墓参りについて

どなたかの随筆に このごろ関東(東京)でお盆に墓参りに行く風があると聞く 自分の住む関西(京都)でそのようなことはしないし 生まれ育ったころの記憶にもないとありました うろ覚えで著作者のお名前は分かりません たぶん昭和初期に書かれたものでしょうから 墓参りというのは きわめて最近の習慣ということになります1)伊藤左千夫の「野菊の墓」は明治39年の作品です 他家へ嫁いで産後の肥立ちが悪く亡くなった民の墓の周りに 政夫が野菊をたくさん植えるという結末です 嫁ぎ先へ弔問に行くわけにいかないので その代わり墓参りをしたのではないでしょうか しかも手向ける香華は野菊です 墓に参るというのは一般的なことではないから 小説になったのではないか

何々家の墓とか先祖代々の墓とかが建てられるようになったのも近年のことです そうすると いわゆる墓守だとか長男でなければ墓に入れないなんて言い出したのは さほど古いことではなさそうです
仏門に入ることを出家といいます 家を出るから仏弟子となったご先祖に家名はないのです2)明恵上人の板書「南無母御前母御前」が表すように 葬儀・法要は子が亡き親に向けて行うものだと 私は思います 〇〇家としてではありません 入るのは仏門であって墓ではありません 昔は一般に それほど墓に拘泥わることはなかったのです では先祖供養を大事にしなかったかといえば そんなことはありません

拝むのはご本尊

菩提寺3)菩提寺はキリスト教でいえば教会にあたり 宗教・信仰だけでなく地域共同体の様々な行事の拠り所です(明治以前は神仏混淆ですから神事も一緒でした) 教会が学校を兼ねていたように 寺子屋という形で教育にも携わりました 学問の場でもあったのですの住職によれば 先祖供養とは年回忌をきちんと行うことだそうです 要するに普段からの付き合いが大事ということです4)形だけ名前だけ壇信徒でも 会ったこともなければ 人となりが分からないのに 戒名の授けようがないと住職が言ってました 戒名は授かるもので料金などありません 生前に戒名を授かる場合は得度となり 2週間ほど寺に泊まり込んで修行します 年忌法要のあと墓に卒塔婆を立てますが 墓参りを欠かさないようにとは言われませんでした
付け加えますと 追善供養(年回忌)は文字通り1年単位で月日は関係ありません 巷間いわれる祥月命日の前だとか後だとかはまったくの俗言です5)人を見て法を説くというように 仏教の教えは柔軟で決まりを押し付けることはあまりしません 法事の日にちとか香典返しがどうとかは 葬儀屋が商売のために始めたり 訳知り顔のマナー評論家がいい始めたことかと思います
月命日というのも変な風習です その日に亡くなった先祖が零のこともあるし 多数のこともある それに31日が命日の場合不公平じゃないか
 1月1日に亡くなった方の法要を前年にやっては年忌供養になりません 日付より年数のほうが重要なことですから

父の葬儀のとき葬儀会社の方に 葬儀は菩提寺の住職が執り行うもので 我々はそのお手伝いをするに過ぎない すべて住職の言われるままにしてくださいと諭されました その通りで住職からいろいろと細かく教えていただきました
その他 仏壇の上鴨居のところに遺影写真を掲げてはいけないとも住職に言われました 仏壇にはご本尊を安置してあるのだから ご本尊より上方にそのようなものを置くべきではないとのことです
内田百閒翁によると昭和のはじめころ 遺影写真を位牌に焼き付けるのが流行ったそうです さすがにそのようなことは廃れました また自分の葬儀の時に遺影写真を掲げるのはやめてくれとも書いていました 昭和に入った頃には すでに葬儀屋が仕切るようになっていたようですね6)葬儀の際(忌明けまで)神棚に半紙を張るというのも たぶん明治以降の風習です 宮中で仕える内侍の肉親が亡くなった時 知らせを聞いた瞬間に身が穢れます 服喪のため退出する際は 床に新聞紙大の紙を敷き並べ その上を渡ると聞きます 穢れるのは我が身で穢は他の人にも移りますから 半歳のあいだ公の場に出ず家に籠もります

当家は400年以上前より浄土宗で 浄土宗は絶対他力ゆえの教えかもしれません 他宗でどうかは知りませんが 菩提寺の指示に従うこと 葬儀より前に枕経を上げてもらうことが大事なのは 共通しているのではないでしょうか 今昔物語集の仏教説話を見ると 枕経は本来臨終の時に上げ 阿弥陀三尊のご来迎を願うものでした
ですから 自宅で葬儀を行うときも葬祭会館で行うときでも ご本尊に出張っていただきます そしてお経を上げるのも 焼香するのも 手を合わせるのも すべてご本尊に向かってすることです なにとぞ成仏させてくださいと ご本尊に願うのが葬儀の本義です

丁寧なつもりで焼香と合掌の後先に ご本尊に尻を向け列席者喪主に頭を下げるなど あってはならぬことなのです これは葬儀社の方に言われました 元は仕出し料理屋さんであった 江戸時代より続く老舗です
仏教に限りません キリスト教の葬儀も遺影や遺体に祈りを捧げるわけではなく あくまでも神に帰依する(天国に召される)ことの再確認です

追善供養は墓参りでない

お盆(盂蘭盆会)の大切な行事は施餓鬼です 寺によって多少日にちは異なりますが だいたい八朔に壇信徒が寺に参り 寺方は精進料理を振るまいます 当地ではこのことを盆内といいます その他にも盆礼・盆供・盆持・盆参など様々な呼称があります
もともと八朔の行事は収穫祭の予祝でありましたから 施餓鬼と結びついたのでしょう 本来は作物を寺に喜捨(御布施)したものです 寺領がある場合は初穂を供えたのかもしれません

また墓参りで食物を供えるのも この施餓鬼をまねた風習です7)むしろ施餓鬼自体が神に初穂を供える古代神道から来たものでしょう 阿難尊者(アーナンダ)云々は仏教に結びつけて後代にいい出したと思われます 各宗派で施餓鬼供養の考え方が異なります 住職はあえて墓に食物を供えることを止めませんでしたが 供えた後は持ち帰るか その場で食べなければいけないと教えていただきました

寺に参るのも仏壇に参るのも 全てご本尊に参るのが根本義です 故人やご先祖へではありません そうしてみれば ご本尊の御座さない墓へ参ることはなかった というのが頷けます
禅宗の場合ご本尊はなく 釈迦牟尼世尊と菩提寺の僧が檀信徒の代わりに修行するという形です また拝むのは名号であったり曼荼羅であったりと 各宗派でいろいろな教えがあります

ご先祖・故人がどこへ行くのかといえば ご本尊が阿弥陀如来なら西方浄土です 薬師如来がご本尊なら東方浄瑠璃世界 キリスト教徒はハルマゲドンに備えた神の兵士として天国へ招集されます いずれにしても墓にはいません8)ご先祖が墓にいるとしたら浮かばれない地縛霊 悪くするとゾンビかキョンシーです そういえば お盆には地獄の釜の蓋が開くと言いますね みな地獄に落とされているのですか 墓は地獄への通路か
キリスト教の原罪の観念に影響されてのことだろうか お盆が終われば地獄へ戻るというのは 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」最後の第3章で お釈迦様が何事もなかったように蓮池から立ち去るシーンに似ている

古代神道は教義がないので何ともいえませんが 祖先神・産土の神として その土地に一体化するのではないでしょうか 古来より古墳を祭祀の対象とする考えはありませんでしたから9)古代神道は教義がないとはいえ 葬祭に関する儀式は行っていました その伝統は仏教に影響を与え取り入れられ 日本型仏教(神仏混淆)となりました 神道式の葬儀というものが行われます よく知らないのですが教派神道ではないでしょうか これも神仏混淆の一種とみなしていいものです

供養塔、納骨堂

昔は個人墓でしたから墓標が次々と増えます その時どうしたかといえば 古い墓から仕舞って供養塔に収めます 墓仕舞いは三三回忌が目安なので 墓を建て守るのは子供一代限りということです その頃は遺骨は土に還っていて墓標を始末するだけです
昔の墓はささやかで小さなものでした 墓標というとおり本来は埋葬の目印です 僧籍にあった者など特別な場合を除いて 墓石を建てること自体少なかったと想像します 日露戦争戦死者の軍人墓を建てたとき大きさを競ったのが 無意味なほど立派な墓の始まりではないでしょうか10)私どもの墓所には400年以上前からの先祖の墓が数十基ありました みな高さ30センチから50センチ程度の大きさです 中にはどう見ても自然石のものがあります ひときわ巨大なのが日露戦争で戦死した人の墓でした

寺でも供養塔を建てて合葬することがあります この場合の建立費用は永代供養料を当てます 永代供養は三三回忌が終わった後や回向する子孫がいない無縁仏の供養です
寺の本来は檀信徒がお布施で維持するものです 永代供養も皆が支え合い寺の住職がお勤めすることを意味します 供養塔は墓仕舞いした檀家のためであって 個人墓・家族墓に代わる合同墓というわけじゃない
何々家の墓と銘したものが建てられるようになったのは 供養塔の変形かと思います 埋葬する際に遺骨を骨壷に納めるのはいつごろ始まったかわかりません

戦前の弔いと埋葬はどんなか知らないし 聞いたこともないのですが とくに戦死者の多かった大東亜戦争末期 南方から白木の箱に入った遺骨が届きそれを埋葬しました 中は戦死公報しかなかったり 遺骨が入っていても誰のものか判然としなかったりです
あるいはこの辺から遺骨に拘るようになったのかもしれません ずいぶん長い間続いた遺骨収集団もそうです 

近年都会地で目立つようになった納骨堂とやらは 骨壷ロッカーであり供養塔とは異なる宗教ビジネスに過ぎないと見ます 何しろカードをかざすと骨壷がリフトで運ばれてくるという 意味不明のシステムですから このような商売が成り立つのは 遺骨を拝むことが供養という風潮があるからです

墓参りが一般的になり骨壷が一般的になって 先祖供養が遺骨に手を合わ墓に食べ物を供えることとなりました 宗旨・宗派を問わない納骨堂が繁盛したり 派遣坊主を葬祭業者が手配するのも自然な流れでありましょう もはや菩提寺に参ることご本尊を拝することは忘れ去られたのです

このごろ多い〇〇典礼などというチェーン店の葬式では 通夜と告別式11)告別式は葬儀と違います 近親者で密葬した後 その他の関係者を呼んで行うお別れ会です この時は遺影を掲げて故人を偲びます いつごろからか知りませんが 葬儀屋が始めたことでしょうと初七日・四十九日はもとより 一周忌までついでにやるのだそうです
そして仏壇屋と墓石屋・霊園と提携していて全てセット販売しています 葬儀屋が手配した派遣坊主が形だけお経を唱えてそれで終わり 菩提寺がどこかもわからぬまま三回忌以降の年忌法要もしない 仏壇を新調してもお盆に棚経はあげず 霊園の墓石に団子でも供えるだけです

追記 

弔うと葬るは別のこと

弔いは埋葬のことだと思っているから 生きているうちに墓の心配をしたりすることになります 墓や遺骨に拘泥する 形あるものを求める気持ちは分からなくはないのです 位牌だとか仏壇もそうやって一般化したのだと思います
弔いは後に残された者の思いです 思いを表すのは様式であり 形ではない気がします 神も仏も形はない仏像は仮の姿です 仏像や掛け軸お札を拝むのではなく 表象を通してご本尊を拝むのです12)仏師は仏像を彫るのではない 木の中の仏様を掘り出すのだといいます なぜ木の中に仏様がおわすか 信徒の思念が凝って仏の姿となるからです
私どもの菩提寺に 丈3メートルもあろうかという 細密で見事な仏画があります 檀信徒の方が描いたそうです この人は日曜画家でさえないと聞きました

当地は今でも骨壺を用いず カロート内に直接バラバラとお骨を入れます そしていずれは土に還ります 古代神道では産土の神としてその土地に一体化しますから これがもともとの埋葬だったでしょう 最近行われる樹木葬は骨壷を地面に埋めるだけなので ただ単に墓石がないというだけのことです 梶井基次郎の小説じゃあるまいし 木にとっては迷惑な話です

日本の仏教どの宗派でも 墓石や遺灰あるいは遺影を拝めという教えはないと思います13)直葬というものがあるそうです 何の宗教儀式も行わずいきなり火葬場に送って遺骨を持ち帰る 戒名もなくただ遺骨を自分流に拝むだけ
否定はしません 仏教以前はそうだったのかもしれませんから でも多くの場合 残された人たちの気持ちは収まりがつかないようです
エーゲ海に散骨してほしいとの故人の遺志で 遺灰をギリシアまで持っていったものの 海岸で思い直しそのまま日本に持ち帰ったという実話があります 遺灰をその後どうしたかは聞いていません

とはいえ どれが正しくこれは間違いであるなんて 誰も言えないことです モダン仏壇と称するものでは 下の方に骨壷を入れるスペース付きがあるようです 祀る者が自分で気持ちに収まりがつくのなら それもいいかと思います(その後の人は引き継ぐのが困るでしょうけれど 骨壷が増えるたびに仏壇を新調するのだろうか)

もしかしたら菩提を弔うと墓前に額づくを 一緒にして考えているのでしょうか 同じく〈ぼ〉と読みますから 墓に葬ることと菩提を弔うは別のことです
菩提とは悟りのことです 悟り(菩提)を求め修行するものが菩薩(菩提薩埵) 悟りを開いて仏(如来)となります 悟りを得るのは遠い道ですから お手伝いするのが追善供養(年忌法要)です これが菩提を弔うの意です 菩提を弔う寺がすなわち菩提寺です 墓と直接の関係はない

お盆とお彼岸

当地で盂蘭盆会に迎え火を焚く風習はありません 盂蘭盆会は収穫祭の予祝です 地方によっては護摩木を焚く行事があるようです おそらく結実を迎えた稲穂が虫害にあわぬよう 煙で燻べたことが始まりではないかと想像します

江戸時代の盂蘭盆会は各家で精霊棚を作って祀ります これをお棚参りといい季節の野菜とともに団子を供えます 釈尊から代々の先祖に始まり無縁仏・牛馬にまで供えたようです
この辺からナスとキュウリで牛や馬をかたどって供える風(江戸時代にはない新しい習俗です)が始まったのでしょう14)新潟県柏崎の「えんま市」は閻魔堂で開かれた馬市が発祥といわれます 閻魔の〈ま〉と馬の語呂合わせかもしれません 6月に行われますので もともとは田植え後の行事「サナブリ」でした 食べ物を供えるのは施餓鬼会と一緒になったもので一切衆生を供養します

これも江戸に限ったものです 7月の初め寺に行って住職に挨拶し墓の掃除をしたようです でもお盆に墓参りをしたという記述は見当たりません 当地ではお盆に菩提寺の住職が見えて棚経を上げていただきます(棚経とはいえ精霊棚は特に作らず仏壇のご本尊に参ります)

盂蘭盆会と並んで盛んなのが彼岸会です やはり施餓鬼法要を行ったり牡丹餅や御萩を食べます 春の彼岸は保存していた穀物の種を播き稔りを願う種播きの祭 秋の彼岸はもちろん収穫祭です15)春・秋とも彼岸は農事祭なので 牡丹餅やお萩を食べ稔りを願ったり祝う祭です これが仏教伝来とともに施餓鬼に結びつきました たぶん昭和に入ってから墓にお供えをするようになり 墓参りの風習が広まったのです
農事祭の観点から見ると お盆の行事には雨乞いが関連しているとみていいでしょう 灯籠流しは水祭りの名残です お盆は七月七日から始まるといいますが 七夕も川にまつわる行事です 男女出会いの物語で結実を意味します

農事祭は春の芽生えと秋の刈り取りを祝う行事ですから 世界的に見ても死と再生の観念がつきまといます フレイザーの金枝篇によれば 夏の祭礼は水掛けの儀式を行ったり 古くは生贄を捧げたりもしたようです
これが供養・施餓鬼と結びついたと考えられます しかし墓参りには直接つながりません 生贄鎮魂のために巨石を上に置くというのは 世界各地の伝承にありそうです

お盆・彼岸どちらも仏教に関連付けていますが 先祖供養ですから古代神道がもとと思われます 仏教は四苦から免れ仏になるのが最終目的です 六道五生を輪廻転生することから解脱するので 仏には先祖も子孫もないことになります したがって先祖供養の教えは本来ありません

墓の始まりは卒塔婆

墓が建てられるようになったのはいつ頃か 内戦で流民となり半島から亡命した帰化人が 関東に土地を与えられた頃でしょうか 彼らの宗教観・死生観がどうだったかは分かりません 仏舎利信仰なんかも持ってきたかもしれない
仏教は宗教というより学問体系として捉えられていて 帰化人が日本人と同化する過程で古代神道と融合し 日本独自の仏教が生まれたといってよいのではないですか 本地垂迹説などです
ただ墓に関することはよくわからない 沖縄の墓は随分と立派で大きなものと聞きますから 案外東南アジアから来た風かもしれません16)ビルマ(ミャンマー)のカックー遺跡は無数のパゴダが建つ偉観です あまりにも古く伝承は曖昧です 小さなパゴダは各家が寄進したと伝えられます この地域は上座部仏教で 初期の仏教教団の形を守っています 信仰の対象は釈迦涅槃像や仏舎利ですね パゴダを先祖の墓とは見なさない 想像に過ぎませんが

その後幕藩体制になるまで 人の移動はそれほどなかったと思います 墓といっても村落の埋葬地に合葬していたのでしょう
移封・転封が行われるようになると 人の移動が盛んになります そうなったら産土の神とか鎮守様と祖先を同一視することができなくなります このころから次第に神道と仏教が分離していったか 持仏とか位牌が祭祀の対象となる?

上杉景勝が会津に移封された時 謙信の遺骸が入った瓶を掘り出して持っていったといわれます これは自らの正当性を権威づけるためで きわめて異例な(異様な)ことです
徳川家康が関東に入国した時 まず増上寺を菩提寺と定め深く帰依しました また江戸入府の日を八朔と定め大事な祝儀日としています これが良識ある者の行いです もっとも2代目3代目は家康を神格化していますから やってることはさほど変わらない 家康の葬儀は増上寺にて執り行われましたが 寺に墓を建てることはしなかった

遺骨に特別な意味を見いだすのは たぶん仏舎利信仰からでしょうね 卒塔婆は仏舎利を納める塔のことです 仏舎利はおそらく東南アジアでパゴダに納めたのが始まりです それが多宝塔とか卒塔婆(Stupa)になり 後代に至って遺骨を葬った墓を拝むようになったのではないでしょうか17)キリスト教の教会地下にも カタコンベという聖者たちの髑髏(どくろ・されこうべ)を納骨する施設がありますから 世界的なものかもしれません ただし遺骨を拝むことはしません 祈りを捧げるのは神に対してのみです
渡来仏教と古代神道は融合したり分離したりと変遷しています 仏教自体が中国に来たとき すでにかなり混乱・変質していたようです 後代その混乱を説明するため様々な説が広まったのです
大乗仏教は東アジアで始まり 釈尊の教えとかなり違っています それに対して異を唱えたのがインドの達磨大師 釈尊の実践したことを追体験する坐禅を主張しました また中国の僧玄奘三蔵は 混乱した仏教の原点を経巻に求め万巻の経を漢訳しました18)達磨大師は形から入るタイプだったようです ヨガなんかもそのへんから派生したのだろうか
中国人は文字に価値を見いだし大事にします お経や文字そのものを拝するのは法相宗や日蓮宗です

日本の伝統を見直す

檀家19)寺請制度(宗門人別帳)は個人が対象であって 行政が檀家制度を作って管理したとは言えない 当家の菩提寺(浄土宗)も書面では檀家という言葉を用いません 檀信徒です 他宗でも檀信徒と言っているようですが 浄土真宗は門信徒ですというのも家単位の地域相互扶助です この共同体は結(ユイ)・蒔(マキ)などと重なり 村役人・町役人とも連携していて 田植え稲刈りの他にも様々な行事を持ち寄りで行いました 葬儀も例外ではなく 喪主の代わりに同族・近隣がお互い様の精神ですることでした
集落の共同体が変質していくと 葬儀の手伝いの代わりに金銭を収めるようになります これが香典の始まりです 従って香典返しとは次の時に頂いた相手に同額を返すことを意味します20)香典は相互扶助いわば持ち回りなわけです 返戻などという習慣はありません 葬儀屋が商売のためにいい出したことです 親戚や隣近所の香典に対し返戻するのは縁を切る これっきり今後のお付き合いはないという意味合いになります 巷間いわれるような葬祭を旦那寺が独占し 布施を強要したということはない21)香典は喪主に対して収めるものです お布施は壇信徒が菩提寺を維持するための費用負担です 料金やお礼ではありませんから 水引をかけた袋に入れたりしない
葬儀屋手配の派遣坊主に渡すのは料金でしょうね 葬儀屋が仕切るようになってお布施の意義が忘れられ 戒名代とか相場だなどと見当外れなことを言い始めたのです

菩提寺がどこか知らない人が増えたり お布施を不明朗と言ったりして 寺の維持がおぼつかなくなっています この問題の多くは明治政府による 偏狭な国家神道に基づく廃仏毀釈が遠因かもしれません そこへ葬祭業者が付け込み葬儀・法事が形骸化したのではないか22)葬儀を菩提寺の住職ではなく 葬儀屋が取り仕切り 不当に高額な料金がかかるようになりました このような状態になった元凶は葬儀屋です
寺の名を表に出した納骨堂などの宗教ビジネスは 葬儀屋などの資本が多い 寺が本来の使命を忘れて これらのビジネスモデルを取り入れるのも増えています
 まぁ時代の流れですから旧に復するのはできないことですが
私の先祖の墓も菩提寺ではなく集落の共同墓地23)菩提を弔うことは墓石を拝むことではないので 必ずしも寺と墓を結びつける必要はありません ですから霊園に葬ったり 散骨や樹木葬であっても 菩提寺が不要などということにならない 散骨して菩提寺もなければ どう弔うのでしょう 菩提を弔う寺が菩提寺ですにあります そこに小さな石仏が何体かあるのですが(住職が墓ではないと言ってましたので 供養塔かもしれない)すべて首が落とされています 明治の廃仏毀釈24)明治政府により寺請け制度が廃止されても檀家制度が残ったのは 江戸幕府が強制した制度ではなかったことを現します 菩提寺から離れるのも自由かと思います そうなれば読経も戒名も仏壇も法事も不要です 無宗教でやればいいことになります
でも告別式と称する多くの葬式で どこから来たかもわからない派遣坊主が 適当なお経をあげたりしています 派遣坊主は故人のことを知りませんから 法話のしようがない戒名は料金次第です 菩提寺がなければ菩提を弔うこともない 追善供養の回忌法要をしませんから 浮かばれず墓に留まるのは無理ありません
のときかと思われます 子供の頃は落とされた首が下に置かれていました

地域や親族同士の縁が薄れたいまこそ 菩提寺を中心に心の拠り所を考え直す時です あらためて檀家制・菩提寺のありがたみが増すのではないかと思います 旧来の檀家制でなく会員制でもよいでしょう お布施の本来の意味は会費のようなものですから 分に応じての志です(葬儀や法要等ことあるごとのお布施と 年会費や月会費の総額は たぶん同額くらいになります)

墓石や骨壷に心の拠り所を求めるのは あまりにも精神性がなく即物的すぎます 仏教の教えは諸行無常 すべては移ろいゆきます 色即是空空即是色 形あるものはいずれ無に帰するのです25)風に乗って漂うのは仙人です 自力飛行しているのではなく 実体がなくあまりにも軽い存在なので 風に流されます 有りながら無いから不老不死です 浮遊霊みたいなものですか これも成仏してないわけです
私どもの墓所で いちばん古いと思われる墓は 彫った文字が読めないのはもちろん 元の形が分からないほど風化しています 墓所内を何度も改葬していますから その下に遺骨があるわけでもない 今となってはただの石塊です26)私の小学校以来の同級生は 600年前に建てられた供養塚が残るという旧家です それなのに亡父が生前 3人の息子のため墓地を3区画買ったそうです 同級生夫婦は兄弟の分も含めすべて返納しました 子供にそのようなものを託したくないからだと聞きました
見識かと思います 同級生はその後亡くなり菩提寺の供養塔に葬られました むろん骨壷はなしです 娘さんとご子息は菩提寺できちんと法事を行っていることでしょう

References   [ + ]

1. 伊藤左千夫の「野菊の墓」は明治39年の作品です 他家へ嫁いで産後の肥立ちが悪く亡くなった民の墓の周りに 政夫が野菊をたくさん植えるという結末です 嫁ぎ先へ弔問に行くわけにいかないので その代わり墓参りをしたのではないでしょうか しかも手向ける香華は野菊です 墓に参るというのは一般的なことではないから 小説になったのではないか
2. 明恵上人の板書「南無母御前母御前」が表すように 葬儀・法要は子が亡き親に向けて行うものだと 私は思います 〇〇家としてではありません
3. 菩提寺はキリスト教でいえば教会にあたり 宗教・信仰だけでなく地域共同体の様々な行事の拠り所です(明治以前は神仏混淆ですから神事も一緒でした) 教会が学校を兼ねていたように 寺子屋という形で教育にも携わりました 学問の場でもあったのです
4. 形だけ名前だけ壇信徒でも 会ったこともなければ 人となりが分からないのに 戒名の授けようがないと住職が言ってました 戒名は授かるもので料金などありません 生前に戒名を授かる場合は得度となり 2週間ほど寺に泊まり込んで修行します
5. 人を見て法を説くというように 仏教の教えは柔軟で決まりを押し付けることはあまりしません 法事の日にちとか香典返しがどうとかは 葬儀屋が商売のために始めたり 訳知り顔のマナー評論家がいい始めたことかと思います
月命日というのも変な風習です その日に亡くなった先祖が零のこともあるし 多数のこともある それに31日が命日の場合不公平じゃないか
6. 葬儀の際(忌明けまで)神棚に半紙を張るというのも たぶん明治以降の風習です 宮中で仕える内侍の肉親が亡くなった時 知らせを聞いた瞬間に身が穢れます 服喪のため退出する際は 床に新聞紙大の紙を敷き並べ その上を渡ると聞きます 穢れるのは我が身で穢は他の人にも移りますから 半歳のあいだ公の場に出ず家に籠もります
7. むしろ施餓鬼自体が神に初穂を供える古代神道から来たものでしょう 阿難尊者(アーナンダ)云々は仏教に結びつけて後代にいい出したと思われます 各宗派で施餓鬼供養の考え方が異なります
8. ご先祖が墓にいるとしたら浮かばれない地縛霊 悪くするとゾンビかキョンシーです そういえば お盆には地獄の釜の蓋が開くと言いますね みな地獄に落とされているのですか 墓は地獄への通路か
キリスト教の原罪の観念に影響されてのことだろうか お盆が終われば地獄へ戻るというのは 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」最後の第3章で お釈迦様が何事もなかったように蓮池から立ち去るシーンに似ている
9. 古代神道は教義がないとはいえ 葬祭に関する儀式は行っていました その伝統は仏教に影響を与え取り入れられ 日本型仏教(神仏混淆)となりました 神道式の葬儀というものが行われます よく知らないのですが教派神道ではないでしょうか これも神仏混淆の一種とみなしていいものです
10. 私どもの墓所には400年以上前からの先祖の墓が数十基ありました みな高さ30センチから50センチ程度の大きさです 中にはどう見ても自然石のものがあります ひときわ巨大なのが日露戦争で戦死した人の墓でした
11. 告別式は葬儀と違います 近親者で密葬した後 その他の関係者を呼んで行うお別れ会です この時は遺影を掲げて故人を偲びます いつごろからか知りませんが 葬儀屋が始めたことでしょう
12. 仏師は仏像を彫るのではない 木の中の仏様を掘り出すのだといいます なぜ木の中に仏様がおわすか 信徒の思念が凝って仏の姿となるからです
私どもの菩提寺に 丈3メートルもあろうかという 細密で見事な仏画があります 檀信徒の方が描いたそうです この人は日曜画家でさえないと聞きました
13. 直葬というものがあるそうです 何の宗教儀式も行わずいきなり火葬場に送って遺骨を持ち帰る 戒名もなくただ遺骨を自分流に拝むだけ
否定はしません 仏教以前はそうだったのかもしれませんから でも多くの場合 残された人たちの気持ちは収まりがつかないようです
エーゲ海に散骨してほしいとの故人の遺志で 遺灰をギリシアまで持っていったものの 海岸で思い直しそのまま日本に持ち帰ったという実話があります 遺灰をその後どうしたかは聞いていません
14. 新潟県柏崎の「えんま市」は閻魔堂で開かれた馬市が発祥といわれます 閻魔の〈ま〉と馬の語呂合わせかもしれません 6月に行われますので もともとは田植え後の行事「サナブリ」でした
15. 春・秋とも彼岸は農事祭なので 牡丹餅やお萩を食べ稔りを願ったり祝う祭です これが仏教伝来とともに施餓鬼に結びつきました たぶん昭和に入ってから墓にお供えをするようになり 墓参りの風習が広まったのです
16. ビルマ(ミャンマー)のカックー遺跡は無数のパゴダが建つ偉観です あまりにも古く伝承は曖昧です 小さなパゴダは各家が寄進したと伝えられます この地域は上座部仏教で 初期の仏教教団の形を守っています 信仰の対象は釈迦涅槃像や仏舎利ですね パゴダを先祖の墓とは見なさない
17. キリスト教の教会地下にも カタコンベという聖者たちの髑髏(どくろ・されこうべ)を納骨する施設がありますから 世界的なものかもしれません ただし遺骨を拝むことはしません 祈りを捧げるのは神に対してのみです
18. 達磨大師は形から入るタイプだったようです ヨガなんかもそのへんから派生したのだろうか
中国人は文字に価値を見いだし大事にします お経や文字そのものを拝するのは法相宗や日蓮宗です
19. 寺請制度(宗門人別帳)は個人が対象であって 行政が檀家制度を作って管理したとは言えない 当家の菩提寺(浄土宗)も書面では檀家という言葉を用いません 檀信徒です 他宗でも檀信徒と言っているようですが 浄土真宗は門信徒です
20. 香典は相互扶助いわば持ち回りなわけです 返戻などという習慣はありません 葬儀屋が商売のためにいい出したことです 親戚や隣近所の香典に対し返戻するのは縁を切る これっきり今後のお付き合いはないという意味合いになります
21. 香典は喪主に対して収めるものです お布施は壇信徒が菩提寺を維持するための費用負担です 料金やお礼ではありませんから 水引をかけた袋に入れたりしない
葬儀屋手配の派遣坊主に渡すのは料金でしょうね 葬儀屋が仕切るようになってお布施の意義が忘れられ 戒名代とか相場だなどと見当外れなことを言い始めたのです
22. 葬儀を菩提寺の住職ではなく 葬儀屋が取り仕切り 不当に高額な料金がかかるようになりました このような状態になった元凶は葬儀屋です
寺の名を表に出した納骨堂などの宗教ビジネスは 葬儀屋などの資本が多い 寺が本来の使命を忘れて これらのビジネスモデルを取り入れるのも増えています
23. 菩提を弔うことは墓石を拝むことではないので 必ずしも寺と墓を結びつける必要はありません ですから霊園に葬ったり 散骨や樹木葬であっても 菩提寺が不要などということにならない 散骨して菩提寺もなければ どう弔うのでしょう 菩提を弔う寺が菩提寺です
24. 明治政府により寺請け制度が廃止されても檀家制度が残ったのは 江戸幕府が強制した制度ではなかったことを現します 菩提寺から離れるのも自由かと思います そうなれば読経も戒名も仏壇も法事も不要です 無宗教でやればいいことになります
でも告別式と称する多くの葬式で どこから来たかもわからない派遣坊主が 適当なお経をあげたりしています 派遣坊主は故人のことを知りませんから 法話のしようがない戒名は料金次第です 菩提寺がなければ菩提を弔うこともない 追善供養の回忌法要をしませんから 浮かばれず墓に留まるのは無理ありません
25. 風に乗って漂うのは仙人です 自力飛行しているのではなく 実体がなくあまりにも軽い存在なので 風に流されます 有りながら無いから不老不死です 浮遊霊みたいなものですか これも成仏してないわけです
26. 私の小学校以来の同級生は 600年前に建てられた供養塚が残るという旧家です それなのに亡父が生前 3人の息子のため墓地を3区画買ったそうです 同級生夫婦は兄弟の分も含めすべて返納しました 子供にそのようなものを託したくないからだと聞きました
見識かと思います 同級生はその後亡くなり菩提寺の供養塔に葬られました むろん骨壷はなしです 娘さんとご子息は菩提寺できちんと法事を行っていることでしょう