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縄文より続く日本の文化伝統 投稿

煽動についての雑感

煽動・宣撫・洗脳・教化の要諦は シンボル・神話・情報の3要素をコントロールすることです これはブランディングにも共通します
有効な手法は 音楽とアジテーション・シュプレヒコール(感情的で単純なメッセージ) そして偶像・祭礼(儀式)

ユダヤ教は造形的象徴を用いない たぶん流浪の民だったためでしょう イスラム教も偶像を否定する ムハンマドが追われる身だったことが影響しているのかもしれません
モスクの中のコーラン朗唱は実に音楽的で ドームの音響効果も素晴らしいものです しかも窓はなく 半ば暗闇ですから儀式に没入(無思考になる)します
(余計なことですが エジプトの太陽神ラーとアラーは何か関係があるのでしょうか)

キリスト教の教会も薄暗がりです そして天井が高い 彼方に仰ぎ見る天井画やステンドグラスは 神々しく光り輝きます ステンドグラスは色付き窓ではなく光る壁です 映画のスクリーンに似ているかもしれない
映画は 閉ざされた場所での映像・音楽・暗闇という場ですから実に効果的です ナチスが重用したのは分かります イベント(党大会)も闇と光を演出に使っていました

儀式を伴うイベントは大変有効 たとえばB1グランプリは 割箸を投票するというルールがあります 参加と服従の2つの要素を持つのです
参加を奨励するコミュニケーションの方が 一方通行な伝達よりも成功する可能性が高いのは 教室で質疑応答が教育効果を上げるのと同じことです まさに〈教化〉

法然の専修念仏・称名念仏は 参加の障壁を取り払ったという意味で画期的なことでした 小難しい教理も大変な修行も不要です みなで声を上げて唱えれば連帯感が生まれます
ところでアマゾン本社には コーヒーの香りが漂っているそうですが あらゆる宗教で香りは重視されます 我々になじみ深いのは焼香や線香の香り(抹香臭いというやつ)

神々の伝説を語る吟遊詩人は 伴奏入りの朗唱ですから プロパガンダに使えます 日本でも明治大正時代に演歌師という者がおりました 演劇はカタルシスという本質を持つため 宣伝には向きません むしろ統治に相性がよい パンとサーカスのサーカスの部分 いわゆるガス抜きとして

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原子力発電

科学的という名の宗教 科学的社会主義の申し子 そして素朴な科学崇拝・進歩幻想の極みが「鉄腕アトム」放映と「万博」開催だった 同時期に日本の商用原発が稼働し始めたのはけして偶然ではないだろう
原子力の平和利用で明るい未来という美名の下に 原発に反対するなら その科学的根拠を示せという言い方も同じ土壌にある
アメリカの核兵器は人道的に許せないが ソ連の核兵器は自衛のためだと言いふらす連中がいた 原子力の平和利用も同じ文脈だ

原子力潜水艦や原子力空母は実用化されている 小型の原子炉なら通常の運用ではとくに問題ないのだろう オスプレイを見て分かるように 軍事技術はもともと安全性を第一義に考えてはいない
原子爆弾・核兵器も完成された技術だ なぜなら後始末を考えなくてよいから 放射性物質が拡散するといえ 核爆発を起こしてしまえば それで終わりなのだ 兵器としての役割は充分果たしたわけだ 東洋人で唯一欧米列強に対抗しようとした 異教徒である日本に使われた

その熱エネルギーを少しずつ小出しにしようというのが 原子力発電だ 原子炉は爆発することを前提に作っていない だから未来永劫 放射線は出続ける 大量の燃え残りをどう始末するか(真の意味で廃炉にする)方法はない 核兵器より始末が悪い実に無責任なことだ
ほとんどの場合 安全の確率は99パーセントで許される しかし こと原発に関しては100パーセント完璧な安全が求められる 事故が起きたときの影響が大きすぎるから
もともと核技術は兵器として開発されたものなのだから 核兵器や原子力空母 原子力潜水艦にとどめておけばよかったのだ 平和利用なんてまやかしに過ぎない

火の付け方は分かったが 火力調整も消し方も考えないままに使い始めた 燃え尽くすまで数万年かかるという もはや設備としての寿命や耐用年数といったレベルではない 40年使ってそれから後は修理しながら使う? これのどこが安全対策なのだ
最終処分の方法がない以上 原子力発電は不完全な技術だ それどころか 通常の運用でも 日本の原発技術で安全性は確保されていない 活断層があるとかないとかは 全然関係ない問題だ

柏崎刈羽原発も 中越沖地震で放射能漏れがあった しかも冷却用電源の変圧器が火災を起こしている 地震の規模が比較的小さく津波が起きなかったから 重大事故にならなかっただけ 単なる僥倖である
日本にある原発すべてが福島になる可能性を持っている 事故が起きなければ大丈夫? 自然災害がなければ事故は起きない? とんでもない 東海村・美浜・もんじゅ いくらでも重大な事故(みな人災)が起きている 死者も出ている

再稼働反対は問題の解決にならない 使用済み核燃料がむき出しになり むしろ危険なくらいだ すべての原発を廃炉にする以外ない そうしても使用済み核燃料は残る 問題を先送りにすることで もはや手を付けられないところまで来ているのだ
公共の利益のためといい 官僚があらゆる利害関係を調整することにより 誰も責任を取らず制御することもかなわない 巨大な怪物(カオナシ)ができあがる カオナシは黄金を振りまきつつ ひたすら肥大してゆく

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王道・覇道、正道・邪道

道理

「王道」とは王たるものの執り行なうべき道のことであります 徳政を言います 対極にあるのが「覇道」 すなわち力による圧政です 道すなわち道理であります
「学問に王道なし」と唱えたのは古代ギリシャの賢人といわれます この「王道」は 王様だけが特権として使える 近道・早道・抜け道のことをいいます 筋の立たぬ無理です

道理にかなわぬ無理は「覇道」であり「邪道」です
正邪というように「邪道」の対義語は「正道」であります また「大道」ともいい 人の踏むべき正しい道筋のことであります 王道とは言いません

筋道

昭和の中頃まで 通りの真ん中は歩かない筋者(侠客)がおりました 律儀に道の端(家の軒下と電柱の間 犬走り)を拾うのです まだ渡世人の矜恃が残っていました[01] … Continue reading
その昔 博徒等は表を歩くとき 手拭また袖で顔を被っていたと聞きます お天道様に顔向けできない身の上との自覚でありましょう 切られ与三の姿です

渡世人には稼業人と遊び人がありました 稼業人はいわゆる的屋さん(露天商)のことです 遊び人は博徒ですね どちらも市井で暮らす生業(渡世)を持ちます 侠客といわれる人たちは他にもあって 中間や町火消また沖仲仕などです[02] … Continue reading

昭和大戦の後で蔓延した暴力団・愚連隊等は 侠客・渡世人とは全く異なる連中です 江戸でいえば 町奴を束ねた幡随院長兵衛と対立した 旗本奴の水野十郎左衛門のような ならず者・ごろつきです 道に外れた外道と呼びます[03] … Continue reading
第三国人が多くを占めていた この者どもは裏街道や道端どころか 徒党を組んで往来の真ん中を我物顔に押し通ります 占領軍の不良兵から横流しの品物を闇市で売ってましたから 戦勝国の者だと肩で風切って歩く与太者でした

江戸では堅気の人も 往来を歩く時は羽織の袖に手先を隠したようです これは落語の所作に残っています 商人は前垂れの下に両手を入れておりました 武家は袖で大刀の柄を覆って歩きます 懐手をしているのは浪人でしょうか
大通りを大手を振って歩くのは 端ないこと半端者のすることであったのです

註釈

註釈
01 有名な侠客としては 江戸開城で勝海舟に協力した 鳶(町火消し)の親方 新門辰五郎 会津藩中間頭だった会津小鉄は 不逞浪士の情報提供などで新選組に協力しています 共に市井の人々が内乱に巻き込まれることを防いだ 義侠に生きる人物です
02 フーテンの寅さんが冠婚葬祭で仕切ろうとするシーンがあります あれはお節介ではなくテキヤさんの仕事なのです テキヤさんは縁日の境内で商売します 社寺を疎かにしては成り立たちません 稼業の允可は聖徳太子からいただいたと言い 礼節を通すため古来からの仕来りや作法を伝えています 今でも盃事の媒酌人はテキヤさんです
03 飯岡助五郎と笹川繁蔵の大利根河原大出入りで 死んだのは平手造酒のモデルだった浪人一人のみだそうです 博徒同士の揉め事があっても 最終的には顔役というか所の長老格が取り持って 盃を交わし手打ちするのが決まりでした 暴力団の抗争とは違います
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