墓参りについて

どなたかの随筆に このごろ関東(東京)でお盆に墓参りに行く風があると聞く 自分の住む関西(京都)でそのようなことはしないし 生まれ育ったころの記憶にもないとありました うろ覚えで著作者のお名前は分かりません たぶん昭和初期に書かれたものでしょうから 墓参りというのは きわめて最近の習慣ということになります

何々家の墓とか先祖代々の墓とかが建てられるようになったのも近年のことです そうすると いわゆる墓守だとか長男でなければ墓に入れないなんて言い出したのは さほど古いことではなさそうです
仏門に入ることを出家といいます 家を出るから仏弟子となったご先祖に家名はないのです 入るのは仏門であって墓ではありません 昔は一般に それほど墓に拘泥わることはなかったのです では先祖供養を大事にしなかったかといえば そんなことはありません

追善供養は墓参りでない

菩提寺の住職によれば 先祖供養とは年回忌をきちんと行うことだそうです 年忌法要のあと墓に卒塔婆を立てますが 墓参りを欠かさないようにとは言われませんでした 付け加えますと 追善供養(年回忌)は文字通り1年単位で月日は関係ありません
巷間いわれる祥月命日の前だとか後だとかはまったくの俗言です 1月1日に亡くなった方の法要を前年にやっては年忌供養になりません 日付より年数のほうが重要なことですから

父の葬儀のとき葬儀会社の方に 葬儀は菩提寺の住職が執り行うもので 我々はそのお手伝いをするに過ぎない すべて住職の言われるままにしてくださいと諭されました その通りで住職からいろいろと細かく教えていただきました
その他 仏壇の上鴨居のところに遺影写真を掲げてはいけないとも住職に言われました 仏壇にはご本尊を安置してあるのだから ご本尊より上方にそのようなものを置くべきではないとのことです
内田百閒翁によると昭和のはじめころ 遺影写真を位牌に焼き付けるのが流行ったそうです さすがにそのようなことは廃れました

当家は400年以上前より浄土宗で 浄土宗は絶対他力ゆえの教えかもしれません 他宗でどうかは知りませんが 菩提寺の指示に従うこと 葬儀より前に枕経を上げてもらうことが大事なのは 共通しているのではないでしょうか 今昔物語集の仏教説話を見ると 枕経は本来臨終の時に上げ 阿弥陀三尊のご来迎を願うものでした
ですから 自宅で葬儀を行うときも葬祭会館で行うときでも ご本尊に出張っていただきます そしてお経を上げるのも 焼香するのも 手を合わせるのも すべてご本尊に向かってすることです なにとぞ成仏させてくださいと ご本尊に願うのが葬儀の本義です

丁寧なつもりで焼香と合掌の後先に ご本尊に尻を向け列席者喪主に頭を下げるなど あってはならぬことなのです これは葬儀社の方に言われました 元は仕出し料理屋さんであった 江戸時代より続く老舗です
仏教に限りません キリスト教の葬儀も遺影に祈りを捧げるわけではなく あくまでも神に帰依する(天国に召される)ことの再確認です

拝むのはご本尊

盂蘭盆会の大切な行事は施餓鬼です 寺によって多少日にちは異なりますが だいたい八朔に壇信徒が寺に参り 寺方は精進料理を振るまいます 当地ではこのことを盆内といいます その他にも盆礼・盆供・盆持・盆参など様々な呼称があります
もともと八朔の行事は収穫祭の予祝でありましたから施餓鬼と結びついたのでしょう 本来は作物を寺に喜捨(御布施・布施行)したものです 寺領がある場合は初穂を供えたのかもしれません
また墓参りで食物を供えるのも この施餓鬼をまねた最近の風習です 住職はあえて墓に食物を供えることを止めませんでしたが 供えた後は持ち帰るか その場で食べなければいけないと教えていただきました

寺に参るのも仏壇に参るのも 全てご本尊に参るのが根本義です 故人やご先祖へではありません そうしてみれば ご本尊の御座さない墓へ参ることはなかった というのが頷けます
(禅宗の場合ご本尊はなく 釈迦牟尼世尊と菩提寺の僧が檀信徒の代わりに修行するという形です 各宗派いろいろな教えがあると思われます)

ご先祖・故人がどこへ行くのかといえば ご本尊が阿弥陀如来なら西方浄土です 薬師如来がご本尊なら東方浄瑠璃世界 キリスト教徒はハルマゲドンに備えた神の兵士として天国へ招集されます いずれにしても墓にはいません
古代神道は教義がないので何ともいえませんが 祖先神・産土の神として その土地に一体化するのではないでしょうか 古来より古墳を祭祀の対象とする考えはありませんでしたから

供養塔、納骨堂

盆に菩提寺へ参りもせず 墓に団子かなんかを供えるだけでは 先祖供養になりません 墓に参るのであれば 墓の掃除と周囲の草取りをすればよいと思いますが

昔は個人墓でしたから墓石が次々と増えます その時どうしたかといえば 古い墓から仕舞って供養塔に収めます(三三回忌が目安ですから子供一代限りということです) その頃は遺骨は土に還っているので墓石を始末するだけです
寺でも供養塔を建てて合葬することがあります この場合の建立費用は永代供養料を当てます 永代供養とは三三回忌が終わった後や回向する子孫がいない無縁仏を供養することです だから孫が供養することもあまりない

何々家の墓と銘したものが建てられるようになったのは 供養塔の変形かと思います 埋葬する際に遺骨を骨壷に納めるのはいつごろ始まったかわかりません
近年都会地で目立つようになった納骨堂とやらは 供養塔とは異なる宗教ビジネスに過ぎないと見ます

墓参りが一般的になり骨壷が一般的になって 先祖供養が遺骨に手を合わ墓に食べ物を供えることとなりました もはや菩提寺に参ることご本尊を拝することは忘れ去られたのです 宗旨・宗派を問わない納骨堂が繁盛したり 派遣坊主を葬祭場が手配するのも自然な流れでありましょう

追記 

葬儀と埋葬の違い

葬儀は埋葬のことだと思っているから 生きているうちに墓の心配をしたりすることになります 墓や遺骨に拘泥する 形あるものを求める気持ちは分からなくはないのです 位牌だとか仏壇もそうやって一般化したのだと思います
でもそれは後に残された者の気持ちであって 自分を納得させるための行為です 繰り返しますが仏様は墓にいません そんな所にいたら浮かばれない地縛霊です ご先祖様・故人が往生できてないことになります なお千の風になってるのは きっと浮遊霊のことですね

当地は今でも骨壺を用いず カロート内に直接バラバラとお骨を入れます そしていずれは土に還ります 古代神道では産土の神としてその土地に一体化しますから これがもともとの埋葬だったでしょう 最近行われる樹木葬は骨壷を地面に埋めるだけなので ただ単に墓石がないというだけのことです(墓については後述します)

日本の仏教どの宗派でも 墓石や遺灰あるいは遺影を拝めという教えはないと思います

また当地で盂蘭盆会に迎え火を焚く風習はありません 盂蘭盆会は収穫祭の予祝です 地方によっては護摩木を焚く行事があるようです おそらく結実を迎えた稲穂が虫害にあわぬよう 煙で燻べたことが始まりではないかと想像します

江戸時代の盂蘭盆会は各家で精霊棚を作って祀ります これをお棚参りといい季節の野菜とともに団子を供えます 釈尊から代々の先祖に始まり無縁仏・牛馬にまで供えたようです 施餓鬼会の法要と一緒になったもので一切衆生を供養します この辺から牛や馬をかたどって供える風が始まったのでしょう
これも江戸に限ったものです その頃から菩提寺を持たない人達が多かったのでしょうか 当地では菩提寺の住職が見えて棚経を上げていただきます(棚経とはいえ精霊棚は特に作らず仏壇のご本尊に参ります)

盂蘭盆会と並んで盛んなのが彼岸会です これも牡丹餅や御萩を食べます 春の彼岸は保存していた穀物の種を播き稔りを願う種播きの祭 秋の彼岸はもちろん収穫祭です
農事祭は春の芽生えと秋の刈り取りを祝う行事ですから 世界的に見ても死と再生の観念がつきまといます 古くは生贄を捧げたりもしたようです これが先祖供養と結びついたと考えていいでしょう しかし墓参りには直接つながりません

お盆・彼岸どちらも仏教に結びつけていますが 先祖供養ですから古代神道がもとと思われます 仏教は四苦から免れ仏になるのが最終目的です 六道五生を輪廻転生することから解脱するので 仏には先祖も子孫もないことになります したがって先祖供養の教えは本来ありません

墓の始まりは卒塔婆

墓が建てられるようになったのはいつ頃か 内戦で流民となり半島から亡命した帰化人が 関東に土地を与えられた頃でしょうか 彼らの宗教観・死生観がどうだったかは分かりません 仏舎利信仰なんかも持ってきたかもしれない
仏教は宗教というより学問体系として捉えられていて 帰化人が日本人と同化する過程で古代神道と融合し 日本独自の仏教が生まれたといってよいのではないですか 本地垂迹説などです 彼岸此岸・この世とあの世などは仏教にない考え方です

その後幕藩体制になるまで 人の移動はそれほどなかったと思います 墓といっても村落の埋葬地に合葬していたのでしょう
移封・転封が行われるようになると 人の移動が盛んになります そうなったら産土の神とか鎮守様と祖先を同一視することができなくなります このころから次第に神道と仏教が分離していったのかもしれません 持仏とか位牌が祭祀の対象となる?

上杉景勝が会津に移封された時 謙信の遺骸が入った瓶を掘り出して持っていったといわれます これは自らの正当性を権威づけるためで きわめて異例な(異様な)ことです
徳川家康が関東に入国した時 まず増上寺を菩提寺と定め深く帰依しました また江戸入府の日を八朔と定め大事な祝儀日としています これが良識ある者の行いです もっとも2代目3代目は家康を神格化していますから やってることはさほど変わらない 家康の葬儀は増上寺にて執り行われましたが 寺に墓を建てることはしなかった

遺骨に特別な意味を見いだすのは たぶん仏舎利信仰からでしょうね 卒塔婆は仏舎利を納める塔のことです 仏舎利はおそらく東南アジアでパゴダに納めたのが始まりです それが多宝塔とか卒塔婆(Stupa)になり 後代に至って遺骨を葬った墓を拝むようになったのではないでしょうか
渡来仏教と古代神道は融合したり分離したりと変遷しています 仏教自体が中国に来たとき すでにかなり混乱・変質していたようです(大乗仏教は東南アジアで始まり 釈尊の教えとかなり違っています) 後代その混乱を説明するため様々な説が広まったのです

私の先祖の墓も寺ではなく部落の共同墓地にあります そこに小さな石仏が何体かあるのですが すべて首が落とされています 明治の廃仏毀釈のときかと思われます