃないか もともと山椒味噌を塗り付けて食べたものらしいですから 味噌味ベースです
04 明治時代の料理本に煮出汁という語があります これは(にだしじる)と読むので 出し汁→出しとなりました 出汁は(だしじる)であって 出汁と書いて(だし)と読むのは間違いです それならば煎汁と書いて(だし)と読む方がいい なかなか読みにくいが
05 サッカーの国際試合中継を観るときは 音を切るか絞ります アナウンサーの大仰で騒々しい実況が不愉快ですから
06 生放送の予期せぬ出来事は むしろダイナミックな臨場感を生み出していました TV制作は作り込みすぎない アナログな余白が大事かもしれません もともと映画とTVは性質が違いますから 制作の作法も異なるのが自然です
07 柏餅が端午の節句に食べられるようになったのは こじつけからですが 葉っぱで飯や餅を包むことは 古来から行われていました 主に保存用や携帯の用途ですね 布団を柏餅にして寝るは葉っぱの方でなく 餅の形状と思います 柏餅は丸めず餅を二つ折りにして餡を挟みます
08 漫画で描かれる泥棒の姿は 唐草模様の大風呂敷を背負っていますが あの中には布団や衣類が入っています 誰だったかの時代小説で 泥棒が古着屋を営んでいるという設定があった気がします 盗んだものを自分で売るのですね
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竹と月と芋

芋名月・栗名月・豆名月という言葉がありますが 米名月はない 米と月は結びつけられていないのです[01] … Continue reading 月見は芋や豆それに栗といった作物を供えたものです それも必ず竹で作った笊や箕に盛りました 檜の三方に米の団子を供えることはなかったのです

竹取物語=かぐや姫のお話は竹がテーマになっています かぐや姫は三月で大きくなります(筍のような早さ) 季節単位・年単位ではなく月単位の時間経過 その間稲藁のつぐらではなく竹の籠で育てられています
ただし竹取物語に芋はでてきません 今昔物語集版では月との関係さえありません 後段になって 実は月の世界の者と言い出すのも唐突すぎます もともとの話が変化していったのか幾つかの話が結びついたのか

今の月見は団子を三方に載せて供えます 月見団子の作り方は ご飯を蒸して芋と混ぜ つぶして里芋の形に丸め黄粉をまぶします 米が主となっているものの やはり芋と豆です(芋餅・芋団子として各地に伝わります) これは嵩増しではなく米文化と芋文化の融合を象徴している気がします

月を愛でる人たち(芋=縄文文化) 欠けを忌む人たち(米=弥生文化)の習合が 十五夜の月見の風習かもしれません そしてあらゆる祭礼が宵祭なのも 月の文化の名残ではないか(東北のねぷた かんとう なまはげ 各地の盆踊りや神楽)[02] … Continue reading

天皇陛下が月を見るときは見上げることをせず 水面に映る月を見ると聞きます かぐや姫のことを思い出してしまうから? 太陽神が主神で月の神は侍神ですから 見上げることを憚ったのでしょう(それにしては大嘗祭は夜に執り行われます)
銀閣寺(慈照寺)は月待山の麓にある月見のための館です それも池に映る月を楽しむものでした(内田百閒が描く松濱軒の大池月影が そんな感じなのでしょうか)
向月台は江戸末期に造られたそうですが 勝手にあのような造形を築くことは考えられず 類似のものは以前からあったでしょう 白砂に照り映える白銀の月明かりを愛でるものです 築山は室内から眺めるためにあります その上に登って月を見るなんて馬鹿なことはしません[03] … Continue reading
 
米作が中心の大和朝廷の神話(古事記)は太陽神の天照大神が中心です 日照と水は米作りに欠かせませんから 月読命の存在はじつに影が薄い この女神の名は月を読むで明らかに農業神です しかし米は司ってないのでしょう イモ類の原産地はジャングル(竹林?)の中なので直射日光を嫌います

太陽と月の大きな違いに満ち欠けがあります 欠けを忌む人たちにとって月は不吉だったのかもしれません なにしろ日食にあれだけ大騒ぎしたのです 後の世でも日蝕の日は廃務といって 朝廷の全ての活動を停止したそうです 稲作民が優勢になったのは主食の保存性のためかと見ますがいかがでしょう

かぐや姫(なよたけ姫)が月に帰るのは満月の時でした 車に乗ってと記載されていますが 空を飛ぶ乗り物は船ではないかと思います 各地で行われる祭礼の神輿が担ぎあげられ(宙に浮かぶ)揉み上げられるのも 船を表すような気がします 竹取翁に富をもたらしていますから豊穣の神様であって 天照大御神の食事を担当する豊受大神のことかもしれない

この神様は別名を屋船豊宇気姫命といい 羽衣伝説とも関係があるようです 船の文字が使われているのが興味深いですね 航海と漁業の神でもあるのでしょう
羽衣伝説の舞台は水辺ないし海岸となります 潮の満干は月が影響していて また月や星は海路の標でもあります 海の民と月の関係は深いものです

古事記・日本書紀は船に関する記述が多数あります 葦船なんかヘイエルダールのコンティキ号(たしか屋根を架けた形状です)が思い起こせます 日本人は海洋民族であったことの証左だと私は考えます
インカ文明の末裔であるペルーに昔より伝えられる農業暦で 収穫は満月の翌朝に行うというのがありました 満月は稔りを表し そして月見は稔の秋です

註釈

註釈
01 満月には月の兎が餅を搗いてると言われます 月の影の見方によると思いますが 臼と杵の形状は豎臼と竪杵です これは餅搗きではなく籾摺り用ですね
搗き餅が一般的になるのは 江戸中期以降です ところで兎は出雲神話に出てきます 民話にもよく登場します 月読命と関係があるのかもしれない
02 考えてみると太陽を拝む昼の祭礼というのはほとんど聞いたことがない 天照大神を頂点とする神話・民話も記紀以外にはないようだし どこかで歴史の断絶があったと思えます
03 銀閣寺は黒漆塗りです 仄かな月明かりに浮かぶ 銀色の向月台の姿を邪魔しないためでありましょう 立待月・居待月・寝待月 建物の中から月を見るのです かつては現在の建物の隣に 観月のための館があったといわれます 銀閣寺の銀は月明かりの意です
備前閑谷学校講堂の庭は花頭窓から眺めます 暗い室内の床は黒漆で塗られ 窓を通した庭の色彩が照り映えます 漆黒の空間に浮かぶ景色 この造形を何といったらいいか 窓に切り取られた風景を愛でる 他の国には見られない美意識です
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稲と芋の伝播は舟運

稲作技術が日本に伝来したという言い方はよくありません 木の実・草の実で飢えを凌いでいた未開の原日本人(縄文人?)に 大陸から(朝鮮半島経由で)進んだ文明がもたらされたと誤認させる意図があります 唯物史観[01] … Continue readingでしょうか 最初に理屈があり それに合わせてイベントを組み立てるという

人々は最初 食べ物に不自由しない南方で暮らしていたと思われます どのような理由か次第に北方へ移住して行きます そのときはタロイモ(里芋)の種芋を携えて行ったのでしょう いまでも里芋のことを「太郎芋」と呼ぶ地域があるそうです
その後に籾を携えて移住してきた人たちがあります 芋を主食とした人たちと争いがあったかもしれません しかし陸稲にしろ水稲にしろ稲作は朝鮮半島経由ではありません 籾を持って陸伝いに道なき道を北の地域へ行き それから南下したとは考えにくい
稲は日差しと水と温暖な気候が必要な南方の植物です 素直に考えて日本へは南から島伝いに船で渡ってくるでしょう そして沿岸に定着するはずです

古事記・日本書紀に「枯野・軽野」と呼ばれる船の記述があります これはおそらくアウトリガーの外洋カヌーです 沖縄サバニ船の先祖かとも思われますが不明です 東北地方にもサッパ(笹舟・小舟=サプネ?)という船がありますから 日本列島沿いに海路の交通があったはずです
湖南省あたりから種籾を担いで 満州・朝鮮半島経由の陸路で日本に来るなんて 絶対にない いずれにせよ稲を育てたこともなくカヌーを漕いだこともない学者には想像できないことです こんなことを唱える連中は田植えが後ろ向きに進むことも知らないでしょう

北方の島伝いに船で交易していた オホーツク文化があります 縄文前期の頃です 定住していましたが農耕はやっていなかったようです 千島列島から樺太を巡る オホーツク海南部で活躍した海洋民族でしょう
中心となるのは網走でした カムチャッカ半島北部(内陸)はトナカイ等の狩猟や遊牧ですね 交流はあったはずですから 船はエスキモーが使うような 軟式構造のシーカヤックかもしれません オホーツク文化はアイヌ文化へと引き継がれました

沖縄のサバニ船とアイヌのイタオマチプの構造はよく似ています ともに船底を一本の木をくりぬいた丸木舟状のキールで形作り 側面に板を張り付けるハギ船と呼ばれるものです 津軽海峡のムダマハギ参照
沖縄から宗谷岬までカヌーで渡航する実験をした人がいます 一人が櫂で漕ぐだけで平均1日50キロ以上は進んだそうです 日本海流(黒潮)は秒速2メートルの速さです
古代の人たちは操船技術に優れていたでしょう キールがあればマストを立て帆も張れますから 天候に恵まれ海流に乗れば1日200キロも不可能ではなく そうすれば南方から日本に到着するのに1週間か十日ぐらいかと想像します 島伝いならそれほど困難な航路でもなさそうです[02] … Continue reading

芋を運んだ古代の外洋船は丸木舟構造ではなく 竹で骨格を作り獣皮や樹皮で外殻を覆った シーカヤックではなかったか また東南アジアには内海用ですが竹籠で作った船もあるようです(コールタールで防水していた) これらは軟式構造のため丸木底舟に比べて船脚は早くありません
おそらくカヤックで来たのは石器時代から縄文前期のことです 暖流に乗ってやって来ました 縄文時代には漆が使われていますから 後期には竹釘と漆で丸木に板を接着したハギ舟で 稲籾を運んだかも知れません イタオマチプは板を紐で継いだ縫い合わせ船ですから 中間の縄文中期あたりでしょうか

最初芋を携えてきた人たちは竹も利用していました 竹細工を生業とする竹取翁はこの系統の子孫です 竹取翁物語は藤原氏になぞらえていますが 稲作民の大和朝廷に月の世界の人(芋文化?)が対抗する内容です 竹取翁物語に「月の顔見るは忌むこと」とあります 下界の汚れた食べ物云々は米のことですね多分 とすると月見とは?

註釈

註釈
01 唯物史観って皇国史観の裏返しと見ていいでしょう 日本の文化・歴史の中心に天皇がありました この事実(ファクト)を片一方は王者になぞらえ もう片方は覇者になぞらえたという感じ どちらも自分に都合のいいように 借り物の理屈を持ってきただけです(牽強付会というやつだが なぜか変換できない)
02 いかに海洋民族が遠目がきいたといっても 大海原で島影はほとんど視認できません 自らの位置を知り航路を確かめる術は 月と星の観測です 月読命は航海の神であったのです かぐや姫物語や羽衣伝説はこのことを伝えます
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