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お盆・彼岸の墓参り 葬儀の本義

墓参りより菩提寺を大事に

【要約】

  1. 大切なのは菩提寺であって 墓ではない
  2. お盆・彼岸の墓参りは近年の習慣
  3. 家族墓(○○家代々)はさらに新しい
  4. 檀家制(相互扶助)を維持できなくなったのは 神仏分離令・廃仏毀釈による
  5. そのため菩提寺がないがしろにされ 葬祭業者が幅を利かせ葬儀・法要が形骸化した
  6. 日露戦争による戦死者の墓の高さ・立派さを競う風潮があった 昭和大戦後に遺骨収集団が官民挙げて組織され進められた
  7. 上記が遠因で先祖の菩提を弔う追善回向を疎かにし 埋葬と墓石・骨壺を拝むことを供養とする今日の風が広まる

どなたかの随筆に このごろ関東(東京)でお盆に墓参りに行く風があると聞く 自分の住む関西(京都)でそのようなことはしないし 生まれ育ったころの記憶にもないとありました うろ覚えで著作者のお名前は分かりません たぶん昭和初期に書かれたものでしょう
お盆に精霊棚を作ったり(施餓鬼棚ともいい戸外に向けて飾るものでした)灯籠流し等の行事は昔からありましたが 墓参りはきわめて最近の習慣ということになります[01] … Continue reading

何々家の墓とか先祖代々の墓とかが建てられるようになったのも近年のことです そうすると いわゆる墓守だとか長男でなければ墓に入れないなんて言い出したのは さほど古いことではなさそうです
仏門に入ることを出家といいます 家を出るから仏弟子となったご先祖に家名はないのです[02]明恵上人の板書「南無母御前母御前」が表すように 葬儀・法要は子が亡き親に向けて行うものだと 私は思います 〇〇家としてではありません 入るのは仏門であって墓ではありません 昔は一般に それほど墓に拘泥わることはなかったのです では先祖供養を大事にしなかったかといえば そんなことはありません

拝むのはご本尊

菩提寺[03] … Continue readingの住職によれば 先祖供養とは年回忌をきちんと行うことだそうです 年回忌は冠婚葬祭の祭にあたります 祭は祭祀のことで仏教なら回忌供養になります 葬式を上げるだけでは供養にならないのです[04] … Continue reading  年忌法要のあと墓に卒塔婆を立てますが 墓参りを欠かさないようにとは言われませんでした 墓参りをするなとも言われませんが
付け加えますと 追善供養(年回忌)は文字通り1年単位で月日は関係ありません 巷間いわれる祥月命日の前だとか後だとかはまったくの俗言です 日にちが重要なのは七七日(四十九日)だけです 七日ごとにお経を上げ七回目の四十九日に法要を行います[05] … Continue reading 1月1日に亡くなった方の法要を前年にやっては年忌供養になりません 昔の数え年と同じで日付より年数のほうが重要なことですから[06] … Continue reading

父の葬儀のとき葬儀会社の方に 葬儀は菩提寺の住職が執り行うもので 我々はそのお手伝いをするに過ぎない すべて住職の言われるままにしてくださいと諭されました それまで私も葬式は葬儀屋さんがやるものと 漠然と思い込んでいたのです
菩提寺の住職にいろいろと細かく教えていただきました その他 仏壇の上鴨居のところに遺影写真を掲げてはいけないとも言われました 仏壇にはご本尊を奉安してあるのだから ご本尊より上方にそのようなものを置くべきではないとのことです

内田百閒翁によると昭和のはじめころ 遺影写真を位牌に焼き付けるのが流行ったそうです さすがにそのようなことは廃れました また自分の葬儀の時に遺影写真を掲げるのはやめてくれとも書いていました 昭和に入った頃には すでに葬儀屋が仕切るようになっていたようですね[07] … Continue reading 私も別に信心深いわけでなく 先祖代々付き合いのある菩提寺を大切に 檀信徒としての勤めをきちんと果たしたいだけです

当家は400年以上前より浄土宗で 浄土宗は絶対他力ゆえの教えかもしれません 他宗でどうかは知りませんが 菩提寺の指示に従うこと 葬儀より前に枕経を上げてもらうことが大事なのは 共通しているのではないでしょうか 今昔物語集の仏教説話を見ると 枕経は本来臨終の時に上げ 阿弥陀三尊のご来迎を願うものでした
ですから 自宅で葬儀を行うときも葬祭会館で行うときでも ご本尊に出張っていただきます そしてお経を上げるのも 焼香するのも 手を合わせるのも すべてご本尊に向かってすることです なにとぞ成仏させてくださいと ご本尊に願うのが葬儀の本義です

丁寧なつもりで焼香と合掌の後先に ご本尊に尻を向け列席者喪主に頭を下げるなど あってはならぬことなのです これは葬儀社の方に言われました 元は仕出し料理屋さんであった 江戸時代より続く老舗です
仏教に限りません キリスト教の葬儀も遺影や遺体に祈りを捧げるわけではなく あくまでも神に帰依する(天国に召される)ことの再確認です

2019年9月12日追記=佳子内親王が 東京都慰霊堂で行われた法要に参列された際 手袋のまま焼香されるのを非難するコメントが見られるそうです
皇族の方々は世界の王族と同様のマナーをを守っておられます 公式の場で女性皇族が 室内でも帽子と手袋を召しているのは 正統な儀礼に叶ったことです 手袋を外すのは食事の時だけ 仏事であっても 焼香の際に手袋を外すなんて作法はありません)

追善供養は墓参りでない

お盆(盂蘭盆会)の大切な行事は施餓鬼です 寺によって多少日にちは異なりますが だいたい八朔に壇信徒が寺に参り 寺方は精進料理を振るまいます 当地ではこのことを盆内といいます その他にも盆礼・盆供・盆持・盆参など様々な呼称があります
もともと八朔の行事は収穫祭の予祝でありましたから 施餓鬼と結びついたのでしょう 本来は作物を寺に喜捨(御布施)したものです 寺領がある場合は初穂を供えたのかもしれません

また墓参りで食物を供えるのも この施餓鬼をまねた風習です[08] … Continue reading 住職はあえて墓に食物を供えることを止めませんでしたが 供えた後は持ち帰るか その場で食べなければいけないと教えていただきました 抛って置くなど食べ物を粗末にしては本末転倒ですからね
花を供えるのも一緒です 供えて手を合わせたら 花を引き上げるのが常識です 腐れた花を放置するなど言語道断 罰当たりです

寺に参るのも仏壇に参るのも 全てご本尊に参るのが根本義です 故人やご先祖へではありません[09] … Continue reading そうしてみれば ご本尊の御座さない墓へ参ることはなかった というのが頷けます 禅宗の場合ご本尊はなく 釈迦牟尼世尊と菩提寺の僧が檀信徒の代わりに修行するという形です また拝むのは名号であったり曼荼羅であったりと 各宗派でいろいろな教えがあります

ご先祖・故人がどこへ行くのかといえば ご本尊が阿弥陀如来なら西方浄土です 薬師如来がご本尊なら東方浄瑠璃世界 キリスト教徒はハルマゲドンに備えた神の兵士として天国へ招集されます いずれにしても墓の下にはいません[10] … Continue reading
古代神道は教義がないので何ともいえませんが 祖先神・産土の神として その土地に一体化するのではないでしょうか 古来より古墳を祭祀の対象とする考えはありませんでしたから[11] … Continue reading

葬儀や回忌法要 お盆・彼岸といった年中行事で迷ったら 菩提寺の住職に聞くのが一番です また本山のホームページで確認するのもよいでしょう 葬儀屋のフェイク情報や出どころの怪しい風説に惑わされてはいけません
キリスト教徒なら牧師や神父の説教に従い 仏教徒なら菩提寺の住職の教えに従うのが 基本であり最も大切なことです 宗派により寺により住職により教えは様々です 当家菩提寺でも当代住職と先代住職とは言われることが違います

供養塔、納骨堂

昔は個人墓でしたから墓標が次々と増えます その時どうしたかといえば 古い墓から仕舞って供養塔(供養墓・拝み墓)に収めます 墓仕舞いは三三回忌が目安なので 墓を建て守るのは子供一代限りということです(三三回忌を弔い上げと称するのは この墓仕舞いが変形したものです) 土質や湿度で多少の違いはあるものの その頃は遺骨は土に還っていて墓標を始末するだけです
昔の墓はささやかで小さなものでした 墓標というとおり本来は埋葬の目印です 僧籍にあった者など特別な場合を除いて 墓石を建てること自体少なかったと想像します 無闇と立派な墓は 日露戦争戦死者の軍人墓を建てたとき 高さ大きさを競ったのが始まりと聞きます[12] … Continue reading

寺でも供養塔を建てて合葬することがあります この場合の建立費用は永代供養料を当てます 永代供養は三三回忌が終わった後や回向する子孫がいない無縁仏の供養です
寺の本来は檀信徒がお布施で維持するものです 永代供養も皆が支え合い寺の住職がお勤めすることを意味します[13] … Continue reading 供養塔は墓仕舞いした檀家のためであって 個人墓・家族墓に代わる合同墓というわけじゃない
何々家の墓と銘したものが建てられるようになったのは 供養塔の変形かと思います 埋葬する際に遺骨を骨壷に納めるのはいつごろ始まったかわかりません

遺骨と骨壷

戦前の弔いと埋葬はどんなか知らないし 聞いたこともないのですが とくに戦死者の多かった昭和大戦末期 南方から白木の箱に入った遺骨が届きそれを埋葬しました 中は戦死公報しかなかったり 遺骨が入っていても誰のものか判然としなかったりです
あるいはこの辺から遺骨に拘るようになったのかもしれません ずいぶん長い間続いた遺骨収集団もそうです[14] … Continue reading

近年都会地で目立つようになった納骨堂とやらは 骨壷ロッカーであり供養塔とは異なる宗教ビジネスに過ぎないと見ます 何しろカードをかざすと骨壷がリフトで運ばれてくるという 意味不明のシステムです
墓石を終の住処などと馬鹿げたことを言い出したと思っていたら ついにここまで来てしまいました このような商売が成り立つのは 遺骨を拝むことが供養という風潮があるからです[15] … Continue reading

墓参りが一般的になり骨壷が一般的になって 先祖供養が遺骨に手を合わ墓に食べ物を供えることとなりました 宗旨・宗派を問わない納骨堂が繁盛したり(〇〇宗△△寺を名乗りながら宗旨宗派を問わないとする納骨堂は 業者が宗教法人〈貧乏寺〉を買い取って経営するのが多いようです) 派遣坊主を葬祭業者が手配するのも自然な流れでありましょう もはや菩提寺に参ることご本尊を拝することは忘れ去られたのです[16] … Continue reading

このごろ多い〇〇典礼などというチェーン店の葬式では 通夜と告別式(菩提寺の住職がいないので葬儀とはいえず 告別式なる言い方を始めたのでしょう)[17] … Continue readingと初七日・四十九日はもとより 一周忌までついでにやるのだそうです
そして仏壇屋と墓石屋・霊園と結託し すべてセット販売しています 葬儀屋が手配した派遣坊主が形だけお経を唱えてそれで終わり 菩提寺がどこかもわからぬまま三回忌以降の年忌法要もしない 仏壇を新調してもお盆に棚経はあげず 霊園の墓石に団子でも供えるだけです

追記 

弔うと葬るは別のこと

弔いは埋葬のことだと思っているから 生きているうちに墓の心配をしたりすることになります 墓や遺骨に拘泥する 形あるものを求める気持ちは分からなくはないのです 位牌だとか仏壇もそうやって一般化したのだと思います
弔いは後に残された者の思いです 思いを託すのは様式であり 形ではない気がします 神も仏も形はない仏像は仮の姿です 仏像や掛け軸お札を拝むのではなく 表象を通してご本尊を拝むのです[18] … Continue reading

当地は今でも骨壺を用いず カロート内に直接バラバラとお骨を入れます そしていずれは土に還ります 古代神道では産土の神としてその土地に一体化しますから これがもともとの埋葬だったでしょう 埋骨であって納骨ではないのです 最近行われる樹木葬は骨壷を地面に埋めるだけなので ただ単に墓石がないというだけのことです 梶井基次郎の小説じゃあるまいし 木にとっては迷惑な話です

菩提を弔うから菩提寺

日本の仏教どの宗派でも 墓石や遺灰あるいは遺影を拝めという教えはないと思います[19] … Continue reading
とはいえ どれが正しくこれは間違いであるなんて 誰も言えないことです モダン仏壇と称するものでは 背が高く下に骨壷を入れるスペース付きがあるようです(納骨タイプというらしい) 祀る者が自分で気持ちに収まりがつくのなら それもいいかと思います その後の人は引き継ぐのが困るでしょうけれど 骨壷が増えるたびに仏壇を新調するのだろうか ロッカーそのものです

もしかしたら菩提を弔うと墓前に額づくを一緒にして考えているのでしょうか 同じく〈ぼ〉と読みますから 墓に葬ることと菩提を弔うは別のことです
墓参りのマナーと称して 墓を見下ろしてはいけない蹲ってお参りする などと最もらしく書いている解説が見られます それって墓石を拝んでいるわけです でも骨壷は地下にあるんですよね そんな作法は聞いたことがないし 当家の菩提寺の住職から当代・先代・先々代とも言われたことはありません[20] … Continue reading

まさに額づく姿ですが たぶん忠臣蔵の芝居あたりからの連想じゃないかと思います 赤穂浪士が討ち取った吉良上野介の首を浅野内匠頭の墓前に供えたなんて 史実かどうか分かりませんが ずいぶん芝居がかっています[21] … Continue reading
菩提とは悟りのことです[22] … Continue reading 悟り(菩提)を求め修行するものが菩薩(菩提薩埵) 悟りを開いて仏(如来)となります 悟りを得るのは遠い道ですから お手伝いするのが追善供養(年忌法要)です これが菩提を弔うの意です 菩提を弔う寺がすなわち菩提寺です 墓と直接の関係はない[23] … Continue reading

お盆お彼岸は農事祭

当地で盂蘭盆に玄関先で迎え火を焚く風習はありません[24] … Continue reading 盂蘭盆会は収穫祭(秋の彼岸)の予祝です 地方によっては護摩木を焚く行事があるようです おそらく結実を迎えた稲穂が虫害にあわぬよう 煙で燻べたことが始まりではないかと想像します(松明を灯して練り歩く 虫送り・虫追いといわれる行事が各地に残っていました)

江戸時代の盂蘭盆は各家で精霊棚を作って祀ります これをお棚参りといい季節の野菜とともに団子を供えます 釈尊から代々の先祖に始まり無縁仏・牛馬にまで供えたようです[25] … Continue reading  この辺からナスとキュウリで牛や馬をかたどって供える風(江戸時代には真菰で作っていました)が始まったのでしょう 食べ物を供えるのは施餓鬼会と一緒になったもので一切衆生を供養します

これも江戸に限ったものです 7月の初め寺に行って住職に挨拶し墓の掃除をしたようです でもお盆に墓参りをしたという記述は見当たりません 小林一茶の九番日記に8月17日墓参という記述があります 亡父の墓参りでありましょうが お盆は7月の行事です[26] … Continue reading 当地ではお盆に菩提寺の住職が見えて棚経を上げていただきます(棚経とはいえ精霊棚は特に作らず仏壇のご本尊に参ります)

盂蘭盆会と並んで盛んなのが彼岸会です やはり施餓鬼法要を行ったり牡丹餅や御萩を食べます 春の彼岸は保存していた穀物の種を播き稔りを願う種播きの祭 秋の彼岸はもちろん収穫祭です[27] … Continue reading
農事祭の観点から見ると お盆の行事には雨乞いが関連しているとみていいでしょう 灯籠流しは水祭りの名残です 盂蘭盆は6月晦日の茅の輪くぐりから始まり 途中に7日の七夕があり15日の棚経を経て 八朔まで続くものでした 七夕も川にまつわる行事です 男女出会いの物語で結実を意味します(これら一連の行事を魂祭と言っていました)

農事祭は春の芽生えと秋の刈り取りを祝う行事ですから 世界的に見ても死と再生の観念がつきまといます(キリスト教の復活祭もそうですね) フレイザーの金枝篇によれば 夏の祭礼は水掛けの儀式を行ったり 古くは生贄を捧げたりもしたようです
これが先祖供養・施餓鬼と結びついたと考えられます しかし墓参りには直接つながりません 生贄鎮魂のために巨石を上に置くというのは 世界各地の伝承にありそうです お盆に先祖や故人の霊が帰ってくるというのも復活祭に似ています

お盆・彼岸どちらも仏教に関連付けていますが 先祖供養ですから古代神道がもとと思われます 仏教は四苦から免れ仏になるのが最終目的です 六道四生を輪廻転生することから解脱するので 仏には先祖も子孫もないことになります したがって先祖供養の教えは本来ありません

墓の始まりは卒塔婆

墓が建てられるようになったのはいつ頃か 内戦で半島から亡命した 倭人系の人たちが帰化し 関東に土地を与えられた頃でしょうか 何世代にも渡り半島で生活していた彼らの 宗教観・死生観がどうだったかは分かりません 仏舎利信仰なんかも持ってきたかもしれない(公的には6世紀ですが)[28] … Continue reading
仏教は宗教というより学問体系として捉えられていて 帰化人が日本人と同化する過程で古代神道と融合し 日本独自の仏教が生まれたといってよいのではないですか 本地垂迹説などです[29] … Continue reading
ただ墓に関することはよくわからない 沖縄の墓は随分と立派で大きなものと聞きますから 案外東南アジアから来た風かもしれません[30] … Continue reading 想像に過ぎませんが

その後幕藩体制になるまで 人の移動はそれほどなかったと思います 墓といっても村落の埋葬地に合葬していたのでしょう
移封・転封が行われるようになると 人の移動が盛んになります そうなったら産土の神とか鎮守様と祖先を同一視することができなくなります このころから次第に神道と仏教が分離していったか 持仏とか位牌が祭祀の対象となる?

上杉景勝が会津に移封された時 謙信の遺骸が入った瓶を掘り出して持っていったといわれます これは自らの正当性を権威づけるためで きわめて異例な(異様な)ことです
徳川家康が関東に入国した時 まず増上寺を菩提寺と定め深く帰依しました また江戸入府の日を八朔と定め大事な祝儀日としています これが良識ある者の行いです もっとも2代目3代目は家康を神格化していますから やってることはさほど変わらない 家康の葬儀は増上寺にて執り行われましたが 寺に墓を建てることはしなかった

遺骨に特別な意味を見いだすのは たぶん仏舎利信仰からでしょうね 卒塔婆は仏舎利を納める塔のことです 仏舎利はおそらく東南アジアでパゴダに納めたのが始まりです それが多宝塔とか卒塔婆(Stupa)になり 後代に至って遺骨を葬った墓を拝むようになったのではないでしょうか[31] … Continue reading
仏教と神道は融合したり分離したりと変遷しています 仏教自体が中国に来たとき すでにかなり変遷・変容していたようです 後代その混乱を説明するため様々な説が広まったのです
大乗仏教は東アジアで始まり 釈尊の教えとかなり違っています それに対して異を唱えたのがインドの達磨大師 釈尊の実践したことを追体験する坐禅を主張しました また中国の僧玄奘三蔵は 混乱した仏教の原点を経巻に求め万巻の経を漢訳しました[32] … Continue reading

日本の伝統を見直す

檀家[33] … Continue readingというのも家単位の地域相互扶助です この共同体は結(ユイ)・蒔(マキ)などと重なり 村役人・町役人とも連携していて 田植え稲刈りの他にも様々な行事を持ち寄りで行いました 葬儀も例外ではなく 喪主の代わりに同族・近隣がお互い様の精神ですることでした
集落の共同体が変質していくと 葬儀の手伝いの代わりに金銭を納めるようになります これが香典(直接的な表現を避けてお香の費用といいます お花代とか玉串料も同様です)の始まりです 従って香典返しとは次の時に頂いた相手に同額を返すことを意味します[34] … Continue reading 巷間いわれるよう葬祭を寺が独占し 布施を強要したということはない お布施は葬儀や法要の費用や代金ではないのです[35] … Continue reading

菩提寺がどこか知らない人が増えたり お布施を不明朗と言ったりして 寺の維持がおぼつかなくなっています この問題の多くは明治政府による 偏狭な国家神道に基づく廃仏毀釈が遠因かもしれません そこへ葬祭業者が付け込み葬儀・法事が形骸化したのではないか[36] … Continue reading まぁ時代の流れですから旧に復するのはできないことですが なにしろ知恩院でさえロッカー式の納骨堂を造っています(分骨のためですが)
私の先祖の墓も菩提寺ではなく集落の共同墓地にあります そこに小さな石仏が何体かあるのですが(住職が墓ではないと言ってましたので 供養塔かもしれない)すべて首が落とされています 明治の廃仏毀釈[37] … Continue readingのときかと思われます 子供の頃は落とされた首が下に置かれていました

地域や親族同士の縁が薄れたいまこそ 菩提寺を中心に心の拠り所を考え直す時です キリスト教徒が教会を中心にコミュニティを作っていったように あらためて檀家制・菩提寺のありがたみが増すのではないかと思います[38] … Continue reading
菩提寺のことを檀那寺とも言います 檀那とは布施のことです そこから菩提寺にお布施を納める人・家を檀信徒・檀家といい 菩提寺の維持は檀信徒が費用負担します 端的に言ってしまえば お布施を納める人が檀信徒です 寺は檀信徒のものと言ってよい 住職は寺を預かり檀家の菩提を弔います[39]檀那や布施と似た言葉に茗荷金があります これは賽銭と同義といってよい 奉加金も同じでしょう いずれも神社仏閣を維持するための浄財です
旧来の檀家制でなく会員・会費制でもいいでしょう 葬儀や法要等ことあるごとのお布施と 年会費や月会費の総額は たぶん同額くらいになります お布施の本来は喜捨ですから 分に応じての志です 寺が建つくらいのお布施をした家は大檀那・檀那様といわれ 院号大居士の戒名が授けられます 多くは檀家総代を務めていますね 転じて家人が主人を旦那と呼ぶようになりました[40] … Continue reading

菩提寺がなければ 墓参りを先祖供養の代替とするのは やむを得ないかも知れません 時代によって変わってくるもので 江戸時代がスタンダードということもない[41] … Continue reading
ただ墓石や骨壷に心の拠り所を求めるのは あまりにも精神性がなく即物的すぎます 仏教の教えは諸行無常 すべては移ろいゆきます 色即是空空即是色 形あるものはいずれ無に帰するのです[42] … Continue reading
私どもの墓所で いちばん古いと思われる墓は 彫った文字が読めないのはもちろん 元の形が分からないほど風化しています 墓所内を何度も改葬していますから その下に遺骨があるわけでもない 今となってはただの石塊です[43] … Continue reading

註釈

註釈
01 伊藤左千夫の「野菊の墓」は明治39年の作品です 他家へ嫁いで産後の肥立ちが悪く亡くなった民の墓の周りに 政夫が野菊をたくさん植えるという結末です 嫁ぎ先へ弔問に行くわけにいかないので その代わり墓参りをしたのではないでしょうか しかも手向ける香華は野菊です 墓に参るというのは一般的なことではないから 小説になったのではないか
02 明恵上人の板書「南無母御前母御前」が表すように 葬儀・法要は子が亡き親に向けて行うものだと 私は思います 〇〇家としてではありません
03 菩提寺はキリスト教でいえば教会にあたり 宗教・信仰だけでなく地域共同体の様々な行事の拠り所です(明治以前は神仏混淆ですから神事も一緒でした) 教会が学校を兼ねていたように 寺子屋という形で教育にも携わりました 学問の場でもあったのです
04 形だけ名前だけ壇信徒でも 会ったこともなければ 人となりが分からないのに 戒名の授けようがないと住職が言ってました 戒名は授かるもので料金などありません 生前に戒名を授かる場合は得度となり 2週間ほど寺に泊まり込んで修行します
05 人を見て法を説くというように 仏教の教えは柔軟で決まりを押し付けることはあまりしません 法事は祥月命日にやるとか香典返しがどうとかは 葬儀屋が商売のために始めたり 訳知り顔のマナー評論家あたりが言い始めたことかと思います 菩提寺の住職がそのように言うとは思えない 当家の菩提寺の住職からも 命日に法要などと聞いたことがありません
06 月命日というのも変な風習です 昔は誕生日を祝うことはありませんでした 年末一回まとめて月日に関係なく歳を取ります 同じように命日という考え方はなかったんじゃないか 命日が年に11回もあるのは変だし それ以外の日は仏壇に香華・茶湯を手向けないのだろうか
お寺さんが毎月来たり 檀信徒が寺に参る月参りはありました(根拠は不明ですが) おそらくこの月参りが変質したのでしょう 当家の場合でいえば 元和年間からの戒名が残されています 月命日と言ったら毎日のことになりますし 祥月命日も週一回ぐらいの割合でやってきます
日光東照宮の例大祭は宵成祭といい 徳川家康の命日に執り行われます その辺から命日に墓参りや仏壇にお供えをする ということが広まったのかもしれない
07 葬儀の際(忌明けまで)神棚に半紙を張るというのも たぶん葬儀屋が始めたことじゃないでしょうか 宮中で仕える内侍の肉親が亡くなった時 知らせを聞いた瞬間に身が穢れます 服喪のため退出する際は 床に新聞紙大の白紙を敷き並べ その上を渡ると聞きます 穢れるのは我が身で穢は他の人にも移りますから 半歳のあいだ公の場に出ず家に籠もります
08 むしろ施餓鬼自体が神に初穂を供える古代神道から来たものです 阿難尊者(アーナンダ)とか木蓮云々は仏教に結びつけて後代にいい出したと思われます 農事祭であった冬の火祭りをキリスト誕生日と唱えるのも同様です
祖先を迎えるという盂蘭盆会は 木蓮尊者の母が餓鬼の世界に落ちていた話から来ています これも施餓鬼ですから一体化したのでしょう もとは雨季に行われる安居が解かれた日(解安居)の行事で 形は違えど水祭りです
09 子供の頃ご先祖はどこにいるのかと聞いたことがあります お盆で親戚が集まったときだったかと思います 仏壇の位牌なのか寺位牌なのか墓なのかよく分からなかったのです けれども誰も答えてくれなかった
菩提寺に縁がない人は 寺位牌のことを知らないでしょう 仏壇があっても祖父母の位牌だけなら 遠いご先祖の位牌は繰り出し位牌に書いて 個人の位牌はお焚き上げすることも知らない それならばお墓にお参りするしかないのも仕方ないことです
10 ご先祖が墓にいるとしたら浮かばれない地縛霊 悪くするとゾンビかキョンシーや牡丹燈籠の世界です そういえば お盆には地獄の釜の蓋が開くと言いますね みな地獄に落とされているのですか 殺生石なんかから来たのだろうか
あるいはキリスト教の原罪の観念に影響されてのことだろうか お盆が終われば地獄へ戻るというのは 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」最後の第3章で お釈迦様が何事もなかったように蓮池から立ち去るシーンに似ている
11 古代神道は教義がないとはいえ 葬祭に関する儀式は行っていました その伝統は仏教に影響を与え取り入れられ 日本型仏教(神仏混淆)となりました 神道式の葬儀というものが行われます よく知らないのですが教派神道ではないでしょうか これも神仏混淆の一種とみなしていいものです
12 私どもの墓所には400年以上前からの先祖の墓が数十基ありました みな高さ30センチから50センチ程度の大きさです 中にはどう見ても自然石のものがあります ひときわ巨大なのが日露戦争で戦死した人の墓でした 墓の上端はピラミッド状になっていて 高さもあるからまるでオベリスクみたいです ここにも明治政府による国家神道の影響が見られます
13 江戸などの大都市では 人別帳に載らない人がたくさん暮らしていました 身元引受人がいなければ長屋も借りられず 通行手形も発行されません(大家さんが保証人になることがよくありました 「大家といえば親も同然 店子といえば子も同然」はこのことを言います) これらの人が亡くなると俗にいう投げ込み寺で弔いました 人間だけでなく動物や物にまで供養塚があったりします これが日本人の精神なのです
14 宗教ビジネスで言うところの永代使用は 三三回忌までの墓の維持費を前納することです 永代供養と紛らわしいですね(たぶん誤解させるためにそのような言い方をしているのだと思います)
ですから永代使用料と称するものを支払っても 三三回忌がすぎると無縁仏となります 霊園で供養してくれるわけじゃないから使用料ですが 永代でも何でもない
このときに合同墓に移したり 改めて使用料を支払うことになります その際は骨壷一つあたりいくらで計算するために 骨壷のまま埋葬(というか棚に並べる)ようになったのかもしれない 土に還ってしまったら数えられないですから
15 追善供養とは 法要を営んだり 仏前に香華を手向けるなど 善行を積むことが 功徳になるという意味です また仏・菩薩・先祖に供養すること自体が善行でもあります
追善回向(廻向)とも言います 善行による功徳はご先祖だけでなく 一切衆生から廻り回って自分にまで向けられるのです 因果と縁起ですね 直接の御利益じゃない
16 お盆の行事は精霊棚を作り菩提寺の住職に棚教を上げていただく 昔の田舎はのんびりしたもので家を開け放っていました 住職は家人がいようがいまいが家に上がって棚経を唱えます
17 告別式は葬儀と違います 近親者で密葬した後 その他の関係者を呼んで行うお別れ会です この時は遺影を掲げて故人を偲びます いつごろからか知りませんが 葬儀屋が始めたことでしょう
18 仏師は仏像を彫るのではない 木の中の仏様を掘り出すのだといいます なぜ木の中に仏様がおわすか 信徒の思念が凝って仏の姿となるからです
仏壇に供える花も生花でなければいけないという決まりはありません 雪国で花が手に入らないため 蝋燭に花を描いたのが絵蝋燭の始まりといいます 金仏花も極楽の蓮の花を想像したものです
19 直葬というものがあるそうです 何の宗教儀式も行わずいきなり火葬場に送って遺骨を持ち帰る 戒名もなくただ遺骨を自分流に拝むだけ
否定はしません 仏教以前はそうだったのかもしれませんから でも多くの場合 残された人たちの気持ちは収まりがつかないようです
エーゲ海に散骨してほしいとの故人の遺志で 遺灰をギリシアまで持っていったものの 海岸で思い直しそのまま日本に持ち帰ったという実話があります 遺灰をその後どうしたかは聞いていません
20 菩提を弔うことは墓石を拝むことではないので 必ずしも寺と墓を結びつける必要はありません (寺内に墓があると菩提寺で 墓がなければ檀那寺とか 寺に墓があるのが檀家で ないのは信徒などと書いている 葬儀屋のホームページがあります なんの根拠もないフェイク情報です)
寺墓地なら墓の管理はその寺ですが 霊園に葬ったり散骨や樹木葬であれば 墓と寺は関係ありませんし 菩提寺が不要ということにもならない 墓地を持たない寺はたくさんあります 菩提寺(檀那寺)なら墓がなくとも 寺位牌は必ず置いています(寺位牌は檀信徒が菩提寺に納めるものです 葬儀屋あたりが知らないのは無理ないか)
21 浅野内匠頭が咎められたのは 白書院に通ずる松の廊下で 前差しを抜いた罪に対してです しかも勅使下向の春弥生にです 相手は高家肝煎饗応差添役の吉良上野介ですから 朝廷と将軍の問題に発展しかねない 私怨だの乱心だのと言ってられない大罪です 切腹はむしろ温情といえます お取り潰しも当然でしょう
殿中で刀身を見せたら 刃傷沙汰に及ばなくても それだけで罪に問われます 喧嘩や私闘は双方が抜き合わせてのこと 吉良上野介は短か刀を抜いてないので お咎めなしは妥当な裁定です 喧嘩両成敗には当たらない
当然の帰結を主君の仇を打つという形にすり替えたのは詭弁です 不祥事による改易なので 再就職が難しいところ 名誉回復の起死回生策でしょう 浅野内匠頭の短慮と愚行のため 吉良上野介はとんだトバッチリを受けてしまいました
22 お釈迦様が菩提樹の下で座り続け悟りを開いた というのはちょっと違います お釈迦様が悟りを開いたとき根本に座っていた木を 菩提樹と呼ぶようになったのです 逆ですね ブッダガヤに三代目菩提樹と称する大木があるそうです
23 流行りの散骨して菩提寺もなければ 回忌法要どころか墓石を拝むこともできない 故人を偲ぶ気持ちの問題ですからと 親戚知人で会食するだけでしょうか どこかの葬儀屋のホームページで回忌法要には お坊さんを手配する(!)なんて書いてありました
会食が主でお経は付けたりなんですね 本来お経を上げた後にお斎ですが必須ではない 先代住職が白飯のことを「お斎」と言ってました たしかに仏様に供えるのは白飯と茶湯ですね お斎(白飯)が来たタイミングで 住職にお布施を渡すのが 当地の習いです
24 昔は8月13日に菩提寺の燭台から迎え火をいただき その火でお墓のろうそくを灯し さらに提灯に移して 自家に持ち帰り仏壇のろうそくを灯します この火を絶やさぬようにし 16日になると仏壇のろうそくから提灯に火を移して お墓のろうそくに火を灯し送り火としたそうです(当地での話であり他所ではどうか知りません)
盆提灯(岐阜提灯)は寺から戴いた火を絶やさぬためだったのでしょう 迎え火・送り火は法灯などから来た風習なのかもしれません ご先祖が道に迷わないようになんて まったくの故事付けデタラメです
25 精霊棚の精霊という用語は古代神道の祖先霊でしょうから 明らかに神仏混淆の行事です というより仏教と無理やり関連付けた 本来精霊と釈尊は関係ないですね
26 明治政府が暦制を変更したため 江戸時代までの年中行事が1月ずれてしまいました 季節感が合わないので旧正月なるものができます お盆も7月に行っていたものを 月遅れと称して8月にやるようになり いつの間にか8月15日がお盆の中日になりました そのため七夕との関係が忘れられてしまったのでしょう
27 春・秋とも彼岸は農事祭なので 牡丹餅やお萩を食べ稔りを願ったり祝う祭です これが仏教伝来とともに施餓鬼に結びつきました たぶん敗戦後から墓にお供えをするようになり 墓参りの風習が広まったのです
28 帰化人は現在の朝鮮人や朝鮮戦争時に密入国した者とは全く別です 倭人と呼ばれた人たち日本支配下にあった地域に住む人たちが 半島での戦乱を免れて日本本土に救援を求めたのです
倭人とはいえ何代にも渡って半島に住んでいますから 現地の習俗を受け継いでいたことでしょう しかし流民扱いでなく邦人として土地も与えられています これは私の想像に過ぎませんが 太閤秀吉が朝鮮に攻め入ったのは 任那府の再建が目的だったかもしれません
29 法然さんが浄土宗を始めたのは800年ほど前です 浄土宗は専修念仏でそれ以外のことはやりません 仏舎利を拝むことも当然しません だから墓参りもなかったでしょう(そもそも墓を建てる習慣があったかどうかも分からない) 当時は大陸から伝わった仏教とあまりにも違い 新興宗教扱いでした 日蓮宗や禅宗も同様ですね
30 ビルマ(ミャンマー)のカックー遺跡は無数のパゴダが建つ偉観です あまりにも古く伝承は曖昧です 小さなパゴダは各家が寄進したと伝えられます この地域は上座部仏教で 初期の仏教教団の形を守っています 信仰の対象は釈迦涅槃像や仏舎利ですね パゴダを先祖の墓とは見なさない
31 キリスト教の教会地下にも カタコンベという聖人・福者たちの髑髏(どくろ・されこうべ)を納骨する施設がありますから 世界的なものかもしれません ただし遺骨を拝むことはしません 祈りを捧げるのは神に対してのみです
32 インド出身の達磨大師は形から入るタイプだったようです ヨガなんかもそのへんから派生したのだろうか 中国人は文献主義で文字に価値を見いだし大事にします
文献第一の三蔵法師と不立文字の達磨大師は対照的です お経や文字そのものを拝するのは法相宗や日蓮宗です 浄土真宗や時宗も本尊はお札(文字)だったと思います
33 寺請制度(宗門人別帳)は個人が対象であって 日本の植民地化を狙う基督教対策です 戸籍とは全く別物で行政が檀家制度を作って管理したとはいえない 身元保証は寺の専権事項ではなく村役人・町役人もやっていたことです
過去帳は檀家の回忌法要の管理のためにあります(住民票代わりに使われたことはあったかもしれません) 当家の菩提寺(浄土宗)も書面では檀家という言葉を用いません 檀信徒です 他宗でも檀信徒と言っているようですが 浄土真宗は門信徒(門徒)です
34 香典は相互扶助いわば持ち回りなわけです 返戻などという習慣はありません 葬儀屋が商売のためにいい出したことです 私が小学生か中学生のころ祖父が亡くなりました 前回の葬儀(おそらく曽祖母)の記録を参考に準備していました
和紙を折った大福帳のような分厚い覚え書きに 用意した料理や頂いた香典の詳細が記されています 見ると金銭だけでなく野菜等を持ち寄っていたようです
35 香典は喪主に対して納めるものです お布施は壇信徒が菩提寺を維持するための費用負担です 料金やお礼ではありませんから 水引をかけた袋に入れたりしない 菩提寺に納めるお布施は宗教行為なので 税制上は寄附金です お布施以外のお車代やお斎代は 経費として課税対象となります
葬儀屋手配の派遣坊主に渡すのは料金でしょうね 葬儀屋が仕切るようになってお布施の意義が忘れられ 戒名代とか相場だなどと見当外れなことを言い始めたのです これらは営利事業であって寄付金扱いにはならないと思います でなければ税金逃れの業者が続出します
36 葬儀を菩提寺の住職ではなく 葬儀屋が取り仕切り お布施名目などで不当に高額な料金がかかるようになりました このような状態になった元凶は葬儀屋です
寺の名を表に出した納骨堂などの宗教ビジネスは 葬儀屋などの資本が多い 寺が本来の使命を忘れて これらのビジネスモデルを取り入れるのも増えています
37 明治政府により寺請け制度が廃止されても檀家制度が残ったのは 江戸幕府が菩提寺を強制したわけでなかったことを現します 菩提寺から離れるのも自由かと思います そうなれば読経も戒名も仏壇も法事も不要です 無宗教でやればいいことになります
でも告別式と称する多くの葬式で どこから来たかもわからない派遣坊主が 適当なお経をあげたりしています 派遣坊主は故人のことを知りませんから 法話のしようがない戒名は料金次第です 菩提寺がなければ菩提を弔うこともない 追善供養の回忌法要をしませんから 浮かばれず墓に留まるのは無理ありません
38 サグラダファミリアは信徒の寄付で建築されています すべて教会は寄付によって維持されるのです ドイツでは年間数万円に当たる教会税があり 国内の教会維持の費用に当てられていると聞きます
39 檀那や布施と似た言葉に茗荷金があります これは賽銭と同義といってよい 奉加金も同じでしょう いずれも神社仏閣を維持するための浄財です
40 葬儀屋が互助会の体裁を装っているのは かつて生保が相互会社であったり 生活協同組合や怪しげなNPOなどと同じく 詐欺まがい商法の隠れ蓑である面が大きいのではないでしょうか
お坊さん便という派遣業が取り沙汰されています こういった業者は昔からあり葬祭会館が得意先でした 登録していた人を知っていますが 僧侶でもなんでもない 定年退職後にお経を覚えただけです 適当にお経を唱えるだけなので それで用は足ります けっこう頻繁に墨染の衣を着て出かけていました
41 世界的に宗教離れが言われているそうです 一神教における無神論は唯一絶対の神を信じるか信じないかです 仏教も神道も無神論になってしまいます 無宗教というのはいわゆるスピリチュアルとかヒーリングです いずれにしてもキリスト教の教義が根底にあります つまり欧米の宗教離れは教会離れのことなのです そのため教会が身売りしモスクに建て替えられる事態が起きているそうです 日本の檀家離れも似たようなものです モスクの代わりに納骨堂が建てられています
42 風に乗って漂うのは仙人です 自力飛行しているのではなく 実体がなくあまりにも軽い存在なので 風に流されます 有りながら無いから不老不死です 浮遊霊みたいなものですか これも成仏してないわけです
43 私の小学校以来の同級生は 600年前に建てられた供養塚が残るという旧家です それなのに亡父が生前 3人の息子のため墓地を3区画買ったそうです 同級生夫婦は兄弟の分も含めすべて返納しました 子供にそのようなものを託したくないからだと聞きました
見識かと思います 同級生はその後亡くなり菩提寺の供養塔に葬られました むろん骨壷はなしです 娘さんとご子息は菩提寺できちんと法事を行っていることでしょう 墓の維持などに煩わされることはありません

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